「わたしはお前を許さない。」
ただ淡々と。
死の天使の紡ぐ感情のこもらない言葉は、凍えた感触があった。
それは王子であって、王子でないもののような。
生死への概念を超越してしまったかのような、神性。
まさにそれは、風の持つ一つの顔であり、あの風王と同質の気配を感じさせるものだ。
トーヴェの村と同じように、村を囲う巨大な結界の全てが、風の眷属の掌の世界。
それは私達を捕えていた邪悪な闇の檻を打ち破ると、逆に黒き魔導士を追い詰めたのだ。
「一体・・・どういうことだ、これは!」
事前より、闇の使徒の来訪を予測し、罠を張った者がいる。結界を打ち消され、逃げ場を断たれて、狼狽するように、魔導士は壁際に後ずさった。
「ばかな!・・・何故、このようなことに?!」
「父上はわたしに村の命運を託された。わたしには、風の王国の民を護る責務がある。」
そういって、王子が左手を払うと、刃のような烈風が魔導士の右肩を裂いた。
本気なのだ。
本気で、この幼君は、闇の使徒の命を、その手で奪うつもりでいる。
穏やかな風も転じれば他者を寄せ付けぬ鋭さを持つ。
だがそれ以上に、凍えた気配を纏わせる小さな姿は徐々に異様な違和感を漂わせはじめていた。
「何故だ!この力は一体・・・。」
魔導士の驚愕は、私自身の驚きでもあった。
圧倒的な威圧感を持って君臨するその姿。大気に満ちる力の気配。
静かに佇む幼い姿が、まるで何者かに憑かれているかのように、歌うように言葉を紡ぎ始めた。
「・・・裁きの雷、浄化の炎・・・導きの風・・・、わたしは世界の”監視者”にして光を誘うもの。」
すぅと、横に反らされた身体はまるで宙に浮かぶように不自然な体勢で止まる。
「汚れは我等が調べの前に散れ。・・・闇よ、風の歌を聞き眠れ。」
「神子たる力に・・・既に目覚めているというのか?!いや、煩わしき、かの王の干渉なのか」
低く唸るように紡がれる言葉と共に、魔導士の周囲に風を払って瘴気が集まり始める。
「仕方があるまい!哀れな人形よ、その魂ごと骸に封じ連れ帰るとしよう!」
狭い石室を吹き荒れる風に、怨嗟の気配が混じり舞う。
だが呪を繰り出すのは、印を組む隙のあった私の方が早かった。
「光よ!我が元へ!」
魔導具と結界の力も借りて、凝縮された光の力が、空間を炸裂させる。
「風よ!」
同時に王子が手を振り上げて印を宙に描き始めた。細い右腕が三日月型の弧を描くように振られる。
「その姿、我が意に従い刃と転ぜよ!」
攻撃魔法を、王子が詠唱したところをはじめて見た。
小さな身体全身が射出台となったように、突きだされた両手を起点に、風の渦が矢のように魔導士に突き刺さる。
光と風による力の爆発が轟音と共に石室の背後の壁を削ぎ落とし。
私は自身の放った力に、しばし、呆然と立ちすくんでしまった。
大切な者達を護るためとはいえ、はじめて、人間相手にその命を奪うことを目的として力を放ったのだから。
だが。
噴煙の向こうに、再び人影が揺らめく姿を認めて背筋が凍りついた。
王子は”何か”に感づいたのか、周囲を厳しい目で見渡し小さく呟いた。
「この気配・・・この力。」
影が笑いを発した
その小さな含み笑いはやがて、狂気の哄笑へと転じた。
The Secret Horizon 5
戦闘訓練された高位の魔導士の実力は、想像を越えるものだった。
魔導を操る力は、魔力を遮る障壁、魔法防御能力の高さにもつながる。
高められた魔力による、私達二人分の攻撃をその身に受けて尚倒れない。
背筋を冷たい汗が伝い落ちる。焦りが鼓動に変じて煩い程に身を打った。
事態が膠着状態になればなるほど、体力も実戦経験もない自分達が自然と追い詰められることになるからだ。
そして更なる恐怖を呼び起こしたのは、今の私達の攻撃を遮った、”もう一つの力”だった。
