(1)「夏の日の幻想」
列車が刻む一定なリズムの心地よい揺れに、眠気を誘われてしばしまどろんだ後、不意に長いトンネルに入って開け放った窓から冷たい空気が流れ込んできて僕は目を覚ました。
一体ここはどこなんだろう?時刻表も見ていないし、路線図も知らない。
ただ、今日中に帰れるようにと、乗った駅から3時間経ったら降りると決めて列車を適当に乗り継いできていた。
腕にした時計をちらりと見る。9時45分。あと15分だ。あと15分経って初めに着いた駅で降りよう。
そう思った瞬間、列車はトンネルを抜けた。視界が白く染まる。
そこには雪を冠した山々ではなく、抜けるような空と海の青が溶け合い、それを抱え込むように左右にすらりと伸びた岬のある入り江があった。
その緑と青のコントラストに目を奪われていると、列車はまたトンネルに入る。この路線はそうして、入り江にある町を縫って走っている。
15分後、僕が降りたのもそんな入り江にある町の一つだった。列車から降りたのは僕一人で、駅は無人。
列車が出て行ってしまうと、急に辺りの音がリアルに聞こえ始めた。
セミの鳴く声、線路を隔ててホームの向こう側にある空き地に生えた背の高い草が風に靡いてさわさわと揺れる音、遠くで時たまやってきては通り過ぎる車の音、かすかな海の音・・・。
四方から流入する音は体の境界線を解きほぐし、この場所と僕とに強い親和力を与えた。
よしっ、いい感じだ。そう感じた。この旅には目的があるわけではない。
期待すること。それは、自分を取り巻いているものと親しくなりたい。面倒な境目を壊したい。それができる場所へ行きたい、ということだった。
しばらく、目を閉じて耳を済ませた後、ゆっくりと辺りを見回すためにまぶたを押し上げていく。
途端に流れ込んでくる強烈な光。昇りつつある日が緑に萌える草の葉に反射しているのだった。
細めた目の先に見えたのは駅の裏手に広がるなだらかな丘だった。木はそれほどなく、低い草が生い茂っている。
見通しの良い丘のその頂上まで見上げていくと、小さく白く日光を照り返すものがある。
「誰かいるんだ・・・」
そう呟くと僕は、ホームから降りて丘へと続く道を歩き始めた。
完璧な風景画のように人気が消し去られていたこの世界に他者という存在が入り込む。
自分で周囲との境目を溶かしたいと願いながらも他人という超えようのない境界線も世界には存在していないと不安になる。
多分、落ち着くということはその両者がちょうどやじろべえのように左右に揺れながらバランスを保っている状態なのかもしれない。
なだらかな勾配の坂はどこまでも真っ直ぐに伸びていて、このまま真っ青な空へと浮かび上がってしまいようだ。萌黄色をした低い雑草とのコントラストが目に鮮やかだ。
そんな色と音に満ちた世界をしばらく時間が経つのも忘れて進む。
体の感覚が拡張していて、遠くのものも近くに感じられ、また内包するものの範囲が広いゆえに近くのものも遠く感じられる。
つまり、自分があるようで自分がない感覚。時の流れもそれに合わせて普段とは速さを変えてゆく。
坂を上りきって道が途切れ、公園のような平地に出たのは、日がかなり高くなった頃だった。
そんな中、視界の隅の方に映ったのはキャンバスと、白のTシャツに使い込まれたジーパンというラフないでたちをした一人の、女性だった。
さっき、駅で見たのは、この人だったらしい。遠目ではっきりとは分からないが、右手に絵筆を持ったまま、空を見上げてぼんやりとしているようだった。
しばらく経っても、その体勢はそのまま。僕がこの場所に現れたことにはまったく気がついていないようだった。
僕にも、向こうに対して干渉する意志はなかったので、そのまま近くのちょっとした木陰に座って、眼下に広がる海を眺めていた。
駅で眺めた海よりも更に一段高い視点から広がる海は意識を青く染め上げていく。
放っておくと、そのまま気持ちだけがかもめのように入り江を旋回しながら岬を回り込んで、次の入り江へ。
そして小さな港に泊まっている小型の漁船が穏やかな波の上でかすかに揺れている。更に入り江から離れて、遠くの沖へ。
体は動いていなくても、本当にそうやって海の上を飛んでいく気持ちの良さ、潮風を体の隅々に浴びる感覚が本当に感じられるのだ。
一通り遊覧飛行を終えて現実に戻っても風は微かに感じる。時折強くなったり、弱くなったり、風向きを変えてみたりしながら。
