中海埋立問題


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埋立と干拓


 島根県の中海埋立とそれに伴う宍道湖淡水化の事業は1988年に凍結された後、今年になって島根県から農林水産省に対して埋立事業の再開要請が出されました。 農林水産省は早速この案件を検討するとしています。

 中海の埋立は通常“中海の干拓”と表現されます。 埋立は小さな溝から海まで対象域の広狭に拘らず、土砂によって水湿地を陸地に変えることで、埋立後の陸地がどのようなものになるかということよりも、水湿地を消滅させることに力点が置かれています。

 一方、干拓というのは湖や海のような広い水湿地を埋立と排水によって人間の利用できる陸地に変えることで、特に“水湿地を干し上げて農地を拓く”ことに力点が置かれた表現です。 
干拓という表現は人間にとって有用な土地を作り出すというニュアンスを持っているために政治的に好んで使われます。 しかし本稿では中海の埋立と表現することにして干拓という言葉は使用しません。 その理由は中海の埋立地が社会が必要とする欠くべからざる条件として、中海の生物相を犠牲にしてまでも作り出さなければならないような土地であるとは考えられないからです。


埋立の目的

農地の創出

 公表されている情報をもとにして中海埋立の目的を考えてみましょう。 埋立の所轄官庁が農林水産省であることから分かるように、埋立の表面的な目的は農地の創出です。
 昭和33年から昭和41年まで8年間に渡って続けられた秋田県八郎潟の干拓事業は、戦後の食糧不足を経験した日本が主としてコメの供給能力を高める目的で行なわれたものでした。
 ここで注意しておかなければならないことは、八郎潟の農地化によって日本の食糧自給率が上がったとは必ずしも言えないということです。 意図的に混乱して使われている言葉に“食糧自給率”、“穀物自給率”、“コメの自給率”があり、これらはそれぞれ全く異なった内容であるにも拘らず、実際には殆ど同じ意味であるかのように使われています。 コメの自給率の向上は食糧自給率の向上に貢献するとは言えません。 麦畑を水田に変えた場合コメの自給率は向上しますが麦の自給率は低下します。 穀物自給率は向上するか低下するか、あるいは変化しないかもしれません。 食糧自給率はコメとムギの収量の比較ですから、低下することもあり得ます。

 八郎潟は汽水湖として日本最大の面積を誇り、最深部においても3メ−トルといわれる非常に浅い湖でした。 湖の水深が浅いということは、生物が豊富に生息していることを推測させます。 海草や水草を含めて植物や植物プランクトンは光合成を行なうための日光が必要で、このため水の深い所ではこうした生物は育ちません。 また湖の全水量の割に接気面積(水が大気と接する面積)が大きくなりますから、空気中から多くの酸素供給を受けることができ、水中の溶存酸素量を十分に確保することができます。 実際に八郎潟にはヤマトシジミを始めとする多くの生物が生息し、豊富な魚貝類に支えられた非常に漁業の盛んな地域でした。

 食糧自給率というのは食糧の種類に拘りなく、それをエネルギ−換算(カロリ−換算)した場合の自給率のことです。 八郎潟は豊富な漁業資源を持っていましたから食糧としての魚貝類の供給能力は非常に高かったことが想像できます。 しかし干拓が話題になった当時は現在のような交通の利便性や生鮮食糧品の輸送技術が無かったために、その食糧資源を関東や関西の大消費地に結びつけることはできませんでした。

 これに対してコメは長期間保存することができますから、輸送に関する時間的な問題は考慮する必要がなく、備蓄食糧として保管することもできます。 この保存性という性質は食糧が経済品目として成立するための最も重要な性質であり、農林水産省が漁獲量よりもコメの生産に執着する大きな理由でもあります。
 長期間保存のできない食糧はどんなにたくさん生産しても富として蓄積することはできません。 江戸時代から盛んになった各地の池沼の干拓も、その理由は実質的なコメ本位経済の中で、為政者が富としてのコメを求めた結果に他なりません。
 食糧としてのコメを特別に重視する傾向は、コメが富としての意味を持たなくなった現在においてもそのまま受け継がれており、合理的な理由の無いまま半ば盲目的にコメの生産や水田の開発・維持を善とする考え方が残っています。
 八郎潟の干拓によってコメの生産は増えましたが、同時に八郎潟が持っていた豊かな生物相と魚貝類の食糧資源は失われてしまいました。 この失われた食糧資源がどの程度のものであったか今となっては定かではありませんが、それをカロリ−換算した場合、生産されるコメのカロリ−換算値に比較して大きく劣っていたとは考えられません。 従って八郎潟の干拓事業が日本の食糧自給率の向上に貢献したとは必ずしも言えないのです。
 ただし、これを穀物自給率ないしコメ自給率と言い換えれば、自給率は確かに向上したと言えます。 しかし同時に水産物の自給率は大幅に低下したことになるでしょう。
このことは中海の埋立にもそのまま当てはまることですから農地の創出とその効果を論じるならば、同時に失われる生物相と食糧資源についての予想を論じなければなりません。

