遠く、遠く。
 轟とした咆哮が地平の彼方で、空を震わせた、気がした。


 いや、この地には”空”など存在しない。
 天空には昏き雲塊が渦を巻き、あらゆる雑多な色彩の絵の具を撒いて汚した油壷のように、重く澱みが世界を覆っている。
 岩とその裂け目に僅かばかり顔を覗かせる灰色の地肌、荒涼と続く死の大地がその果てを見せることがないように。
 ここは閉ざされ、打ち捨てられた大地。
 時の狭間に忘れられ、ただ緩慢な滅びを待つだけの世界。

 事実、彼がこの世界に迷い込んでから、人の世の時ではどれだけの時代が移り過ぎたことか。
 永劫という名の時の牢獄に囚われたまま、当所なき彷徨の旅路を続ける賢者でさえも、既に諦観を抱き始めるほどに。
 世界は変わらず、遥か彼方へ同じ顔を連ねていた。














久遠の大地 前編














<1>

 コツ、と細長い棒のような銀の杖を剥き出しの大地に打ち付けて、その人影は、疲れたとばかりに大きく溜息をついた。
 一瞬、清涼な風の気配が、堅く乾いた大地を浄化するように穏やかに吹き渡る。
 だが、遠く黒々と聳える岩山が、大地の鳴動を伴いながら赤き灼熱の岩屑を吹きこぼすと、焼け尽くすような熱風が辺りを舐める。

 赤き閃光が、黒き斑模様の空を切り裂くように走り、闇色の灰が地を焼き雪のように降り注いだ。



「・・・あぁ。」

 ぐったりと、崩れ折れるように人影は大地に伏した。力なき吐息が漏れる。
 薄く軽いが幾重にも重ねられた旅人用の外套から、雪のように白く繊細な手が覗く。ところどころ赤く擦り切れたそれが、大地を弱々しく辿った。文字を描くように白い指が大地を辿ると、虚空より舞い落ちる黒き死の灰は、その人影をわざわざ避けるかのように周囲に散り消えた。
 しかし既に力も尽き果てたのか、人影は灼熱の大気に歪む世界の中で、動けないでいるようだった。
 




 そもそも、”生物”が存在できる環境ではない。圧倒的な超自然の理力を操り、人と生命と時の摂理さえ超越した賢者であっても、万能であるわけではなかった。炎と熱、乾きと死の支配する世界で、出口を見出すことも叶わず永き時が過ぎ。これが限界なのかと、賢者は口許を自嘲的に歪めた。

 やはり、”人であった存在”が、自らの意思を持って、この”世界”に生きたまま足を踏み入れるのは、傲慢に過ぎなかったのかと。
 数えることすら厭わしくなるほどの時を彷徨い、人の世の果ての世界を見てきた彼であっても。
 無限という名の閉ざされた大地で望みが絶たれるのだと。




 既に磨耗したと思っていた感情・・・もはやそれををどう評すべきなのかさえ忘れたままに、賢者は去来する感情の波にただ心を委ねていた。
 このまま大地に身を晒していては、危険だと。理性と本能が警鐘を鳴らす。
 だが”死”と”消滅”、それが彼にとって、もはや例えようもなく甘い誘惑であることは確かだった。
 深い外套に覆われ影となったその表情を伺い知ることは出来ない。
 隠された影の中で、闇を弾いて輝く紫色の瞳が、薄く細められた。

「・・・どうか、お許しください。・・・わたしは・・・」
 澄んだ甘い声色も、虚空に掠れるように消え散る。








 大地が再び鳴動する。

 地に這うような亀裂が走り、周囲の岩盤が盛り上がると、まるで生き物のように倒れたままの人影を包み込んだ。
 大地が裂ける轟音と共に、巨大な岩塊が天を覆うばかりに姿を現す。
 岩塊・・・いや、ごつごつと隆起する岩肌の狭間から、血のように赤く鈍く錆付いた光が人影を見据えている。
 地底深くに在るべき存在。この世のものならぬ圧倒的な存在感で姿を現出させた巨大な存在。
 

