『ファンタジーとしての家族とその肯定的破壊』

 
『家族へのまなざし〈市民的共生の経済学〉』を課題とした、レポートである。要求として、個々人の論から3つを選択し、要約した上で、自分の意見を論述するというものである。今読み返してみても、四苦八苦さが良く見て取れる、これ自体がファンタジーなレポートになってしまった。やはり、それは破壊を招くべきだろうか。
 
課題図書部分要約

長谷川真理子著 『生物学から見た家族』                 
行動生態学では、動物の行動を全て「その個体の生存と繁殖に有利に作用する戦略」つまり、「適応戦略」であると考える。初めはランダムであった生存と繁殖に有利なものが、そうでないものよりも多く生き残って繁殖してゆくことによって、結果としてどの個体もその性質を身につけるからである。動物における「家族」の在り方は雄と雌の配偶戦略の妥協点であり、子の生存確率を考慮に入れた繁殖システムである。子育てをするか否か。近親婚を回避するための分散が必要である。また、個体の繁殖が重要であるから、血縁であることは大いに意味がある。非血縁の「家族」は子殺しをする可能性もある。
この、繁殖システム(配偶関係と子育てと出生地からの分散)はヒトの「家族」にも見られることである。ヒトは、その脳の大きさから、他の哺乳類に比べると未熟な状態で生まれるし、独り立ちが出来るようになるまで親の多大な労力と投資が要る。だからこそ、子が血縁か否かは大切なことで、血の繋がらない子に愛情を注ぐと言うことは、進化の過程では出現しないものだ。この繁殖システムはヒトの心理メカニズムとして変わらずに残ったが、この一万年、環境は大いに変わった。個人の行動は確かに多様だろうし個人の責任である。しかし、その裏にヒトの適応戦略という大きな基盤があるということは、個人の行動の予測にもなるだろう。

麻姑仙女著 『変態(クイア)の家族/家族の変態(メタモルフォシス)』

 「二つの別人格が溶解して互いを共有し合っている姿の比喩に感じられた。あたかも究極の恋愛の完成形のように思えたのだ」愛の結果に子という選択肢を絶ち、自らの性器を摘出した作者は、女として、女と結ばれたいと願う。性転換手術を行っても、戸籍の書き換えはなされない。今の状態では、法律上「男」として「女」のパートナーと結婚しうるのだ。作者は「MTF」として、「女」と結ばれたいという。そこには、「性」という問題が大きくのしかかってくる。インターセックスの不条理な性決定や性嗜好による差別。性転換手術は完璧な性をもたらすことはない。結果として、女か男かはっきりしない「変態(クイア)」と烙印を押されてしまう。しかし、その裏側には、人を不完全か完全かで判断する優生思想が見え隠れしている。
 いま、そうしたクイアたちが寄り集まって、お互いの人生に関わりながら互いを温め合う暮らしの共有を持ちつつある。それは、手垢の付いた「家族」という概念とは区別されるべきともいわれる。彼らによって価値観を揺るがす創造的な破壊が繰り広げられ、それに現代の医療技術の「進歩」も加わり、私たちの古い家族観は変わってしまうかもしれない。

