目次
1. 時間と空間の混合
2. 系が対等でないときの相対性
3. 始まりのある宇宙の相対性
4. 閉じた宇宙での双子のパラドックス
5. 閉じた宇宙では特殊相対論は成立しない
6. ステンレスのナイフ
7. 銀河型間の移動は、なぜあり得ないのか
8. 絶対時間:始まりからの時間、絶対静止系:共動座標系
ニュートン力学では、時間と空間はそれぞれ別個のものであり、空間は全てのものを入れ、時間は全ての事象を均一に記述する パラメタであった。場所によっても系によっても時間経過に違いはなかった。時間と空間とは系によって違うものではなかった。 物理現象から隔絶していて影響を受けない絶対的なものであった。しかし全ての慣性系は、ガリレイ変換において対等であった。
宇宙には、一様(特定の場所はない)、等方(特定の方向はない)、定常(宇宙は永遠に続き、現在は特別ではない)であることが 求められた。時間的、空間的な無限には、夜空の暗さについてのオルバースのパラドックスが昔から疑問を提示していた。 無限に広がる空間に質量が一様に分布して存在する宇宙は、力学的に安定ではなく、それを永遠に同じ状態に保ち、定常性を 満たすことは難しい。ニュートン重力より基本的であるはずの (距離に反比例する) 重力ポテンシャルは、光のオルバースの パラドックス以上のパラドックスをもつ。ニュートン力学の一様な物質密度は、容易にポテンシャルの無限大をもたらす。 そのような困難があったにしても、一様、等方、定常の宇宙は強く要求されるものであったと思われる。
特殊相対論によって時間と空間とは、別々のものではなく一体のものになった。ある系がみる空間は、別の系では時間と空間が 混合したものである。光速に近いロケットに乗れば、乗員の時間の経過は小さくても遠方に行くことができ、極端に言えば、 宇宙の果てまでも人の一生もかからずに行けるのである。速度を持った系の同時刻(空間)は、別の系からみるとその系の前方が 未来に傾斜している。そのため、加速時に前方の到着の直前の時刻と同時刻になるから、機内の時計より外部時計が経過しない ことも、それによって説明できる。150 億年後の宇宙の果ては、高速なロケットの座標系では現在であり、同時刻の空間である。
高速な系の時間は経過しないので、150 億年を人の一生にも満たないで通過するロケットの系では、時間は、宇宙が始まってから 数十年しか経っていないし、150 億年後かもしれない宇宙の終末がそのロケットでは数十年後に訪れることになる。ロケットは、 地上よりも時間が経過しない。そして、その逆がないのである。宇宙の始まりを受け入れると、ニュートン力学でも、特殊相対論 でも対等であった慣性系は、このように事実上対等でないものになる。
宇宙の始まりの存在は、それに対する速度の計測できる絶対静止座標系の存在を保証してしまった。絶対静止系は、宇宙の場所に 依存するが、各点に存在する。それが実際に確認されている。 COBE衛星、WMAP人工惑星の背景輻射に対する太陽系の速度は実際に存在し、 背景輻射の変動量は、地球の速度の成分が最も大きく、その成分を除去して初めて10^-5 の範囲にはいる。エーテルの風はこうして 再発見されたのか。そうかも知れない。しかし、エーテルを再確認するよりも、重大なことかもしれない絶対静止系が実質的に再認識 されたことと言えるのではないか。
時間経過についても次のことがいえる。全ての物体が宇宙の始まりを同時に経験したなら、速度の違う物体の年齢に多義性は許されない。 ある系では時間が経過し、他の系では時間が経過していない。ただそれだけである。逆はない。端的に言えば、特殊相対論の慣性系の 対等は、宇宙膨張説ではすでに思想的に根底的に崩されてしまったのである。絶対的な静止座標系と速度、そして絶対的な時間が宇宙 を支配するようになった。相対性の観念は、人間の平等に対応するように系の対等性によって当然のごとく保証されていると思ってい たのに、ローレンツ短縮を受け、時間経過の緩慢さを受けるのは、動く一方だけということだったのか、ということである。 これこそ、エーテルの風によってローレンツ・フィッツジェラルド短縮を受けるということの意味である。時代はこうも変わった。
