久遠の大地 後編
<6>
「久しいな。・・・風の御子。」
瘴気を纏った影が声を紡いだ。深く、そして不思議と穏やかな声色が、高鳴る風音の中で静かに響く。
本当に”人間”そのままの姿である。もう長らく”人”との会話などしていなかった賢者にとっては、相手が誰であれ懐かしさを覚える瞬間であった。
賢者の紫色の瞳が僅かに細められ、一瞬感情の残滓のような光が瞳を揺らした。
「永らく何処をさ迷っているのかと思えば、・・・滅びに飲まれし我等が世界に迷い込み、このような最果ての地で”神”の真似事か?」
くっくっと、青年は漆黒の法衣に片手を宛がい、紅い髪を揺らして笑う。整った顔立ちが、純粋な興に駆られたように周囲を見渡し、祭壇に掲げられた力の象徴、竜石に視線を移し留まった。
「ふむ。竜狩りとは実に面白い趣向だ。一体どれほど狩ったのか、問いはせぬが・・・。」
紅い瞳が射抜くように賢者に向けられる。力の顕現をどれ程、押さえ込んでいるのか、場に緊張の気配は生じない。
「だが、どうだ?為すために”狩る”のか、”狩り”そのものが目的か。・・・今のそなたからは、美くも静かな・・・”狂気”を感じるが。」
「・・・。」
口端を歪めて笑う、紅髪の青年は、さも嬉しそうに賢者の姿を眺め回す。僅かな沈黙の間が場を支配した。
「本当にお前は興味深い、稀有なる存在だ。その力・・・その意思、その存在全てを手に入れたいと、この我が思える程にはな。」
「残念だが、私の所有者は既にいるのでね・・・。」
半ば投げやりめいた口調で、賢者は目を伏せ肩を僅かに竦めてみせた。
「相も変わらずお前を捨てて知らぬふりでいるあれがか?哀れなことだ。我であれば、そなたの身に刻まれた血の呪縛を解いてやれるのだが、な」
「・・・お前の知ったことではない。」
翠色の髪を揺らして、賢者が僅か語気を強めた。残された感情の襞の一端に触れられたのか、表情を宿さなかった白皙が心持ち色を宿す。
「ふ、言葉通り、・・・そなたの望みを叶えてやっても良いのだぞ。」
構わず紅髪の青年は優しげとも呼べる口調で、手を差し出した。
「我と共に来るがいい、・・・”魔”を宿し神子よ、孤独という名の時の檻から解き放たれたいのならばな。」
「・・・くどい。」
一転、穏やかな空気が切り裂くような刃の緊張感を宿した。
ごうと風が唸りを上げて天空の塔の周囲を駆ける。渦を巻く黒雲と天を引き裂く雷鳴が、昏い円形の舞台に、破滅の戯曲を奏でるかのように背景を彩った。
紅髪の青年が興味深いとばかりに僅かに片眉を跳ね上げる。
「ほう?・・・よもや、我とやり合うつもりか?」
「・・・例外はない。闇王よ。私は世界に在る全ての竜を狩ると決めた。・・・あの人も含めて。」
つい、と賢者が片手を差し上げて対する人影に指先を向けた。
静かで冷たい宣誓を受けて、紅の髪を持つ闇王は心底楽しそうに笑い出す。
「成る程、・・・それでこそだ。そなたの抱える闇は実に心地良く、さぞや喰らい甲斐があろう・・・。」
「・・・。」
生木が弾けるような音と共に、目に見えぬ力が空を掻き切り、石造りの床面が砕け散った。
涼しい表情で身を翻して後方に退いた紅髪の青年は、笑みを湛えたまま目を伏せる。
「さて、そろそろ我もここへ降りた本来の目的を果たさねばならないようだな。・・・せいぜい楽しませてもらいたいものだ。」
言葉と共に、とんとんと、青年は身軽に後方へ跳躍する。塔の端、地なき虚空へ身躍らせたかと思うと、一筋の雷鳴が辺りを白く引き裂いた。
白く反転する世界。
開けた先に、巨大な、漆黒の影が姿を現した。
今まで彼が狩ってきたどの竜とも比較にすることはできない。その圧倒的な存在。
地に落とす影を拝するだけで、人も竜も畏怖の念を抱くような。
神竜王と対なす至高の存在。
漆黒の闇を支配する暗黒の竜王。