丸山茂著 『家族の変容と国家』  〈642字〉

いままで、暗黙の内にも想定され続けていた〈ある一つの家族〉。家族は男と女のカップルでなくてはいけないとか、そのカップルは結婚という社会的承認を経なければならないとか、その間に産まれた子は嫡出子であり、正統な子どもであるとか。この「制度」的家族は正統と見なされ、それ以外の関係は逸脱つまり、「病理的現象」であると排除された。制度的家族に加入しない場合、国家さえ介入した。これが、「近代家族」と呼ばれるものである。この「近代家族」は家父長制的一体性が強調され、愛情による結びつきという幻想が支配している。
 しかし、いまこの〈ある一つの家族〉が衰退しようとしている。〈ある一つの家族〉から〈さまざまな家族〉へと変容が進む。同性愛のカップルが増える。非血縁の家族生活からは親子の再定義が行われ、女性進出は家事労働の役割の調整を求める。これは個人化つまり自分の生き方は自分で決めるという私化の動きである。リスク社会の中では貧困問題も深刻だ。
 国家の対応の仕方は「保持モード」と「適応のモード」に分けられる。「保持のモード」は古いモデルを維持継続させようという態度であり、「適応のモード」は新たな家族状況に対して家族法の改正を行い対応してゆこうという態度である。今必要なのは、前者のような支配力をもつ国家と言うよりも、国家と社会が相互に補完しながら個人や家族を支援してゆく福祉国家だといえる。家族の多様化複合化は、相違の中の共存、共生という意識の重要性を可視化した。

意見論述                             

はじめに。われわれの身近な問題であり、身近すぎて問題とも思えないほど陳腐な概念となっていた「家族」。このレポートでは、「家族」という概念が持つ意味と、近年顕わになってきた新しい「家族」概念による旧「家族概念」の〈性の観点からの〉肯定的な破壊を考察してゆこうと思う。

 まず、ヒトも例外なく多くの動物と同じような「家族」を持つという考えを改めたい。確かに、ヒトの「家族」似たような動物の「家族」も見られるが、今西錦司の言うような「近親婚の回避・外婚の単位・雌雄間の経済的分業」という「家族」の定義は世界中の民族に必ずしも当てはまらない。というか、全てに通じる通文化母型は無いと言える。「血のつながり」も、「親子関係」も、「夫婦」も、「同居」も、「社会化」もどれもが、ヒトの多様な「家族」を的確に言い表せていない。動物の「家族」は親子の世代を繋ぐ集団構成だけに着目されている点で、ヒトに関しては不適切であり、ヒトの「家族」の概念に当てはまる社会構造は動物の社会には見られない。だから、ここでは「生物学的家族」とヒトの「社会学的家族」を分けて考察を進める。ヒトも動物に当てはまらないはずはないので、互いに密接に関わっていることも多いのだが、敢えて区別する。「社会学的家族」とは現実の社会組織や慣習、宗教などに組み込まれた形としての「家族」諸形態である。

「家族」の通文化母型は無い。しかし、われわれは「家族」という概念を確かに持っている。幼少のころに行う遊び、「ままごと」にも現れているように愛情によって結ばれた母がいて父がいて、二人の間に子どもがいて「みんなで仲良く」家に住んでいる。この「家族」は夫婦・親子・きょうだいなどの〈感情的一体感〉に基づく友愛集団である。核家族の観念も、昔からあったものではない。マードックやローウィが提唱する「核家族論」もさておき、今見たような「家族」という概念は産業革命以降に現れたものであるといえる。産業革命以前は、「家族」は農業を一般とする経済機能が主であった。財産や血統という意味を存続させるための「家」が存在していた。人数も多く、共に働く経済共同体であった。しかし、産業革命が進展するにつれて、「家族」の経済機能は愛情機能へと変化してゆく。経済共同体であった「家族」は、働き手による「家」の外での労働によって賃金を得、食わせて貰っているというものに変わり、〈働く場〉から〈憩いの場〉としての性格が強められていった。働き手の男性は賃金労働をし、「家」に残った女性は家事をし、一日の労働を終え〈わが家〉に帰ってきた男性をいたわってやるという「ままごと」構図はこのときに作られたものである。だから、われわれが今なお抱いている「家族」という概念は「近代家族」という名で表される。この「近代家族」も勿論通文化母型ではない。「近代家族」とは、イメージの産物、いわば、ファンタジーだということが出来る。