宇宙の空間的曲率が負である密度 0 から空間曲率が 0 になる臨界密度までの低い密度では、最初から無限の宇宙が膨張してもおかしくない。 密度が臨界密度より高ければ、ある時に膨張が収縮に転じる。その場合、有限の空間的サイズと有限の時間が対応する。それは、質量による 空間曲率がないと宇宙は閉じられないからである。それ以前の特殊相対論の宇宙は、質量による重力への、すなわち時空への影響を考慮 しない理論であったから、宇宙は当然ながら平坦であり、開放系と考えたと想像できる。フリードマン宇宙で時間に依存する宇宙のサイズ G は臨界密度を超えるときサイクロイド曲線を描いて膨張、収縮する。ちょうど臨界質量の平坦宇宙では 時間 t の 2/3 乗の関数となる。 それは、直線的膨張ではなく多少の減速膨張である。この減速膨張が宇宙論で永く蓋然性をもって採用されてきた。
しかし、この宇宙の地平線は空間弯曲のために発生した地平線ではなく、膨張がもたらす限界であり、宇宙の始まりが見えるための 限界である。ゴム風船のサイズが現在の 1/1000 程度のとき、プラズマから原子を形成する "宇宙の晴れ上がり時期" の最初の光が、 ゴム風船が膨らんで、もう一度各点に帰還していると考えている。宇宙膨張を認めるホーキングの数学的説明の全くない本にも、この 洋梨型の光の帰還が美しいカラーで描かれ、これが宇宙膨張説の基本的思考方法であることを示している。この共変エーテル、一般 エーテルという美しい名前を持つ考え方は、一般相対論の計量が速度をもち、それを光の媒体とするものであり、光エーテル理論の 一種である。遠方の光速を 1 - (距離に比例する媒体速度)とする方法では、計量 g_ik を使う意味がない。しかし、それ以外に問題 として、光が戻る方法がそれ以外にはないことである。計量と光速の正しい扱いでは光の経路はこちら側に曲らず、帰還しないからである。
特殊相対論の時空の一体化は、時間だけ有限で空間的は無限とか、空間的に有限で時間的に無限というのは、存在しないことになった。 特殊相対論の時空、特殊相対論の成立する宇宙は、ユークリッド幾何学に果てがないように、時間的にも空間的にも開いた宇宙を前堤と している。特殊相対論のミンコフスキー時空は、局所の平坦さだけを指定し、その位相幾何学的な構造を指定をしないというわけではない。
アインシュタインの定常宇宙のように、時間方向には定常であるが、空間的には閉じたシリンドリカル(円筒)宇宙では、慣性系が引返す ことなく再会するので、双子のパラドックスが再燃し困難を生み出す。そのため、そのような時空構造には、絶対静止系が存在するという ことになり(光を前後方に出して同時に受けるのが静止系)、特殊相対論の前堤のひとつを覆えす。物理法則はどの慣性系も対等であり 特殊相対論が成立するのに、大局的には成立せず絶対静止系が存在するというのは、整合した考えとは思えない。絶対静止系の存在だけで 局所の特殊相対論をも否定されるわけではないが、特殊相対論の前堤であった座標系の間の対等性なしに特殊相対論を成立させることは できない。それは、ローレンツ変換をどのように導いたかを思い返せばよい。そのように前堤を否定する結論を得た場合に採るべき方法は、 結論を否定することである。それを支えてきた前提を取り去ればよいということではない。慣性系の対等という前堤を変化させることは、 この上もなく重大な結果を招く。"そのような宇宙では、絶対静止系以外は時間の経過が遅く、ローレンツ短縮しているが、絶対静止系だけ が時間経過が正しく、物差しも正しい" という結論を受け入れる訳にはいかない。なぜなら、それでは、局所的にも特殊相対論を成立させる ことができず、特殊相対論を抛擲することになるからである。閉じた空間とそれを導いた一般相対論は、特殊相対論を抛擲するのだろうか、 という疑問である。
2 つの人工衛星の系は、慣性系ではなく、重力のある中の局所慣性系である。ふたつが対等であるという対称性から両者に時間経過の差がなく、 特殊相対論の双子のパラドックスの時間差がないことが明らかである。相対速度があっても特殊相対論は成立しない場合があると理解すべきか。 しかしその説明は明確でない。対称性を使って否定してもそれ以上の説明に進めないからである。
それは、重力と潮汐力のある時空であるから、特殊相対論が成立しないと説明すべきことだろうか。そうではないようである。それは、どこまでも 平坦に近い場合でも同じ結論になるからである。その極限である円筒宇宙の場合に、これは特殊相対論が成立する宇宙だろうかと考える。そして そこにそれが成立しないと認めるなら、その成立しない原因は、宇宙の閉構造と考えることができる。
局所慣性系どうしが離れたとき、それはもう局所のできごとではないから成立しないのだろうか。重力のある時空は、もはや一般相対論でしか 扱えないものであり、特殊の範囲ではないからなのか。一般の局所に成り立つ法則は離れたところには成立しない可能性はある。しかし、 それは円筒宇宙では違う。円筒宇宙ならどこでも平坦なミンコフスキー時空であり特殊相対論が成り立たなければならないのではないだろうか。