 竜・・・それは地竜だった。
 







 追跡者。
 追うものと追われるもの。
 

 ここにきて、この死の世界で唯一つ取り残されていた、忘れられた存在達の遊戯も決着を見ようとしていた。
 



















<2>

 永劫を手に入れれば、いずれは巡り会えると。そう信じ続けた稚い想いは時を重ねても変わることはなかった。

 時を捨てた後悔はない。人であることを捨てたその時から、輪廻転生の業からも外れたことは理解していた。今の彼にとって死とはすなわち存在の消滅である。
 自分という存在を創り、支配し、今でも心の自由を奪ったままであるあの存在が。お気に入りだった自分の人形が、時の狭間で無残に果てたと知ったなら・・・。
 それを想うと、彼の心は昏い悦びのような感覚で満たされた。
 狂おしいほどの、歪んだ愛情と、胸を押しつぶすような甘い罪悪感。





 人の世を巡り続けた果てに、探し続けるその人が、もはや人の世には存在していないのだと、確信を抱いた時に再度の選択が求められた。
 待つべきか。追うべきか。

 時間は限りないほどに与えられていた。
 待てばいずれあの存在は、人の世へ転生することを選ぶだろう。
 亡き妻の転生を追うか。光の神子の側に降りるか。どちらか、だ。
 だが、彼にはみすみす”逃がした”ことが悔やまれた。
 この忘れられた地に、時の果てに。逃げ帰らせるつもりなどなかったのに。

 人と共に在ることを好む変わり者が、人の干渉できない彼らの世界に逃げ帰ったのには2つ理由があるのだろう。
 一つは、人の世でその存在を保つに到らないほど、力を弱めていたことである。転生して得た人の身は一度、滅んだ。摂理を歪めて世に留まった代償に、人に守られねば在り続けることが出来ぬほどにあれは弱っていた。
 そしてもう一つは・・・自分の存在だ。










 人の世の果て、深き大地の切れ目、焼け爛れた岩壁と吹荒れる灼熱の深潭に、次元の裂け目を見つけた時。彼はそれを越えることを迷いはしなかった。
 狭間を越えるその時に自分を止めようとした、忠実な彼の”影”の声が脳裏に残響のように残っていた。
 共に、時を捨て、人を捨て、彼に付き添い続けた従者であり、寂寞とした永き旅路を共にしたかけがえのない友。
 自分の犯した行為は、自分を捨てて逃げた父の身勝手さと何ら変わらない。
 
 そして同時に思考の片隅を掠める、ある姿に心が乱される。
 永き旅の最中、光の神子の転生を探しては、その生涯に付き添ってきた。
 緩慢な時を生きる彼の道標でもあり、”生餌”でもある”光”から永く離れ、この死の大地に降り立ったその時に、滅びの予感はあった。




















<3>

 力を持つがゆえに。この世界を覆う、絶望のようなものを、狂気のような嘆きの気配を感じていた。
 驚くべきことだが、本当に稀ではあるが、この死地においても人造的な建造物、遺跡のようなものは存在した。
 そのほとんどが、どれ程時を経たかわからぬほど、遥か過去に打ち捨てられたものばかりであった。
 風砂にまみれ、または崩れた山裾の狭間に、人が造るそれとは明らかに異なる、だが意思をもって築かれた異質な”何か”があった。
 液状化した岩が波のように立ち昇った後固形化したようなもの。円錐に刳り貫かれた巨大な祭事場の跡のようなもの。
 最も圧倒されるものは、緻密な文様がびっしりと刻み込まれた円盤状の岩塊が、遥か天へと高く競うように積み上げられた遺物の群であった。
 



 ある時、彼は残酷な”都市”の跡を見た。

 それは・・・”人の遺骸”で築かれた都市だ。
 都市というよりは、言わば”人間”という名の家畜を飼う為の牢獄、のようなものだったのだろう。
 都市の名残を留めた、柱・壁それら全てが人骨を緻密に組み合わせて築かれている。
 人であった彼の目からすれば、悪趣味極まりない遺物である。だが、それを人のものと認識しさえしなければ、芸術とも呼べるほどに、それは幾何学的に美しい造詣物であった。
 永き時を経た今でも、表面に塗られた透明に輝く染料のようなものの名残は失われておらず、艶やかに磨かれ光を弾き、大理石の柱廊のような面影を残している。

 そう、竜達は、人を”飼う”ことがあるのだ。
 強大な力を持つ霊長たる竜にとっても、人間は何故か特別な存在のようである。
 それが力を有するものであれば尚更のこと。
 他ならぬ彼自身が、闇を支配する強大な力を持つ竜王の執着を受けて、延々気まぐれに追い回され続けている身であった。
 この忘却の都市は、哀れにも攫われ、竜達の玩具となったのであろう過去無数の人々の存在を示していた。
 



