ゴム膜の空間

片山泰男(Yasuo Katayama)

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重力による空間の曲りを初等的にゴム膜を使って説明することがよく行われるが、最初にゴム膜が平面であるときに座標軸に 平行な碁盤目状のメッシュ(網目) を描いて、質点の影響としてある点を押し下げて、その模様が延びて変形する、そのような 説明は、一般相対論の重力理論を喩えるには全くまずいものである。その理由について考えると、

(1) この曲った座標軸を光の経路としてみるのは、経路が質点に向かって曲ることとなり事実と逆である。

この線をそのまま、光の経路が重力に引っ張られて曲っていると考える、例えば江里口良治氏の、"時空のゆがみとブラックホール" (培風館)は、時空のゆがみというテーマを主題にした良書として挙げるべき本なのだが、その 66 ページに、"また、光の軌道は図12 の a - a' のようになり、光の道筋は直線的でないことがわかる。光も重力の影響を受けて重力源に向かって引っ張られるように曲げ られることになる。" と書いている。座標線が引っ張られて内側に曲ることから光の経路が内側に曲るようにみなしているかのように みえるが、これは、光の重力による影響によって光の経路は、直線よりも外側を通るという事実に反している。"光が内側に曲げられる" というのは、光子が内側に引っ張られる意味でしかなく、光線は外側に曲げられるのである。

光が特別なわけでもなく、 物体の経路が質点から引力を受けて曲るときも、経路は質点の反対側に変移する。質点からの距離 r の点を 1/r のポテンシャル (低さ)をもつ曲面上で物体は、円、楕円、放物線、双曲線を描くが、すべて引力の影響は、経路の外側への変移である。 物体は引力を受けて質点側に引かれるのだが、そのためにもとの終点を通過するには、外側に移動した経路をとるしかないのである。 重力による測地線の変移からみて、曲った碁盤目の座標線は、光や物体が重力以外の力を受けないときの経路である測地線を表していない。



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(2) この座標軸の間隔は、質点の近辺で延びているが、その部分の物差しの短縮とは全く逆である。この質点の近傍での計量の変化は、 物体が潮汐作用によって受ける物体の変形とは、全く逆の向きの変化であるのに、それをそのまま直感的に使って、質点の近傍では物差し のサイズが延びるのかと事実と逆の間違った認識をしてしまいやすい。物体は質点の側では物差しとともに短縮するのである。

江里口氏の上記の本でも、"長さは重力源に近いほうが遠方に比べて伸びており、 ... 空間が伸びるということは、..."と書くが、 この説明は、一定の長さをその場所の物差しで測定したときの計測値が大きくなることをそう言っているのであり、 それは物差しの短縮と同じ意味であるが、その表現に問題がある。このような分かりにくい説明になってしまう理由は、 ゴム膜に碁盤目の模様を書いて押し下げるイメージに合わせるからであろうが、そのイメージが混乱のもとである。

なぜならこの本では、さきに時間についても同様な説明しているからである。時間の係数である、g_00 の値が 1 以下であることを使い、

"この関係式からわかることは、 1-2GM/c^2r のファクターは1より小さいので、同じ現象を測定したとき重力源に近い観測者の測定する 時間の長さは、遠方の観測者の測定する時間の長さに比べて、短いということである。これは、時計の進み方という観点からすると、 重力源に近いところの時計は、遠方の時計に比べてゆっくり進む、すなわち、遅れることを意味しており、その遅れの割合が、 √(-g_00/c^2)= √(1-2GM/c^2r) であることになる。"

と、最初、その場所の時計で同じ現象の計測値が短くなるといい、それをその場所の時計の進み方の表現に言い替え、ゆっくり進む、遅れる という。"時間の長さが短い"というのと、"時計がゆっくり進む"とは、普通は逆の表現である。その場所から主観的にみれば、遠方の時間が 短くなり、遠方からの光が青方変移するが、それはその場所の時間の経過が緩慢であるからだけである。遠方から客観する記述のほうがやはり 明確であり、物差しのサイズ、時計の進み方が場所によってまちまちである事実をも明確にする働きもある。


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それでは、最初に引いた碁盤目の座標軸が変形したものは、一体、何だったのだろうか。2 つの事実に矛盾する変形した碁盤目は、 それがそのまま曲線座標軸として残るわけではないということを表している。それを有効とすることは、遠方からみた空間の変形を 説明するものではない。それは説明する役に立たないし、定性的にも逆になるこれは、喩えとしては、むしろ有害である。

碁盤目の座標軸は、曲った空間において再度描かれるべきで、それは一本の線が枝分かれせずに描くことが難しいものではないだろうか。 質点の近傍では、その線の間隔は、密でないといけない。局所的に小さな碁盤目を曲面に配置していくと、最初問題なく配置できるが、 それはそのうち矛盾を来す。なぜなら、そこは曲面であるからである。アインシュタインの "幾何学と経験"に、 球面上に碁盤目ではなく小さな円板を配置していく話がある。