人知を超えた力を持ち、幾体もの竜を手にかけてきた”竜狩り”でもある賢者でさえも、その闇色の巨大な影と対峙して、まともに姿を見ることができない。
そうでなくても全身の力を奪われるような急激な虚脱感に襲われる。闇王の姿を直接視界に映せば、それだけで抵抗力を奪われるということを彼は知っていた。
賢者は顔を伏せたまま右手を水平に振り、銀色の杖を召還すると祭壇上の竜石を風の魔力を操り引寄せた。
竜の影は天を戴く石塔を完全に覆い、その尾の一振りで塔など容易に手折られそうである。
威圧的な重き羽音が、二度、大気を低く震わせた。
さて、御子よ。我は本来の在るべき”役目”を果たさねばならぬ・・・
声ではなく、意思が直接精神に語りかけてきた。
かの王が突如この地に降臨した本来の目的について、賢者には既に見当がついていた。
この塔の破壊だ。
眉根を僅かに寄せて賢者は目を伏せた。詠唱のための精神集中に入る。
いかなる存在であろうとも、世界を繋ぐ扉を拓くことは許されない。そなたの意思はわからぬでもないが・・・
竜王の意思は人がましく、同情のようなそれでいて嘲笑のような感情を滲ませている。
本来竜達が住むこちら側の世界と人の世界は、別世界であり自由に行き来などできるものではない。
賢者がこの地に生身で足を踏み入れることができたのは、偶にして発生した次元の歪みを利用したことによる。
しかし今彼は人為的な力の作用によって、時空に門を開こうと試みていたのだ。それは明らかに世界の”摂理”に反する行為。
摂理の体現者である神竜達は、そうした行為を決して許そうとはしない。
事実、かつて摂理を歪め禁忌に触れた罪ゆえに、他ならぬ実の父親の手によって危うく消されかかった彼には、闇王の言わんとしていることが良く理解できていた。
理性でも感情でも、理屈でも、その存在の属性も意思も関係ない。
摂理を乱す者には天罰を与える。これこそが神竜達の存在の、本来の姿なのだと。
「・・・・・・。」
既に賢者は言葉を交し合う意思を閉ざしたようであった。
己が身一つで神に抗うという、それを為そうとする意思そのものが、彼が既に世を形為す摂理から外れた存在であることの証明ともなっていた。
遥か遠い過去という名の記憶の中で、そう、まだ彼が人であった頃、一度闇王と対峙した経験がある。
永き時を迷いし放浪の果てに、あの頃とは比較にはならない程の力を身につけてはいたが、対する闇王もまた本来在るべき世界での顕現である。
対成す光の力の助けが得られぬ今、集めた竜石の力を借りて、どこまでの事が出来るか、答えは未知数であった。
右手で掲げた杖を水平に構え、左手の指先を自身の額に向けて翳し朗とした詠唱を行う賢者の姿は、風に翻る法衣にも彩られ、名匠の手による彫像のように凛とした輝きを湛えている。
勝敗は一撃で決する。
闇を切り裂く轟音と共に、世界が白く明滅したその一瞬が。
遥か天を望む氷の石塔が崩壊した瞬間となった。
<7>
放浪の旅路の果てに辿り着いた末路に、賢者は弱々しく自嘲的な笑みを浮かべた。
幾分か自棄になっていたのかもしれない。
地の果て、荒廃した灼熱の大地で。地竜の群れに追われ。長き逃走の果てに遂には逃げ切ることができなくなっていた。
地竜の真紅の眼光が、威圧的に、同時に興味深げに手の内に捕らえた不可思議な生物を眺め回している。
ぐったりと力なく、岩塊のような手に抱かれ倒れ伏す人影こそが、竜狩りとも呼ばれ、崩壊した天の塔を支配した神秘の存在、”氷の賢者”であることが信じられぬとでも言うように。
事実、地竜がほんの僅か力を込めれば壊れてしまうと思えるほどに、それは小さく脆弱な存在に見えた。
山のように聳え立つ岩の体躯、視界を覆う岩壁の僅かな隙、遥か遠い空の果てに黒く点のように次元の歪みがぼんやりと見える。
そこに辿りついたなら、光満ちる人の世界に帰ることができたのかもしれぬと想うと、感情を忘れた賢者の胸の内にも不思議と郷愁の念が沸き起こり、胸がきりりと締め付けられる。
