言語へ向かう最初の一歩は、音響的、又はそうでなければ、代替できるサイン[印]を、感覚印象へ繋げることであった。最もありそうなこととして、 全ての社会的な動物は、この原始的な種類の通信に到達している ー 少なくともある程度は。より高い発達に到達するのは、さらなる印が導入され、 理解され、それら他の印の間に関係を確立し、感覚印象を指し示すときである。この段階ですでに、印象の何か複雑な系列を報告することができる; そして我々は、言語が存在するようになったということができる。もしも、言語が少しでも、理解ということへ導くものならば、一方の印と他方の印 との間の関係に関して規則というものがあるに違いない。印と印象の間には、安定的な対応関係があるに違いない。幼年期に同じ言語によって繋がる 個々人は、これらの規則と関係を、おもに直観によって把握する。ひとが印の間の関係に関する規則を意識するとき、いわゆる言語の文法が確立する のである。
早期の段階では、単語は印象に直接に対応してよい。後期の段階では、この直接的な関係は失われ、いくらかの単語が他の単語と共に使われるときに だけ知覚への関係を運ぶ(例えば、"is" "or" "thing")。そのとき、単独の単語でなく、単語のグループが知覚を指し示す。言語がこのように印象の 背景から部分的に独立になるとき、より大きな内部の首尾一貫性が得られる。
いわゆる抽象概念が頻繁に使われれる所、このさらなる発達の場所だけで、言語は言葉の真の意味で論理的に考える道具となる。しかし、言語が誤り と欺瞞の危険な源となるのもこの発達である。全ては、どの単語と単語の結合が印象の世界に対応するかの程度にかかっている。
何が、言語と思考の間のこのような親密な関係をもたらしたか? 言語の使用なしには思考はないのだろうか? すなわち、概念と概念結合のなかに 言葉は必ずしも心に来る必要はないのだろうか? 我々の誰もが、言葉を求めて格闘してきていないか? "物事"の間の関係がすでに明確であるのに。
我々はもし、彼の周りの言語的な案内なしに、個人が彼の概念を形成し又は形成できるとするなら、思考の行動を言語から完全に独立なものとみなす 傾向があってよいだろう。しかし、最も有りえるのは、個人の精神の形は、そのような条件下で成長しては、非常に貧しいだろうということである。 このように、我々は個人の精神の発達と、彼の概念の形成方法が、高い程度に言語に依存していると結論してよい。これは我々に、同じ言語が同じ 精神性をどの程度まで意味するか、を認識させる。この意味で、思考と言語は、互いに繋がっている。
我々が通常言葉を理解するような言語から、科学の言語は何が違っているのか? その科学言語が国際的であることは、どのようになされるか? 科学が求めて励むのは、概念の互いの関係とそれらの測定データへの対応に関する、極度の鋭さと明解さとである。これを示すため、ユークリッド 幾何学と代数学の言語を挙げよう。それらは、少数の独立に導入された概念とそれぞれのシンボル、数の積分のような、直線、点、さらに基本操作 を指し示す符号を操作する。それは、それら基本概念の間の結合たちである。これは、それぞれ他の言明や概念を定義する、構成の基礎である。 概念と言明を一方とし測定データを他方とした結合が確立されるのは、それらの達成度が十分によく決定された、計数と測定という行為を通してである。
科学の概念と科学の言語が、国家を超えるという特性は、全ての国と全ての時のなかの最良の頭脳によって設定されたという事実による。 孤独のなかと、そして、しかし最終的な結果に関しては協力的な努力によって、彼らは、過去数世紀の人類の生活を変革して来た、技術革命のための 精神的な道具を創造した。それらの概念のシステムは、特定の観測から一般的な真実を把握することを学ぶために、途方に暮れる知覚の混沌のなかの 案内として奉仕してきた。
どのような希望と恐れを、科学的方法は人類に暗示するのであろうか? その問を提示することは、正しい方法と私は思わない。ひとの手にあるこの 道具が生み出すだろうものが何であれ、この人類に生きている目標の性質に全て依存している。ひとたびこれらの目標が存在すれば、科学的方法は、 それらを実現する手段を用意する。しかし、それは、その目標自身を用意することができない。科学的方法、それ自身は、どこへも導かないだろう。 それは、明瞭な理解への情熱的努力なしには、生まれさえしなかっただろう。
手段の完成と目標の混乱は、ー私の意見ではー 我々の時代を特徴付けるように思える。もし我々が、真面目にそして情熱的に、安全とよい生活と 全ての人々の才能の自由な開発とを望めば、我々はそのような状態に接近する手段に欠乏していない。人類の少しの部分だけでさえ、そのような 目標に励めば、彼らの優越性は、長い走りのなかで自ら証明されるだろう。