量子コンピュータは可能か

片山泰男(Yasuo Katayama) Nov. 16 2015
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2020年。場所は、日本の国立量子研究所。第2世代量子コンピュータの基本構造開発チームには半年間、何も拘束時間はない。 基本的な量子力学だけに従った量子コンピュータを、半年後に基本設計を行い、2年以内に10年間動作する量子コンピュータを作ること。 そのような提案を想像してほしい。どうだい、簡単なことだろう? 君なら、この提案を受ける資格がある。これなら、大歓迎だろう。

どこが鍵かは十分に理解しているつもりだった。10数年前のある日、そのアイデアはやってきた。中学生のときに行った、光のダブルスリット(干渉)実験である。 剃刀の刃を突き合わせて作った幅0.1mmのスリットとそれを兄がどう組み合わせたか1mm程度の間隔のダブルスリット。光は前の第1のスリットで、 スリットに垂直方向の位置の制限によって、その方向の運動量を不確定にし(古典的波動の解釈では光は回折し広がり)、 第2のダブルスリットのどちらの隙間も通ることができ、その後方の量子が止まるスクリーンに干渉縞ができる(b)。

そのとき知ったのは、第1のシングルスリットがないと干渉縞ができないこと(a)である。前にシングルスリット(b)が要る。しかし、スクリーンに干渉縞ができる 等というのは模式図でしかなく、実際は望遠鏡でスリットを眺めて見える程度に暗い。前にスリットを入れるともっとひどく暗くなるだろう。どうするか。 結局、人工光でなく太陽光を鏡で導きシングルとダブルスリットを通し、それにピントを合わせた望遠鏡で眺める(b)と、虹色に輝く干渉縞を見る。 不注意なきよう。太陽光+望遠鏡=危険(*)。なぜか?ダブルスリットに入る光の波の位相が揃わないからか?当時、そう理解していたが(c)、そうではなかった。 ダブルスリットの両方を通る光の量子が「同じもの(同一物)でなかった」のである。量子現象は、古典力学の考え方を基本的に止めることを要求していた。

もちろん、確かな干渉縞ができるためには、ある程度、多数の量子が必要である。しかし、多数の量子が干渉縞を形成するのに、どれだけ時間をかけて間隔を 開けても干渉縞ができるから、時刻と場所の違う量子は干渉に関係しない。1個の量子がスクリーンのその場所に止まる確率は、他の量子に依存しない。 他の量子との関係はどこまでも薄くでき、その言い方はまだ正確でなく、関係が全くないというのが正しい。つまり、確率をいうのに干渉は統計現象ではない。 では何と何が干渉するのか。

光がダブルスリットを抜けて干渉縞をつくるとき、結局、1個の量子は、自分だけで干渉する。さらにいえば、1個の量子は、自分と干渉する。どの自分とか? 右スリットを抜けた自分が、左スリットを抜けた自分と干渉する。自分という言い方は、確定した自己を前堤とした言い方であるが、それは当の本人が思うだけで、 不確定な自己である。別の不確定な自己と同一化して干渉して初めて次の時刻の自己になる。全て量子の干渉は、他世界の自己との干渉であり、この世界に無数にある 他の量子との干渉ではない。なぜなら、時間をかけて間隔を開け、量子を1個ずつダブルスリットに通しても同じ干渉縞になる。それは、排他的な量子結果を得た、 同じ量子同士の干渉である。

量子は、構造のない全て瓜二つのつねにピカピカの新品で、他と区別するものは、位置と速度という外的特性だけである。半減期をもつ放射性元素の個々の原子 のように時間が経過しても観測すれば古ぼけない。量子にとって自他は区別できないが、他の量子とは一体化しない。電子のようなフェルミオンに他の量子は 近づけても合体しない。光のようなボゾンは他の量子と同期するが合体しない。干渉現象は、量子が自分(の片割れ)と合体したとき過去の履歴が不明確になる 世界の一体化である。量子は別の自分をみるのではない。別の自分と対面する訳ではない。一体化は、別の自分との相互作用でなく、観測装置との相互作用である。

これは統計現象でなく、衝突でもない。粒子は1個毎に波動性をもち、位置をもち次に位置をもつ迄は波動である。違う経路でその位置に来て1個の量子になる 波動関数がある。量子が違うスリットを通るとき、スリットに与えた力(作用反作用、運動量保存)は個別世界にあり、量子が干渉するとき、世界間が運動量を 調停するのか? 関係のない世界間のはずだ。2スリット間で力のやりとり作用反作用があるのか? いや、そうではなく観測装置側、光が方向を変え散乱させる スリットの原子の電子同士が調停する。2スリットの2つの電子も波動関数をもち、量子位置が干渉縞を表す観測では、観測装置の位置が量子によって観測される。 そのとき、量子と観測装置は、孤立系のサブ系をなし、観測は両者の相互作用とすれば理解できる。

(*) 光のダブルスリット干渉実験で、輝く虹色の干渉縞に言及しない人は、実験をせずこの現象を知らない。家庭にある望遠鏡と鏡とカミソリの刃数枚で確認すれば、 量子力学の基礎が摸式図などではなく、現実の干渉現象と知る。


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それは、1個の量子が右スリットを通った事象をもつ外延世界と、それと排他的に左スリットを通った事象をもつ外延世界との干渉である。 片方のスリットを通った世界は、他方の世界に影響を与えない。逆も同じで、それを「エベレットホン(電話)は存在しない」という。 ヒュー・エベレット3世が1957年に量子力学の観測問題に、いわゆる「多世界解釈」を与えた。"H.Everett III: ``Relative State'' Formulation of Quantum Mechanics" "量子力学の'相対的状態'定式化"という題名の Ph.D 論文()と、"宇宙の波動関数"という論文が Webで入手可能。 N. ボーアを中心とする量子力学の主流のコペンハーゲン学派に衝撃を与えた論文である。John A. Wheelerの同年のその評価論文も読むことができる ()。

ニュートン的世界は決定論で常に必然的な結果を想定する。そこに偶然や可能性はない。未来は未知であっても不確定ではなく、過去はどこまでも詳しく知ることができる。 歴史は、誰がどう行動しその結果こうなったという事実を研究するが、ニュートン力学は全ての出来事が粒子の存在に戻せると考えるなら、適切な位置と速度の初期値を与 えれば、宇宙の全ての出来事は最初から決定していると根拠なく考えることを妨げない。このニュートンやラプラスの決定論をどう理解するかは様々である。これほど複雑 な現実を導く初期値を与えるのは不可能かも知れず、又は、適当な初期値もいずれこういう世界を実現させるかも知れない。ラプラスは因果律を含めて決定論とするようだが、 因果律への拒否、現実の全面的受容とも受け取れる。全て最初からの予定の現象なら、行為や因果や法則に重要な意味はない。行為に対する物理からの一様な全捨象である。

常識的には過去と未来の区別は自明なのに、古典物理の基本法則に時間の矢(方向)がないことがこの問題の原因と考える人も多い。統計力学のエントロピーの増大のような 複雑さによる時間の矢は見出されたが、時間方向に依存する基礎的物理は量子力学以前にない。相対論には単独の時間はなく、時間も空間もそれぞれ絶対でなく時空間が 慣性系に依存して混合する。時間の矢とは原因結果の順序で、相対論の物質や情報の伝達速度の光による制限は、どの慣性系からみても事象間の因果律を崩さない(=原因結果 となりえる事象間に時間逆転が起きない)ためにあるようにみえる。しかし、相対論の全ての式は時間方向に依らない。量子の観測という引き返せない行為が時間の矢ではないか と考えるのである。