かつて自らが築き、そして神をも恐れぬ力の支配を為した果てに、”天罰”により崩壊した塔。
だがその天罰すらも、賢者にとっては計算の内で行われたことであった。集めた竜石と神竜の力の衝突により時空を歪めるという、彼の目論見は確かに成功したのだ。
裁きの使者として降りた竜が、かの闇王でさえなければ、全てが思い通りに運んでいたはずだった。
天地を裂く力の衝突により、彼は竜王に確かな一撃を与えていた。
神竜でさえ貶せる程の力の顕現、かの闇の王ですらそれを受けて只では済まなかったのは、未だ放置されたままの天空の黒き歪みを見ればわかることだ。
だが同時に賢者自身も、渾身の一撃を放った直後に竜石の力を借りて全力で離脱することしか、命を永らえる術がなかった。
遥か遠く離れた地に転移を為したものの、闇王の瘴気を浴びてしばらくはまともに動くことすらままならなかった。
瘴気を祓い魔力を回復するのには歳月を要した。しかし彼には時間がなかった。
虚空に浮かぶ時空の歪みが、閉じられてしまう前に、再びかの地に舞い戻る必要があったからだ。
弱り果て、思うように動かぬ体を捩り、堅い岩石の戒めから抜け出でようともがくが、びくともしない。
賢者を捕えた地の竜は、隆起した岩そのものに覆われた巨大な顔を寄せ、様子を伺うように鼻を動かしている。
「・・・深き大地の支配者、始原の力を顕すもの、地の竜の眷属よ・・・」
抵抗をやめ、諦めたように賢者は言葉を紡いだ。
「言の葉が解るならば、我と対せよ・・・」
・・・オまえハ、ヒトか・・・?
竜に言葉を紡ぐ発声器官はない。たどたどしく人の言葉を辿ろうとする意思が直接語りかけてくる。
平然と人に化けてみせる神竜達のそれとは、明らかに異なってはいたが。
「私は人ではない。竜でもない。そのどちらでもあってどちらでもない・・・。」
謎かけのような言葉を理解しようとしているのか、地竜が首を傾げるように動かした。
動きに伴いみしみしと、岩が擦れ合う派手な音が響く。
「・・・お前が天の理を識る存在ならば、どうか私を解放して欲しい。私を所有することが許されるのは、天翔る風の王・・・そして光纏いし天子のみ。」
・・・しかシ・・・オまえニハ、所有のアかしがナイ・・・
グツグツと笑うような不快な音が地竜の喉元から漏れた。
・・・オまえヲ・・・拾った・・・我・・・所有スる・・・
「・・・・・・。」
捕えられその場で殺すか食らうかされないのは、賢者にとって幸運なこととは言いきれなかった。
このまま彼らの住まう地底の奥深くに連れ去られ、地竜の支配する世界に引き込まれてしまえば、いかな賢者とて地上に戻ることは困難極まりないこととなるだろう。
竜達は人を”飼う”。
不思議なことだが彼らの間で、”人”は何らかの象徴的な存在として特別視され扱われているようだった。
不幸にも次元の狭間に落ち、この世界に迷いこんだ人間、又は何らかの方法で人界から攫われてきた人間達(多くは邪竜の信仰者の手により贄とされた者達であったが)を、竜達は争って手に入れようとした。
そしてその人間が”力”の強い存在であればある程、意味を持つもののようであった。
転じて言えば、彼のような稀有な力を持つ存在を捕えて、容易に手放すなど考えられぬこととも言える。
「私を捕えるか。・・・ならばお前が私の所有者たるに相応しいか、証を見せてもらわねばな。」
追い詰められた状況ながら、しかし賢者は落ち着いた調子で、地竜の赤黒い瞳を見据えた。
紫色の光が、深く艶やかな色合いを湛えてきらめく。
・・・証シ・・・
「・・・そうだ。地の眷属なるものよ。私を手にするならば、”王”たる力を持つに相応しいことを示せ。されば私もお前を主と認め、力を与えよう。・・・大地の王、神竜ノヴァに対する力をお前に・・・」
・・・!!