ポテンシャルには等高線が似合うものであり、その等高線、等高面に垂直な線が電場の向きを表す電気力線、磁場の向きを表す磁力線 と同じくいえば、重力の向きを表す、重力線を考えることができる。重力線は、符号が逆の反重力がないから質点から出て空間に発散 するというわけでもなく、同符号 (電磁気では異符号) の質点に繋がって引力を及ぼす。

そのような力線と、空間の方向を表す、x、y、zの座標線がどう関係するのか自体、理解しにくいものである。 空の空間では電気力線、磁力線は、発生、消滅、枝わかれや合流がない。それが座標線や測地線ではどうだろうか。


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発生消滅は、ベクトル場の発散というスカラーであるから、そこに電荷、磁荷が存在しない場合、発生消滅がない。空間において力線が 1つの値をとること、一意性から枝分かれと合流を否定できるが、ベクトルの大きさが0であるときの方向は不定であり、 そういうときの枝わかれと合流を図にすること自体は間違いとはいえない。流線、等高線でもそういう図はよく見掛けるものである。 測地線は物体の経路図であり、速度の方向を結んだ流線と類似する。ふつう速度の方向を結ぶと経路図になるからである。

ポテンシャルによって座標線の密度が決まる。それは、電力線密度が電場の強さ、磁力線密度が磁場の強さを与えるのと同じである。

等高線は、その片側で大きく逆側の近傍では小さいというふうに、1 つのスカラーで空間を 2 つに分ける超曲面であるため、通常、 枝分かれがなく、面内に一巡できる線であるが、勾配0の峠点で分岐できる。3 次元空間のポテンシャル等高面は、その面に垂直な 勾配ベクトルである重力場をもち、その大きさは、等高面の密度に依存する。同様に局所座標は、その等高面に垂直な勾配をもつが、 それは等高面密度に対応する。

座標線は、枝わかれをするし、ある閉曲面で区切られた閉領域の体積が無限大であったりする。例えば、ブラックホールを中心にもつ半径 r の球の体積は、r が地平面に近付くまで無限の距離をもち局所体積は無限であろう。

それでは、実際の空間は、ゴム膜の斜面であるとみるべきであろうか。曲った斜面の面積は増えている。そこに物を置くとは、延びたゴム膜に 大きさの一定の絵を置くことである。しかしながら、それなら斜面の面積の増え方は、斜面の傾きだけに依存することになる。 ポテンシャルの勾配とは重力であるから、重力の強さによって局所空間の延びが決まるようなことになるが、空間の延び縮みは、 ポテンシャルによって決まり、その勾配によって決まるのではないから、斜面の面積が空間のサイズという考えも正しいものとは言えない。

局所の時空の性質を明確に表すためには、計量という、物差しと時計に立ち戻って考えるべきで、一般相対論では同じ物差しを移動すると変形し、 大きさを変えると考える。計量 g_ik と dx^i dx^k の関係において、物差し(時計)とは、dx^i, dx^k であり、物差しと計量 g_ik は、 その積和が一定である。ds^2 = g_ik dx^i dx^k という式をそう定性的に理解することができる。


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質点の近傍では、半径方向の計量が大きく、時間方向の計量が小さい。半径方向の物差し dx が短縮し、時間の経過(時計のティック タックという間隔 dt )が延びている。

ds'^2 = dr'^2 - dt'^2 = g_rr dr^2 + g_tt dt^2
g_rr= 1/(1-2GM/c^2r)
g_tt= -(1-2GM/c^2r)

地平面の外側 r>=2GM/c^2 では(1-2GM/c^r)の式は1以下0以上の値をもち、g_rr >= 1 かつ、-1 <= g_tt である。dx の短縮と dt の延びは、g_rr, g_tt それぞれの√の逆数がかかっている。

有限な体積のなかの質点の近傍、ブラックホールの地平面近辺には、沢山の座標線が書き込まれる必要がある。つまり、地平面までの通過する 局所の距離 (それは、g_rr の√を無限遠から地平面まで積分すればよい。) が大きいのである。ブラックホールの地平面の外に作られた一里塚 の数は、恐らく無限であろう(*)。その間隔は、1/√g_rr = √(1-2GM/c^2r) に短縮している。そこからみる宇宙は、等方的でなく、r 方向に延びた 宇宙であろう。その場所で局所慣性系として重力から今まさに解放された物体は、もとのサイズ、その場所の物差しからみれば、√g_rr 倍になる。 そこを通過する無限遠から自由落下してきた物体は、その局所慣性系からみれば、ニュートン力学でポテンシャル差を速度エネルギーにすれば、 光速を1とする速度、v= √2GM/rc^2 をもち、ローレンツ短縮比 1/γ= √(1-v^2) = √(1-2GM/rc^2) に短縮する。 つまり、その場所の一里塚と同程度に平たく潰れているのである。

(*) 誤り。無限値を含む区間の定積分は無限とは限らない。√g_rrの地平面から地平面のa倍までの積分は有限である。(2020 9/18)