ニュートン的な世界認識では現実は唯一つで、世界の全粒子位置を独立な次元にして世界を多次元空間の1点に表せば、人の行為による世界変更も全て含め、時間方向に伸びる 1本の世界線となるが、量子観測はその世界線を分岐させる(*)。左右のスリットのどちらかを通過した量子の観測は、観測器械から、実験者そして、周囲世界まで、観測結果に 影響を受けた全てを次々と分岐させる。各世界線上で歴史は合理的でどこまで詳しく調べても矛盾がない。排他的に他の量子結果を得た世界は、現在に並列に存在していても、 そのことは確認できない。これを分岐した世界間に通信がないという。個別の量子の観測結果は、各世界の粒子位置の世界線のように、特定の粒子の位置に関する軸上の異なる 値ではなく、他と直交した独立次元の軸をもつヒルベルト空間の上に量子の波動関数は波を張るのであって、波動関数の時間発展は、線形のユニタリー変換である。 面内の時間発展はある面内にあり、排他的世界に達することはない。それゆえ、重ね合わせの要素となる分岐した各世界は互いに影響しない。

(*) 相対論では時間軸は共通の方向ではなく、質点の経路自体が時間軸で、空間に束になって存在する。一本の世界線というのは余りにもニュートン力学的であり、 その上に量子力学を組み合わせたイメージは、相対論を無視した描画かもしれない。


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ニュートン力学に対して量子現象は、その基本法則に内在する不確定をもち、その説明が難しかった。偶然にこうあるという「偶有性」は、ニュートン的世界では現象論だが、 量子現象では本質に関わる。その解釈は「量子力学の観測問題」といわれ、量子力学の定式化過程に多くの学者を悩ませた。量子力学が波の現象を記述するシュレディンガー 方程式で記述され、それは実空間、運動量空間、配位空間、ヒルベルト空間上で、時間微分が元の関数の虚数倍に比例する式で、複素数の波を解にする。それは 2階微分 (の時空差)が元の関数に比例する古典的な波動方程式の分解と解釈でき、その波動関数("振幅"という)の成分の2乗がボルンによって存在確率と解釈されたが、量子力学が 観測結果自体を予言せず、その確率しか予言しないことへの不満と違和感があった。アインシュタインは量子の不確定性を量子力学法則の不備と考えた。 現象は局所的なはずで、我々が知らない「隠れたパラメータ」が存在して、確定した未来を見えなくさせていると考えた。シュレディンガー方程式に従う波動が、 観測によって量子の物理量(例:位置)が値を取り、波ではなく粒子位置を示すとき、人々がスタジオに分散した機材を全て集めて "撤収" するように、 観測結果の位置以外に残した広がった波動関数を一瞬に "無効" にし、位置の"固有状態"という観測結果に量子を収束する「波束の収縮」は、 少なくとも光速制限を無視した非物理的説明であり、時間に伴う物理的過程とは主張できない。そして、確率に従って得る、次の時刻の観測の結果は、 "固有状態" という波動を積和表現する直交座標軸であり、その中から我々が観測によって選択する波動関数の成分である、この観測に伴う不可避の不確定は、 我々の自由にならない、何か誰かによる不可逆的な選択であり、時間の矢であり、時間を遡れない理由であろう。人は観測という行為によって世界を作り上げ、 時間に伴う因果を推し進めるのであろう。

しかし、不確定はまだ不合理であり量子論の欠陥かもしれない。これは、ニュートン力学的決定論、全て最初に決定されているという行為否定観念よりましかもしれないが、 観測結果の不確定は、行為結果の選択が他者によることは、法則の不明確の言い訳かもしれず、そんなものが基本法則であるはずがないと疑われる。決定論への全服従か、 観測による部分的選択(観測なければ選択なし)か、観測による自由選択(観測によって世界は自由にできる)かは、いずれを好むかではなく、法則は世界認識であり、 思想表現ではあるが、そこに多くの思想と物理法則があっても、そのなかで正しい法則はひとつしかないだろう。複数の法則は、その問題を解決し洗練して、 より正しい法則に最終的に統合されないといけない。

眼前の偶然事象をどう理解するか、人は理解に基づいて行為する。現代の最も基本的な法則が量子法則なら、それはミクロな量子現象だけでなく、それに外延的に繋がるマク ロな現象に適用して物理の考え方、哲学を与える。エベレットは、観測対象だけでなく観測者を含めた世界も波動関数として扱い、観測を孤立系のサブ系の一方の状態が決ま れば、残りは相対的状態として決まる、波動関数間の相互作用として記述して「波束の収縮」なしに波動関数の時間発展で世界線上の確率解釈が再現することを示した。 これがもたらす世界観の変更は根底的であった。我々が見るこの現実世界は、絶対的な事実ではなく、そうでない現実が無限並列に存在する。世界の偶有性とは、 あり得る世界線の束のなかの繊維1本である。このように世界を唯一の現実から、並列する無限の多様性に転換させる量子力学の世界認識、「多世界解釈」は、 量子力学の観測の不確定の問題を解決する。

現実が可能性のある不確定事象からどう/なぜ選択されたかではなく、可能な観測結果(全サイコロの目)とそれを観測する観測者が対をなして、 波動関数のままに並置して存在し、不確定や確率は観測者の世界線上(個別世界)に現象論的にみえるだけで、それを含む全世界には不確定とか確率はないことを示し、 我々は再び古典的な決定論に戻り、世界に不確定や確率がない行為の因果律を物理学に回復する。そしてそれは、現実と非現実とが対等に無限羅列する世界観である。 それらは全て相対論と量子力学の法則に従って起き、それを心中にみるのは想像力だけである。多世界解釈の多世界とは多自己を外延表現したものであり、 世界は瞬時に分岐する必要はない。なぜなら分岐するのは世界ではなく自分であるから。そして、物理的過程の作用の光速制限を受けることができる。 しかし、多世界解釈では時間の矢は、観測に特別な位置を与えないから再び未解決になる。


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スピンの上下のような 2つしかない結果は、それぞれの事象(上と下)をx軸とy軸とした(観測事象を独立次元にするヒルベルト空間)面内に時間依存の波動関数を考え、 2次元の単位円の複素数 exp(-iwt) がどこにいるかで成分の2乗が結果の確率である。例えば上はx^2と下はy^2で、両者の和は(x^2+y^2=)1である。下から始まりある時間 経過後の観測によって波動関数は(1,0)又は(0,1)に収束し、上下の観測結果を得る。その後はそこから波動関数は時間発展を再開する。これが3事象なら3次元球、 100事象なら100次元、100億事象なら100億次元、連続な量子位置は無限次元、異なる観測結果は、独立次元である。そうでなければ、結果が互いに関係をしてしまう。 スピンを左右で観測すれば、それに対応して左右の観測結果を得るが、これは上下の2次元では表せない。ある方向の観測にはそれに対応した2次元が存在する。

ありえる結果を独立な次元にしたヒルベルト空間でその成分の2乗が観測結果の確率を与え、確率和を1にするだけで、波動関数の実在性は問わない。この例では単位円上を 複素数が時間によって角速度wで回転している。実部が上、虚部が下の結果の確率を与える複素数は連続関数、時間のsinとcosの三角関数の結果を出すもので、 上下の2次元の観測をすれば上下の結果を出すが、そのとき左右の2次元観測をしたときの結果は表さない。光の偏光現象では実部が上下の偏光、虚部が左右の偏光とになる。

放射性元素の崩壊には指数関数的な減少があって、一定の等しい期間で原子が半減する「半減期」の性質は、特定の原子核を観測してまだ崩壊していないとき、崩壊の 観測が生残った原子核を初期化して新品に戻すことを表す。2次元の単位円の複素数 exp(-iπt/4T) ではt=Tのとき、exp(-iπ/4)は45度回転し1/2の確率で崩壊する。残った 1/2が新品でなければ次のT経過後、残った半数である、1/4の崩壊を説明できないだろう、もしも履歴があれば1/4より少ないだろう。(この考え方では30度の回転で25%が 崩壊し、45度で50%、60度で75%が崩壊する。30度を2回観測する結果は、2倍の時間60度を待ってから観測するより崩壊が少ない。"見つめられる薬缶は沸かない"という諺 を表す。しかし、3倍の時間90度観測での全数崩壊は現実的でない。時間のコサインの2乗に比例する非崩壊の確率を出すのは、何か単純化しすぎた誤りがある。)