地竜の動きが明らかに動揺を宿した。
賢者の言葉が、あまりにも理解の範疇を超えたものであったからであろう。
狂気に精神を蝕まれた、滅びの地に住まう竜にとっても彼らの王、”神”たる存在は絶対であるようだった。
手の内にある”人”の姿をした者が、神竜の「名」を平然と告げたことが、始原の力の化身でもある竜の精神に”畏れ”のような感覚を呼び起こしたのは確かだった。
・・・オまえハ・・・
動揺する地竜に対する、賢者の紫色の瞳が一際輝きを強めた。
摂理に支配される彼らにとって、世の摂理を変え、否定するような誘惑は、価値観を破壊される行為に等しいのだろう。
どれ程狂気に侵されようと、彼らには己が属する力を司る神竜に抗うという本能などないのだ。
それを当然のように為すと言わんばかりの賢者の言葉は、危険すぎる誘惑であった。
神をも畏れぬ天の塔を築き、闇王と対峙して尚生き延びる存在。
その世界に存在する”摂理”に支配されず、歪めてしまうその異質な存在を、闇王が”魔”と評したのはある意味的を得ているかもしれない。人の世で、竜達の存在が、魔がめいて見えたのと同じように、竜達の世界では人こそがすなわち”魔性”を宿す存在であるのだと。
「私を得たいと望むならば、応えよ。・・・そして、力の証に名を告げよ・・・竜よ、お前が司る力の本質を明かせ・・・。」
声が囁くようにひそめられる。まるで呪言のように、言霊で魂を飲み込むように。
・・・我ハ・・・我・・・ハ・・・
賢者の言葉に苦悶の声を発しながら、地竜が岩の軋む音と共に身を捩ったその時であった。
大地が裂ける轟音が、立て続けに二つ、地鳴りとともに辺りを覆った。
岩が捲れ、吹き上がる砂塵がもうもうと立ちこめる。
流石の賢者も、地竜の手の内で身を巡らせ、目を瞠った。
「くっ・・・・。」
霞む砂塵の向こうに、山のように巨大な影が二つ。大地を割り裂いてその姿を現していた。
地竜だ。
二体もの地竜が立て続けに現れ、こちらの様子を伺っている。
轟と地鳴りのような重い音を立てて、彼を拘束していた地竜が威嚇の唸りをあげた。
獲物を最初に見つけたのは自分だと、主張するように、手の内に握る影を引寄せる。
大気を揺るがすような轟音で、対する竜もまた唸る。言葉を交わさぬそのやり取りに、しかし知能の高い彼らがどのような意思を交し合っているのか、流石の賢者でも読み取ることは出来なかった。
何より、計算通り、後一歩で竜の「真名」を得られる所であっただけに、突然の闖入者が恨まれた。
「名」を知る事さえ出来れば、言の葉を自在に操る彼には、逆に竜を支配することも可能であった。この状況から脱するには、竜に支配される前にそれを行うことより他に術がなかったのだ。
揺れる大地の鳴動がいまだ収まりきらぬ内に、地竜の咆哮とはまた異なる竜の唸りが重なる。
砂塵立ち込める窪地に、熱風が篭る。
見れば、三体の地竜から少し離れた坂の上に、火竜まで姿を現していた。
大地から上半身を突き出し、半身を埋めた岩山のような地竜に対し、灼熱の紅鱗に覆われた火の竜はその巨体を強靭な足で支えている。
二対の翼を左右に大きく広げ、焼け付くような息を吐いて威嚇するその姿は、最も竜らしい竜の姿であった。
自身が開いた次元の歪み、廃墟となった石塔に近づくにつれて竜の数が多くなってきているとは感じていたが、これ程、複数の竜が一同に会するなど滅多にあることではない。
「さて・・・。」
流石の賢者も途方にくれたように眉根を寄せる。
地竜の手により地底に引き込まれても逃げ場はないが、火竜に囚われれば尚更だ。灼熱の世界では時を数えるまでもなく、衰弱して果ててしまう。
弱った身体と力でどれ程、やれるものかと、風を操り周囲の状況を図る。
窪地の周囲には荒涼とした大地がただ漠として広がるのみであり、身を隠す場所は間近にはない。
もはや絶望という感傷すら、賢者の胸には湧いてこなかった。
「竜達よ・・・やめておけ・・・私は時を翔る風の眷属。・・・風王の加護を受けるもの。お前たちに私は所有できない。」
歌うように言葉を紡ぐ。反応して、彼を捕えている地竜が視線を落とすのに合わせて、片腕を掲げる。
「所有の証はここにある。風王が我が身に刻んだ、血の証が・・・」
・・・・・・!
