space of special relativity (Yasuo Katayama)

特殊相対論の宇宙

片山泰男(Yasuo Katayama)

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目次

特殊相対論の宇宙
 1. 時間と空間の混合
 2. 系が対等でないときの相対性
 3. 始まりのある宇宙の相対性
 4. 閉じた宇宙での双子のパラドックス
 5. 閉じた宇宙では特殊相対論は成立しない
 6. 絶対時間:始まりからの時間、絶対静止系:共動座標系

時間と空間を一体化した特殊相対論は、時間の有限は空間の有限を意味した。これに対して出てきた膨張宇宙概念は、慣性系の対等を 崩壊させ、背景輻射の絶対静止空間を再現させ、そして宇宙原理を大転換させた。宇宙の始めの時計合わせは、相対速度をもった系の 間の時間経過の相対性を無効化した。もはや、宇宙的規模において、特殊相対論は、事実としてエーテル論に敗退したのだろうか。


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特殊相対論の宇宙

1. 時間と空間の混合

ニュートン力学から時間と空間の概念の根本的な変更を迫った特殊相対論は、どのような宇宙観を持っていたのだろうか。 1905 年の特殊相対論は、1920 年代の宇宙膨張を知る前であったから、その宇宙観は、基本的に無限の過去から無限の未来 まで存在する静的宇宙であっただろう。現代の膨張宇宙観がそれに対して、どういう影響を与えたかについて考える。

ニュートン力学では、時間と空間はそれぞれ別個のものであり、空間は全てのものを入れ、時間は全ての事象を均一に記述する パラメタであった。場所によっても系によっても事象の時刻と時間経過に違いはなかった。時間と空間とは系によって違うもの ではなかった。時空は物質から隔絶し、影響を受けない絶対的なものであった。 しかし、全ての慣性系は、ガリレイ変換において対等であった。

宇宙には、一様(特定の場所はない)、等方(特定の方向はない)、定常(宇宙は永遠に続き、現在は特別ではない)であることが 求められた。時間的、空間的な無限には、夜空の暗さについてのオルバースのパラドックスが昔から疑問を提示していた。 力と加速度の関係を決める慣性の質量が、他の質量に遠隔的に及ぼし受ける重力を考え、それが天体間の力学を与えたが、 無限に広がる空間に質量が一様に分布して存在する宇宙は、力学的に安定ではなく、それを永遠に同じ状態に保ち、定常性を満たす ことは難しい。恐らく濃度によって全体として収縮か発散をし、また、部分的に収縮し他の部分が発散をすると考えられる。

一様な物質密度は、距離の2乗に反比例するニュートン重力にとって、光のオルバースのパラドックスと同様な困難を持っていた。 重力は、何によっても遮ることができないならば、それ以上の問題になる。さらに、重力よりも基本的と考えられる重力ポテンシャルは 距離に反比例するからより容易に無限大になり、より強いパラドックスを与える。しかし、それらの問題を考えても、一様、等方、定常 の宇宙は、強く要求された原理なり、前堤だっただろう。

特殊相対論によって時間と空間とは、物質と関係のない別々の絶対的なものではなく、慣性系によって違うものとなった。ある慣性系 がみる空間は、別の慣性系では時間と空間が混合する。光速に近いロケットに乗れば、乗員の時間の経過は小さくても遠方に行くことができ、 極端に言えば、宇宙の果てまでも人の一生もかからずに行ける。速度を持った系の同時刻(=空間)は、別の系からみるとその系の前方が 未来に傾斜している。そのため、加速時に前方の到着の直前の時刻と同時刻になるから、機内からみれば、機内の時計より外部時計が 経過しないという逆の相対性が満たされる。150 億年後の宇宙の果ては、高速なロケットの座標系では現在であり、同時刻の空間である。


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2. 系が対等でないときの相対性

そのような時空一体の特殊相対論の宇宙では、空間的な果てが、時間的な果てになる。もし、150億光年先で空間が途切れるなら、150億年 後に時間も終わるだろう。そしてもし、150 億年前に時間が始まるなら、150 億光年後方の空間も途切れるだろう。現代の膨張宇宙の果て の150億光年という距離は、空間的な有限を意味するものではなく、時間の始まりが空間的な果てを生み出している。空間は時間的限界より も十分広いために、宇宙の始まりはいつまでも見えるという前堤でありながら、時間的な始まりが見える空間を制限している。