D=∫_1^a 1/√(1-1/x) dx = ∫_1^a √(x/(x-1)) dx =∫_0^(a-1) √(1 + 1/y) dy
t= √(1 + 1/y), y= 1/(t^2-1) = 1/2 {1/(t-1) - 1/(t+1)}, dy= 1/2 { -1/(t-1)^2 + 1/(t+1)^2 } dt
D=1/2 ∫ _∞ ^√(a/(a-1)) {t/(t+1)^2 -t/(t-1)^2} dt,
=1/2 ∫ {(t+1)/(t+1)^2 - (t-1)/(t-1)^2 - 1/(t+1)^2 - 1/(t-1)^2 } dt,
=1/2 ∫ {1/(t+1) - 1/(t-1) - 1/(t+1)^2 - 1/(t-1)^2 } dt,
=1/2 [ log((t+1)/(t-1)) + 1/(t+1) + 1/(t-1)]_∞ ^√(a/(a-1))
=1/2 log((√a +√(a-1))/(√a - √(a-1))) + √(a(a-1))
= log(√a +√(a-1)) + √(a(a-1))

a= 2 とすると、D= log(√2+1)+√2


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ゴム膜は、どのような力学でその面を作っているのだろうか、どういう条件のもとでその曲面をつくっているのだろうか。 r をゴム膜上の中心の 質点からの半径とする。

最初に平面から、質点の位置で下に押し下げる場合、ゴム膜を同心円状のゴムひもと放射状の半径を作るゴムひものメッシュを考え、同心円の ゴムひもの円周方向の張力は、中心からの半径だけにより、C(r)とする。放射状の半径方向のゴムひもは、中心に近いほど強い張力と延びがあるだろう。 半径方向の張力を T(r) とする。ゴムは線形の仮定をして延びと張力とは比例し、もとの平面のとき張力を 0 とする。 円周方向の張力は、その位置のもとの平面上の半径 r0 と現在の半径 r から円周方向のばね定数を k1 として C(r)= k1(r/r0 - 1)、 半径方向の張力は、そのばね定数を k2 として T(r)= k2 d(r - r0)/dr 。

この曲面を横から眺めたときの曲線を p(r)とし、円周方向の張力の中心に向かう成分と、半径方向の張力の中心から外に向かう成分がつり合う。 これで横からの曲線、そして全体の曲面を求めることができるだろう。

T(r)の水平成分 T(r)cosθ のrによる微分 d(T(r)cosθ)/dr と C(r) の中心方向の成分が等しいことから、..... 垂直方向は、d(T(r)sinθ)/dr = 0


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考え直して、ゴム膜上の変形した碁盤の目は、局所の人のみる座標軸であり、遠方から眺めれば、それがこのように曲っていると考えることは できるのではないだろうか。局所の人の空間上のまっすぐな直線は、このゴム上の曲線のように曲っているから、本当の直線である光の経路は、 局所のひとにとって質点の外側に曲ってみえるのではないか。それなら、理屈に合うかもしれない。しかしこれは、正しいのだろうか。

ボールを上に投げ上げて落ちて来る抛物線は、測地線という時空上の一種の直線であり、それが空間的には曲っている。質点が重力以外に力を 受けないとき辿る経路である測地線は、光速までの範囲の速さが 3 方向にある。ボールの速度が遅いとき測地線は曲り、速度の大きい弾丸は、 真直に近く飛ぶ。質点は、光速に達することができないが、光ですら質点の側で曲る。空間が内側に曲っているから、測地線が外に曲る。 それら全ての現象がこのゴム膜の上の曲線に表れているのだろうか。この文章の冒頭で説明した二つのことは、誤りだったのだろうか、と考える。

そうではないようだ。(1)については、ゴム膜上の曲線が、測地線でないことは、確かである。この線を曲っているとみるのは、遠方の平坦な 時空から眺めた空間の図であり、碁盤の目のメッシュ、網目がどのようになっていても、その局所の空間では、勿論、重力は存在するが、 碁盤目の曲りや密度を知ることはできない。それは、ただ局所のみる空間であって、測地線ではない。測地線は、系によらず客観的であるが、 測地線は、一般に曲線である。ゴム膜上の曲線は、測地線ではなく、局所のみる空間と思えばよいだけではないか。

では、(2)が、間違っていたのか。これも間違いとは思えない。局所の人が 1 m と思う物差しがこのメッシュの間隔であるならば、 メッシュはやはり詰まっていなければならない、ところがこのゴム膜のメッシュは、質点の側で延びている。そうすると、 "局所の人がみる空間と思えばよいのだ" という考えが正しくないと考えられる。それは、曲りの方向を反映しているかもしれないが、 少なくとも間隔を反映していない。2 つの特性は相反している。

この項の考え直しは、無駄だったのか。最初からゴム膜の曲線を測地線にとる人などいない、という批判は、間違いである。最初に挙げた本は、 明らかにそう扱って苦労している。