放射性元素の崩壊がマクロな物体である「シュレディンガーの猫」に影響して、箱の中の猫は生死の重ね合わせの状態で存在し、猫の箱を開けることで死んだ猫をみる 私と、生きた猫をみる私に分岐する。この不思議な量子力学のパラドックスを理解しなければ、量子力学は不可解なままである。マクロな物体に量子力学は適用せず生死は 箱の中で既に確定しているという理解ではマクロ、ミクロの境界がどこか不明である。(ミクロの境界がないのに量子力学を主張すると、マクロな物理法則を失うかもしれない。) 中の猫が箱を開ける前に先に確定した世界が2つあるという理解では、私がそれを見るという行為を物理的に無意味にしてしまう。最初の量子現象の結果が箱の外に影響しない 場合も世界の無用な分岐を招くから正しいと思えない。影響の光速制限もなくなり、物理的過程とはいえないことになる。 それゆえ、箱を開ける行為は、観測である(*)。箱を開けられないこともありえる。そのとき生死は後にもち越され、それまで世界は分岐しないが正しい。最初の量子現象が 世界を分岐させるのではなく、観測が世界を観測者を分岐させる。それらは、フォン・ノイマンが「量子力学の数学的基礎」でいう、観測の無限後退、最終的には我々の意識 (脳の一部)がする観測である。ウパニシャッド哲学の世界主体、ブラーフマン(梵)に対する個の主体、アートマン(我)を立てて、梵我一如をいう、「見るものはみることができない、 それゆえにそれは見る。聞くものは聞けない、それゆえにそれは聞く。等々」に対応する。それは世界と自己の二極的世界観である。五感の観照で外的事象が内的意識と対応し 一体化している事実の認識である。存在は、認知主体を必要とする。これはよく量子力学の世界認識というが、それは行動哲学、倫理であり、多世界解釈全てではない。また、 物理理論の解釈の有効性は倫理までである。(解釈は、量子力学を説明するが、新しい工学を生み出すことはない。それが可能と思うのは量子コンピュータの実現の夢である。) 暗い場所では光の量子数個に反応する人間の視覚が量子現象なら、人間もその拡大装置、「シュレディンガーの猫」である。 さらに、量子現象から始まるこの猫の生死の議論に最初の量子現象は必要かと疑う。後続の拡大機構には必要でない。量子力学は、人の行為を含めて全ての相互作用を 観測として世界の全現象を記述しているのである。

光の偏光現象では、偏光板は偏光面の観測であり、ある方向の成分をもつかで光の通過を決めその方向の光に変える。上下方向の偏光板の後に左右方向の偏光板を置けば 光は遮られ、間に斜め45度の方向の偏光板を挿入すれば(驚くことに)光が通過する。最初の偏光板で上下成分をもつかと観測し半分が通過し、後方の同方向の偏光板なら 全通過し光量を減じないが、2枚目がそれに垂直な左右の偏光板なら全て遮られ光量が0になる。両者2枚が光を遮る状態で、間に挿入する斜め45度の偏光板は、上下の光に 対して45度の成分をもつかを観測し、半分を通過させ、偏光を斜め45度にした後、最後に左右偏光板がやはり半分を通過させてその部分の光量1/8を通過させるよう回復する。 古典的な光の波動では、偏光の方向成分の強さが光量を決めると正しく説明できるが、量子的には個々の量子が通過するかは0/1である。3枚目の斜め45度の偏光板を挿入し、 その部分だけ光が通過することに驚く理由は、つぶつぶの量子の光を通過させるかどうかというフィルター機能だけでは、3枚目を挿入してその部分だけ明るくなることが 理解できないからである。その説明には、通過させるかどうかの偏光板による観測が、偏光を観測方向(斜め45度)に変えることを伴うことが必要である。

(*) ベルの定理という、観測は光速制限のない即時的という実験が、これに反対するといわれるが、その成否を私は認識しない。即時的事象かどうかは、光速制限を受けた 遅延を伴う確認を必要とする。現象は即時を装い、確認は即時でない。そのとき、即時/非即時を本当に判別できるのか。その装いだけであるという疑いがある。 また、即時を認めることは、波束の収縮と同じく、観測が時間に伴う物理過程であることを放棄することになる。これは多世界解釈に有利である。


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ダブルスリットを通過するとき、量子は、それを含む、その量子位置以外何も違わない世界を伴う。世界を伴う(外延)とは世界は量子の次元拡張であり、各主体から 客体が違ってみえるというのではない。客体は主体の対応物であり、主体が分岐する時、同時に客体も分岐する。主体の量子と、客体の外界との両方を含む世界 は分岐したというが、常識的に主体だけ分岐し、それに次々と影響を受ける外界がまだ分岐しない時点は考えられるが、次元が主体と客体で違うのは不合理である。 1つの量子が複数同じ世界にあるのは排他的事象の矛盾だから多世界というが、世界の分岐とは主体の分岐に客体(不変の世界)を追従させる次元拡張であり、 波束の収縮と同様に、光速制限を受けない非物理的説明である。実際の観測の連鎖は、光速制限を受ける伝播を伴う物理的過程であるが、それとは違う。

分岐した多世界は、互いに影響しない。しかし、事実としてダブルスリットを通過した量子は干渉する。分岐した量子と客体は干渉してスクリーン上に落ちて収束する。 注意すべきは、量子がスクリーンに干渉縞を示す世界では、その量子がどのスリットを通ったかを決していえないことである。量子は、どちらを通過したかでなく、 分岐して2つのスリットを同時に通過したから干渉した。スクリーン上に干渉縞を表す世界にとって、2つの(別の場所に同じ量子をもつ)世界は干渉して一体化したのである。 歴史は合理的にどこまでも詳しく説明できる訳ではない。明確にできない量子限界を過去にもつ。干渉縞はその存在を示し、 スクリーンまでの距離1mで3ナノ秒過去のダブルスリット通過時点の量子位置が不確定である。それが干渉縞をもつこの現実世界である。

ダブルスリット実験は、量子力学の基本的思想を決定する。1個の量子が波動関数という波となって、第1のシングルスリットによる位置の確定は、スリットに垂直な 運動量の不確定を与え、量子がその方向に広がり、第2ダブルスリットのどちらを通るかという不確定を与える。ダブルスリットからの干渉によって、その後方スクリーン に干渉縞が現れる。ダブルスリットを取り去り、シングルスリット後をスクリーンに直接示せば干渉縞は消え、スリットに垂直に広がった分布になる。干渉縞とは、 ダブルスリットのフーリエ変換である、広がった分布をダブルスリット間隔の逆数の空間周波数(高周波)で振幅変調(乗算)した、スリット方向に平行な縞模様になる。 ダブルスリットの配置による乗算である。なぜ、フーリエ変換が量子存在に関係するのか? expの複素数乗の積分が量子存在の次の位置を与える。 量子を複素数の波にするのは単純化が過ぎるようだが、それが現象を明確に説明するなら、それ以上の複雑さは要らない。(物事は複雑にして解決しない。観測結果が 3つの位置なら、それはexpの複素数乗だけでなく、3次元球が必要だし、n位置に落ちるとき、n次元。連続位置に落ちるときは無限次元の超球を考えないといけない。)

そのとき、ダブルスリットの一方のスリットのそばにセンサーを置き、そのスリットの量子の通過を知る仕掛けを用意すれば、そこを通過した量子のスクリーン上には、 まるで片方のスリットだけ用意した時のように干渉縞が消え、ただスリットの幅の逆数に大きく広がった分布になる。それは、量子の通過を知ることが量子に何らかの 擾乱を与え、測定が干渉を妨害したと考えることもできる。ところが、驚くべきことに、そのスリットを通らなかった量子を選んだ測定でも干渉縞は消えるのである。 これを"ネガティブメジャメント"(負の測定)といい、アリバイで干渉縞が消える。つまり、量子への擾乱で消えるのではない。スリットの側の通過検出装置への直接的な 相互作用(擾乱)なしに干渉縞消失が起きる。(では、通過と非通過の両方の量子を含めてスリットを観測すれば干渉縞が消えるのだろうか。消えるというが、実はだめだろう。) そして、これは次を示すのではないか。