高速な慣性系の時計は経過しないので、150 億年を人の一生にも満たないで通過するロケットが存在でき、その系では時間は、宇宙が始ま ってから数十年しか経っていないし、150 億年後かもしれない宇宙の終末がそのロケットには数十年後に訪れることになる。ロケットは、 地上よりも時間が経過しない。そして、その逆がない(**)。

宇宙の始まりの存在は、それに対する速度の計測できる絶対静止座標系の存在を保証してしまった。それは背景輻射に対して静止した系である。 この系は、宇宙の場所に依って各点に存在する。それが実際に確認されている。 COBE衛星、WMAP人工惑星の背景輻射に対する太陽系の速度は 実際に存在し、背景輻射の変動量は、地球の速度の成分が最も大きく、その成分を除去して初めて10^-5 の範囲にはいる。エーテルの風は、 こうして再発見されたかものかも知れない。しかし、エーテルの再確認よりも重大なことは、絶対静止系が実質的に再認識されたことではないだろうか。

時間経過について、全ての物体、物質が宇宙の始まりを同時に経験したなら、速度の違う物体が再会時に、物体の年齢に多義性は許されない。 ある系では多くの時間が経過し、他の系ではあまり時間が経過していない。ただそれだけである。特殊相対論にいう逆がない。端的に言えば、 特殊相対論の慣性系の対等は、宇宙膨張説によって、すでに思想的に根底的に崩されてしまったのである。絶対的な静止座標系とそれに対する 速度、そして絶対的な時間が宇宙を支配している。相対性の観念は、人間の平等に対応するように系の対等性によって当然のごとく保証されると 思っていたのに、ローレンツ短縮を受け、時間経過の緩慢さを受けるのは、動く一方だけということだったのか、ということである。これこそ、 特殊相対論から遡ってエーテルの風によってローレンツ・フィッツジェラルド短縮を受けるということの意味である。時代はこうも変わった(*)。

(*) 特殊相対論は、無限小の領域に限定され、宇宙規模に近い領域では、物質の存在によって、計量が平坦なミンコフスキー空間から違うために 異なる結果になるが、光速に比較できるほどの大きな速度をもったロケットの双子のパラドックス、ローレンツ変換など、特殊相対論の全結論は 一般相対論の下でも否定されない。特殊相対論ほど確かな物理的な認識は存在しない。特殊相対論が否定した、空間に速さの概念を与えるため、 光エーテル概念は、模型的な使用以外には誤りを招く概念と警戒すべきである。では、一般相対論によって空間的に平坦な宇宙を仮定するとき、 遠距離にも特殊相対論は適用可能だろうかという問いがありえる。

(**) 逆があると、宇宙の始まりの時刻が確定しないだろう。我々の地球からみて、静止系がある大きな速度をもっていたなら、その静止系では 時間があまり経過しなかったであろうと地球からはみる。静止系からは、地球の時間があまり経過しなかったとみる、そういう事態が存在しない。 そういう状況を現実的に考えることができない。ふたつの互いに速度をもった慣性系が互いに相手の時間経過を遅いとみることは、特殊相対論の 主要なパラドックスのひとつであるが、このパラドックスを理解した人には、その醍醐味とそれのもつ思想的基盤を膨張宇宙によって失ったこと に気が付くだろう。これの理由として、我々の銀河、太陽系、そして地球の速度が光速と比べ、事実として"大きくない"とすることであろう。 こうして、宇宙の始まりを受け入れると、ニュートン力学でも、特殊相対論でも、対等であった慣性系どうしが、事実上対等でない。 何か基準の空間を基準にした時間を想定してしまう。少なくとも静止系がその他の系から区別できる。兄と弟の系が再会すれば分かるであろうように、 絶対静止系は最も時間経過が速い系である。このことは、膨張宇宙による相対論以前の「絶対静止系」の再現といえる。系が静止か判別できることと、 実際にローレンツ変換が対称でないこととは違うが、ローレンツ変換が上に立つ特殊相対論の前堤のひとつである対等な慣性系が崩されている。 これによって特殊相対論がなくなる訳ではないが、もし先に、膨張宇宙説があれば、その下に特殊相対論は生まれなかっただろうというべきほど、 思想的基盤が崩れてしまっている。