この強大な風の結界の磁場に、干渉してきた何か、がある。
「・・・」
この場にいない何者かの存在に、風が、過敏に反応したのがわかった。一瞬、ざわめくように、空気が騒ぐと注意が空間のとある一点に向く。
壊れかけた闇の魔法陣が。
薄く、青白い光を放って命脈を保っている。
それはこの風の聖域の中で、暗い刻印のように凶々しい力をいまだ立ち昇らせていた。
「・・・マンフロイ様!どうかお力を!」
魔導士のかすれた叫びに空間全体が、呼応するように。重く、動いた。
それは。
暗黒の深淵から響いてくるかのような。
昏い、昏い響きだった。
全身が総毛立つように震えた。
恐怖、という名の感情が直接魂に刷り込まれるような、そんな錯覚を覚える。
何かとてつもなく禍々しく、重い、気配が近づいてくる。
遠くから・・・。
徐々に。ゆっくりと、大きく。
・・・近づいてくる。
どん、どん、と石室の空間全体が、木霊し、揺れるように感じた。
それは音、ではないのかもしれない。
耳元で聞こえるようでもあり、遠い彼方から伝わってくるようでもあり。
かすれるように小さく消えかける魂の叫びのような、それでいて空気を奮わせる重い執念の入り混じったような。
まるで何らかの意思が世界に直接這い出てきたかのような、圧倒的な”気配”であった。
「セティ様!」
本能的に危機を感じて、王子を護るように前に飛び出る。
「・・・魔法陣と通じた、どこか別の場所から、何か・・・何かとてつもなく強大な力を持った何者かが場に干渉しています!」
額から汗が伝い落ちる。身を押しつぶすような圧迫感に喉がつかえそうになった。
「詠唱を。」
驚くほど大人びた気配を纏わせた冷静な声色が、背後から的確な指示を返してきた。
「わたしが補助する。・・・闇を断つ、これが最後の機会になるだろう。」
私はただ必死だった。時間がないと、第六感のようなものが私に告げていた。
左手を前方に突き出し、右手を水平に払うと光の魔呪の詠唱を始める。
「3方の原理を頂になし、12の鍵を紡いで光を刃と成す!」
印を紡ぐと、周囲の大気が私を中心に渦を巻くように自然と集い始めた。
身の内に、これまで感じたこともないほどの力が満ちてくる。
対する黒き魔導士もまた、壊れた燭台を手に詠唱を開始した。
闇の魔方陣から溢れ出す瘴気が、膨大な力の渦と変じて周囲に引き寄せられる。
想像すらもしなかった、強大な力と力の衝突が果たされようとしていた。
この一撃で勝敗は決する。不思議な程に冷静に状況を傍観する心の一部が、それを伝えていた。
闇を祓う、最後の手段こそが、私が操る光の術法だ。
そして相克する光と闇の力の源泉は、人の心、その”想い”に他ならない。
目を伏せ、心の中で自身を支える様々な”光”の姿を思い浮かべようとする。
どれ程の深き闇の中にあっても、決して揺らがぬ自分だけの光を見出そうとするかのように。
脳裏の一点に凝縮された光が、眩く広がるように渦を巻いた。
光の中に薄く写る像。春の風纏う小さな影が目の前の闇に浮かんだ。
その口元が何か、言葉を紡いだように、見えた。
言葉が光の結晶となって、きらきらと闇に散る。
白光する世界。
周囲に次々と光が現れ、像を結び、浮かんでは消えていく。
村の人々の姿。貧しい極寒の地の農村で、懸命に生きる人々。
優しく、素朴で、時には厳しい言葉を交わしながらも、共に助け合って生きてきた。
例えどのような場所であっても、かけがえのない、・・・故郷の大地。
おにいちゃん・・・
妹の声が聞こえる。
いつも無理をして自分の前では明るく振舞って見せる、健気な少女。
胸の奥底から湧き上がるいとおしさが、光となって身を包む。
自分が護りたい全て。