岩の拘束が驚きで緩んだ。賢者の左手首に刻まれた印は、地の竜に動揺を与えるには充分であったようだ。
僅かに束縛が緩んだ、その瞬間をついて賢者は転移の術を唱えていた。
地竜のすぐ背後の地に転移を果たすと、ふらつく身体を抑えながら体勢を整える。弱った今の彼の身体では、僅かな詠唱で、まともに逃げ切れるだけの距離を跳ぶことは叶わない。
一瞬の間の後、状況を把握したのか、竜達が一斉に大気を裂くような凄まじい咆哮を上げて襲いかかってきた。大地がまさにひっくり返るかと思われるほどに揺れ、轟音に覆われる。
振り向きざまに、目も眩むような光呪を放ち隙をつくると、すかさず右手で横薙ぎに払うように風を起こし、大地に力を叩き付ける。
反動で賢者の身体は後方に跳ばされるが、舞うような着地と同時に再び風を起こし身を跳ばす。
走り逃げる事など不可能である以上、風呪の力でようやく身を操っている状態であった。
地面が抉り、巻き取られる寸前に賢者は地を跳びそれを躱す。
風に舞う木の葉の如く捉えどころなく、追撃を掻い潜ってはいたが、攻撃する手段も取れない以上、いつかは力尽きて果ててしまう。そんな根競べのような状況であった。
(右から二体・・・後方より地を潜行するするもの一体・・・火竜は・・・前か?!)
冷静に状況を読みながらも、既に息はあがり、舞い上がる砂塵に晒された額には玉の汗が浮かぶ。立っているのもやっとのような弱々しさで、賢者は再び地を蹴った。
(あと少し・・・)
逃げる、という状況とは僅か異なる違和感に最初に気づいたのは火竜であった。
竜達の猛攻を避けながら、窪地の内側から出ることなく、賢者はふらふらと八方自在に逃げ続ける。
そう、まるで陣を描くように。
本能のままに暴れる獣とは異なり、高い知性を有する竜である。賢者の”意図”に気づいてしまう者がいても、無理からぬ状況ではあった。
最後、陣の一点を目指し跳躍したところで、灼熱の息吹が翠の賢者を襲った。
「・・・っ!」
間一髪、直撃を躱すものの、避けた勢いで地に転がり見上げた彼の目前に、火竜が再び炎を吐く姿が映った。
逃げ場を塞ぐように、円陣を描き炎が賢者を取り囲む。それを認識した瞬間、焼け付く高温の気流が、円の中で大地から吹きあがるように生じ、その身を飲み込んだ。
「・・・くっ・・・あ・・・アァッ!」
灼熱の洗礼を受けて、両手で身を庇う様に抱え大地に伏したまま身を捩る。
全身火傷で即死するには到らないところから、彼の抵抗力を奪うに十分なだけ、力を加減された攻撃であったと見て取れる。
事実、炎の輪の中で、賢者は既に息も絶え絶えであった。
逃げ場のない広大な大地で、複数の竜の追撃から逃れるだけ遥か遠方に転移を為す。
その為に、巨大な魔方陣を描いて魔力の集積を図ろうとした彼の目論見は、陣が完成を見るまさにその直前で断たれたのであった。
「・・・・・・。」
熱に歪む視界で、炎を纏った竜が身を屈めたのが見えた。
(これまでか・・・)
遂に観念した賢者が目を閉じた、その瞬間に”それ”は起こった。
<8>
音が生じなかった為に、事態を認識するのに誰もが僅かな遅れを取った。
一拍を置いて、僅かに目を開いた賢者の視界に火竜の姿はなかった。
大地を裂く鋭い軌跡を残して、遥か遠方に撥ね飛ばされた炎の竜が、片翼を手折られ、身を捩り怒りの咆哮を上げようとしたその時に、やっと遅れてきた”音”が衝撃波を伴って辺りを嵐のように襲った。
キィンと、それはまるで金属が擦り合わさるような音で始まり、続けて鼓膜を押し潰すような圧力を伴い世界を巻き上げる。
振り仰いだ賢者の目が、その姿を捉えるより早く、嵐の収まる前に、二撃目のそれが訪れた。