そして宇宙膨張は特殊相対論よりも、古典的エーテル論との相性がよい。一般相対論の計量場をエーテルの1種類のように扱うことができる。 局所慣性系に対して速度をもつ光は、媒体であるエーテルに速度をもつ光と区別できない。「物体の速度には光速制限があるが、局所慣性系の速度 には制限はない」という物理の理解は、物質の存在する系ではなく、空想の系の速度と計量を扱っている。「そこに物質が存在するなら、その系は 速度制限を受ける」と考えるのでなく、「局所慣性系の計量場に乗る物質は、もはや、特殊相対論の制限を受けない」と考えるのである。 これは、一般相対論とはかなり基本的に違った、実証されていない物理を仮定している。その場にはきっと速度があって、それに抵抗する物体は、 ローレンツフィッツジェラルド短縮をするのであろう。それはエーテルといったほうがよいだろう。


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3. 始まりのある宇宙の相対性

見える空間的限界は、弯曲した地球上のある高さで眺められる限界である地平線、水平線と同じく、どこにも見られるが実体がないものである。 宇宙原理の空間一様性をみとめ、地平線の先の時空間もここと同等であることを受け入れるなら、その先に宇宙の周期性、超球による有限性が あるかもしれないし、宇宙が臨界密度以下なら無限に開放して存在するかもしれない。(あのゴム風船の膨張の比喩では、最初から空間の有限が 明確であるようであるが、それはそうではなく、密度に依存するのである。)

宇宙の空間的曲率が負である、密度 0 から空間曲率が 0 になる臨界密度までの低い密度では、最初から無限の宇宙が膨張してもおかしくない。 (いや、宇宙の 1点から膨張という観念はそれに反するのでは。背景輻射がいつまでも見られることはどう理解するのか。) 密度が臨界密度より 高ければ、ある時に膨張は止り収縮に転じる。その場合、有限の空間的サイズに対応して有限の時間が存在する。それは、質量による空間曲率が ないと宇宙が閉じられないからである。それ以前の特殊相対論の宇宙は、質量から重力へ、すなわち時空への影響を考慮しない理論であったから、 宇宙は当然ながら平坦であり開放系と考えたと想像できる。フリードマンの膨張宇宙で時間に依存する宇宙のサイズ G は臨界密度を超えるとき サイクロイド曲線を描いて膨張し収縮する。ちょうど臨界質量の平坦宇宙では 時間 t の 2/3 乗の関数となる。それは、直線的膨張ではなく、 多少の減速膨張の曲線である。この減速膨張が宇宙論で永く蓋然性をもつとして採用されてきたものである。

しかし、宇宙の地平線とされるものは空間の弯曲のために発生した地平線ではなく、膨張がもたらす時間的過去の限界であり、宇宙の始まりが 見えることによる限界である。ゴム風船のサイズが現在の 1/1000 程度のとき、プラズマから原子を形成する "宇宙の晴れ上がり時期" の最初の 光がゴム風船が膨らんで、もう一度各点に帰還していると考えている。宇宙膨張を認めるホーキングの数学的説明の全くない本にも、この洋梨型 の光の帰還が美しいカラーで描かれ、これが宇宙膨張説の基本的思考であることを示していた。この共変エーテル、一般エーテルという美しい 名前は、一般相対論の計量が速度をもち、それが光の媒体となるという考えであり、光エーテル理論の一種である。遠方の光速を 1 - (距離に比例 する媒体速度)とする方法では、計量 g_ik を使う意味がない。しかし、それ以外に問題として、光が戻る方法がそれ以外にはないことである。

計量場g_ikでの光経路は、時空のなかで曲がってこちら側に戻って来ることはなく、帰還しないと考えられる。膨張宇宙論では、全く光エーテル論 のように、光は空間で反射して戻ってくる。これは、物理的に正しくないが、ある意味ではこれは正しい。重力によって光は空間のなかを曲がるから、 時空のなかを曲がって、光が直線を保って反射することも不可能でない。ではそのとき、光の速度はその場所の真空のなかで一定の速度だったものが 0超えてマイナスに変わるのだろうか。そこまでいえば、それは許されないと気が付く人が多いと思う。いや、私は何か間違っているのかもしれない。 特殊相対論の宇宙は、明らかにミンコフスキー空間であり、光は直進する。一般相対論の場合、通常、光は曲がる。そして背景輻射では光が戻る。 それは明らかに違うが、膨張宇宙は、ミンコフスキー空間で g_44 =-1 だから光が直進するという、パウリの相対論の注釈は、もはや訂正の余地がない ほどである。