自分が大切に想う全て。
「裁きをもたらす光よ、闇を断て!・・・ライトニング!」
光の奔流。
まばゆく輝く白きオーロラのような波が、世界を包む。
一方で闇が声無き叫びの影を宿して膨れ上がる。
火花が弾ける様に、ぶつかり合った二つの力は、激しい轟音と共に衝突を繰り返した。
突き出した右腕を空いた左手で支えながら、私は睨み据えるように前方を見つめながら精神を集中させる。
意思が折れれば、そこで敗北が決まる。
願うように、祈るように、私は持てる全ての力を放たれた力に注ぎ続けた。
しかしその”闇”は、白き世界の果てから襲い来る黒き霧のように、ゆっくりと光を浸食し始めた。
白く浄化された世界に混じった雑音のように、遠くから、掠れたように届く、音。
徐々にそれは大きくなり、途切れることなく世界を覆い始める。
音ではない。それが”声”だと気づいた時には、既に手遅れであった。
闇
昏く、圧倒的な闇の渦が、嘲笑うように光の世界を飲み込んでいた。
私は一瞬の内に、凍りつくような圧倒的な恐怖の波に飲まれた。
人の。無数の人々の。叫び声が聞こえる。
それは、短い生の中で精一杯の希望を見出した私の、ささやかな心の光などとは比べ物にならないほど、重い闇であった。
気が遠く成る程、長い歴史が紡ぐ人の宿業と。数えきれない程の数多の命が寄り集い上げる、叫び声。
愕然とした。
それは僅かな灯火をいとも容易く吹き消し、散らしてしまう程の絶望。
どれ程強い信念を持つ者が挑んだとしても、一人の人間の力など如何ほどのものかと思い知らされるような絶望の、波であった。
遠くに女性の叫び声が聞こえる。
それは命を絶たれる痛みを超えた、もっと悲痛な、何か。
己を失ってしまう恐怖に、愛する者達と引き裂かれてしまう恐怖に飲まれるような、長い、長く途切れることのない叫び声だった。
今度はすぐ近くで、唸り声のような低い嗚咽が闇を揺らした。
抑えようとしても漏れる激情が、昏い情念となって闇の底に澱む。
それは、やるせない後悔を伴った、そして怒りと復讐に拠り所を見出した者の発する静かな絶望の慟哭であった。
周囲が無数の絶叫で包まれた。
戦場なのか。それとも、力無き者が屠られる惨劇の舞台なのか。
辺りに轟く声、声、声。
人は、このような、声を出すことができるのだと。
人は、このような、声を出すことがあるのだと。
次々に重なる叫びの渦に、私は気が狂いそうになった。
それは鼓膜を裂く程に身を覆い、闇は叫びの影に形を変じて降り注ぐ。
胸を掻き、頭を抱え振る。己が身の内にドス黒い念の嵐が注ぎ込まれ、膨れ上がり、内側から身を破りそうであった。
僅か気を抜くだけで、魂もろとも塵と変じて叫びの渦に飲まれてしまう。
村の教会の司祭が、変わり果てた姿で骸となっていた、その光景が一瞬脳裏に過ぎ。
まさに、私が意思を手放しかけたその時。・・・ふと気が付いた。
暖かな、”何か”に、身が包まれている。
それは・・・
”風”だ。
風が、闇に呑まれた私の周囲で舞っている。
痺れるように感覚を失った、身体に、心に、風が触れてくる。
それはまるで命の芽吹きを伝える、春の柔らかな温もりを抱いているようであった。
風、が、残された僅かな光を護ろうとするかのように。
舞っている。
”光導く風の守護者”
・・・その言葉の意味を、唐突に、私は理解した。
私の心は、急速に煽られた熱を冷ましたように、冷静さを取り戻していた。
深く息を吸い、鼓動の高鳴りを収めようと試みる。
風の力を借りて、降り注ぐ絶望の幻を一つまた一つと、やり過ごしていった。
混濁した無数の叫びが、解きほぐされる様に一つ、一つ周囲に形になりはじめた。
幻のように、人々の姿が映り、消えてゆく。
それは全て過去の像であるのかもしれない。