干渉縞は、どちらを通ったか知らないときにだけできる。逆にいえば、干渉縞のあるときダブルスリットのどちらを通過したか知ることはできない。ダブルスリット通過時、 途中の量子存在が半端なわけではない。位置の不確定をもつだけである。主流派の量子力学は、波動関数を扱いながらそれを実在としなかった。波動関数の振幅(成分) の2乗が量子の存在確率を表すだけの存在から次の存在までの中間存在とした。しかし、ダブルスリットを量子が通過した瞬間、位置の不確定な存在というものは、 この世のものとも思えないが、量子はどこかに実在したのではないか。但し、どちらか一方に存在したら、干渉縞はできない。だから、波動関数という波で存在を表わす。 だが、スクリーン上に量子の位置が確定した時、空間に広がった波動関数は観測によって一瞬に消失しなければならない。 この波束の収縮という撤収活動は、光速制限を受けないため、物理的過程ではなく仮想的過程である。


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右のスリットを通ると奇数、左のスリットを通ると偶数をチェックする。この数を使って割算をしてみる計算が2倍できる。全体を100に分割すると 100倍の計算ができる。このときのLSI技術は現在とは違って、0.13ミクロンルールだった。受光素子自体の大きさはその10倍程度1ミクロンである。 150mm x 150mmの大きさのフルウエハーLSIを使って受光部のどこに光が落ちたかを知らせるグリッド(格子)の仕組みを作る。長さ方向に10^5個の 受光素子がならび、平面全体には10^10の受光素子が並ぶ。これを使って100億の計算が並列化できる。勿論、光速には不確定さがなく、 決められた時間に光はこの2次元多重スリット上のどこかを通過する。その場所に基づいて、それに従った計算をする。100億分の1に制限された範囲の数を計算し、 ある数100桁の大きな整数が因数分解できると分かればその光を通す。つまり、どこかの世界で答えがあったら光を通す。そうすると、他の世界が どうであれ、その後方のスクリーンに光が到達する。どの世界も因数分解できないなら、光はスクリーンに到達しない。 ある整数が、素数か因数分解できるかどうかは、答えが1か0のどちらかである。そのような特殊な問題は、隣接世界を使って並列化できるのである。

この仕組みは、光がどこを通過したかによって、計算範囲を100億分の1にする。現実の計算を行うのに1秒以内に結果が出て、それは100億秒(約3000年) かかる計算を1秒で答えを得ることになる。これだけが目的の量子コンピュータである。通過を検出する受光部は量子1個に反応する必要がある。それは 1個の量子を増幅して多数にしてもよい。そして計算は、1ビットに多くの量子を使用する通常のコンピュータでよい。利用するコンピュータは、それを 一気に100億倍に高速化(並列化)できるなら、これはしめたもので、それこそ量子コンピュータの基本的構造である。


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この実験で重要なことは、多世界の結果の干渉を得るには、どこに落ちたという個別世界の痕跡を残さないことである。量子の段階でそのまま計算に突き進み、 計算結果を得てもコンピュータは決して記録をしない。光を遮る/遮らないかの局所世界の最終出力も残さない。もちろん、記憶の残る人間を介在させない。 1秒間の計算は、通常のコンピュータで可能かも知れないが、違うかも知れない。通常、コンピュータは扱ったメモリーに計算跡が意識的に消さない限り残り、 後に検証できる形で計算を行う。普通のコンピュータと違う仕組みが必要かもしれない。検証ができないコンピュータの新しい仕組み、エントロピーを増大 させない線形計算素子が必要かもしれない。例えばEXORだけのコンピュータを考えるのはその必要がないし間違いであり、それでは1 bitの全加算器さえできない。 簡単には処理後に全メモリーを消去するが、それでは完全消去でない疑いがある。とにかく個別世界の結果を後から完全に "原理的に" 追跡できなくする。

これは難しいことだが、自然がやっていることである。干渉縞を我々が頻繁にみるという証拠がある。だから容易ではないが、不可能ではない。 "原理的に" とは、それを原理として受け入れ、実行の条件にしないとできないだろう。 できたとしても、これが量子コンピュータであるという 証明は可能だろうか。個別世界の痕跡を原理的に持たないのだから。"なぜか得られた正解だけが存在する"という、不思議な状態になるかもしれない。 常に正しい結果が得られるだろうか。昔からいわれる確率マシンのような、いい加減な(確率的)結果は望まれない。量子現象でよく使われる "正しいことが 1 - 10^-28 である" ではなく、"一度も間違った結果を出したことがない。今後もそうであろう"、というような証明が望まれる。

量子には、光が単純でよいが、電子のほうがよいだろう。電子線が干渉することは、光より難しいが、昔から知られた事実であり、電子が近傍を通過した とき測定装置に記録するには、光がそこを通過したよりは、明確に捉えることができるだろう。その方が、明確にグリッドを通過したかどうかの電場測定 が可能だろう。光の方は破壊検査であり、光が側を通過したことを知るには、そこに光が到達してエネルギーを使う必要があるが、電子は非破壊検査であり、 電子を失うことなしに側を通過したことを知り、電子をまた通過させることができるだろう。光は、ボゾンで多数の量子が、同じ状態にあることができるが、 電子はフェルミオンで同じ状態に入らない点では、難しいだろう。スリットが光を通過させるとき、通過率は100%でない。影になる部分に落ちると反応をしない。 電子も導電体の格子部分に落ちると通過率は100%でないことは同じである。その現象は除外できる。反応率は100%ではないが、波動関数を破壊しない。 反応すれば破壊するのと同じとはいえ、破壊した量子を、再度干渉可能な量子にするのは難しい。最初から破壊しないで反応を得る装置である必要がある。 どこに落ちたかを知るのは個々の局所の世界においてであり、全ての世界の結果の収拾においては、個々の量子事実は、存在の位置を個々の局所世界が知り、 1度干渉を失っていても、そのあと電子を通過させさえすれば、干渉を得ることができる。1秒間の計算結果を得るまでの間に、電子はゆっくりと次の門に到達し、 そこまでに部分計算が因数分解可能と分かれば、1秒後の局所世界の門を開け、後方のスクリーンのどこかに干渉した電子が落ちる。 部分計算で因数分解できないなら門を閉じ、電子はスクリーンに到達しない。(その逆でも何ら問題ない。)


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全体の結果は、最終スクリーンに電子が落ちるかどうかである。殆どの世界では因数分解できないので、電子が減衰し、スクリーンへの到達確率は低いという 予想は正しくない。1個の電子がどこかに落ちるとき、実は全ての場所に落ちているのであり、どこか局所の値の範囲で因数分解できるなら、それは全体として 因数分解できるのであり、電子はスクリーンに到達する。つまり減衰という現象はない。しかし、電子が最初に2次元多重スリットのどこに到達し、 どういう値の範囲の計算をしたか、そして門を開いたかどうかという局所情報を、我々が全て失うときに全体の結果を得るのである。