平地の創出

 埋立の表面的な理由が農地の創出と宣言される場合でも、実際には平地の創出そのものが実質的な埋立目的になっている場合があります。
 現在埋立が行なわれている長崎県諌早湾(いさはやわん)のケ−スでは農地の創出と共に湾岸工業地帯建設の構想があり、こちらに重点が置かれた開発計画が進められています。
 中海の場合には1400ヘクタ−ルといわれる広さの水湿地が建前上農地として埋立てられる予定ですが、島根県側の思惑は農地としてよりもむしろ商工業のような農業以外の産業用地として埋立地を利用することにあると言われています。 しかし農業以外の産業政策として予算を付けられるような具体的な計画は何も存在しないために、とりあえず農地使用を目的として埋立を行なって、とにかく広大な面積の平地を確保しておこうとする考え方が本当のところでしょう。

土地資産の創出

 埋立によって現出する土地は、それがどのような形で利用されるかに拘らず、現時点で所有権の存在しない新しい土地です。
 この新しい土地には当然のことながら土地資産としての経済的価値が生じ、その所有権は中海の場合なら農林水産省か島根県のどちらかのものになり、あるいは双方で分け合うことになります。
 埋立に要した費用は広く国民から徴収した税金ですから、言うなれば国民負担です。 これは県側が費用を負担する場合でも変わりありません。 島根県の財源の多くの部分が国税として国家に収められた税金からの分配金である地方交付税に頼っているからです。 しかしその結果得られた土地資産は農林水産省か島根県の所有物となります。 分かりやすく言えば他人の金で自己の資産を増加させることができるわけであり、埋立当事者にとっては一方的な儲け話になります。
 この土地が最終的に民間に払い下げられるにしても、土地がただで払い下げられることはありませんからこうした事実に変わりありません。


埋立の負の側面

大根島の地下淡水の消滅

 中海の埋立はその目的とは別に意図せざるマイナスの効果も指摘されています。 現在予想されるマイナスの側面が同時に埋立に反対する人々の理論的根拠であり、その一つが大根島の地下淡水の消滅の可能性です。
 中海には大根島という周囲6キロ、人口4100人の島があります。 この島は玄武岩質の空洞の多い地下構造を持ち、そこに豊富な淡水の地下水を持っていると言われています。 この島が周囲の埋立によって陸地と繋がった場合、塩水の浸透によって淡水の地下水が消滅すると予想され、大根島の農業に壊滅的な打撃を与える可能性が高いと言われています。

中海の漁業の衰退

 中海のかなりの面積が陸地化して水湿域が消滅しますから、当然のことながら漁場が失われ漁業は衰退します。 また既に一部干拓堤防を建設した場所ではヘドロの堆積とそれに伴う水質の悪化が生じていると言われています。

宍道湖の淡水化に伴う水質悪化と漁業への打撃

 宍道湖(しんじこ)は大橋川を通じて中海に続いており、中海は美保湾を経て日本海につながっています。 中海が陸地化すれば斐伊川(ひいがわ)を水源とする宍道湖は海との接続を絶たれて次第に淡水化することが予想されます。 
 宍道湖の淡水化は宍道湖の生物相に大きな影響を与え、汽水を好む全ての生物を死滅させることになります。 このことは宍道湖の漁業資源の消滅を意味しますから、宍道湖の漁業は壊滅的な打撃を受けることになるでしょう。
 また締切堤防や河口堰の建設で淡水湖や淡水河口となった岡山県の児島湾や愛知・三重県境の長良川では水質の悪化(COD値の上昇と溶存酸素量の減少)が生じており、こうした前例から宍道湖の淡水化においても水質の悪化とそれに伴う漁業への打撃が予想されています。