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4. 閉じた宇宙での双子のパラドックス

特殊相対論は、重力を扱わない。その後の一般相対論から見れば、重力のない一様な時空のなかで局所的な系の間に通用するものとされた。 それによって、特殊相対論は、宇宙論的視点を失った。時空の力学は、無限で一様なミンコフスキー時空が定常に続くとすることができないし、 光速が一定という特殊相対論は、適用範囲を宇宙にまで広げることはできない。物差しの大きさと時計の経過(それゆえ、光速)とが場所と時間 によって異なる一般相対論が特殊相対論を包含することによって、特殊相対論的な宇宙観が無効化されたのである。

特殊相対論の時空の一体化によって、時間だけ有限で空間的は無限とか、空間的に有限で時間的に無限というのは、存在しなくなった。 特殊相対論の時空、特殊相対論の成立する宇宙は、ユークリッド幾何学のように、時間的にも空間的にも開いた宇宙を前堤としている。 ミンコフスキー時空は、局所の平坦さを指定するだけでなく、その位相幾何学的な構造を指定をしているのである。

アインシュタインの定常宇宙のように、時間方向には定常であるが、空間的には閉じたシリンドリカル(円筒)宇宙では、慣性系が引返す ことなく再会するので、双子のパラドックスが再燃し困難を生み出す。そのため、そのような時空構造には、絶対静止系が存在するという ことになり(光を前後方に出して同時に受けるのが静止系である。)、特殊相対論の前堤のひとつを覆えす。物理法則は、どの慣性系も対等 を根拠に特殊相対論が成立したのに、大局的には成立せず絶対静止系が存在するというのは、整合した考えとは思えない。絶対静止系の 存在だけで局所の特殊相対論が否定されるわけではないが、特殊相対論の前堤であった座標系の間の対等性なしに特殊相対論を成立させる ことはできない。それは、ローレンツ変換をどのように導いたかを思い返せばよい。慣性系の対等を利用したのである。

そのように前堤を否定する結論を得た場合に採るべき方法は、結論の否定である。それを支えてきた前提を取り去ればよいということではない。 慣性系の対等という前堤を変化させることは、この上もなく重大な結果を招く。"そのような宇宙では、絶対静止系以外は時間の経過が遅く、 ローレンツ短縮しているが、絶対静止系だけが時間経過が正しく、物差しも正しい" という結論を受け入れることができるだろうか。なぜなら、 それでは、局所的にも特殊相対論を成立できず、特殊相対論を抛擲するからである。閉じた空間とそれを導いた一般相対論は、特殊相対論を 転覆させるのだろうか、という疑問である。

双子のパラドックスの兄と弟が、ロケットで出発した兄の引返しなしに再会するとき、弟は兄より老けているだろうか。老けているなら、 兄は移動系で弟は静止系である。移動系は時間経過が遅い。しかしこれは、もはや慣性系が対等でないことになり、相対論の前提を壊し、 そして、老けていないなら、時間は運動によらないことになり、これも相対論以前の時間の絶対性を復活させる。対称性のあるときは後者 と推定できる。そして、静止系が区別できる条件では、前者の結果になると推定できる。そして、いずれもが破壊的な結論を導くのである。


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5. 閉じた宇宙では特殊相対論は成立しない

同様に、普通、重力によって軌道運動する局所慣性系間では近似的に特殊相対論が成立すると考えるが、同じ軌道を逆向きに回る人工衛星 どうしで特殊相対論が適用できるとすると矛盾が出て来る。局所慣性系間で相手の時計が緩慢になることを認めて、局所慣性系が一巡して めぐり会うとき、相手の時計が遅れていると互いに主張することはできない。物理は、同じ場所での出来事が系によって意見が異なること を許さないからである。局所の事象に多義性はない。(両者が出会って、兄は弟の時間経過が少ない、弟は兄の時間経過が少ないという、 お互いに相手が若くみえることは物理に許されない。)

2つの人工衛星の系は、慣性系ではなく、重力のある中の局所慣性系である。ふたつが対等であるという対称性から両者に時間経過の差がなく、 特殊相対論の双子のパラドックスの時間差がないことが明らかである。相対速度があっても特殊相対論は成立しない場合があると理解すべき だろうか。しかしその説明は明確でない。対称性を使って否定してもそれ以上の説明に進めないからである。

それは、重力と潮汐力のある時空であるから特殊相対論は成立しない、と説明すべきことだろうか。そうでもないようである。それは、 どこまでも平坦に近い場合でも同じ結論になるからである。その極限である円筒宇宙の場合、特殊相対論が成立する宇宙だろうかと考える。 そしてそこにそれが成立しないと認めるなら、その成立しない原因は、宇宙の閉構造と考えることができる。