「シュレディンガーの猫」が、生きた猫と死んだ猫の重ね合わせになるという、そういう重ね合わせの猫をみた人はいない。箱を開けた観測者がそれを 観測したとき、いずれかの結果をみるだけである。マクロな観測対象の猫と観測者との間に量子的結合は必要とされていない。その部屋の中の観測実験家 ウィグナーが部屋の外にいた「ウィグナーの友人」に実験結果を伝えるとき、何か量子的結合をするだろうか。全くないのである。量子観測は、最初にだ けあって、観測機械(猫の箱)、観測者である人間、周囲の人々、社会、世界へは全てマクロな相互作用であり、普通は量子力学で考えない反応であるが、 途中は全て生きた猫/死んだ猫のようなマクロな重ね合わせ物体を介して、観測の影響は相互作用し広がっていく。(これをみれば、恐らく最初の量子観測さ え不要だろう。) そこに、コヒーレンシ(可干渉性)とか、エンタングルメント(量子もつれ)という言葉を使ってする認識は、量子力学の線形性を修正する 誤りである。ここに量子が落ちることとその1ミクロン横に落ちることとは排反事象であり、別の直交次元である、1ミクロンはどこまでも小さくでき、 無限次元ヒルベルト空間のなかに波動関数はあって世界に量子存在を与える。観測結果の影響を周囲に拡大したマクロな物体や世界も量子結果については ヒルベルト空間の別の次元をもつ。ある場所に量子が落ちた世界とその1ミクロン横に落ちた世界、それぞれの世界で結果は確定した "事実" であるが、 それは個別世界の事実(思い込み)であり、ダブルスリットの両方を通過した1個の量子はまだ互いに容易に干渉する。つまり量子力学は量子の個別世界の 歴史を改変するだけでなく、全世界レベルでも合理的な歴史の事実を改編する。世界線は、分岐した隣接世界との関係はないが、 干渉によって非合理的な統合を起こすのである。


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それでは、量子コンピュータは、普通のコンピュータでよいのではないか。何も記録を残さないように注意することもないのではないか。 時間とともにダブルスリットで干渉した結果をもつ世界ではどちらかの経路を通過したという証拠や記憶は自然に消えるのではないか。しかし、 世界の統合はそれほど容易でないかもしれない。右のスリットを通った世界と左のスリットを通った世界は、マクロな結果に影響し、生きた猫と 死んだ猫になって、大きな歴史的事実の違いに発展する。そして量子の干渉は、それに伴う異なった世界の歴史を統合することになる。 生きた猫と死んだ猫で奇数と偶数を計算する、それで計算量を半分にできても、結果の統合は可能なのだろうか。普通のコンピュータは猫であり、 その結果を知るのは、箱を開けることではないか。

光を使うのではなく、低速の電子の干渉を利用すれば、装置が巨大化しなくてすむ。光では1秒間に地球を7回半周回する。低速電子や陽子なら 数km/sにすることも数m/sにすることも極低温の技術を使えば可能だろう。そうしないと個別世界での計算時間が稼げない。電子を低速にすれば するほど、側を通過したことを検出するエネルギーが小さくなって装置が難しくなるという欠点があるが、波長が伸び、干渉は容易になる。 電荷をもつ量子は、それが消えることがない。

以前にあった事実を次の時刻で引っくり返すようなことは、マクロな物理世界にはなかったはずである。以前の事実が不明確だったとすることは、 社会的な評価や解釈の必要な現象には多いが、物理現象にはない。量子力学は、ダブルスリットの両方を通過する1個の量子に合理性を期待しないが、 マクロな物体が消えたり統合するのは合理性に疑問がある。超電導や超流動は、物理法則を疑うような量子現象ではあったが、そのような直接の マクロな量子現象をまだ見たことがないが、これはなぜだろう。我々は量子結果を見るとき、他の結果を見ない。この結果が出た、他の結果は出なかった、 それだけである。当然ながら、他の可能性もあるだろう、他の結果が出た世界もあるだろうと推論するが、証拠はない。そして、歴史的事実が 変更されても子細な相違は無視され、少々のことは気が付かない。違いがあっても正当化、合理化され、違和感はいつのまにか消え、納得させられる。 ほとんどの人にとって地球上の裏側で量子がどこに落ちたかには関係しない。どれだけのカオスのバタフライ効果があっても恐らく。 しかし、疑うのはここである。どこまでも詳しく調べれば、箱のなかの事実は明らかになるという信念が、量子力学以前には明確にあった。 ただ、多世界解釈は、世界の分岐を言い世界の単一性への疑問を解決させたが、困難が多い世界線の統合については、何もいわないように思う。

多世界SFは、いつのまにか以前と違う隣接世界に移行していくことを、文字や慣用句の使われ方の微妙な違いによって違和感を与え、最後に間違い に近い漢字文字を使い別世界に入ったことを表す。物語の前半との事実の決定的な違いは、見え方の微妙な違いを伴って、それがあり得るという 幻想と恐怖を与える。我々はよく、そのような奇妙な感じを受けることがある。逆に元の世界に戻るデジャブ(既視感)には真実を発見したときの 驚きの感覚が伴う。それらはSFの文学的技術であって、現実世界に関係ないかといえば、そうではなく、 物理的現実にも我々は完全な合理性をニュートン世界のようには求めなくなっている。 少なくとも量子の不確定は何らかの形で受容している。


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それでは、量子コンピュータは、可能なのか。君の意見では? 100億分の1だけ計算して、残りは他の隣接世界に任せるような計算の仕組みは可能だが、 結果を追跡検証できない限りである。逆に追跡可能なら不可能である。追跡検証できないコンピュータの計算結果は、確かでなくすぐに覆されるのではないか? そうかもしれない。使い道は限られる。結果が隣接世界のORで与えられる0か1かのバイナリー結果を求める場合にだけ使える。元より確かな話ではない。 隣接世界は干渉はするが間に影響や通信がない、誰も確認できない多くの隣接世界の助けを借りて利用するのである。そして、量子コンピュータは、 基本的に世界線の合理性を疑う話である。我々がダブルスリットを同時に通り抜け、それぞれが片方を通過したことの厳然たる事実を、その後に完全に 忘失し失い、不明とする物理である。そんなことはマクロな経験では今までなかった。排他的な 2つの扉を通過した世界同士の干渉、これは可能だろうか。 しかし、出る結果は確率的でない。因数分解できるかどうかに確率的な答えは意味がない。不確かなのは、量子コンピュータが成功するかどうかである。

もうひとつの側面を指摘したい。量子コンピュータは、明確に多世界を利用する。量子力学に従って1台のコンピュータを100億台にするのは多世界であり、 そして、量子コンピュータが存在できることは、多世界の存在証明である。誰が「私の量子コンピュータは多世界解釈を利用しないから違う」といえるだろうか。 量子コンピュータはどれも多世界なしにその働きを説明できない。どんなコンピュータも、現状のこの世界の有限な計算資源を変更できない。 閉じた宇宙を最高速のコンピュータで埋め尽くしても計算資源はまだ有限だが、量子コンピュータは最初から無限と主張するのだから。

完全に線形で互いに影響を与えない多世界が、これによって簡単に証明できるなら素晴しいが、そのことは逆に疑いを抱く。量子の干渉を利用した量子コン ピュータは存在できて、その量子コンピュータが証明できないはずの多世界を証明してしまうなら、矛盾であり、量子コンピュータ自体が存在しない証明 ではないか。いや、すでに分岐した他の世界との通信ではなく、この世界線を分岐させて再度干渉させるだけだから、多世界の存在証明ではないという反論には、 この世界線を分岐させたとき、その「すでに分岐した他世界」ではないかと反論できる。干渉は、世界間の通信ではなく、干渉による統合は、通常のダブル スリット実験のように普通に可能であり、それは多世界の存在証明であるが不可能でない。つまり、多世界の存在は証明可能である。量子コンピュータ研究は、 多世界解釈の証拠の探求である。



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コンピュータは、現在、量子的に波動関数のままに最初の量子結果に従って多くの量子を使って1bitを表し、計算して記憶し、最終的な1bit結果を 導くが、その間、量子的な重ね合わせは存在している。マクロな普通の素子を使うからといって波動関数であることを止めない。特別な計算素子を 必要とするという議論は、基本的に証明されていない。現実にマクロなシュレディンガーの猫も重ねあわせになっている。(これを疑うなら量子力学を 疑うことである。) 通常の計算素子による量子コンピュータが成立しないだろうと疑われる理由は、そこにはない。 そうではなく、問題は、個別世界から統合世界に戻れないという疑いである。