ある、瞬間。風が一瞬だけ止んだかと思うといきなり突風がこれもまた一瞬だけ吹いた。
その時、斜め後ろから何かが転がるように地面に触れたり、また浮き上がったりしながら僕の下へと近づいてくるのが分かった。
ゆっくりと眼を開けると、麦わら帽子。
―――麦わら帽子?―――
あまりにもメルヘンチックなその帽子に現実がよく飲み込めなかった。健康そうな小麦色をして、しっかりと編み上げられている、縁の大きなそれ。
拾い上げて辺りを見回すと、持ち主の見当はつけるまでもなく分かった。
あの、キャンバスに向かっている女性以外にはありえない。だって、この丘の上には人と呼べる存在は二人しかいないのだから。
彼女は、僕が来た時と同じように絵筆を持ったまま空を見上げていた。
その体勢はまったく変わらず、帽子が飛んだことにも気がついていない様子だった。
僕は、その帽子を持ったまま木陰から、照り付けている太陽の下へと出て数十メートル先にいる女性へと歩み寄った。
「あの、すいません。ちょっといいですか?」
と傍まで行って話しかけた。けれども、それに対する答えはない。
よほど集中しているのだろうか、と邪魔しては悪いなと思いつつ上から覗き込む。
すると、聞こえてきたのは安らかな、本当に気持ち良さそうな寝息だった。
よく見てみるとキャンバスには何も書かれていない。真っ白だ。
もしかすると、この女(ひと)はこの場所に来てキャンバスの前に座ってからまったく絵を描くという作業を行っていないのかもしれない。
そう思うと、何だか愉快だった。この景色と空気が目的を持つことを許さず、義務やしがらみから自由になれる人間を引き寄せているのかもしれない。
仲間だ。そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
その時、笑いが声となったのだろうか。キャンバスの前の女性は少し眩しそうに元気の良いカーブを描いている眉をしかめると、ゆっくりと目を開けた。
目の前に映る景色が、雲ひとつない空だけではないことに気がつくと、彼女はいったん元に戻した眉を再びしかめた。
僕は、誤解をされたのかと思い慌てて弁解の言葉を口にした。
「あっ、別に何かしようとかそういうわけじゃなくて。その、帽子が風で飛んできたから多分あなたのだと思ってここまで持ってきたのですけど」
その言葉を聞くとの彼女は座っていた折りたたみ式の椅子の脇に置いてあった荷物に目をやり、視線を上に転じて僕の手の中に麦わら帽子があるのを見てとると、納得したように笑みを浮かべて立ち上がった。
「どうも親切にありがとう。これ、すごく気に入っていたから、あまり似合わないのだけど。ところで、こんなところにいるってことは地元の人?」
「ううん、僕は東京から。ここへはちょっとふらっと来てみただけなんだ」
「東京?そうなんだ。私もよ」
と、言い簡単な自己紹介をした。
やはり、人がめったに来ることのない場所に集まった同年代の二人ということで、彼女も親近感を覚えたようだった。
彼女は涼原爽(すずはらさやか)と名乗った。
「涼原でも、さやかでもどっちでもいいよ。堅苦しいのはあんまり好きじゃないからね」
そう言って涼やかに微笑んだ彼女は、活発でいながらもシャープではない柔らかな雰囲気を持つ顔立ちをしていた。
「ここにはね、たまに来るんだ。描きたい時やぼーっとしたい時にね。割合としては前が2で後が8くらいだけどね」
「それは海が描けて、気持ちの良い場所だから?」
「半分正解で、半分ハズレ、かな。確かにここは気持ちの良い場所よ。それはもう、ぜーんぶ放り出して頭をからっぽにしてしまうくらいにね。でも、ここに来ても私の描くものは海ではないから」
「じゃ、何を描くの?」
一拍置いて、少し考える仕草を見せてさやかは答えた。
「自分を。・・・ちょっと正確じゃないな。自分を構成している要素、取り巻いているもの、空気、体、ココロ、全部を含んだものをバラして、作り直したもの。ここに来て、海を描くことはもちろんあるけれど、それは正確な意味でいうとここにある存在としての海ではないわ。私は一般的な現実の複写のような風景画は描かないの。確かに、風景画は描くし、海も描くけれど、それは私の目に映る世界の反映としての海。真実ではあるけど、剥き出しの真実ではないのよ」