右手には炎の海が見えた。
左手には深い洞穴の底で震える、数多の人々の姿が見えた。
幾つもの幻が、周囲を巡り散り消えていく。その中で。
ふと、耳を不思議な歌声のようなものが掠めた。
僅か気になり身を向けた途端、急に視界が開けると、一つの白い幻が私を飲み込んだ。
・・・幻。
ふわふわと現実味のないその世界は、水の中に映る影のように霞んで揺れていた。
そこは開かれた天空の祭壇・・・なのだろう。
荘麗な装飾柱が、天に向けて威光を示すように聳え立つ。
しかしその白く輝く大理石の床は、今は血と屍に穢れていた。
辺りには無数の兵士達の骸。
そして汚らわしい、黒き蛇の群れが地を覆うばかりに溢れ、兵士の骸に群がっている。
おぞましく、身の毛もよだつような光景が一面に広がっていた。
揺れる幻の中で遠い黒点のように、ローブを纏った一人の男の姿が浮かんだ。
巨大な杖を掲げて立つその姿に、私は全身が震えた。
黒き、闇の使徒。
だが、自分が見知る相手とは明らかに異なる。
より禍々しく、より強大な、存在。
その闇色の姿を目に映すだけで、緊張に全身が強張った。
引きつけられるようにその存在に注目すると、幻は祭壇を望む遠景から近景に映り変わった。
「・・・!」
私は驚いて声も無く、足を踏み出した。
闇の魔導士が掲げる巨大な杖は、黒い生きた蛇により形づくられており、青白く発光するように力を放つ杖の上端には・・・。
「セティさま!」
私はその幻の前に驚愕の叫びを上げた。
咄嗟に駆け寄ろうとするも、身体は意思から切り離されたように動こうとしない。
それは良く見知った、幼き王子の姿だった。
無数の蛇に身を絡み捕らえられて、暗黒の杖の一部に組み込まれるように拘束されている。
血の気の引いた表情は、恐怖以上に哀しみの叫びを張り付かせたまま強張り、見開かれた目は瞬きもせずに足元の床を見下ろしている。
その視線の先には、一人の女性が倒れていた。
王族が身に纏う高貴な衣装を身につけ、艶やかな黒髪を散らして息絶えるその姿。人の外観をかろうじて留めるに過ぎないほどの血海に沈んだ細き体躯。
私の背筋を震えが走った。
その恐ろしい光景のせいばかりではない。
その女性が何者であるのか、確信に近い、予感めいたものが私の脳裏を走ったからだ。
そして振り仰いだ目の先、祭壇を背にして立つ二人の男女の姿が目に入った。
一人は、王妃様だ。
白銀の天馬騎士の甲冑に身を包み、細身の槍を携えて緊張に張り詰めた表情で身構えている。
一人は、・・・おそらく陛下だ。
白く丈の短いマントを風に翻しながら、静かに魔導士の姿を見据えている。
鼓動が耳の奥で高鳴り、せり上がってくるような錯覚に支配される。
何か自分が、見てはいけない、葬られた歴史の瞬間に立ち会っているのではないかという、焦燥感のような感覚。
だが、目の前の男女共に、自分が知る者とは、僅かばかり、何か、が違っているようにも思えた。
王妃様は身体が弱く、吹く風に消え散りそうな儚なさを感じさせる人だったが、目の前の気高き騎士の姿からそのような印象は微塵も受けない。
陛下もそうだ。
肩程までに短く切られた髪のせいかとも思ったが違う。
冷たい翠の瞳の内には燃えるような激情の炎が宿り、魔導士を射抜くように睨むその姿は、圧倒的なまでの存在感と威圧感を湛えていた。
くっくっと喉を震わして、ローブを深く被った得体の知れぬ男が笑った。
「ここまでのようですな。・・・クク、如何様なお心持ちであるか。」
「愚にもつかないことを・・・。」
陛下が搾り出すような声で返した。
「このようなことで、この俺を、討てるなどと本気で思っているのか・・・。」
それは地を這うように低い声色だった。激情を宿す瞳が、虹色の光を揺らしながら細められた。