近くにいた地竜の一体が吹き飛ばされた。音さえ追いつくことのない、神速の烈風。
仰ぎ見ようと首をもたげた瞬間であったのだろう、堅い頑強な岩塊に覆われた身体の、唯一の弱点たる喉もと。蜥蜴の腹のような鱗に覆われた肉の露出するそこに直撃を受け、哀れにも音無き世界で首と胴が二つの岩塊と分かれて空を舞う。
一撃で竜を絶命させるその力の持ち主は竜に他ならない。
絵のように無音の世界は、次の瞬間再び耳をつんざくような金切音と共に、嵐に呑まれた。その感覚、力は、賢者自身が良く知るものである。
大地が捲れ、地に半身を埋める地竜の姿が、嵐に巻かれ否が応なく宙空へ引きずり出される。
ただ、呆然と天を仰ぐ賢者の前に、それは降り立った。
逆巻く嵐の、中心、その場所だけは風が凪いだようにただ、静かで音がない。
白銀の影がふわりと、優雅な仕草で地へ降りたつ。
乾き、色を失った大地には場違いなほどに、それは美しかった。
緩く翳された二対の翼は、鳥の羽のそれに近く、ゆらゆらと風に揺られて光の粒子のようなものを散らして柔らかくはためいている。
その肢体も鱗ではなく、ビロードのような艶やかな毛に覆われ、柔らかな羽飾りのようなものに彩られていた。二股に分かれた尾や頭上から伸びる二対の羽のように長い耳は僅かに翠色に先端を染め、緩慢に揺れている。
悠然と翼を扇いで地に降臨した神竜は、ほんの僅か、気遣うように、人影を護るように翼を翳した。
辺りを一瞥するように首を巡らせると、次の瞬間には甲高い鳴声と共に、白銀の肢体を捩り、孔雀にように翼を開く。
烈風が、空を歪めて膨らむ円のように、全周囲に向けて放たれたのが目視できた。
片翼で飛翔した瀕死の火竜はぎりぎり難を逃れたものの、地に潜行しようとした地竜の一体は、尾を根元から砕かれた。
逃れきれずに已む無く背を向けて、堅牢な岩肌で身を護ろうとした地竜は、真空の刃に右半身を裂かれ、続いて襲い来る嵐に身を晒すこととなった。
身体中を引き裂き砕かれ、凄まじいまでの絶叫が嵐と共に世界を揺るがす。瀕死の体で、しかし竜は最後の、渾身の力を持って大地を割り砕いた。
地が崩れる。
身も動かせぬ状態で、大地の崩壊に飲み込まれ、慌てて振り仰いだ賢者の目前で、壮絶な光景が展開した。
崩れる足場をかわし、襲い来る瀕死の竜を烈風で引き裂いた神竜の背後から、潜行していた地竜の一体が襲い掛かったのだ。
首元に鋭い牙を立てられて、風竜は空を裂く鳴声と共に身を反転させる。同時に地竜の喉元に食らいつき、二対の巨大な影がもんどりうつように絡み合い大地を打った。
「くっ・・・!」
沈む大地に飲まれながら賢者は、動かぬ身体で最後の詠唱を開始した。
直接、組み合えば力の勝負では地の竜に分があることは明らかだった。身を護る冑を持たぬ柔らかな風竜の身体には、凶暴な地竜の牙は容易に深く食い込んだ。
神竜たる風の王がその程度で敗北するとも思えなかったが、地竜は牙を立てたまま、もがく風竜の身体を地へと押さえ込み、大地の崩壊に巻き込ませるつもりであるようだった。
彼らの世界である地底の世界へ、諸共に引き込んでしまうつもりなのだ。
鳴動と共に割れ沈む大地と連動するように、周囲の大地が隆起し絡み合う。まるで巨大な生物が獲物を飲み込み口を閉じるかのように。
「風よ・・・!」
沈む大地が、完全に暗き穴を穿つ直前に、賢者は転移により二対の竜の狭間に身を投げた。
差し出した両腕が、溜めた魔力を支えきれずに、裂けて血飛沫を撒く事も厭わずに。
目の前にあるのは、地竜の喉元。大地の裂け目に呑まれながら組み合う二体の目前に転移した賢者は、そのまま、最後の力を解き放った。
真空の刃が音も立てずに駆け抜ける。