埋立事由の検討

論点の整理

 中海埋立に関する目的とその影響について論点を整理しておきます。
 まず中海埋立の目的は次の3点です。

  1. 農地の開発
  2. 平地の獲得
  3. 土地資産の獲得

また埋立に反対する側の理由は次の3点です。

  1. 大根島地下水の消滅
  2. 中海の漁業の衰退
  3. 宍道湖の淡水化に伴う水質悪化と漁業への打撃


 次にそれぞれの論点についてその妥当性を検討してみることにしょう。

農地の開発

 中海埋立の目的は建前上は農地の開発です。
 農地以外の埋立目的はたとえば関西国際空港の建設のための埋立のように、社会的に必要とされる明確な埋立目的を持たなければなりませんが、中海の埋立にはこうした明確な目的はありません。 従って農地の開発という理由以外には埋立の目的を設定することができません。
 それでは唯一埋立理由として成立する農地の開発ということが、埋立を正当化する妥当な根拠になり得るのでしょうか。
 現在の日本では農地が余っており、今年度も全国で減反が実施され新潟県の一部のように減反面積が地域の水田の4分の1近くに及ぶ所さえあります。(新潟県上越市で減反率23.5%) 島根県だけでも減反面積は9200ヘクタ−ルに及び、埋立によって1400ヘクタ−ルの新たな農地を開発する必要は全くありません。 このことは埋立によってできる農地を水田以外に利用する場合でも全く同じことで、減反によって余剰となった農地を利用すればいいわけですから中海を埋立てる必要はありません。 農地の開発は常識的に考える限り中海埋立の適切な根拠になり得ないのです。

平地の獲得及び土地資産の獲得

 中海埋立に関する島根県側のもう一つの目的は、農地以外の産業用平地の獲得ということです。 しかし現在の日本の社会状況から考えれば、消費税の税率アップが話題になり財政赤字削減が早急の課題として論じられる中で、国民の税金を使ってまで島根県に産業用平地を供給したり土地資産を与えてやる必要があるでしょうか。 仮に島根県に対してこうした産業用平地が与えられたとしても、彼らがその土地を有効利用できるという保証は全く存在せず、有効な産業を起こすことができないという島根県の過去の実績に照らして考えれば、埋立による経済効果はその投資額に比較して非常に小さなものに止まるでしょう。 例えて言えば住専に金を貸すようなもので、貸した金は戻ってこないということです。
 産業用平地及び土地資産の創出には社会的必要性が無く、埋立を正当化する理由にはなりません。

大根島地下水の消滅

 次に中海埋立の負の側面とされる事項について検討してみることにします。
 中海の埋立が大根島の地下水に与える影響については、現場で実地研究を行なっている地質学者の見解を信頼する他ありません。 彼らの見解を信頼するとすれば、埋立によって地下水が消滅する方向へ変化することは概ね間違いないでしょう。 問題はそうした地下水の変化が地域住民の生活にどのような影響を及ぼすのかということです。 地域農業にはかなりの悪影響がでることが予想されますが、こうした影響に対する判断には、それぞれの人の立場から相当の恣意的要素が入ってくる可能性があります。 被害を受ける人はその被害を過大評価するかもしれませんし、埋立者側は被害を過小評価するでしょう。 このような場合には中立的な第三者を中に立ててその客観的判断を仰ぐことが適切です。 同様に被害の具体的内容が予想の域を出ない現在の段階でも、中立的な第三者による研究報告を信頼すべきでしょう。

中海の漁業の衰退

 中海の漁場の消滅と漁業の衰退は、いわば埋立に伴う当然の犠牲と考えられているようです。 漁業関係者もその関心事の第一は自らに対する金銭的補償であり、漁場の喪失ではないように見えます。
 日本では第一次産業における農業と漁業については、常に農業が水産業より優位に置かれていました。 これは弥生時代以来コメを経済的基盤と見做す社会が江戸時代まで続き、その精神的残滓(ざんし)が現在まで受け継がれている結果と言えます。 農本主義という言葉はあっても漁本主義という言葉はありません。 ここでコメを経済的基盤と見做すということは、実体経済においてコメが経済的基盤になっているということではありません。 それはコメが経済的価値の基準あるいは富の象徴になっているという意味で、経済学的な表現を使えば貨幣の機能を有しているということです。 例えば金(きん)は現在においても経済的価値の基準と見做すことができ、また富の象徴と見做すことができます。 しかしその場合でも実体経済における経済力の基礎は、様々な種類の財貨と技術を含めた生産力であり、金(きん)そのものではありません。

