「お前たちの執念には、敬意を表しておこう。」
 低い囁きが背後から、耳許を辿った。
 青白い月夜の影が、雫を落とすように深き森の闇に降る。
 それは凍えた静けさの中。

 美しい魔性の声が、音を失った夜を支配した。

 気が付いた時には、既に手遅れだった。
 ひやりと、冷たい指先が、背後から首を捉え項をゆるりと這う。
 凍えた吐息。
 目の端を、翻る白銀の衣が掠めた。




「セティさま・・・」
 脳裏に過ぎる、大切な、主の姿が。
 一瞬の間の後に、闇に飲まれ掻き消えて。
 
 後はただ、意識が緩やかに侵食されるように失われていく。
 敗北は、予め定められた予定調和であるのだと。
 どこか覚めた意識が、他人事のようにそれを理解し。
 私は遂に、己の心の内に眠る闇と対峙することになったのだ。















堕ちた十字架 前編









<1>

 森の小枝が、風に揺られ小波のように揺れた。

 胸をざわつかせるのは得体の知れない不安の為か、・・・それとも期待であるのか。
 どちらとも判断がつかぬまま、セティは首許に下げた小さな十字架(クロス)を、確かめるように幾度も指で辿った。
 月明かりを弾く銀の光。合わさる十字の中央に嵌め込まれた碧の宝玉が、高ぶる心を落ち着かせてくれる。
 それは高位の聖職者のみが身に帯びることを許された退魔の証。そして自身を戒める大切な枷。
 深く静かに、この少年の祈りと願いを受け止め続けてきた、心そのものでもあった。

 獲物は確かに、この地に”帰ってきて”いる。
 確信にも似た直感に、気持ちが自然と歩を逸らせた。
 夜闇に浮かぶ真円の月が、霞の中に姿を隠すように、たなびく紫雲に覆われ掻き消える。
 静寂が・・・夢魔の吐息ように夜の森を包み込んでいた。






 彼、セティは有能な聖職者<ハンター>として、若き身でありながら、既に最高の栄誉と賞賛を受けてきた。光の法術を操り、闇を住処とする魔を狩るその手腕をもって。
 事実、人の手では為しうべくもない、圧倒的な理力を駆使するその力の源流は、人のものとは言えなかった。
 聖戦士、と呼ばれる者たちが少なからず身に宿す魔性の血脈と宿業を、彼もまた負っているのだ。

 ダンピレス。

 闇を徊する魔性の一族の中でも、最上位の種族、ヴァンパイアと人の混血児はそのように呼ばれる。
 ダンピレスは類い稀な退魔の能力を持ち、永遠の若き生命、そして人外の美貌を持つと伝説に謳われる稀有な存在だ。
 そして実際に、彼の正体は衆目の知るところであった。その能力が、そして容姿が、彼が”ダンピレス”であること、そしていかなるものの血を継ぐ者であるのかを知らしめていた。

 夜の眷属たるヴァンパイアの中でも、”貴族”と呼ばれる限られた能力者達がいる。
 全てを圧倒する力と支配の魔力をもって、人と魔物たちを屈従させるその恐るべき存在は、常に絶対的な畏怖の対象であった。
 彼らは生ける伝説でもある。

 だが中において、”その者”の存在は異質と呼べるものであった。
 夜の闇に映える、長く艶やかな翡翠の髪に、白銀の長衣。夜闇の中に白き影が走るように見えると言われることから、人々の間では”白の貴族”と呼ばれている。
 その存在が特別とされるのは、長き歴史の中で人と共に在る者として、信仰の対象として語られることもある所以である。
 ・・・彼の者は人の願いを喰らう魔物。
 時に人の祈りに応えてその営みを助け、また時に人の飽くなき欲望に応えて運命の歯車を組み替える。人と共に寄り添い生きる、気まぐれな夜の番人。
 少年の容姿は伝承に語られるその存在と、近しく等しいものであった。

