はじめに


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dragonfly01.jpg 昔、小川や池がありました。水草の間にタガメが潜み、水面にはお尻を浮かせたゲンゴロウがひょうきんな姿を見せていました。子供がそれを捕まえようと水の中へ入ると、虫たちはたちまち水中深く逃げ込んでしまいました。そのかわり足にヒルがたくさん吸い付いてしまったので、子供はそれを引っ張って取ろうとしましたが、ヒルはゴムのように延びてなかなか離れませんでした。やっとのことで足から離れたヒルは血を吸って満丸くなっていて子供はそれをまた水の中に投げ捨てました。

 子供たちはトンボ釣りも好きでした。妹はお兄さんについて行き、たくさんのギンヤンマを捕まえて喜んで家に持って帰りました。でもお母さんはあまり嬉しそうではありませんでした。『そんなに捕ってきて佃煮にでもするつもりかい。』 女の子はお母さんの言葉を今でもはっきり覚えています。
 川崎大師にほど近い神奈川県川崎市大島町付近での話です。昭和十年頃のことでした。




私たちは貧しい生活をもっと豊かなものにしたいと努力してきました。そして豊かになりました。世界中に自慢できるほどお金持ちになりました。それでもみんな満足していないように見えます。
豊かさを手に入れると快適さを求めるようになりました。生活に必要なものは全て手に入れたのに、さらに便利なもの、楽しいものを求め続けています。キ−ワ−ドは相変わらず経済つまりお金です。お金さえあれば何でも手に入る、豊かさも、快適さも、人の尊敬も、友人も、恋人でさえも …… 。 私たちはこの世の悦楽のためにメフィストフェレス(悪魔)に魂を売ったファウスト博士のように、お金に魂を売ったのでしょうか。

 私たちが豊かさを求めて辿ってきた道、それは決して平坦な道ではありませんでした。公害問題に過労死、石油危機やバブルの崩壊もありました。その節目節目で立ち止まって自分たちの辿っている道に思いを巡らしてみたとき、これでいいのだろうかという小さな疑問が心に浮かぶこともありました。何か大事なものを失っているような気がしたからです。しかし私たちは進路を変えることなく前へ進み、現在の豊かさを手に入れました。今なお私たちは同じ道の上にいて休むことなく前へ進んでいます。でもいつまでたっても幸福は見えてきません。私たちが大事なものを失ったからです。

私たちが失ったもの、それは自然です。それはお金では買えないもの、むしろ私たちがお金を手に入れるために対価として支払ったものです。

タガメ1令幼虫
 私たちの先祖は日本の風土の中に生きて文化を育て歴史を作ってきました。私たちの文化(そしておそらくは世界中の文化)は人間だけの力によってできたのではなく、かの山やかの川、秋の野に咲きたる花、花に啼(な)く鴬(うぐいす)、水に棲む蛙(かわず)たちに支えられながら育まれて今ここにあるのです。
 しかし、自然は人間の文化にとってその糧(かて)であると同時に足枷(あしかせ)でもありました。そのために私たちの先祖は自然からの恵みを充分に享受しながら都合の悪い面はできる限り改変し、そして破壊してきました

 人間は自然の支えなしには生活ができません。人間が生きてゆくためにはどうしても自然を利用しなければなりません。人間が自然を利用することがそのまま自然破壊につながるとは限りませんが、科学技術の進歩によって得た人間の物理的力の増大が、結果的により大きな自然破壊をもたらした事は否めません。 古き川崎の情景は多くの人々の記憶とともに夢の中へ消えていきました。




ある一定の土地に対して手を加え、特に経済的利益を得ようとすることを開発といいます。 一方元の状態を維持しようとすることを保全といいます。何もしないで放っておくことを保全ということもありますが、これは正確には放置と表現します。
 特定の場所の開発は土地の改変を伴うことが多いため、一般的に自然破壊を起こしやすく《開発か保護か》と言われるように開発と破壊が殆ど同義で使われることもあります。これは経済的利益と自然とがトレ−ドオフの関係にあることを示したもので、一方を犠牲にしなければもう片方が得られないということです。あちらを立てればこちらが立たずというわけですが、人間は自然と経済的利益との狭間の中で常に経済的利益を優先してきました。 