 ・・・おお・・・

 ・・・おお・・・





 人骸の都市の入り口に歩を進めた賢者の耳に、風の唸りのような音が重く、低く、重なるように響いた。
 コツ、と銀の杖を地に打ち歩を止める。
 風の気配が、澱んだ大気を払い、静かに吹き渡る。



 ・・・おお・・・

 ・・・おお・・・か・・・

 ・・・ひと・・・か・・




 見上げると、都市の入り口、高く聳える巨大な門柱の中ほど、人、らしき姿が見えた。
 らしい、というのは、頭と胴体はあるが四肢がない。人骨の角柱の中に組み上げられ、一体となった造詣物。それが声を放ったと表現した方が正しいだろう。
 対になるように、もう片側の柱の中ほどからも同じような音が響いた。二対の人柱だ。

 長く乱れた白髪に顎鬚が垂れ、骨と皮ばかりに痩せこけた胸骨。だがしかし、動き、声を出す。あたかも”生きて”いるかのように。
 その存在が、どのような仕組みで、この忘却の大地で今尚”動いて”いるのか、その理由がわかるのか、賢者はさほど驚いた様子を見せなかった。



「哀れな・・・。」

 涼やかな声が紡がれる。
 寂れた大地に、場違いなほどに澄んだ声色であった。

 歩を止めた人影は、ゆるりとした仕草で目深に被っていたフードを払い、人柱の前に姿を晒した。
 人柱の影が、目を見張るように身体を揺らす。白髪と皺に覆われた浅黒い肌の下で暗灰色の眼球がぎょろりと動いた。
 そこに現れた、白皙の容貌は、明らかにこの死地にあって場違いのものであった。
 一見すると少年とも青年とも定かに出来ない年頃の、細面に整った美しい顔立ち。
 艶やかな翠色の頭髪の間から覗く、紫色の瞳だけが、ただ齢を重ねた賢者の冷ややかな落ち着きを持って、静かに世界を見据えている。
 


 ・・・おまえは・・・竜か・・・?

 ・・・いや、竜ではない・・・人か?

 ・・・いや、人でもない・・・




「私は、そのどちらでもあり・・・どちらでもない者。」
 人柱の二対の影に呼応するように、賢者が言葉を紡いだ。



 ・・・竜に所有されているわけでもない・・・

 ・・・生きた人間が、この地に足を踏み入れられるはずがない・・・




 互いに重なるように、暗い声が言葉を交し合う。風の賢者は静かに銀の杖を掲げ上げた。
「永劫なる煉獄に囚われし、罪びと達よ。・・・我が問いに答えるならば、汝らの望みを叶えよう。」
 今度は明らかに人柱の影達から、動揺の気配が伝わってきた。



 ・・・望み・・・我等が望み・・・

 ・・・開放を・・・賢者よ・・・魂の、開放を・・・!




 それは叫びのようであった。悲痛とも言える咆哮となって大気を震わせる。
「ならば答えて欲しい。・・・天駆ける風竜の王の在り処を私は探している。何か手がかりを、知ってはいまいか?」



 ・・・風竜・・・

 ・・・そのような存在は、見たこともない・・・

 ・・・この呪われた地に、天駆ける竜など存在しない・・・




「・・・。」
 賢者は落胆したように静かに瞳を落とした。一方でその答が返ることを予想していたようでもあった。



 ・・・この地の竜の多くは、既に滅びた・・・

 ・・・狂気に侵された”地”と”火”の竜が僅かばかり在るのみ・・・




「何故この地の竜達は滅びた?」



 ・・・この地の竜は人を狩りすぎた・・・

 ・・・神竜の怒りを買ったのだ・・・・




「・・・神竜?」



 ・・・神竜王の対なる者・・・

 ・・・漆黒の闇を支配する暗黒の竜・・・最も強く最も凶き存在・・・




「・・・闇王か。」
 遂に手がかりが絶たれたとばかりに賢者は息をついた。
 風王の手がかりとならずとも、神竜に連なる存在に辿りつくことが出来たなら、何かを得られると思えた。
 しかし肝心の神竜の手がかりが、かの闇王のものであれば意味はない。