"特殊相対論の時空は、重力がないことが前提であったと同様に、開いた時空構造が前堤にあった。閉じた時空では、特殊相対論は成立しない。" というのは、ひとつの解答であろう。空間の曲率を論ずることのできない理論には空間的に閉じた宇宙は、存在しないからである。しかし、 適用できないと逃げて矛盾を避けることは、十分に正しいのだろうか。逆にそれなら、そのような閉じた平坦な時空に適用されるのは、どういう 理論かと疑う。それは、古典的エーテル理論なのだろうか。依って立つのは一般相対論であるなら、一般相対論は、局所慣性系間には特殊相対論 が成立するとするならこの考えも十分疑わしい。しかしさらにいえば、一般相対論が、局所慣性系間には特殊相対論が成立するということにも、 疑いを持つべきかもしれない。それは一般相対論が保証しないのに勝手に期待したことかもしれない。
一様とは、どこも特別な場所がないことであり、宇宙に中心を持たせないことである。どこから見ても宇宙は同等にみえるだろう。等方は、特定 の空間的方向を特別にしない。そのため宇宙全体が回転しないことを必要とする。そして時間的にも一様を望むならば、定常または静的な宇宙を 仮定することになる。宇宙膨張説は、この定常性を捨て、ある時点から宇宙が始まったとする考え方であり、それ以前は存在しない境界をもつこ とになる。その考え方では現在の宇宙には宇宙年齢以上の例えば 1000 億年という時間経過を経た物体の存在はひとつも許されない。宇宙年齢 以上の年齢をもつ小さな物体は、それだけで宇宙開闢の反証となるからである。例えば人類以前にムー大陸に過去の人種がいたとするような考え 方を否定するのにその時代の遺物としてのステンレスのナイフひとつも存在しないではないかという。確かに我々は、数億年前のステンレス製の ナイフを持たないだろう。宇宙論においてもそうだろうか。その証拠を持たないことが確実であるかは、十分考えるべきことである。通常我々は、 ステンレス素材であることだけでそれが古いことを疑ってしまう。それは例えば、球状星団ではないだろうか。それは、銀河ではないだろうか。
球状星団は、青い生まれたての散開星団よりもずっと規模が大きく、数100万の恒星が中心近くの恒星密度は大きく、周辺は疎らであるような球状 の分布をした天体である。そのなか大半の恒星は互いにランダムな運動を残しているから、偏平な形態にはなっていないと考えられる。星団全体 としての回転を示す兆候、偏平率がない。球状星団のなかの恒星は大抵、古い赤色巨星である。(マゼラン星雲のなかには、青色、白色の巨星から なる球状星団が見付かっている。)その球状星団での H.R 図は、主系列の左上部にあるはずの青色、白色の恒星はすでに寿命を終え右に移動して、 上部が右に曲り広がった H.R 図をなしている。恒星進化の理論のもたらす球状星団の年齢は、150億年から200億年までとされる。それらは宇宙の 年齢よりも長期の時間を経過した天体であるという、矛盾の証拠を突き付けるナイフであるが、その時間の矛盾は 2 倍ほども大きくはない。
銀河については、我々は銀河の様々な形態を 100 年前から知っているにもかかわらず、その進化の理論を全くと言ってよいほど持っていない。 楕円銀河は、楕円として生まれ、渦巻銀河は、渦巻のまま生まれたと言われる。それらの偏平率の大きな違い(みかけの縦横比である偏平率が楕円 銀河で 0〜7 に分類される。渦巻銀河ではその偏平率は、10 以上にもなる。) は、偏平率を違える時間的進化自体存在しえないとまでされている。 しかし、我々は、一般に質量が重力によって収縮集合していくとき、質量の分布が球状分布からしだいに偏平な分布に変わることを知っている。 例えば、太陽系の惑星の軌道がほとんど全て同じ平面内に存在する。物体どうしがランダムな運動から衝突によって互いの相対速度を失って、 それぞれの速度を平均化していくには、非弾性衝突とか、摩擦のような過程が必要である。その相対速度を無くす過程を通して、球状の分布は、 残された角運動量の保存のために偏平な渦巻型の分布になる。銀河の偏平率を大きく変える物理過程は存在しない、というのは理屈に合わない ことのように思えるだろう。