 前述した八郎潟の干拓では名目上も実質的にも食糧の増産が目的でしたが、食糧資源としての漁業資源については全く省みられることなく漁場は消滅しました。
 当時は農林省と水産庁が別々の官庁であったため、この両官庁の間でそれぞれの立場からの意見の対立があったと想像されます。 しかし農林省が“省”であり水産庁が“庁”であることから分かるようにその力関係は歴然としており、水産庁が漁場を確保することはできなかったのです。
 それでも水産庁が独立して存在していた当時は、漁業を重視する立場からの独自の見解が存在しました。 しかし農林省の干拓を主体にした農地の開発は、常に漁業関係者との摩擦を生み、水産庁との対立を生む結果になりました。 こうしたことが一因となって水産庁は農林省に吸収される形で統合され、現在の農林水産省になったのです。
 水産庁の消滅は日本の沿岸漁業にとって致命的打撃となり、もはや干拓事業において漁業を重視する立場の行政当局は存在しなくなり、干拓行政は農林水産省の思惑のままに進められることになりました。
 中海埋立においても農林水産省側に漁場の消滅を問題にする見解は存在せず、漁業の問題は単なる漁民の生活補償の問題にすり変わっています。

宍道湖の淡水化と水質悪化及び漁場への打撃

 宍道湖の淡水化と水質悪化による漁場の衰退という問題も、農林水産省及び島根県側の漁業の軽視という姿勢から見れば、反対理由としての説得力は持ちません。 行政当局は最悪の場合漁業は潰しても構わないという腹積りだと考えられるからです。
 行政当局から見れば漁業というのは魅力のない産業です。 農業ならばコメを作ることも作らないことも自由に指図できますが、漁業の場合アジを獲れサバを獲るなとは言えません。 つまり漁業は行政当局が口を挟む余地が少ない産業であり、その影響力を行使して自分たちの存在意義を主張しにくい産業なのです。 行政当局が便宜を図ることによってアジがたくさん獲れたという話は聞きません。

 農林水産省や島根県側の見解によれば、宍道湖や中海残存部の水質は漁業に影響が出るほど悪化しないとしています。
 しかし実際にこの地域の水質の調査をしている人の意見によれば、水質の悪化と漁業への打撃はほぼ確実であり、島根県側は埋立を行なうための方便として、水質の悪化について故意に過小評価しているとしています。
 宍道湖淡水化に伴う水質悪化の根拠として挙げられるのが過去の実例で、特に岡山県児島湾の実態が比較の対象になります。 児島湾は昭和34年に干拓と締切堤防によって淡水化され、児島湖として姿を変えました。 その後児島湖の水質は急激に悪化して漁業は壊滅しています。
 埋立に反対する側は更にこの児島湖の水質浄化のために著しいコストがかけられていることも問題にしています。 仮に埋立の実施によって宍道湖の水質が悪化した場合には、水質浄化のために莫大な費用が必要になることを反対理由として挙げているわけです。
 しかしこうした問題は行政当局側も認識しているはずであり、それは行政当局が水質の悪化を故意に過小評価していることからも明らかです。 政治的な都合による将来の予想が客観的な分析による将来の予想と大きく異なるのは当然であり、実現する事態が政治的な予想と全く違うことを承知しているからこそ、故意の過小評価ができるのです。 つまり、農林水産省や島根県側は漁業の壊滅を覚悟した上で、どんなに無責任な理由を並べ立てても、とにかく埋立を実行しようとしているということです。
 ここで“無責任”と表現しているのは、仮に埋立の結果行政当局の予想に反して宍道湖の水質悪化と漁業の壊滅が生じた場合でも、行政当局は自らの予想が間違いであったことに対して責任を取る用意はしていないだろうという意味です。
 責任を取るというのは行政の上で事前の予想と大きく異なった悪い結果が生じた場合、万人が納得できるような後始末を行なうということです。 過去において行政当局がこうした行動を取った例はありません。


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利害の対立

 中海埋立問題の内容は、つまるところ現在の漁業の継続を取るか、漁業の消滅と引き換えに農業及び商工業のための土地資産を確保するかという選択の問題です。
 この問題を外から見ると、それぞれの関係者が自らの利益を確保するために都合のいい言葉を並べているように見えます。