 常ならば、教会の監視下で囚人のように扱われる半人半魔の異能者達も、魔を狩り、聖者としての徳を積むことで”人”として認められる。
 しかし彼の場合、その出自ゆえに、幼き頃より殊更に期待を寄せられ、特別に扱われてきた。
 伝承に語られる存在と同様に、人々の願いを聞き届け、想いを叶えてくれる神聖な存在であるのではないかと。都合良くも身勝手な解釈により聖者と祀り上げられ、ありとあらゆる雑多な人々の”願い”を押し付けられながら、しかし実際に、セティはそれに応えるように振舞ってきた。
「だが、我が父が、本当に人々の味方であると人間達が思っているのなら・・・忠告しておこう。」
 強い意志を瞳に宿し、柔らかな声が紡がれる。
 実際の年齢以上に落ち着いた大人びた態度も、無私に努め人々に奉仕する精神も、全てが確かに彼自身の偽り無き素の姿ではあったのだが。
 静かな炎を灯すその胸の内を、少年は誰にも明かすことがなかった。
「あれは気まぐれで残酷な、夜を徊する魔の一つに過ぎない。」

 舞うように鮮やかに。宵闇に白き影を散らして、魔性の血を継ぐ若き聖者は、夜の眷属達を狩り続ける。
 少年は父たる吸血鬼を討つと、密やかな誓いを立てていた。















<2>


 森はいつの間にか静まり返っていた。
 遠く渓谷に木霊する獣の遠吠えも、茂みに身を潜める小動物の足音も、梢を掠める鳥達の羽音も聞こえない。
 ほんのりと青白く世界を染める月明かりが、美しく幻想的に、夢のように満ちている。

 小高く開けた丘の上に、石の群像が見えた。
 遥か古代より、祭事に使用されてきたのだと一目でわかる、象徴的に配された巨大な石の柱。
 ・・・だがそれは呪われた血の祭事。
 伝承では、満月の夜にこの地で、己が最も大切にする者を贄と捧げることで、”白の貴族”が願いを叶えてくれると言われている。
「馬鹿馬鹿しいことだ。」
 セティは不快感を隠そうともせずに、その秀麗な眉目を顰めた。
 手勢はほとんど無きに等しい状態だ。何故なら”白の貴族”に手を出す事は、教会さえも禁じていることである。
 それでも彼の決意は変わることがなかった。
 執念とも呼べる意思の力で、彼は求める魔物をこの地に追い詰めていた。



「すぐに準備を。あまり時間はないようだ。」
 月明かりに浮かぶ石柱の影へ向かって、声を潜めてセティは呼びかけた。返事は無い。
 光陣の準備に残っていたはずの、唯一人の仲間の姿が見えない。懸念に眉を顰めながらも、警戒を怠らず周囲の様子を伺う。
「ホーク・・・?」
「ここです、セティさま・・・」
 呻くように弱い返事が、すぐ右手脇の一つの石柱の影より返ってきた。
 見ると、苦しげに片膝をつき俯く友の姿が目に入る。
「どうした。」
 歩み寄ろうと数歩ばかり身を進めた所で、セティは反射的に飛び退いた。その瞳が驚きに見開かれ、一瞬凍りついたかのように動きが止まる。
 だが次の瞬間には一切の迷い無く腕が翳され、光呪の詠唱に入る。
 突如の臨戦態勢。
 しかし僅かな怯みを見せた初手の一瞬が勝負を分けた。

 詠唱の中途でセティはそれを取り止め、転がるように回避行動を取った。
 石の祭壇を中心に円を描くように描かれた光陣が淡い光を放ったかと思うと、瞬く間に眩い光の本流となって、白き聖者を飲み込む。
 魔を討つ為に設えられた、光芒の陣。それが今は逆に彼を捕らえる檻のようにその逃げ場を断った。
 夜の眷属達を一瞬にして灰燼に帰す聖なる光の結界。それは同時に、人と魔の血を引く少年にとっては、諸刃の術法でもあった。
「・・・くっ!」
 身を捩るように、纏わりつく光の波を振り切り円陣の外に抜け出でる。
 全身が焼け付くように引き攣り、行き場を失くした魔力が水蒸気に変じて、身を包むように白く立ち昇った。