そう本当に芸術家であるような彼女の言葉で、僕はあることを思い出していた。以前、僕は確かそんな主張の絵を見たことがあったからだ。
夏休み前の日曜日だった。
市立美術館の企画展でアマチュア画家たちが同じ場所で描いた風景画の作品展をやっており、うちの学校からも美術部員が何人に出展しているので、見に行きたい者には招待券を配布すると学校から言われた。
特にすることもなかった僕は何の気なしに暇つぶしのつもりで美術館を訪れたのだった。
展示室に入ると、同じ絵の複製で部屋が埋め尽くされているかのような印象を受けた。
同じ視点から描かれた絵。トーンも、色遣いもそれほどの差はない。
手前には林があり、少し奥には砂浜、その先には海と空、右手にあるのはずんぐりとした灯台。みな一様に明るい絵だった。
近づいて見ると、それぞれの絵には製作者の名前と日付、描いた時のコンディションが記されていた。
ほとんどの人が、晴れの日にスケッチを行っていた。考えてみれば当然なのかもしれない。
絵のことはよく分からないが、雨では多分屋外でスケッチを行うのは難しいのだろう。
そんな中で、隅にそんな場の雰囲気からはかけ離れた、暗いトーンの絵が一枚だけあった。
海は黒く、空は重い灰色だった。木々の葉は重く、今にも散りそう。
ただ、灯台が発する光だけがそれらを突っ切り、絵の右上から左下へと一直線に貫いていた。
描かれたのは5月の日曜日の昼間、天候は晴れ、だった。つまり、この絵は現場のコンディションを正確には反映していない絵ということになる。
おそらく、描き手が感情に任せて描いたものだろう。
けれども、その絵をそれだけで片付けるには説得力がありすぎた
。ただ単に風景に自分のココロを託して描いたものではありえない、何か別の・・・そう、その場所の真実とも言えるような雰囲気がその絵にはあった。
そしてその絵の作者は「SAYAKA」とあった。
その絵と、今目の前にいる少女の姿がシンクロした。彼女の目の前にある、真っ白なキャンバス、彼女はSAYAKAなのだろうか?
「ねぇ、さやかはこの前S市の美術館に作品を出展した?風景画なのだけど?」
疑問をそのまま口にしてみた。さやかは少し考える素振りを見せた後、首を振った。
「ううん、出してないわよ。大体私の絵なんてどんなにいきがってみたところで美術館に飾られるほどのものじゃないしね」
どうやら、SAYAKAとさやか、と名前が同じというだけで僕の勘違いだったらしい。しかし、なぜか僕の心の奥底はすっきりしなかった。
そして気になったのは、この「さやか」はどんな絵を描くのだろうか?ということだった。
「今日は何を描くの?」
僕はそう聞いた。
「もちろん、この場所の風景。ただ、それがそのままでないというだけよ、木崎君・・・堅苦っしいから悠でいい?」
とさやかは微笑みながら答えた。
「その絵は、出来上がったら見せてもらえるの?」
「喜んで。絵を描く理由は人に見てもらうためだからね。どんなに幼稚だと自分で思っても、そこに想いを込めたと思えるなら私は人に見せる。人に見られない絵は、閉じてしまうから。閉じた絵にあるのはただの無意味だけ。もっとも今日はスケッチだけしかできないでしょうけどね。出来上がったら、是非見に来てよ」
「うん、そのときは絶対行くね」
彼女はその後、ようやく風景のスケッチを始めた。僕はそれを覗くでもなく、他に何をするわけでもなく、柔らかな草を背にして空を見上げていた。
碧い、青い、蒼い?・・・空。青と黒、青と白。ゆっくりと混ざってゆく。
白と黒が一つに溶け合ったとき、僕の心は舞い上がり、現(うつつ)の意識はフェードアウトしていった。
空は暗かった。体に吹いてくる風は生ぬるく、肌にまとわりついては絶え間なく後から後から僅かずつ吹かれて仕方なく離れてゆく。
強烈な草と、土の、匂い。雨が・・・近い。
僕は、林にいた。普段でもそう明るくはないだろう、林間は更に暗さを増している。
辺りからは濃厚な闇が迫り始めていた。どろり、と一度囚われたら二度とそこから出られない。
原始的な恐怖を感じる。この場、から、逃げ、たい。
僕は、この林から抜け出ようと、必死になって歩き始めた。
ふと、思う。ここは、どこ?どうしてこんなところに?
思い出せなかった。確か、僕は、良く晴れた午後の丘で、爽と・・・爽?さやか?SAYAKA?