ファンタジーである「近代家族」をもう少し見てみよう。このファンタジーは、「家族神話」と呼ばれたり、フロイトによって「ファミリー・ロマンス」と称されたものとほぼ同じと見ても良い。働き手が「家」の外、つまり公へ働きに出、仕事を終えて「家」の内へ帰って休息する。この「家」という機能は単に安全のために外部と隔絶しているだけではない。近代社会はヒトに、公的であり、独立した「個人」になることを要請した。「個人」とはその名の通り孤独なものであるが、彼がひとたび「家」という私的な場に帰ると、彼は私的な共同体「家族」の一員となり、安らぐ。この対比は、公と私の使い分けによる、近代人のストレスを軽減させる機能を持っていた。社会的制度の要請により、「家族」の機能は変化したといっても良い。「家」の外と内の使い分けは、時々外では見せられないような内でのうっぷんの晴らし場としても活躍した。「家」の内は私的空間として、多くの人は他人にあまり見せることはない。なぜなら、「家」にはヒトの自分としてのアイデンティティーがあり、それは外とは隔絶された世界であって、混同すべきものではないとされる。だからこそ、「家族」の中は、外の社会とは別の、安らげる「家族愛」という素晴らしいもので満たされている空間という理想があった。この共同体には、タブーがあり、それが「近親相姦」であり「不倫」と呼ばれるものである。

次に、「近代家族」における「家族愛」に着目してみる。この点は、「近代家族」の変容を考える点で重要だからである。ヒトはこの中で生まれ、死んでゆく。男性と女性は、「婚姻」という契約を結ぶことによって、二人の結合を社会制度的に認めてもらい、相手と性的関係を持ち、子どもを生む。子どもは育つだろうし、やがてヒトは「家族」の死に遭遇するかもしれない。ここでは、「生物学的家族」の視点から考えてみる。なぜ、ヒトがヒトと交わり、子を残すのか。それは、子どもが愛らしいからではない。相手への愛の結果としてでもない。ひとえに「自分」の存続のためである。全ての動物は本能的に死を、つまり無に帰することを恐れる。古今東西多くのヒトが、不死であることを望んだ。しかし、それは子どもを残すということによって容易に達成できることでもある。互いに子どもを作ることを合意し、性的関係で結ばれた夫婦を軸とした関係を「生殖家族」という。また、子どもを生み、育て、社会に適応させるという、親子を軸とした関係を「定位家族」という。確かに、始めの方に書いたように、「家族」の通文化母型は無い。この「夫婦」も「親子」も少なくはない例外があるのだが、「家族」の変容を考える点で無くてはならないため、言及する。ここで重要なのは、この関係を本能とは言わずに「家族愛」としたところである。「愛」とはなんと素晴らしい理想(幻想)だろう!生き残るための適応戦略ではなく、ヒューマニスティックな「愛」という言葉で「家族」を表したのは、確かに成功だったといえる。この「家族愛」という柱は確かにファンタジーでありながら、「近代家族」が変容する中でも重要な役割を担っている。

 課題の文章にも何度も言及されていたように、いまや典型的「男性と女性の夫婦」という考えが当てはまらなくなってきた。それよりも、男性と女性にはっきりと二分化、分業化がすでに不可能になってきたということだ。性というものがある。男女で分けるのは、社会制度上都合が良いというのもあるが、男性が女性という種族の上にあるという結論には論理的に帰結しないはずだ。ヒトの歴史を通じて、バッハオーフェンは「乱婚制」の次に「母権制」、それから現在も続く「父権制」にいたるという論文を著作にて発表した。歴史上「母権制」がはっきりあったかどうかは甚だ疑わしいが、確かに今は「父権制」というか、「男性社会」であることを免れ得ない。このような歴史的、性の優劣がいまや、見直されつつあり、男女同権が叫ばれている。この男女不平等は「家族」における女の役割が内にこもって良人の帰りを待つ妻という典型を創り出し、世の自立的女性の不満を高めてきたことに由来する。このファンタジーとしての「近代家族」はいつのまにか、女が従属的地位にいるものだというレッテルを産み付けただけでなく、性的嗜好に於いても、「男性と女性の夫婦」という典型を刷り込み、それに合わないものは「異常」として「変態」として、社会制度全体で白眼視することとなった。