 だがよろめく足取りを追うように、三錐の光芒がセティを取り囲む。
 はっとしたように上げられた瞳が、己を追い詰める影を認めて戸惑うように細められた。
 圧倒的な光の魔術を操り、無敗を誇る若き退魔士(エクソシスト)を追い詰めたのは、彼が最も信頼していた友であり従者でもあるその男であった。
 透明な籠のように、三錐の光の膜が少年を包み、そして次の瞬間、空間を押し潰すように内に向かって回転しながら収縮する。
 圧縮された聖光が、容赦なくその細身に注がれる。ガラスが砕けるような甲高い爆発音と共に、光が白く世界を覆い、弾け消えた。





 静寂。

 闇を裂く白き聖光が晴れたその後は、再び青い月影の夜が訪れた。
 木々の小枝から飛び立つ蝙蝠の群の甲高い鳴き声と羽音が、遠く、森の彼方で静けさを破り騒がしく踊る。

 とさり、と重みの伴わない静かな音と共に、白き聖者は膝をついた。そのまま力なく地に倒れ伏す。
 半眼に開かれた瞳が、動かぬままの己が身を恨めしげに映す。
 その白き肌には一切の外傷は無い。だが身の内を焼いた聖光は、彼自身の力と存在を形作る源流たる魔力を、直接祓い去っていた。
 かろうじて身体が灰と消えないのは、人の身である半身が光を中和した為である。

「何故・・・」
 動けぬまま、目だけで見上げるその先に、月を背にして男が立っていた。
 短く刈上げられた濃茶色の頭髪。神父が身に纏う黒の法衣に身を包み、しかし目は血のように紅い光を湛えて、静かに少年を見下ろしている。
 夜の眷属に隷従する者の証。
 深い知性を秘めた、物静かで穏やかな琥珀の瞳を持つ友の顔はそこには、ない。
 何者が、彼を貶めたのかは問うまでもない。だが、それは本来なら起こり得ぬはずのことであった。
 誓いを立てた教会の聖者を闇に取り込むことは、いかな貴族の力を持ってしても簡単なことではない。
 そして高潔な心根を持つこの男自身が、容易く闇に堕ちるはずはないことを、誰よりもセティは知っていた。

「これは、予め定められていたこと。」
 狂った紅き光に侵されながら、その声は低く落ち着いている。目を伏せ閉ざしてしまえば、日頃の彼と何ら異なる所がないかように。
「・・・どういう、ことだ・・・」
 重く身を縛る苦しさに表情を歪めながら、僅かな身じろぎと共に少年が言葉を搾り出す。
「・・・っ?」
 問いには答えず、ホークは力なく地に伏す己が主人の身体を抱え上げた。
 月光が差込み、白く浮かび上がる石造りの祭壇の上に、その姿を横たえる。まるで壊れ物を扱うかのように、大切に。
 意図を察したのか、セティは僅か瞳を見開き、瞬かせた。
「まさか・・・」
 一瞬の狼狽の色の後、強い意志を宿した瞳が、覗き込む紅い瞳を睨み据える。
「気を、確かに持て、・・・あれの・・・魔性の囁きに、耳を傾けてはならない!」
「わたしは、十分に、正気ですよ、セティさま・・・」
 覆い被さるように、男の影が身を包む。低く、耳元に吹き込むような囁き声を落とされて、セティの身体がぞくりと震えた。
 身を捩りその場から逃れようともがくものの、両手は軽々と頭上に纏め上げられる。
 首から提げていた十字架が鎖ごともぎ取られると、それを用いて両手首が祭壇の端に設えられていた棒状の石柱へと拘束された。
「ホーク!・・・だめだ、私は・・・」
 必死の相で言葉を紡ぐ、その白き相貌を男は手のひらで捕らえ、薄く掠めるように唇を奪った。
 間近で覗き込む紅き瞳が、狂気のような意思を湛える。その口許が僅か引き上げられ、冷笑を象るのを認めてセティは言葉を飲み込んだ。
 目を伏せ、強く耐えるように唇を噛む。

 昏き狂気を瞳に宿しながら、それでも今だ聖者の光呪を操る男。
 呪わしき魔性の血脈を汲むセティにとって、一度囚われてしまえば、その腕から逃れる事は極めて難事であった。
 