マクロな物体が重ね合わせできないとは考えない。何の仕掛けもない猫が重ね合わせにならないというのは量子現象の理解の放棄である。 すでに量子力学のダブルスリットは単一世界観を放棄させる。この世界は、行為し、判断し、分析し、それ毎に違う結果を得るものといってよい。 「シュレディンガーの猫」は、世界を唯一現実の決定論とみるニュートン主義者以外にとってパラドックスではない。物事は先に決めつけても意味がなく、 対象を手にもって判別して初めてどうこういえるものである。猫の箱を開けるまで、猫が生きているか死んでいるか判別できないとき、まだ見ない存在は 重ね合わせ(不明)と理解できる。そして人間も重ねあわせになる。「ウィグナーの友人」は、この部屋を開けて初めてウィグナーが生きた猫を抱いているか、 死んだ猫を抱いているかを知る。それ以前は不明であるが両方が可能性として存在する。友人がどちらを見るかは結果をいずれかと共有することである。 それを見たとき必ず確定しているまだ見ない猫は、猫にとって既に確定だが、まだ見ない者にとって不明、未確定、生死の重ね合わせである。 重ね合わせの猫は、「見ていない猫」である。だから我々はまだ見たことがないのである。

動画の時間軸が次々の絵をパラパラと自動的に見せるのと違って、空間軸が次々の絵を自分が動くことで見せるの(例:CT)とも違って、この空間軸は想像だけが 行き来できる、物事が違って起きたもうひとつの代替世界である。登場人物はすぐに代わるのではなく徐々に代わる。想像が驚きを与える世界認識である 多世界、次々の世界を行けば、友人が変わっていき、恋人がモルフィングして違う人になっていく、現実は微妙に変化する。自分自身も様々な変容を受ける。 変わる髪型、転んで作った傷、ひげを生やした自分、そった自分、長い時間とともに変わる鏡の中の自分のように。合わせ鏡に映る自身の遠くの像がみえ にくいように。徐々に変わる事実と現実、文化や歴史的事実も違ってくるだろう。この世界では徳川幕府が明智/織田幕府であったり、鎌倉時代の代わりに、 駿河時代とか違った歴史をもつ世界になって言葉が通じなくなり、少し進むとすぐに現実感がなくなってくるだろう。そこに物理法則は変わらず存在するだろうか。 法則のパラメータは少しずつ違うかもしれない。例えば重力定数がその世界に人間生息を妨げない程度に違ってもよい。それらも量子的に実現したなら。 ある方向にいけば急に変化する脆い事実もあるだろう。そこでは歴史的事実だけでなく物理の知識さえ役に立たなくなってくるだろう。 確かな事実とは、法則とは、唯一の世界線をもつニュートン世界観だったのか?と思い知らされるのかも知れない。

「エベレット電話」: もしもし、私よ。あなたも会社員なの? 私の方から電話すると前の電話でいったでしょう。あなたの方ではそんなことはないと 思うけど。先月に、ツインタワーが壊れてから大変なのこちらは。私は同じ会社員だけど、あなたのような技術者とは少し違って経営者よ。そして、 私は女だけど、あなたは男みたいな声よ。そして名前も少し違うわ。どうして別世界の自分に電話していると思ったの? 誰あなた。それより、 別世界の私に直通電話があって話ができるなんて、だれが決めたの? 勝手に電話しないで。誰だと思っているの?

というような不思議な電話になる。事実は多数あり、動画のように少しずつ違った世界が、その軸の方向に連続的に並んでみえる。 事実は多数あり、無限にある。そうでないと、量子の扉は2つとないことになる。


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量子コンピュータの結果は、途中の1秒間の局所の計算結果と全く整合しない統合した全体結果を出すことを許す必要がある。途中の計算結果はむしろ、 積極的に破棄しないといけない。それは、個別世界の世界線としての合理性を失う恐れを起こす。これが個別世界が最終的な統合世界に戻れない理由になり得る。 例えば、個別世界の計算で因数分解できなくて、他の世界の結果によって統合した最終結果は因数分解できたという結果をこのコンピュータは示す必要がある。 個別の計算範囲が、因数分解できる数を含んでいないだけの、普通の状況で、個別世界の結果は0で統合世界の結果が1を許す仕組みがいる。これは他の世界が 存在しない場合は有り得ない。元々因数分解が全ての世界でできない場合も統合結果も0を出し問題がないが、この世界の計算結果としては0を出し、統合結果 が1を出すとき、この個別世界からの統合の合理性は破綻しかけている。

どこの段階が最終結果の受け入れ(干渉)を可能にするだろうか。この世界では光を遮り最終スクリーンに光を及ぼさないのに、最終スクリーンに光が到達する。 個別世界もこれが量子現象と知り、最終結果は他の世界の干渉と知っていても、現実に光はここに到達して、この世界の計算では0だから光を遮る、にも関わらず 光は到達する。これが元の光をそのまま残し、そして、他世界の存在を認めるなら、これは再び光の干渉実験だから、ここで遮ることが最終結果1に貢献してもよい。 ダブルスリットの片方が開くことで干渉縞の暗い部分は光がなくなることはある。元々因数分解でき、個別世界ではできなかったが、最終的にはできるという 最も普通に起きる状況は、個別世界の論理では不合理である。光はここに落ち他の場所に落ちなかった。光を遮ったのに光が到達するという不合理性は、光の 干渉実験程度かもしれない。光の偏光の現象がそれに近いのかもしれない。それを超えた不合理にみえるのは、主要な計算を個別世界で行い、その結果を忘れ、 個別世界から干渉した世界に移るからである。

「お元気ですか。こちらの世界では世界貿易センター Twin Tower に旅客機が追突して、ビルは座屈崩壊し、大変なことになっている。.... 」これは、 娘にした多世界ふざけメールである。私はその夜、日本のTV報道に興奮していた。娘の友人がお父さんは海外にいるの?と聞いたという。信じられない ことが起きていた。それから20年、911がブッシュ政権の自作自演という陰謀説を多く見聞きした。エンパイアステートビルにB29が追突した事故では火災 とエレベータ事故があったが、ビル全体の崩落はなかった。最新の鋼鉄製の鉄骨構造は、それより遥かに脆かった。航空機の燃料の火災は鉄が融けるほど の高温を出さない。その日までの1週間、ビルに工事がされた。テルミットが疑われた。地上の崩壊現場の鉄骨は、斜めに断ち切られていた。崩落の瓦礫は、 非常に細かい粒子になっていた。地下に落ちた瓦礫は1ヶ月後まで高温を保っていた。近傍のビルWTC7は、自由落下と同じ速度の崩壊するより前にそれが BBCに放送された。ハイジャックされ追突した航空機のいずれもボイスレコーダ、フライトレコーダがない。ハイジャック犯人と乗客の遺体がない。

NYの世界貿易センターの世界の頂上(Top of the World)というレストランで夕食を摂った記憶があるが、それはもうこの世界にない。それが残る世界もあるだろう。 9.11が余りにあり得ない事件だったからだが、そのような、現実の否定、事実の虚構化は、何か思考の力となるだろうか。行為が観測ならいま何かの自分の行為は、 ニュートン力学と違って、少なくとも自分は分岐し、見る世界を変えることができる。どちらの結果をみるかは、サイコロに任せて。自分の未来は不確かだが、 これは自分がみるという例外の世界であり、本当の世界、全ての過去現在未来は公平に存在し決定している。それはどの世界線の誰も知らない全体世界である。 これが古典力学の決定論とは違う量子力学の認識論からくる行動論である。


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量子コンピュータの研究は、量子ゲートの研究なら無駄かもしれない。メモリーは、1 bit に1つ以上の電子を使わなくてもそれが何かの意味を変えないだろう。 論理ゲート微細化や高速化と同じである。量子的に繋がった素子の研究、又は単なる最適化問題の解法を量子コンピュータというのは、嘘付き科学の勘違いの 誘発かもしれない。しかし、それを知るためにもそれらの研究は必要だろう。