太陽の半径は 70万km、1pc は、1.5 億kmの20万倍、30兆km, 最も近傍の恒星までの距離 1.3 pc は、39 兆km、その比は、1:4x10^7(4000万) もある。 それを 2 乗して断面積の 1.6 x 10^15 の比率は、銀河系の中の恒星数、2 x 10^11(2000億) より 4 桁も大きい。銀河どうしが 1 万回衝突しても、 恒星は、1 回衝突するかという程度である。銀河は、ほとんど素通りする。銀河を構成する恒星達は、このように互いに極端に離れているために 衝突しない。それらが本当に衝突するとか、恒星半径の数倍のところをニヤミスするかでない限り、それらの間の重力的相互作用では、恒星が 共通の重心の周りを双曲線軌道を描くだけの弾性的衝突であり、互いの相対速度の減少はない。
かりに恒星間距離を 4 光年、恒星の固有運動の平均速度を 100 km/sec とすると、恒星が恒星間距離を行くのに要する時間は、4 光年 x 30万 km/100km = 12000 年である。そのとき、非弾性的衝突をする確率:1/(1.6x10^15) を考えると、非弾性的衝突の平均時間間隔は、12000 x 1.6 x 10^15 年 = 2 x 10^19 年、いま言われる宇宙年齢、1.37 x 10^10 年の 10 億倍大きい。恒星が非弾性衝突を繰り返して、銀河が球形から円盤型 に分布を変更するために、1000 回ぐらいの非弾性衝突をすると 10^22 年、宇宙年齢の 1 兆倍となる。これが多くの人が銀河の形はできたままと 結論する理由である。ガスが形を球から円盤に変えるのには、このような長時間は必要としないと思う。しかしそれは、宇宙膨張説の時間が短か すぎるだけで、銀河の存在自体、そのような短期の宇宙生成を否定していると考えることもできる。
英国の天文学者のジーンズによる銀河間の進化の理論は、楕円銀河と渦巻銀河の中心窩がガスであるという仮定が誤りであり、恒星の集合である ことがわかって覆された。しかし、宇宙膨張の発見者であり、銀河の分類を行ったハッブルは、まだ銀河の系列を進化に関係したものであると 考えていたのである。銀河の様々な形態をそのほとんどまま生まれたままの違いであるということ(不規則銀河 I から逆向きにSc, Sb, Sa という 変化は推測されている。) には、すこしく疑問をもつべきではないだろうか。
楕円銀河は、一般に赤色の恒星で構成されていて巨大である。不規則銀河には、青い恒星でできた不規則銀河とそうでない不規則銀河がある。 宇宙が一回きりの膨張でできたなら、青い恒星をもつ不規則銀河から、通常の渦巻銀河の渦状枝まで変化したとする方向の方が正しそうに思える かもしれないが、そういう青から赤への変化だけでは、多様な銀河の形態を説明することはできないであろう。 渦巻型(S)に比べて SB型は どうしてバーをもつのか。円盤からバーをもつことの解析は、バー安定性の話としてあるが、巨大な楕円銀河は、全く別なのだろうか。どうして 銀河変化の第 1 印象である逆向きの変化(楕円から渦巻の方向)を基本とできないのか。重力収縮ではないか。そのような疑問が解決されない。
そしていま、流行遅れの「局所慣性系」の代わりにさらに昔の、これを否定するために特殊相対論が苦労をした、「絶対静止空間」が もつ共通の始まりからの時刻を伴ってそれによって我々は縛られている。その時刻が本当にあったのかを疑うものはいない。「宇宙の 始まる前」をいわず、「本当に始まりはあったのか」ではなく、「なぜ宇宙が始まったか」という無意味な言葉が放送される。この「 なぜ」の答えは、より深い原因を指すだろうか。又は、科学の芽のない、答えのない神学かもしれない。生命が偶然の確率では決して できない、地球環境は銀河系を探してもない、宇宙に人類はユニークかもしれない、なぜこれほど宇宙は平坦なのか、なぜ地平線の向 うにも同じ風景が拡がっているのか、なぜこれほど人類は孤独なのか、これらの問いは人間中心主義に陥る、思想の病的状態である。 現象は必ずそれを説明する理論を求めるが、もちろん問い自体は解でない。問いは答えと離れすぎて、解が多数存在するか、解がない か判然としない。もしかしてこれは、正反対の答えが対等に主張できる問題かもしれない。また、一部はユダヤ的選民思想、残りは創 造への讃美のようだ。宇宙論は宗教との戦いに敗れ、その奴隷となったのか。
軽薄なのは、科学の計算依存である。計算で何が安心なのだろう。確かなことを求めるのに計算が役に立つだろうか。さらに可視化と いうプレゼン技術に頼る。λ-CDMシミュレーションで 1億の銀河の動きを「ニュートン力学で」重力計算をしてできる大規模構造形成 の画像を人に見せる学者に問いたい。なぜ共動系がニュートン力学なのか。計量変化は考えないのか。共動系の力学は系に対しての距 離と速度は、時間とともに小さくなり、物体は速度に比例する抵抗をもった媒体のなかにあるような動きをする。これはニュートン力 学ではない。