局所慣性系どうしが離れたとき、それはもう局所のできごとではないから成立しないのだろうか。重力のある時空は、もはや一般相対論でしか 扱えないものであり、特殊の範囲ではないからなのか。一般の局所に成り立つ法則は離れたところに成立しない可能性はある。しかし、 それは円筒宇宙では違う。円筒宇宙ならどこでも平坦なミンコフスキー時空であり特殊相対論が成り立たなければならない。

"特殊相対論の時空は、重力がないことが前提であったと同様に、開いた時空構造が前堤にあった。閉じた時空では、特殊相対論は成立しない。" というのは、ひとつの解答であろう。空間の曲率を論ずることのできない理論には空間的に閉じた宇宙は、存在しない。しかし、適用できない と逃げて矛盾を避けることは、十分に正しいのだろうか。逆にそれなら、そのような閉じた平坦な時空に適用されるのは、どういう理論かと疑う。 それは、古典的エーテル理論に戻ることを必要とされているのだろうか。依って立つのは一般相対論であるなら、一般相対論は、局所慣性系間 には特殊相対論が成立するとするならこの考えも十分疑わしい。しかしさらにいえば、一般相対論が、局所慣性系間には特殊相対論が成立する ということにも、疑いを持つべきかもしれない。それは一般相対論が保証しないのに勝手に期待したことかもしれない。


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6. 絶対時間:始まりからの時間、絶対静止系:共動座標系

現代の宇宙観は、全ての物体が最初に時刻合わせをした時計をもっているようなもので、よく調べれば、その履歴を明らかにできると 考えているのである。特殊相対論ではそうではなかった。どの慣性系も、時間経過は他の物体に決して基準にできるものではなかった。 我々は、双子の兄のように宇宙を翔けていて時間が止まっているかもしれず、双子の弟のように留まっていたため時間を沢山経験して いるかもしれない。時刻合わせをしていない慣性系同士は、まだ時間経過自体が不確定で、どちらも相手の時間経過が遅いと主張する。 そして、どちらが多くの時間を経たかは、再会するまでにどちらが加減速をしたかだけによっていた。系の間には完全に平等な関係が あった。速度に速度を足してもそれがまだ基準系になり得た。宇宙に始まりがなければである。それは「絶対時間」の復活のようである。

そしていま、流行遅れの「局所慣性系」の代わりにさらに昔の、これを否定するために特殊相対論が苦労をした、「絶対静止空間」が もつ共通の始まりからの時刻を伴ってそれによって我々は縛られている。その時刻が本当にあったのかを疑うものはいない。「宇宙の 始まる前」をいわず、「本当に始まりはあったのか」ではなく、「なぜ宇宙が始まったか」という無意味な言葉が疑いもなく放送される。 この「なぜ」の答えは、より深い原因を指すだろうか。又は、科学の芽のない、答えのない神学かもしれない。生命が偶然の確率では決して できない、地球環境は銀河系を探してもない、宇宙に人類はユニークかもしれない、なぜこれほど宇宙は平坦なのか、なぜ地平線の向うにも 同じ風景が拡がっているのか、なぜこれほど人類は孤独なのか、これらの問いは人間中心主義と紙一重であり、すぐにそれに陥る思想の 病的状態である。現象は必ずそれを説明する理論を求めるが、もちろん問い自体は解でない。問いは答えと離れすぎて、解が多数存在するか、 解がないか判然としない。もしかしてこれは、正反対の答えが対等に主張できる問題かもしれない。また、一部はユダヤ的選民思想、残りは 創造への讃美のようだ。宇宙論は宗教との戦いに敗れ、その奴隷となったのか。

軽薄なのは、科学の計算依存である。計算で何が安心なのだろう。確かなことを求めるのに計算が役に立つだろうか。さらに可視化という プレゼン技術に頼る。λ-CDMシミュレーションで 1億の銀河の動きを「ニュートン力学で」重力計算をしてできる大規模構造形成の画像を 人に見せる学者に問いたい。なぜ共動系がニュートン力学なのか。計量変化はないのか。共動系の力学は系に対しての距離と速度は、 時間とともに小さくなり、物体は速度に比例する抵抗をもった媒体のなかにあるような動きをする。それはニュートン力学ではない。