彼によって作られた量子コンピュータは、必要な初期テストとして、因数分解ができることが分かっている巨大な2数の積を与えて、この世界の分担した数では 因数分解できない結果0を出し、それを忘れ、因数分解できるという最終結果1を得るテストを行う。その結果なしには始まらない初期テストは、最終結果0しか 出さなかったが実験は断念されない。実験の規模が拡大され数億回の量子実験が行われ何千人という大規模な著者になる論文が長年続く。ことの意味は理解できず、 世間は興味を失い予算を打ち切り、50年後その詳細を知る実験者は死に絶える。この世界の可能な不合理を探すことの全ての試みが終わったと思われる頃、ある主張が現れる。

状況1: その主張は、50年前の当初からこの世界の分担した数が実際に誤っていて、因数分解できる数を担当していたという。(この世界は因数分解できない結果0を 確実に忘れたのである。) しかしこの局所計算結果1の場合には、最終結果も1でなければならない。望みの結果01の逆の不可能な形の統合結果0が出ていたという歴史 は再度調査され、最終結果の記録は1だったのに故意にその結果は隠されたことが判明した。つまり、局所と最終の結果は00ではなく11だったのである。

状況2: その主張は、初期の巨大な2数の積ではなくそれに1を足した数の因数分解をしていた、因数分解はどの世界でもできないから最終結果0はずっと正しかったという。 これは歴史に合致していた。しかしそれは、統合世界0も個別世界0の結果のままだから量子コンピュータの実現の証拠ではない。実験条件を否定し、結果は整合する。 つまり、局所と最終の結果は00だったのである。

こうして、どの世界線も量子コンピュータの存在/非存在を知ることがなかった。当初の初期テストは、その存在の実証であった。局所的に0を出し、最終に1を出すこと によって、他の世界がこの世界に干渉することを期待したのである。状況1は、本当は01であり、その実証かもしれなかったが、現実はそうでない。状況2は、結果からの 過去の正当化であり実験の否定であるが量子コンピュータの否定ではない。こうして、数十年という歳月によって何か少し変化した世界でも、多世界の証明はできない。 ダブルスリットに広がった量子位置を検出して並列分担して計算するという計画は、干渉世界に戻ることが、合理性を否定する必要から難しかった。 科学実験がいつもそうであるように、古典的な当然の結果が出ただけで、何も問題でないのが今は明確である。どこかに間違いがあったのか? それはない。 あるといえば、世界の解釈の問題である。



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エベレット電話は、多世界SFの強力な道具である。多世界解釈を採るとき多世界を最も迫真力をもって示す道具立てである。 この電話は別世界の人々への通話ではなく、なぜか、別世界にいる本人との直通電話である。普通の自省と違って、 主人公は旅行記か旅行先の自分との対話のように、別世界の本人と通話して、分離してからの経験や世界の出来事を話す。 事実が自分の世界と同じか少し違うか、どう違うかはここで通話して初めて確認できる。共通の記憶をもつ同一人物から分岐し、時間経過した本人なので、 少ない言葉で意味はよく伝わるが、少し話すと分かるのは、環境の違いを伴って自分とは意識も少し違った別人になっていることである。

そのとき、同時性は存在するか? 通話可能な互いの同時性はあるのか。これはあまり意識されないが、別世界に時計合わせできるのかという疑問がある。 量子力学は、相対論を経ていないため、古典的な絶対時間を採用することが多い。対話は時計のずれや時間経過の速さの違いを露呈しない。 これを私はこう理解する。多世界間で通信できるなら、時刻も確認できその違いも示すことができる。分岐した世界線とは、それぞれの別々の時間軸であるから、 多少の未来や過去にずれた時刻の世界同士も通話が可能である。これは、同じ世界の中では全く不可能である。

多世界との通話を、同じ世界の過去との通話と比較してみよう。過去との通話が可能なら、それは時刻にオフセットを持つ者の通話だけだろうか? それより先に、過去は存在するのだろうか。それは確かに存在したが、今それは存在するのだろうか? 記憶のなかに固定した像以外に、 過去は今も反応できるまま、存在していなければ対話できる対象でない。過去が今もあるなら、過去の自分は、現在の自分とは少し違う意識を持っていたから、 今の自分とは別人として通話もできるだろう。そして、未来との通話は、過去よりももっと怪しい。対話があるなら対等であるはずが、 未来は過去よりも不確かである。預言者でない普通人にとって、未来は想像、イメージ、常に当たらない予測でしかない。 通話できるためには、未来が今すでに存在していなければならない。光速に近いロケットで移動すると、遠方の遥かな未来に短時間で到達できて、 未来はすでにそこにあるように思うが、そこはまだ少しだけ未来である。(相対論は因果律を決して壊さない。)

電話で会話するためには、こちらの話が相手に伝わること、そして、逆に相手の話がこちらに伝わることが必要である。そのために両者は同時的な 存在である必要がある。そのために空間を共有していること、実際には空間的に近接している必要がある。距離のある海外通話では、 静止衛星を介した電話の通話に3万6000kmを往復する時間だけ遅れる。それは0.数秒のはずが、実際に処理はかなりかかり、1秒ほどだろうか、 相手の声が収まることを予測して話しても、それが丁度、相手の声に重なって、自分が話す間は、相手の話を聞く能力が低下しているため、 話がうまく通じない。これが地球上の滑らかな会話を妨げた。海底ケーブルを使った通信になって経路は、短くなり、かなり軽減されたと感じる時があった。

現在の電話はこれより劣化していて、大きな欠点を使用者に課している。昔の電話を使ったことのある人は、もうかなり少なくなって、これをすぐ理解できる人は 少ないだろうが、昔のアナログ電話は、両方が同時にしゃべることができた。自分の声が受話器にきこえた。それが大きすぎて側音防止というブリッジ回路で 自分の声を軽減する必要があった位である。だから、自分の考えをまとめるのに、自分の声を聞くために、誰に掛けるのでもなく受話器をとることもできた。 今の携帯電話は同時に双方向通信できない。こちらが無音時にだけ相手の声が流され、相手の声がないときだけ、こちらの声が相手に伝わる。自分の声は、 受話器からは全く聞こえない。これは不自然な感覚を与え、まるで無響室にいるように自分の声の確認をできなくして、声のピッチ、歌の音程も取りにくく、 電話をできるだけ使わないようになる。


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Full Duplex 全二重 Duplex 複式? 私はこれがどういう用語だったか忘れてしまっていたが、アナログ有線通信では最重要な概念だった。現代人は誰も信じない だろうが、これを電源まで含めて、たった2本の線(アース以外1本)で実現していた。これが携帯電話では現在全く満たされていない。どれほど不便な電話機にして しまったのか、どうしてそれほど退歩したのか、彼らはどれほど独占と機械に頼って利益を上げるのか。そこまでひどい機能制限をしても移動電話、携帯電話が 利用されることは驚きである。これは、法的に無線回線には複式が必須でなかったのだろう。その移動性、携帯性の方が複式をはるかに上回る利点だったのだろう。 それだけでなく、一時のディジタル携帯は声を合成音声に聞こえるほど歪ませて平気だった。2001年の社長からの電話はSFか電話の故障かと疑った。音声圧縮は 品質向上よりビットレート低下に使われた。我々は不便な電話に慣らされ、話をよくまとめ、間を開けてしゃべることを訓練させられた。話の途中で割り込み、 相手を遮ってしゃべることは、礼儀違反だけではなく、完全な対話不能を招いた。昔は、礼儀違反だけだったのである。

光の速度で約1秒かかる地球と月の間の通話には、反応時間に往復2秒程度の加算がされ、それを避ける技術はない。少しでも離れた2点には特殊相対論で一意の 同時性がない(同時性が系の速度による)から即時通話はできない。光速未満の移動と光速以下の通信によって可能なのは、未来の光円錐内部の時空領域への影響 だけである。どの物質も情報も、未来から過去へ移動しない。過去へのタイムマシン(影響)は因果律を破壊する。光速を超える移動や通信は、相対論の理屈では、 未来から過去へ因果を逆転してみえる座標系が存在して、法則が系に依存しない原則に抵触するから、存在しない。