 成る程。竜族の中では異質とも呼べる”親”人間派でもある闇王のことだ。
 人の取り扱いが気に入らぬという理由のみで同胞を滅ぼしたと聞いても驚くには値しない。

 確かに、闇王の力を借りれば彼の”望み”を叶えることは容易いことなのだろう。
 だが、ここに及んで闇王に縋るのは、取りえぬ選択肢であった。



「・・・よくわかった。この地にはもはや私の求める答はないようだ。」
 言葉と共に、賢者は銀の杖を水平に掲げるように突き出し、片足を半歩引く姿勢で身体を横に開いた。
 風が細身の身体を囲うように渦を巻く。
「だが残念なことに、人の世へ帰還する術も私には、ない。・・・次元を拓くには”力”を集めなければならないのでね。」



 ・・・賢者よ、かつて我等は永劫の命を望んだ・・・

 ・・・千の命を捧げ祈った・・・

 ・・・王国の民を捧げ・・・祈った・・・

 ・・・そして我等は永劫を得た・・・


 ・・・永劫という名の・・・ ・・・煉獄を・・・




 一陣の風が、刃のように、巨大な二柱の人骨の門を薙いだ。ごうと、地を揺るがす轟音と共に世界が崩れ落ちる。
 きらきらと、零れ散る破片が美しい結晶となり、荒漠とした大地を彩る。
 人柱を薙いだ風刃が円弧を描いて戻るのを、杖を持たぬ片手で受け止めるように押さえ留めると、枯れ木が裂けるような奇妙な音を立てて風が賢者の周囲で弾いて消えた。
 僅か風の残り香に翠色の髪を揺らして、賢者は感情を宿さぬ冷めた瞳で風を受け止めた手を開く。
 手の内に光を弾いてキラキラと残る、琥珀色の小さな破片が二つ。小さな石片にすぎぬように見えるそれ。
 だがそれは始原より世を形なし、摂理を司る、万物の力の根源。

 ・・・竜石。

 哀れな人柱の命を、時の鎖に繋ぎ留めてきたもの。
 人、が求めてやまぬ奇跡の魔道を呼ぶ力の証。竜達の命そのもの。
 竜同士でさえも、命を繋ぎ力を得るために、その力を求めて互いに争うと言われる稀有な輝石。
 そしてかつて人界にて、その生を弱めつつあった父王を救うために、彼が探し続けた秘宝。

「この程度か・・・。」
 さほど感慨も抱かぬように、賢者は輝石を腰の皮袋にしまいこんだ。
 この都市にはもう”力”の気配はない。彼が求めるものはないようだった。





 風塵の舞う忘却の都市に、それ以上足を踏み入れることはなく、賢者は地を去った。
 崩れた二対の門骸の彼方に、山のように巨大な石の彫像が風化したまま、時に忘れられ、打ち捨てられているのが見える。
 ・・・神を気取り、この大地と、次元を超えた遥か彼方の世界で、人間達を思うままに支配したのであろう、地竜の眷族か。
 その最期の瞬間に何を思い、何を見たのか。その圧倒的な力を顕現させた岩塊の巨体は、恐怖の咆哮を上げたまま絶命したかのように見えた。
 



















<4>

 賢者は”力”を必要としていた。
 この閉ざされた世界から抜け出るために。熱と乾きの支配する死の大地で、果てぬために。
 もはや方法は一つしか残されていなかった。命と魂を賭ける危険な賭け。

「狩り続ける・・・しかないか。」



 自嘲的に口許を歪め、目の前に炎を纏い横たわる巨体を見上げる。
 ・・・人の力では傷つけることは叶わぬと言われる、神性の象徴。炎を吹く紅鱗に覆われた肢体は深い裂傷を幾筋も印している。傷跡からは灼熱の体液が高温の蒸気と共に噴出し。辺りはもうもうと立ち込める熱気に視界が歪んでいた。
 人が、竜を狩るなどと、常軌を逸した行為、というよりも常識外れな行為だ。
 確かに過去に幾度も、人界で人間達が竜に立ち向かったことはあった。
 だが、今の彼の行為はそれとは明らかに異なるものだ。

 ただ、”狩る”ために挑む行為。

 淡々と感情もなく。いや、執念とも呼べる意思でもって賢者はそれを為した。
 熱風に中てられ激闘の果てに上がる息を抑えながら、絶命した火の竜の巨体を僅か一瞥すると、賢者は腰元から金色の短剣を引き抜く。
 数言の術言と共に短剣を火竜の額に突き立てる。途端、眩いばかりの光が竜の額から漏れ、辺りを照らした。
 堅い皮鱗の奥。血のように紅く輝く親指程の大きさの輝石を認めて、賢者は紫色の瞳を細め見入った。
 