抜け落ちた自然保護の視点

 中海の埋立は中海の漁業が消滅するという以前にそこに生息する様々な生物を死滅させます。 また宍道湖の淡水化は水質の悪化を待つまでもなく、シラウオやヤマトシジミなどの汽水域の生物を死滅させるでしょう。
 こうして変化した生物相は埋立以前の生物相に比較して極めて貧弱なものになるだけでなく、数多くの絶滅種が出てくることも予想されます。
 しかし埋立者側である農林水産省や島根県はこうした自然破壊について全く触れておらず、また埋立に反対する側にも生物相の貧化という自然破壊を問題にする論評はありません。 生物相の貧化に関する問題は、漁業資源の消滅として漁業関係者の経済的利益の喪失という形でしか論議されていません。
 中海埋立問題に関しては、埋立に賛成する側も反対する側も共に人間の利益を離れて自然(人間以外の野生生物)の価値を認めていないように見えます。
 自然の価値を認めなければ、埋立による自然破壊は問題になりませんから埋立者側はそれに言及する必要がありません。 また反対する側も自然の価値を認めていなければ、自然破壊が埋立に反対する理由として成立するとは考えませんから、それが反対理由として主張されることはありません。
 “守るべきは人間の利益のみ”という点においては、中海埋立について対立している両者にあって共通の価値観であると言えます。

守られるべき生物

 自然そのものに価値があり、地球上の生物は全て地球世界の主(あるじ)であるとすれば、人間の如何なる事業についてもこうした生物群ができる限り守られるように配慮されなければなりません。
 物言わぬ中海の生物に代わって代弁すれば、自分たちの住み処を奪い、生命を奪ってまでも中海を埋立てる必要性が現在の人間の社会状況の中にあるのかどうか問いたださなければなりません。
 食糧不足がまだ記憶に鮮明であった昭和30年代ならば、将来のコメの供給能力向上のために、八郎潟を埋立てることに社会的意義が認められたかもしれません。 また羽田空港の拡張や関西国際空港建設のための埋立に関しては、たとえそれが大きな自然破壊を伴うものだとしても社会的要請からやむを得ないとされるでしょう。
 しかしながら実際には八郎潟を含めて戦後の全ての干拓事業は日本社会に欠くべからざる行政事業ではありませんでした。 近年継続されている大幅な減反政策を考えれば分かる通り、農地を開くための全ての干拓事業は社会的に不要だったと言えます。
 しかし社会的に不要であることは、やってはいけないということには繋がりません。 そこに大きな不都合が生じない限り別に構わないではないかと言えるからです。 現実には全ての干拓事業が大きな自然破壊を伴い、その場所に有史以前から住み続けていた生物群は完全に無視されて干拓事業の犠牲になりました。 現在埋立が進んでいる長崎県の諌早湾でも、多くの干潟の生物が犠牲になろうとしています。 自然の生物に僅かでも価値を認めるならば、こうした犠牲は上記の不都合に該当するでしょう。 そして自然の生物を大事にする立場からは、この犠牲は大きな不都合に他なりません。
 私たちは世界的に見ても十分豊かになりました。 より一層の豊かさを求めて努力を続けるのは構いませんが、もはやそのために自然の生物群を犠牲にすべきではありません。


中海埋立の社会的背景

埋立の背後にあるもの

 客観的に判断した場合、中海埋立による農地開発は全く不必要であり、商工業用地を新たに作るべき社会的必要性もありません。 一方埋立による犠牲は漁業の壊滅的打撃や大根島地下水の減少が懸念される他、圧倒的な自然破壊が予想されます。
 それにも拘らず農林水産省や島根県が強硬に埋立を実施しようとするのは何故なのか、改めて考えてみなければなりません。