同時に体中の力を失い、その身は木の葉のように虚空に沈んだ。
甲高く、風竜の鳴声が遠くに聞こえた気がした。
見上げた頭上で、大地がまさにその口を閉じようとしていた。
突如、視界が流線を描くように歪んだ。
落ちたのかと、意識を手放そうとして、そこに。
空が、見えた。
黒雲渦巻く、死の大地の空。
風の音だけが静かに遠く聞こえる。
柔らかく、彼の身体を受け止めている白銀の竜は、遥か天空にその身を留めている。
絵画の中の、僅かな点の様に、眼下に崩壊した窪地が見える。幾本もの牙が噛み合わさるように。穴が開いたはずの大地は口を閉じている。
獲物を捕らえ損ね、滅びた地竜の姿はもはや確認できない。
僅か紅い点のように片翼の火竜が、遥か上空に舞うその存在に気づいたようで遠く咆哮が聞こえた。
甲高い鳴声で返す、白き竜は悠然と、僅かに嘲笑さえ感じさせる素振りで羽をばさりと鷹揚に振って見せる。
風王の恐るべき高速飛翔能力により、間一髪危機を脱したのだと理解したのはその時だった。
ぐったりと身を背に預ける。
ふわりと柔らかく受け止める羽毛が、心地よく、暖かく。ただ彼は例えようも無く幸せな気持ちであった。
再び白き竜が首を巡らせ、高く鳴いた。
次の瞬間、何の前触れもなく再度の高速飛翔に突入した。風圧は全くといっていいほど感じない。
変化した視界だけで、それを理解する。
ただ、流線の景色が不可思議な異世界のように彼の周囲を巡り続けていた。
世界は広く果てしなく、限りがないもののように思われた。
忘却の大地を、永きに渡り彷徨い続けた賢者でさえも、開けた世界を展望することは叶わなかったのだから。
どれ程の距離を飛行したのか知れなかったが、やがて黒雲立ち込める閉ざされた地を抜けて、一面の青空と白き雲海に満たされた天空へ抜けた。
飛翔の速度を僅かに緩め、広大な雲の狭間を滑空する。
ここに来てまさに、風王の姿と白き雲海の絵のような美しさが一体のものとして認識された。
ここが、彼らの本来在るべき世界と呼べるのかもしれなかった。
<9>
遥か遠い過去の記憶、この世に生れ落ちたばかりの幼き子供の頃から、彼は常に眠りを恐れていた。
眠りはいつも、甘い夢の果てに、裏切りをもたらすもののように思えたからだ。
夢無き眠りを享受したのは、一体いつの事以来か。
水。
目覚めたその瞬間、水の中にいることを理解した。
ごぼ、と気泡が水面目指して昇化する。
遠く、水面に反射する光が、透き通った翠の世界を淡く照らし出し、深き水底の世界に身体が浮遊するのを理解して、彼は目を見開いた。
認識とともに、感覚が蘇る。急激な息苦しさに襲われ、声も無く身もがいた。
「・・・っ、く、はっ・・・」
深翠の世界を掻き分け、音を立てて水面へ抜ける。新鮮な空気を求めて忙しない息が止まらず、掴む当てもなく手が水面をぱしゃぱしゃと掻いた。
明るい。
太陽はないが均一な光は眩しく、蒼穹の天蓋が彼方に映る。
雲は、遥か眼下に見えた。
そこは雲海の孤島のように、高く天へと付き出でた山峰の頂であるようだった。
開けた山頂には、不思議な事に十分な濃度の空気があるようだった。隆起した岩陰の袂に泉が湧き、草木が青々と生い茂る。
天上の楽園という言葉が相応しいような、そのような地であった。
泉の畔で息を整え、濡れた手元に目を落とす。
眠りに伴う意思の途絶が、彼の思考に僅かな混乱をもたらしていた。
「・・・・・・馬鹿者が。」
突如声がかけられた。
歌うような甘い声色。ひとしきり、余韻のように音が場に残る。
目を上げた先、泉の脇に段状に連なる苔むした石壁から、腰をかけていた長身で細身の人影が立ち上がった。