「さて。確かに難儀であるかもしれませぬが、周囲の者の協力を仰げばどうなりましょうや・・・」
慇懃無礼な態度を変じ、不遜な素振りで魔導士が黒蛇の杖を眼前に掲げる。
「あ・・・ぁあ・・・」
拘束された王子が、言葉も紡げないでいるのか喘ぐように喉を鳴らした。
その全身から立ち昇る青白い影こそは、絶望が変じたものなのか。
群がう黒蛇達がしゅるしゅると、力を得て歓喜に鱗を擦り合わせると、幼い身体が苦しげに身を捩じらせる。
「幼子の心を壊すのは、いとも容易いこと。そうは思いませぬかね・・・」
「セティ!」
王妃様が耐え切れなくなったかのように、悲痛な叫びを上げた。
「神子が我が手中にある限り、王よ、そなたが我を討つことは出来ぬ!」
言葉と共に、魔導士の周囲に重暗い瘴気の渦が生じ始める。
その強大な力を示すように、黒雲が集い大地を揺り動かした。
「戯れは終わりだ、風王!・・・人の手に穢されながら久遠の闇底へと堕ちるがいい!」
「その言葉、そのまま返してやろう」
陛下は静かにそう言い放つと、ゆっくりと右手を高く天に向かって掲げた。
一瞬。無音が世界を支配した。
時が止まってしまったのかと私には思えた。
「司教、これで最期だ。その魂もろとも、時の狭間へと消し飛んでしまえ!」
キィィンと、金属が擦り合わさるような音、が遠くから聞こえてきた、ような気がする。
瞬間、捲れ上がる石床と嵐に閉ざされた視界に、何が起こったのか状況が把握できない。
ただ、私は必死に、喉も張り裂けんばかりに叫んでいた。
闇に囚われた幼い主の姿を探して。
轟音。閃光。音無き真空の刃が時空を引き裂き、視界を歪ませる。
天罰。
例える言葉があるとすれば他には見当たらない。
それは天がもたらした大いなる厄災の証。
圧倒的な風の神威は悉く闇を吹き消し、塵のように周囲の視界は次々と千切り飛ばされる。
轟音と共に幻は途切れ、意味を成さない一枚絵のように景色の断片が舞い散った。
その中に、何か、を私は確かに見た。
だがその”何か”は認識へと昇華される前に、意味を成さない夢の切片となり心の中を通り過ぎた。
闇が薄霧のように晴れて、散っていく。
白煙が風に呑まれ、空高く巻き上がった。
耳の奥で脈打つ鼓動と共に、私の意識は急速に現実感を取り戻した。
吹きすさぶ風に晴れた視界。小さな石室は完全に崩壊し、崩れた壁の向こう側に、硬く赤茶けた岩の連なる崖が見えた。
闇の魔法陣は既に力を失い、砂模様のように、風に吹かれ目の前で霧散し消えていった。
熱風が白と黒の煙の筋を巻き上げて渦を描くように走った。視界が開け、眼下には炎に包まれた教会が見える。
闇と光に祓われた空間に、魔道士の黒き影がゆらりと浮かび上がった。
真空の刃に切り裂かれた黒いローブを翻し、黒ずんだ影が火の海の中に佇む姿は、まるで異界から這い出した死神だ。
吹きあがる炎は石造りの霊廟を取り囲む檻のように周囲を覆い、閉ざされた舞台を彩っている。
全ての力と意思、魔力を使い果たしてしまった私は、今や立っているのがやっとの状態であった。
もはや考える力すら残っていないのではないかと思われるほどに、身体は重い棒切れの如く、ただ地に支えられているのみであった。
あの恐るべき闇の中から、生還できただけでも奇跡のように思えた。
「おのれ・・・」
低く唸るように漏らされる、呪詛のような言葉。
ぐらり、と目の前の黒い影が大きく傾ぎ、ふらつく足取りが地を2・3度踏み叩いた。
勝負は決していた。
私は闇の魔呪のもたらす怨嗟の海を乗り越え、そして私の放った光呪は闇の魔道士の精神を、浄化の白き力で焼き切っていた。
魔道士の顔は死人のような土気色に変色し、目は空間の一点を凝視したまま狂人のように瞬きもせずに見開かれている。