ゴ−イング・コンサ−ン

 会社が活動する場合、その目的は経済学では利潤の追求とされます。 しかし会社の活動目的を訊ねられてこのように応える会社はありません。 多くの会社は社会的ニ−ズに対する財・サ−ビスの提供と応えるはずです。
 つまり製造業であれば、自動車の提供、電気製品の提供、衣服の提供、化粧品の提供、ノ−トや鉛筆の提供と応えるでしょうし、銀行であれば預金や貸付金の金融サ−ビスの提供と応えるでしょう。
 それではそうした財やサ−ビスが社会的に不要になった場合、会社は速やかに活動を停止するのでしょうか。 そうはしないでしょう。 それどころか会社は自らの生き残りをかけて模索を続けるはずです。 繊維製品が売れなくなれば化粧品やチョコレ−トを作り始めることもありますし、自立が不能ということになれば外国の会社に身売りして外国資本の下で会社を存続させることもあるわけです。
 会社のこうした行動を考えれば、会社活動の他の目的が見えてきます。 それは従業員に給料を払って彼らの生活を支えるという目的です。 そのために会社はおいそれと活動を停止するわけにはいかないのです。
 このことは従業員の側から見れば、彼らが自らの生活を支えるための手段として会社を利用しているということになります。
 これが、会社がその活動内容の如何に拘らず常に存続して活動を続けようとする唯一最大の理由であり、このような構成者の利益のために自らの存続傾向を示す組織のことをゴ−イング・コンサ−ンと呼びます。

ゴ−イング・コンサ−ンとしての行政組織

 ゴ−イング・コンサ−ンという組織の傾向は、殆ど全ての社会的組織において見ることができます。 病院や学校でさえも、組織の存続のためには患者や生徒の獲得に努力を払わなければなりません。
 行政組織や公的事業団体も例外ではありません。 こうした組織もゴ−イング・コンサ−ンとして組織の構成者の利益のために存在し続ける傾向があり、むしろ倒産を避けるために合理的な利潤追求行動を要求される一般私企業よりもこうした傾向が強いとさえ言えます。 行政組織の改革(スリム化)や公的事業団体の統廃合が一向に進まないことは、構成者の利益のために存続するというゴ−イング・コンサ−ンとしての組織の性質をよく示している証拠だといえます。 そしてこの結果、建設省、林野庁、道路公団などが不必要なダムの建設や森林伐採、道路建設等を行ない、夥しい自然破壊の元凶になっていることは周知の事実です。

 独立採算を要求される一部の組織を除いて、行政組織の大部分はその仕事の内容が予算の配分という形で決められます。 従って仕事の遂行は予算の執行という形で表れます。 島根県が中海の埋立を行なう場合、実際に現場で作業を行なうのは島根県の職員ではありません。 それは埋立事業を受注した土木建設会社であり、島根県の仕事は彼らに金を払うことだけです。

 行政組織は構成者の利益のために存在し続けるというゴ−イング・コンサ−ンとしての性格を強く持つために、その存在意義を常にアピ−ルし続けなければならないという宿命を負っています。 そのため常に予算を請求できる案件を模索し続けなければならず、また実際に予算を獲得し、それを執行し続けなければならないのです。 その案件が社会的必要性を持っているか否かは全く関係ありません。 ただしその案件が社会的必要性を持っているという建前を取り繕うことは非常に大事なことで、いわゆる官僚的つじつま合わせの能力が必要とされる所以でもあります。
 こうしたことから行政組織間の予算配分は極めて厳格に決められており、毎年の予算配分の割合には0.1パ−セントの数字変更も容易でないと言われています。 これは見方を変えれば、個々の行政案件は全て行政側の都合によって決められており、社会的必要性とは無関係に予算が配分されている証であるといえるでしょう。
 中海埋立の件もこうした案件の一つに過ぎません。 農林水産省にとっては、干拓事業は児島湾、八郎潟以来の予算執行案件として伝統的なもので、現在の諌早湾埋立の次の案件として中海埋立が俎上に上ったわけです。 将来中海が埋立てられた後も長崎県の大村湾や有明海の一部が埋立の対象とされることが予想され、このことは農林水産省が既に社会に必要な行政組織としての機能を失い、自然破壊をものともせず、自らの職員とその関係者の生活を支えるための組織に過ぎないことを表しています。