<3>

 月明かりが眩しい程に明るく感じられる。
 浮かび上がる石造りの祭壇に、身を横たえられ照らされて。
 脳裏で高鳴る警鐘と同時に、胸の奥底に僅か生じた甘い期待のような疼きに、一瞬理性が飲まれそうになる。
 己が心から目を逸らすように、瞳を閉じ耐えようとする少年の様子に、男が目を細めた。
「・・・それ程に、貴方は」


 ゆるりと、腕が伸ばされる。
 襟元の留金を外し、その白い首筋を露にすると、緊張を宿して喉元が上下に動いた。整った面立ちが、屈辱に耐えるように強張り、伏せられている。
 そのまま上衣の胸元に手のひらを差し入れ衣を剥ぐと、口を寄せ、しかし触れぬままに肌を辿る。気配を感じるのか、微かに身を竦めるように、晒された肌が震えた。
「・・・・・・」
 トクンと脈打つ鼓動の上で、温もりを確かめるかのように僅か留まり、肩先へ。
 だがやはり、直接触れることはしない。
 闇に飲まれた意識の中で、尚、越えてはならない一線を、残された理性が頑なに守り続けるように。
 そこに在る肌の香を、その感触を、身体の形を、薄い僅かな空気の層一枚隔てて感じ取るように執拗に。しかし触れることはなく、指先が、唇が、透明な若き肌の上を辿った。
「何故・・・、今更・・・こんな」
 誰に問うでもなく、噛み締められた口元より苦々しげな言葉が紡がれた。息を潜め、しかし時折零れるように漏れる吐息が、白く霞と共に空に散る。
 まるで神聖な儀式であるかのように、白の法衣に一切の隙無く包まれた身を、月明かりの下に暴く。殊更にゆっくりと、時間をかけて。
 身も心も、緩やかに食まれるような錯覚に支配される。
「・・・っ」
 やがて男の手が躊躇いも無く下衣に掛けられて、流石にセティは狼狽のままに閉ざしていた目を見開いた。
 暴れるように宙を掻く足も空しく、まるで鋭利な刃物で裂かれたように、音もなく布地が祭壇に散る。
 拘束された両腕にかかる法衣の上衣だけが心許無く身に留まり、咄嗟に恥じ入るように膝を寄せて身を隠そうとするその足首を、有無を言わせず男の手が捉えた。
「セティさま・・・」
 感嘆するように、足元でその身の自由を奪った男が呟いた。
 それは少年と青年の境目にあり、今だ成長途上にある初々しい若き肢体。
 常日頃より、セティは人目に肌を晒すことを好まぬ性分である。夜の眷属の血を継ぐ者の色香か、禁欲的な法衣の内に秘められた裸身は、高貴な陶磁の芸術品のように月明かりの元に晒されていた。

 再び男は、唇を寄せ、触れぬ口付けで全身を辿った。
 抵抗に身もがくことなく、セティはただ身体を強張らせたまま、目を伏せ、息を詰め、耐えるようにその時を過ごした。
 いかなる扱いを受けても、心を動かさぬように。決然とした仮面の意思で己が心を御するかのように。
 触れられぬとは言え、肌を辿る気配は、薄い空気の皮膜を通して確かに感じられる。
 身を竦める様にして、全ての感覚を遮断しようとして。だが、それでも逃れられぬ更なる気配があった。

 何か、がこの場を見ている。

 闇の中から。青白い月明かりに照らされた祭壇を。捧げられた贄を。秘められた行為を。
 それはゆっくりと、視線を這わせて、全てを見ている。
 光を弾く翠色の髪の毛先の一筋から、張り詰めるように伸ばされた足の指先まで。
 指の付け根の一つ一つを辿り、肩先をなぞり、鼓動を宿す胸元を撫で、全てを・・・