 やはり狩りによって直接”採る”行為によれば、幾分質の良い石が手に入るようだった。
 狂気に侵された最果ての地のはぐれ竜。
 その閉ざされた瞳は、絶命のその寸前まで赤黒く穢れた光彩を放っていた。
 しかし、生命の結晶たる輝石は、純潔の清き輝きを残しているかのように、賢者の手の内で光を宿している。

 よろりと、覚束なくなった足取りで立ち上がると、汗で額に張りついた髪を腕で払い、賢者は火壷の大地に背を向けた。
 苦手とする炎の世界にこれ以上は留まれない。
 自ら探し、出向かなくても、ここから先は、”彼ら”の方が力に引き寄せられてくるだろう。
 強大な力を有する竜石を持ち歩くことは、危険を自ら招き寄せる行為に等しい。



 ”狩るか”・・・”狩られるか”
 死線間際の綱渡り、堕ちた竜達が狂喜して群がる危険な遊戯の合図は、他ならぬ彼自身が放ったものであった。


















<5>

 賢者はやがて放浪することをやめた。
 草木一つ生えない乾いた丘陵地帯、その頂に石の塔を築き、そこに住まうようになった。
 唯一人。人も動植物すらも存在しない。ただ、僅かに竜達の息吹が残る始原の大地で。


 だが賢者が住まうようになった塔の周囲には、命が生まれた。
 穏やかに吹き渡る風が、淀んだ大気を払い、そこには生命の恵みをもたらす水が泉となって湧き出でた。
 草木が芽生え、丘はやがて緑で覆われた。
 雨が恵みをもたらし、風が渡り、雪さえも降るようになった。
 ただ、この地には太陽が存在しない。光の届かぬ薄暗い世界で、草木はほんの僅か、世界に色を与えたにすぎなかた。
 賢者は一度塔に引きこもってからは、姿を現すことはなかった。
 石の塔は歳月を重ねるにつれて天に届かんばかりに高く、その威容を変えていった。



 そして、やがて・・・塔の周囲では”冬”しか訪れなくなった。
 雪が大地を多い、灼熱の火山地帯を凍てついた凍土へと変えていった。
 焔と狂気が支配する世界を静かに、静かに侵食するように。




 僅か大地に残る竜達にも、賢者の存在は知れ渡るようになっていった。
 元来、竜達は群れをなさず互いに干渉し合うこともない。しかし荒れ果てた辺境の地で生き延びる下位の竜族達には、群れを作って活動する者たちもあった。
 そうした竜達は、何者とも知れぬその存在を、古代の言の葉で”氷の賢者”と評した。



 塔はやがて、それ自体が淡く魔力を帯び、青白い光を纏うようになった。
 強大な力の集積。
 氷の大地の只中に、青き燐光を纏う神秘の塔。
 その力に引寄せられるように幾体もの竜が塔に挑み、そしてどれも戻らなかった。
 狩りに挑み、逆に狩られた竜の数だけ、塔は層を増やし、その頂を天へと臨ませた。
 
 
 











 
 遥か眼下を遠く見渡し、沈黙の地を静かに観望する瞳を、僅かに足元に落とし、賢者は溜息をついた。

 塔は既に渦を巻く天空の黒雲に手が届こうかという程、高い。その頂には巨大な竜石の祭壇が設えられている。
 天空を望む氷の塔の支配者たる青年の姿は、今にも塔から飛び降りて果ててしまうのではないかと思われるほど、儚げではあったが。




「・・・それでも、貴方には届かないというのか。」

 呟きは誰に聞かれることもなく虚空へ散る。静かに振り返る紫色の瞳が、その視界の端に”在り得ないもの”を認めても、賢者は別に驚いた様子を見せなかった。

「幾分か予感はしていた。・・・初めに姿を現すのが、お前になるのではないかと。」

 賢者の向かい端。いかなる竜もこれまで到達したことのない塔の頂に、人の姿があった。
 人、・・・いや人ではないことはわかっていた。
 炎のように紅い髪、紅い瞳。漆黒の瘴炎を纏い静かに佇む青年の姿。
 賢者の反応が余りに自然であったために、その邂逅はあたかも昔日の友との何気ないやり取りであるかのようであった。










 それがこの大地を滅ぼしたとも言われる、神、の降臨の瞬間であったとしても。

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