ネポティズム

 ネポティズムは通常“縁故主義”と訳されます。
 日本では働く国民の8人に1人が何らかの形で土木建設関係の仕事をしていると言われています。 サ−ビス産業の多くが大都会に集中していること考えれば、地方ではこの割合は更に高くなるでしょう。
 土木建設関係の仕事の多くが道路や橋の建設などの公共事業に係わるもので、これらの事業は行政当局だけが提示できる需要独占の事業に当たります。 この需要独占に対抗し得る供給者側の戦略が、いわゆる談合と呼ばれる事実上の供給独占(カルテル)の形成であることはよく知られています。 つまり公共事業の需要独占に対抗する取引方法としては、建前は別として現実的には談合以外あり得ないということです。
 公共事業の需要独占は行政当局に土木建設市場における非常に大きな影響力を持たせることになり、公共事業に関係した行政職員はお中元やお歳暮、キックバックやリベ−トといった様々な合法・非合法の利益を受ける機会を得ることができます。 特に地方にあっては土木建設関係の仕事は殆ど全てが行政当局によって提供されていると言ってもいいくらいですから、こうした傾向は非常に強いものと考えられます。
 しかしその一方、行政当局と土木建設業者の密接な関係は、行政当局側にこうした業者に対してその仕事を保証し続けなければならないという縁故的義務を負わせることになり、常に一定レベルの公共事業を提供し続けることが要求されることになります。 ここに行政当局と土木建設業者の癒着が生まれ、行政当局が常に近親の事業者とのみ取引を行なう傾向が生じます。 これがネポティズムです。
 こうした地方行政当局のネポティズムが非常に明瞭な形で顕在化したのが阪神淡路大震災の後です。 地震で全半壊した建築物の撤去作業に全国から解体業者が神戸に集まりましたが、彼らは神戸市から全く仕事をもらうことができず、神戸市は専ら地元の解体業者にのみ仕事を発注しました。 第一に優遇されたのが神戸市内の事業者で、その次が兵庫県内の事業者でした。 しかもその発注額(解体業者に支払われた対価)は一件につき一般市場相場の3倍といわれる高額なものでした。 この解体業者に支払われた対価の財源は国税からの支援が殆どで全国からの義援金も含まれていたと言われています。
 驚くべきは市が壊滅しても、またあれ程の大災害後の特殊な事情であっても地方行政当局と地元土木建設業界とのネポティズムは微動だにしなかったという事実です。

中海埋立事業は島根県が地元の土木建設業者に大きな仕事(つまり利益を得る機会)を与えることのできる絶好の案件であり、これが島根県が水質に関するあらゆるデ−タを操作してまでも埋立を進めようとしている大きな理由に他なりません。
 尚、中海の埋立によって、仮に宍道湖の水質が悪化してその浄化のために莫大な費用が必要となった場合、行政当局は何か困った事態になるのでしょうか。 この事態は困るよりむしろ望むところと言えます。 水質の浄化というのは行政当局にとって反対者のいない極めて心地よい予算案件になるからです。 同時に地元の土木建設業者に対して新たな仕事を提供することができ、ネポティズムの中で彼らに対する親方としての立場を守ることができます。 そのために財政赤字が生じたとしても役所は倒産しませんし、職員がリストラの対象として解雇されることもありません。
 従って水質が悪化した場合の浄化のための莫大な費用の可能性ということは、行政当局の隠された目標として当初から確信されていることであり、埋立に反対する実質的な理由にはなり得ないのです。

財政政策としての埋立事業

 埋立事業には財政政策の具体的内容としての性格があります。 財政政策を立案するのは経済企画庁及び大蔵省ですが、通常の場合政策担当者は個々の案件については門外漢としてその内容を深く検討するようなことはしません。
 現在の日本の経済状況(長期の不況と大幅な貿易収支の黒字)の中で政策当局が関心を持つのは次の2点です。