とにかく今はここを抜けることを考えるのが先決だ。
けれど、どうやって?どこにいるかも分からないのに、そもそも林に入った覚えがないのに。
そうして、15分ほども歩いただろうか。正確なところは分からない。ただ、1時間も歩いたとは思いたくなかったし、5分しか歩いていないにしては疲れすぎている。
これまで歩いてきた林の中でも一際大きな木に出会った。放射状に伸びる、大きな根に僕はぺたりと座り込んでしまった。
辺りの闇はもう手が届くところまで来ていた。手を伸ばして掴んだものは、黒い闇の塊。
それを自らの下へと手繰り寄せる。掴んだ闇が正に僕の手のひらから放たれようとした瞬間・・・。
一筋の光が闇を雲散霧消させた。ぼんやりとはしているが、確かな光。
『灯台』
という言葉が頭の深層から浮かび上がってきた。灯台の光、なのだあれは。
一瞬でその光は去っていったが、そこには何かしら暖かなものが周囲を包む闇とは異質なものとして残っていた。
ここは海に近い、林。
そう思うと、へたり込んだ足にも俄然力が入る。闇を踏みしめて、そこに確固として地面があることを確認しながら僕はその光の跡をたどった。
そして、次の光が目の前に差し込んだとき、僕の前には一つの人影があった。
「誰かいるの?」
と発した問いに答えはなかった。
「・・・」
一瞬の光が去ったとき、影は闇へと溶け込み、影があったはずの場所に駆けつけた僕の周囲には相も変わらない濃厚な闇、全くの無だけがあった。
錯覚・・・と思ったのも束の間、一周して再び巡ってきた光が、それが錯覚ではないことを証明した。
ちょうど光が真っ直ぐに僕に向かって差し込んだとき、確かに、その影はあったのだ。
それは、ひどく小さな影だった。そう、少女のようなシルエットをしていた。
今度動いたのはその影から。手をゆっくり僕へと伸ばして、僕の右手を掴むと確かにこう囁いた。
「行こう?」
その瞬間、灯台の光は急にその明るさを増し、弾けるように膨張して闇に覆われた世界は、反転し、・・・、痛いほどの白が、・・・僕を・・・包ん・・・だ。
「・・・う、・・・ゆう・・・・悠?悠くーん?」
呼び声が、聞こえる。ゆっくりと目を開いていくと、そこにはなんだか哀しいほどに鮮やかな朱(あか)の世界が広がっていた。
「あ、・・・さやか。おはよう」
SAYAKA・・・?そんな単語が刹那過ぎった寝ぼけた頭で返事をする。
「もう、寝すぎ。あれから何時間経ったと思っているのよ。もう夕方よ、そろそろ帰らないと今日中に帰れないわよ。ここ、電車の本数そんなにないんだから」
などと、ちょっと怒ったようにいいながら。
「えっ、もうそんな時間?」
「すっかり夕暮れ時。もう日没が近いよ。そろそろ6時になるかな」
起き上がって、立ち上がるとそこにあったのは、息を飲むような光景だった。
空の朱と海の蒼が溶け合って生み出す、世界。雲は、その白いキャンバスの上にその混ざり合った複雑な色合いを鏡のように映していた。
世界の全てが一つになっている。この丘も、そしてこの僕も。
境界線が溶けてゆく、求めていた感覚だった。
「すごい・・・ね」
その一言しか出なかった。小さい頃、僕はよく何かあるたびに「すごい」を連発していた。
小学校の先生に国語で書いた作文に「どのようにすごいのかを詳しく書けるとごいのかを詳しく書けるとよいですね」などとよく論評されていた。
とにかく、何かに驚いた時にはすごいというのが口癖だった。
最近では意識して他の言葉を捜していたけれど、この光景の前にはそんな制約など何の役にも立たなかった。
「そう。すごいよね、この景色。私はこの景色があるからここに来るのかもしれない。でも、なんだか見たくないな、と思うときもある。だから、ここに来るのは、たまに、なの」
どうして、と思った。こんな素晴らしい景色なら毎日眺めたって飽きないはずだ。
それに、この景色には、ただ一つとして同じものは存在しないのが分かる。
日により、季節により、微妙に色を変えながら、その日、その日、この世でただ一度きりの夕焼けを生み出すのだ。
この景色を見たくない?、その思いはにわかに理解することができなかった。
「どうして?こんなに素晴らしいのに?」
と問う。
「だから、かな。朱にすべて呑まれていく感じがするのよ、この景色を見ると。私は、溶け合っているというより呑まれている、って感じちゃう。自分も、何も、ね。ここでは、この景色しか見ることを許されない、主観の介在する余地がないから」
「そう・・・かな」
改めて眺める夕焼けは、確かに朱に染まっているようにも見えた。
「帰りましょう・・・」
そう呟いた爽は帰り支度を始めた。彼女の横顔は笑っているようにも、何かに怯えているようにも見えて、ちょっとだけ切なく思えた。
この景色の持つ、意味・・・それは・・・?
to be continued...
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