「や、めろ・・・見るな!」
 突如糸が切れたように、セティは身を捩り悲痛な声を上げた。拘束された手首に鎖が食い込み、薄く血が滲む。
 視線の気配はそれでも消えない。どこからともなく、見ている。
 それが何者であるかを知っていた。知っているからこそ、耐えられるものではなかった。
 耳奥で高鳴る鼓動が割れるように響く。しっとりと、身体中が汗で濡れ、月光を受けて艶かしく光を弾いた。
 僅か首を擡げ震える少年の芯を認めて、男が愛しむように紅の目を細めた。
「感じておられるのか。」





 唇を噛み締め、揺れる己が心を鎮めるようにセティは沈黙で返した。
 節制と禁欲を至上とする教会において、彼は教義の理想を世に体現すべき聖職者である。そして実際に神聖の象徴の一として、人々の畏敬と祈りを一身に受けてきた。
 目を伏せ、頑ななまでの強固な意志の力で、自らを律する。”人”で有り続けるために、己を見失わぬ為に、心の奥底に潜む暗き執着に溺れることは決して許されない。

 拘束された両手首に絡む、聖なる十字飾りを手繰り寄せ握り締める。
 触れた指先から、焼け付く痛みが痺れるように身体を走った。
 身を焦がす程には至らないせよ、強力な十字の刻印が肌に直接触れれば只では済まない。だが、その痛みは常に、彼を光の名の下に繋ぎとめる道標ともなった。
「・・・っ・・・」
 口の中で短く術言を唱え、強く念を込める。
 余力はない。反撃の機会は一度きり。
 ”貴族”が施した支配の暗示に、弱った己の力が勝るかどうかは、賭けでしかなかった。

 一拍の間を置き、大きく息を吸い込むと、セティは力の限りに拘束された両腕を引いた。
 全身を捩るように勢いをつけて力をかけると、音をたてて鎖が弾けとんだ。擦り切れた傷跡から薄い血飛沫が散る。
「?!」
 捕らえていた獲物の、思いもよらぬ反抗を受けて、男は反射的に身を引いた。
 逃さずその眼前にクロスを突きつけ、両腕を交差するように組み聖呪を詠唱した。

「破邪の聖光。・・・魔を祓い、光明を!」

 瞬間、甲高い耳鳴りの音と共に、辺りが白昼のような圧倒的な光に飲まれる。
「・・・ぐっ・・・っ」
 十字の光が吸い込まれるように男の胸元に消え、ホークは胸を両手で押さえながら、苦悶の表情で膝をついた。
 光が散ったその後も、まるで獣のような唸り声を上げて、頭を抱え煩悶する。
「・・・セ・・・ティさま・・・」
 精神を苛む苦痛に眉を顰めながら、僅か目線を上げた光の賢者の瞳からは、邪悪な赤き光は掻き消えていた。
 だが、その表情は混乱に満ち、何か、抗い難き強大な力に怯えるように歪められている。
「ホーク!」
「・・・だめだ・・・いけない、・・・・・・私は」
 そのまま地に伏し、全身を震わせ、何かに耐えようとする。
「どうか・・・・・・うぅ・・・ぐっ」
 様子がおかしい。
 我が身を省みず、友の身を案じて手を伸ばしかけたセティは、だが次の瞬間、何が起こったのか把握する間もないまま、全身を石の祭壇にしたたかに打ちつけられた。

「な・・・」
 圧し掛かる影が圧倒的な力で、白き身体を押さえ込む。
「・・・・・・」
 獣のように荒く熱い吐息が吹きかけられた。紅の眼が、先程までとはうって変わった破壊的な凶暴さを宿して己を見下ろしている。
 愕然とした面持ちで、セティはそれを見上げた。
 
 いついかなる時でも、自らよりも主たる少年の身を深く案じてくれていた。
 元より有能な半魔の幼子に、教会が付ける保護者であり、監視役でもある聖騎士の男である。
 しかし忠実な従者として、兄として、友として。互いに全てを理解しあっていると、当然のように信じてきた、かけがえのない存在であった。
 その絆が、魔物の力に敗れ、穢された事実に衝撃を覚えずにはいられなかった。

 それ程に、根深い闇に、侵されたのだろうか、彼は。


 まるで別人のように自らを組み敷く男の姿に。
 絶望が暗く重く、視界を覆うのをセティは感じていた。

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