 この自然と経済的利益とのトレ−ドオフのメカニズムについて具体的に考えてみることにしましょう。

 郊外に自然の原っぱが残っていて大勢の子供たちが遊び場に利用しています。原っぱは子供たちの輪を広げ、子供同士のコミュニケ−ションの場として大いに役立っています。子供たちの健康と情操と、そして将来の想い出のために原っぱは充分過ぎる程の役割を果たしているのです。しかし原っぱは社会に対して何ら経済的貢献をしていません。

 そこで地主はこの原っぱを有料駐車場に変えました。駐車場は金を生み地主に所得をもたらしました。所得の一部は税金として社会に支払われて社会は少し豊かになりました。それでは駐車場を作ったことは社会にとっていいことだったのでしょうか。子供たちが遊び場を失ったというマイナス要素は、地主と社会が受け取った所得と税金というプラス要素で完全にカバ−されたと言えるのでしょうか。社会にとって原っぱと駐車場のどちらがいいのか実際には分かりません。しかし金銭的価値だけに着目すれば、駐車場の方がいいことは明らかです。私たちが価値の基準として金銭に注目したときから、自然は破壊される運命を辿ることになりました。

 この金銭的価値には大きな特徴があります。それは計測可能であるだけでなく、その価値(利益)を享受する者が特定の個人ないし集団に限られていることです。原っぱをなくすことがどんなに大きな社会的損失を招くとしても、地主が経済的利益を求めたその時、原っぱは消滅することが決まったのです。

 ここでは話を分かり易くするために自然の価値を社会に還元できる形、つまり子供の遊び場としての価値に置き換えて考えています。 自然の価値をこのように限定して考えてみても、個人が経済的価値(利益)を求めることが、必ずしも社会にとってプラスになるとは限らないことが分かります。

 この例が示すもう一つの重要な事実は、社会にとって明らかにマイナスになるという事が、利益を求める個人の行動を何ら制限する要因にならないということです。子供たちが遊び場を失っても地主は痛くも痒くもありません。こうしたことは現在におけるゴルフ場開発やリゾ−ト開発についても普遍的に通じる事柄です。


ルリタテハ
 バ−ナ−ド・マンデヴィルからアダム・スミスに至る経済学の思想は、個人の欲得が結果として社会の繁栄をもたらすと主張してきました。しかし彼らの主張が成立するためには一つの前提が必要になります。 それは《自然そのものには価値がない》という命題です。もし自然に何らかの価値を認めるならば、経済開発による利益は失われた自然の価値との比較の中で考えなければならなくなり、そしてその場合得られた利益が失われた価値よりも常に大きいとは言えないのです。確実に言えることは、特定の個人または団体に限ってみれば、彼らが享受する大きな利益が存在するということ、そして失われた価値は彼らにとってはおそらく無視できる程の小さなものに過ぎないだろうということです。
 これが経済と自然とのトレ−ドオフの関係において、常に経済が優先されてきたメカニズムに他なりません。

 しかしながら、自然の価値をどのように判断するかという社会通念は未だ存在しないばかりか、個人的な偏向が極めて大きいことも事実として認識する必要があります。
 冒頭に述べた川崎の情景は、ヒルを病的に嫌う人にとっては全く価値のないむしろ消し去るべき過去に過ぎないかもしれないのです。
 本稿では人間の先入観や利害関係に歪められた偏見を捨てて、私達が失いつつある自然、特に生物を中心とした自然について客観的な考察を試みてみたいと思います。
 自然を正しく認識することが、私たちと自然とのより良い関係を築くための第一歩になると考えるからです。



この稿おわり

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