翠色の緩やかな長い髪。相対する青年自身と良く似てもいる白皙の容貌。
絹のような白く長い一枚の布地を簡易な腰帯で留め、裸足で佇む姿は、王の威容を感じさせるよりは、気まぐれに人の身に化身した精霊のそれである。
懐かしささえ覚える冷たい光を宿した紫色の瞳は、ただ静かに水に濡れたまま地に座す青年の姿を見据えている。
そこには感情の揺らぎはない。ただ無機質に、モノを観察するように、水に濡れる足元から頭まで、ゆっくりと視線が這う。
重い沈黙。
岩を滑り落ちる水音だけが、やけに大きく耳奥に響いた。
「・・・お怪我は、大丈夫でしたか、父上。」
思った以上に言葉は自然に出てきた。
さも当然に行ってきた、日頃の何気ないやりとりであるかのように。
むしろ、ほんの僅かばかり動揺とも取れる色を浮かべたのは風の王の方であった。
目を逸らし、所在無く視線を彷徨わせる。
「そもそも・・・地竜共と取っ組み合いなど、私の性分ではない・・・。」
「ええ、そうでしょうね。・・・相変わらず・・・逃げ足ばかりはお早いようですが。」
想いとは裏腹に、反射的に皮肉たっぷりの嫌味で返す。
地竜の牙に噛み裂かれた首元に跡が見えないところから、もう傷は既に完治しているのだろう。
一体自分はどれ程の間、水底で眠りについていたのだろう、と青年は幾分思いを巡らせた。彼自身、消耗した身体は既に癒えているようであった。
時など、彼らにとって然程意味をもつものではなかったけれど。
「?!」
突如、音も無く引き倒されて、視界が反転し、流石の青年も瞠目した。
見上げた視界を覆うように、鼻先の触れ合う位置に白磁の面が相対する。長く柔らかな髪が頬に落ちた。
肩を地に押さえつけられて、静かな目に間近で観察するように覗き込まれる。
そういえば、最後に別れたのは、彼がまだ”人”であった頃だったか。
人としての幸福な生を全うせよ、と言い置いて去った存在の前に。今の自身の姿を晒すことは、心地よい裏切りに他ならなかった。
時の輪廻から外れ彷徨い続けた、不可思議な”生物”が、神の目にはどのように映るのか興味深い。
頬を軽く唇が掠める。
続けて舌がちろりと、顎先を舐めた。次いで耳を、首筋を啄むように。幾度も温もりが辿る。
くすぐったさに青年は身を竦めたが、抵抗はせずに為すがままとなった。
例えるならそれは、小動物が興味深い玩具を見つけたときの仕草にも似ており、また我が子の毛づくろいをする親猫のような仕草でもあった。
・・・それは懐かしい感覚。この気まぐれな”神”の関心を獲得したその時だけ得られる、特別な行為。
耳にかかる吐息が、何故かとても熱く感じられる。
「・・・セティ」
耳元で、篭った熱が漏れるように、名が呼ばれた。
”セティ・・・”
久しく忘れていた感覚が波のように心を襲う。
まるで子供のように感情のままに、表情が歪んだ。
竜達が真名という言霊に支配されるように。
”名”が・・・”人”であった過去の記憶を呼び起こす。
揺れる紫玉の瞳を、同じ色の光が見つめ返してきた。
星の数程積もる、問いも言の葉も。
不思議と柔らかく、包みこむような視線に飲まれて霧散する。
言葉を紡ぐ前に、口が塞がれた。
深く、深く。
例えようもなく甘い交わり。
幼き人の子であった時分に、初めて、それを与えられてから、
一体どれ程の時が移ろい過ぎたことか。
潤いを得て初めて
飢えと乾きの深さを自覚する。
幾星霜の時を越えて
巡り会う奇跡の中で
それでも時は緩慢に
久遠の運命を遥か彼方へ紡ぎ出す
今はただ、幸福な邂逅に溺れれば良い・・・
知らず笑みが口許を彩る
そう
全ての竜を”狩る”と・・・決めた
ただその決意だけを深く、秘めやかに胸の奥に潜めたまま・・・