過去との通話は不可能だろうか。いや、過去から未来への通信と移動は、普通に起きる。放送や記録した動画のように、過去からの電波は受信でき再生表示できる。 ところが、過去にとって未来からの情報はあり得ないほど貴重である。未来からの情報は、数10分後からの情報だけでも賭け事に勝つことができる。 しかし、それは矛盾をうむ。未来の情報を利用すると未来を少し改変してしまう。未来が、その情報に従って賭け事に勝った状況でなければ、 未来の改変になる。その場合も、逆にその情報に従わなかったら未来を改変する。いずれも未来を変えないためには、情報を受けた側に自由意志がない。

ニュートン的な決定論に基づく確定した未来をもつ場合、未来から過去への通信/移動は、それを知って自由行動するだけで未来を変更する。未来の本人が 過去を改変すると、極端な場合、本人の存在の根拠を壊わす「祖父殺しのパラドックス」を引き起こす。このように、未来からの通信を不可能とする理由は、 ニュートン的な決定論的、確定した未来と矛盾するからである。しかし、合理的な世界線が束になって存在する多世界解釈では、他世界の未来からの情報は、 その未来をもつ他世界からの「干渉」と考えられ、パラドックスでない。結果が原因を呼び覚ますような逆順のない、既に分岐した世界からの干渉は可能で、 その時点以降に分岐する同じ世界の未来からの干渉は不可能であるままだ。しかし、問題はそれを規定する法則がみえないことである。

特殊相対論の同時性とは、空間(=同時刻)の共有であった。慣性系が速度をもつだけで同時性はない。別の慣性系の原点が空間を移動した軌跡が時間軸であり、 それによって、その系が同時刻とする空間が異なることが、特殊相対論の"同時刻の相対性"であった。動く系は、別の空間をもつ。


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エベレット電話はない?

これは、シュレディンガー方程式に従う波動関数の時間発展は、複素位相だけを変化するエルミート演算子によって表される。これが線形演算子である。 観測は、量子の排他的な複数の結果を生成し、分岐した世界は両者は重ね合わせの要素となる。それらは互いに線形演算子では到達できない関係にある。 それゆえ分岐した世界間の通信は存在しない。

エベレット電話は、事実の違う世界間の通信であり、世界間の事実の違いを知らせ合う。事実の違いを互いに通信できるなら、それはどこまでも適用され、 世界を一体化させる。ひとつの世界に排他的事象は両立できない。ゆえに、エベレット電話は存在しない。

世界は無矛盾?

世界に矛盾があれば、そのなかを移動して矛盾をそのうちに確認でき、その時点でこの世界が存在しない(単なる夢、幻想)ことが判明する。夢のなかの意識の ような事象の曖昧さ、意識の途切れ、時間の発生または消失、ループは現実でない証拠である。いや、夢のなかでこれが現実でなく夢と判断する方法はなく、 必ず理由付けられ、合理化、正当化され、夢もまた無矛盾と欺くものである。世界の無矛盾による定義は、事前に証明可能ではなく、矛盾がまだ見出されていない ことだけを表す。しかし、矛盾の未発見を無矛盾とはいえない。世界の無矛盾性は、今まで破棄されたことのないからと前提に原理として採用すべきだろうか。

世界は統合できる?

1個の量子の排他的結果を含む各世界は統合される。分岐した世界線は、1本の世界線に矛盾なく合理的に統合する。その世界線上では過去の事実は時間に伴い、 矛盾のない範囲で変容し、排他的結果が不明になる。 エベレット電話がないことは、他世界の自分を見ないことである。量子は他世界の量子に出会うことなく統合する。だから、これは粒子の衝突現象ではない。


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量子力学はすでに役立つことが証明された力学であるが、多世界解釈は、量子力学を導きだすことのできるが、証明できないメタ理論であるなら、 量子コンピュータの存在は証明できるだろうか。多くの量子コンピュータ研究の結果を、数十年後に我々は知るだろう。

多世界解釈は、歴史と社会の事実より法則を優先させる。事実が法則を超えてみえる現実世界、自他の関係、例えば、加害と被害、教師と生徒、 獄卒と罪人の逆転した世界を想起させる。立場の逆転、効果の逆転した世界を見させる。もしそうでなかったら、いつもそうではない、 どこでもそうではないと現実と違う結果を思う、現実を否定する想像力又は思考の力は常に必要である。何かを信じることは現実を拒否することであるから。 現実に対して疑問を抱かないのはつねに不正な満足である。立場に意味はない。みる現実に意味を置いてはならない。それに従った行為は、 基本的に不正である。我々は可能な全ての現実、無限の世界を想像できるのだから。

多世界解釈は、主体と客体の対応をいう。この現実世界は、自己を原因として自己が作成した自己の対応物である。もちろん逆(環境が自己を作成する)は自明である。 我々は物質で構成され、誰も時代と精神から逃れず、この世界のなかにある。しかし世界は、自己に反応して複数世界に分岐し、それぞれが関係を失っていく。 自己はそれを投影した世界を作る。みえる世界は反映でしかなく、多重化世界の一部である。あなたの世界は不条理かもしれない、私はそれをみないがそう思い、 それに同意する。あなたの見る世界とは私の見る世界とは違っていても、それを電話で通信できない。あなた/私の分岐は果実を結び、世界を分岐させたからである。

これは倫理でなく物理である。世界の無限並列は、唯一現実の世界に伴ったニュートン的な決定論の何をしても変らない無力感を捨てさせ、無限多様な世界という 広大公平な視野を与え、不確定な未来への自己分岐、又は不確定な自己の排他との融合という基本動作によって次の時を得る。多世界解釈は、名状しがたい偶有性 への対処を常に考えさせ、一種異様な認識と倫理を与える。


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眼前の人をみて、意見の違いに驚くとき、この人はどのような人生を送ってきて、この思想にたどり着いたのかと、この人の履歴を思い、見てきた世界を想像する。 その人に同情しても、その人生をやり直させることはできない。そう思うとき、自身も相手にそう思われているだろう。人の条件は余りにも違い、同じ条件で人は 生まれていない。眼前の人のみる世界を見ることはできない。それは、視点が違うだけでなく、その人が同じ世界にいず、世界が多重化し分離しているからである。 そして全ての履歴と未来は現在の一瞬の表相に現れている。世界は自身の状態に対応してある。いや自身の状態を世間という。これは、矛盾の環境に対して、 その原因を自身に求め、相手の責任を自らとる行為だけがこれを変えるという行動論の基本原理であり、現実が多重化し世界が分岐する責任は、自己にあるのである。 誰でも知るが、誰にとっても難しい認識、そのために人はほとんど一生を捧げている。量子力学の多世界解釈は、人の世界の比喩であり実相である。

量子力学が許しそうに思える量子コンピュータは、上の段落のような量子力学的自然認識の多世界解釈に行き着いて、量子コンピュータの制作問題は解決していない。 恐らくは、元々不可能なのだ。物理認識が不完全なために、タイムマシンとかテレポートとか、可能と思って原理的方法と技術を探るのは自由だが、行き着く先は 袋小路である。不完全な理解が、可能に思わせ、何十年かかって探してもなかった、ダークマター、ダークエネルギー探しと同じである。それが必要だからといって、 それが存在するとは限らない。それを必要とする理論が間違っているだけである。タイムマシンは、因果律、テレポートは光速制限が禁止した。 禁止事項を避ける理論が間違っていたのである。ダークマターやダークエネルギーは、宇宙の初期への依存がこれらを必要としただけである。 究極の理論が必要とする物質探しの徒労は、正しい理論の必要を教えるだけである。(+2019/3/27)