 今や、同性愛のカップルや性転換を経たカップルが増えている。彼ら(彼女ら)は、自分の性的嗜好を告白して社会の中に烙印を自ら押すことをすらためらわずに、社会制度的に認められた「婚姻」をし、パートナーと「家族」になることを望んでいる。同性愛のカップルや、性転換によって性を人工的に変えたカップルは、生殖が(いまのところ)できない。子どもが作れない。提唱されたのは「血のつながり」や「親子」関係、厳密的「夫婦」関係とは全く別の、新しい「家族」である。いまや、「ままごと」的ファンタジーの「近代家族」は崩壊の危機を迎えている。これら性の問題だけが、走り込んだ亀裂ではないが、これらの亀裂は良い意味で、ファンタジーを破壊してくれるのではないだろうか。

 そもそも、「異性愛」は普遍的で、「同性愛」は排除すべき異端という考えは、生殖においてだけの話である。ヒトの「家族」が「生物学的家族」であるというならば、この異端排除の原則は正しいかのように見える。動物において、一番大切なのは、種の存続だからだ。しかし、始めにことわったように、ヒトの「家族」は生物学的見地からでは理解しきれない、側面が多々ある。だから、ヒトは「社会学的家族」という文化を持ったのだ。そして、この通文化母型の無いはずの共同体様式は、「近代家族」の出現によって、あたかもそれがスタンダードであるように理解されてしまった。見直すべきなのは何か。もう言うまでもない、今まで抱いてきたファンタジーである。この揺らぎは、「同性愛」を考えることによって「異性愛」を、子どもを持たない「家族」を考えることによって子どもを持つことの意味を、われわれに考えさせる。いうなれば、起こるべくして起こった、破壊であり、この破壊を経ることによって、われわれはさらに形式を持たない「家族」という問題について、敏感な意識を持ち得ると言えよう。

 そして、最後に書くとするならば、変容した「家族」の「家族愛」の問題である。経済的理由による結婚、国籍を得るための結婚など、中には悲しい「家族」の形もある中で、性にこだわることのない、自由な愛情。同性愛というと、すぐに性的嗜好、つまり性交の好みという普通なら隠された部分が明るみに出ることで、顔をしかめるヒトもいるが、愛情に「友愛」・「師弟愛」などと抽象的に分化させる必要があるのかどうか。要は、「ある人物と共に生きたい」と願う心である。この考えと、「博愛」とを私は別個には考えない。もともと、ヒトは共同で生きてゆかねばならないのに、憎んだり争いが絶えないから、これも幻想であるが、「ヒューマニズム」なるものを創り出して規範としたのである。性にとらわれない自由な恋愛は、他者を思い遣る心に通じる。そして、性を転換する人がいるのは、それほどまでに愛情を大切に考えている証拠でもある。自分が男として女として、誰かを愛するということは自分を意識すると共に、他人を意識する重要な過程である。ヒトが生まれ出た理由を探すのは並大抵のことではない。しかし、「よく生きよう」と願うヒトは精一杯、自分独自の生き方で生を全うするだろう。その意味で、「家族」という装置は、ヒトの根本問題「生と死」について深く考えさせてくれる。

課題文献

『家族へのまなざし〈市民的共生の経済学〉』
慶應義塾大学経済学部編 弘文堂 2001年

参考文献

『シリーズ変貌する家族7 メタファーとしての家族』
 上野千鶴子・鶴見俊輔・中井久夫・中村達也・富田登・山田太一編集委員
 岩波書店 1992年
『世界大百科事典 第二版』平凡社 1998年
より「家」・「家族」・「家族社会学」・「性」・「婚姻」の項
『進化とはなにか』今西錦司著 講談社学術文庫 1976年
                         

 

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