  1. 財政支出による景気浮揚効果
  2. 貿易黒字削減のための国内需要としての公共事業

 イギリスの経済学者ケインズによれば、社会の総生産は社会の総需要によって決定され、社会の需要が増大すれば経済は成長し、需要が落ち込めば経済が停滞するとされます。 これが有効需要の原理と言われるもので、ここから国内の供給能力に比較して需要が少な過ぎると考えられる場合には、その足りない需要を公共事業によって補なうという考え方が生まれます。 また公共事業の対価として民間に放出された貨幣は、民間の購買力を向上させ、新たな支出を生み出すことによって派生的な消費(需要)を増大させることが期待されます。
 これが財政支出による景気の浮揚効果であり、財政政策の目的とされるものです。 財政政策の内容は民間の需要を増大させる(金を使わせる)効果があればどんなものでもよく、極端な話が政策当局が金の入った壷をどこかに埋めて、それを大勢の人々に捜させることでもいいわけです。(捜索活動で金を使いますから社会全体の需要が増大します。) 実際には財政支出には何らかの大義名分が必要であり、中海の埋立が財政支出の恰好の口実として使われる可能性があります。
 しかしこうしたケインズ理論を根拠にした経済政策は既にロバ−ト・ル−カス(95年ノ−ベル経済学賞受賞、ジョ−ジ・ル−カスとは別人)によって必ずしも有効でないことが証明されています。 財政政策当局が景気浮揚策としての公共事業に固執するのは、民間の反応が政策の内容や期待によって大きく変化することを考慮できないでいるからです。 ル−カスの理論を度外視するとしても、ケインズの理論が現在の日本で有効に作用しない理由があります。 それは“ハ−ベイロ−ドの仮定”と言われるもので、ケインズ流の経済政策が有効なのは経済政策の担当者が社会全体の利益を第一に考え、自己の利益のために行動しているのではないとする仮定を満たした場合に限るというものです。 既述したように経済政策の当事者である行政当局は、まず自己の存続と利益を第一に考えて行動する傾向が強く、この仮定を満たしていません。
 そして公共事業を通じた財政支出が国内需要の拡大にスム−ズに繋がらなければ貿易黒字の削減も期待できません。
 もし財政政策当局が中海の埋立を景気浮揚のための財政支出の一環と考えているならば、それはいたずらに自然破壊に加担するだけに終り、景気刺激策としての目的は達成できないでしょう。
 財政赤字の削減が重要課題として論議されている今日において、景気浮揚効果が定かでないまま確実な自然破壊を伴う公共事業はやるべきではありません。

国民的公共財としての自然

 自然は人間に利用されるためにあるのではなく、人間との関係を離れて自然そのものに価値があります。
 しかし自然が様々な形で人間の利用の対象となり、また自然を利用することによって私たちの生活が成り立っていることも否定できません。 この場合利用される自然は人間にとって広く利用される公共財としての性格を持っていると言えます。

 國破れて山河がありました。 私たちの経済復興はこの山河の上に成し遂げられたのです。 それは私たちの山河が豊富な水と豊かな生物相を持っていたからです。 豊かな水と生物相を持つ山河や海は私たちにとってかけがえのない財産であり、この財産は特定の個人や団体に属するものではなく、国民全体の財産と見做すべきものです。 中海や宍道湖は島根県のものではなく国民全体の公共財であり、形式的な管理権が島根県にあるとしても、それは島根県が自己の利益のために一方的に利用していいことにはなりません。
むしろ国民から預託された国民の財産として破壊から守り抜く責任があるとすら言えます。 少なくとも地方行政当局の一方的な都合によって自らの手で破壊するなどということは論外です。 仮に社会的な都合によって国民の財産である山河を壊し、自然破壊を受容しなければならないと判断されるときには、国民全体の意志を尊重し、その意志を確認した上で事を決定しなければなりません。

民主的意志決定システムの必要

 現在の日本の政治システムは間接民主主義を採用しており、国民から権利を委託された代議員が政治を行なうことになっています。
 民主主義とは一般国民が政治的意志決定に参加できるシステムのことです。 間接民主主義が民主的なシステムとして機能するためには、政治と行政の意志決定の経緯が国民の前に明らかにされていなければなりません。 特に行政の実務担当者は選挙を通じて選ばれたのではないのですから、彼らの意志決定の経緯と実務の実際は常に国民が理解できる形で明示されている必要があります。 行政当局の政策決定のプロセスと実務の実態が公表されていなければ、国民は政策案件について如何なる判断も下せません。
 現実には事務の効率上全ての案件を逐一公表することはできないと思いますが、中海埋立のように国民の財産の破壊を伴う重要な案件については、国民がそれぞれの判断を下せるようにその政策内容について詳しく公表される必要があります。
 具体的には政策立案の経緯、社会的必要性、予想される費用及び経済効果、政策実行を担当する企業名、生態系の変化、予想が反した場合のフォロ−の方法と責任の取り方などです。
 こうした民主的な方法を経た上で国民的了承の下で行なわれる埋立事業ならば、どんなに大きな自然破壊を伴うものでも納得せざるをえないでしょう。 自然保護の立場から人間以外の生物を代弁して保護を訴え続けるにしても、国民が自らの財産を壊すことを承知したならばそれに従わざるを得ないからです。
 現在のように情報を公開しない行政の在り方は決して民主的とは言えません。 形式的な民主主義の制度をもって民主的とは言えないことは過去のドイツのナチス政権の成立や、イラクのフセイン大統領の国民による信任投票の例を見れば理解することができます。
 中海の埋立問題は国民的な議題として広く公表された上で国民が納得できる方法で決定されなければなりません。



この稿おわり


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