やがて言葉にならないまま口をせわしなく開閉させたかと思うと、赤い血の筋が魔道士の口の端から伝い、ぽたりと地に染みを作った。
「終わった・・・のか?」
放心したように、私は知らず呟いていた。未だ緊張感から解き放たれない身体は思うように動かない。
これで勝負がついていなければ、今度こそ、終わりだった。
「よくやってくれた。」
静かな声が、背後から聞こえた。
「セティ様・・・」
安堵と警戒、確認の意思から、反射的に振り返り。
瞬間、心を直接冷たい手で撫上げられたような感覚に襲われ、全身の血の気が引いた。
紫色の瞳が。
風に荒れる力場の最中で、感情を宿さないガラス玉のように鈍く輝いている。
ドクンと。心音が耳許で一度大きく響いたまま、鷲づかみにされて止まったような感覚。
冷たい虚無の不安感に胸を掻き乱される。
「セティ・・・さま・・・」
凍えた硝子の瞳が私を捉え、幼い口許が艶やかな冷笑を刻んだ。
触れがたい程に神々しく、底知れぬ恐ろしさ。
”それ”は、軽やかに踊る風を身に纏わせて、魔導士の正面へと歩み出た。
まるで終末の世界のように辺りは炎に包まれ、黒煙が崖の淵から沸きあがる。
崩れた壁の残骸を背に、魔道士は必死に後ずさりながら、目前に歩み寄る存在の前に顔をひきつらせた。
「く、この、力・・・お前はいったい・・・」
追い詰めた獲物を狩る合図であるかのように、ゆらりとその繊手が掲げられる。
「セティさま!」
私の叫びは、空しく、炎舞う虚空に木霊して消えた。
音が、失われたかのような一瞬だった。
それは風、であったのかすら判別できない。
目に見えない力が、一瞬の間に魔道士を吹き飛ばした。
まるで、炎の海に散る脆い木の葉のように。
その光景は、一刻、一刻が私の脳裏に刻まれるように、ゆっくりと、流れていった。
崖の中腹に位置する崩れた霊廟の下には、炎に包まれた木造りの教会が、崩れ落ち燃えている。
成すすべもなく宙に放り出された、ボロ布のような黒い人型の塊は。
放物線を描くように、落ちていった。
多くの村人達が、その瞬間を見ていた。
鋭く、高く伸びる教会の尖塔。針のように細く伸びるその木杭の上に。
神に背いた罪人が受ける罰を知らしめるかのように。
村人たちも、私も、決して忘れることはないだろう。
赤く燃え盛る炎に照らされた教会を。
黒く影だけが映る尖塔に貫かれ果てた、闇の使徒の姿を。
終わった・・・
今度こそ本当に。
食い入るように眼下を見つめながら。
だがしかし、安堵と達成感よりも、恐怖と不安がいまだ心を食んでいるのは何故なのだろうか。
冷たい汗が握る手の内を滲ませていた。
「セティ・・・さま・・・」
枯れたような声で、崖淵に佇む主の小さな後姿に声をかけた。
早く風下から崖を降りねば、火に巻かれてしまう。逃げなければ、と頭でわかっているにも関わらず。
何故かその顔を見ることに不安を感じて、身を動かせないままでいた。
「・・・っ!」
ぐらり、と。
その幼い身体が横に傾いだ。
慌てて駆け寄ると、重さを感じない羽のように軽い身体がとさり、と腕の中に崩れ落ちる。
「セティさま!」
「・・・っ・・・コホッ・・・」
途端、鮮血が咳とともに口から溢れ、腕の中の身体が細かく震えた。
「な・・・いけない。直ぐに村に下り治癒を・・・」
強大な力を身に降ろした代償なのか。
幼い身体には耐え切れぬ程の負荷に、王子の身は知らず食まれていたようだった。
「・・・ホーク・・・」
弱々しい声に覗き込むと、柔らかい翠色の瞳が不安そうに見返してきた。
己の良く見知ったその瞳の光に、知らず安堵する。
「・・・これで、良かった・・・よね。みんな・・・これで・・・」
「ええ・・・ええ王子。もう大丈夫です。村は・・・救われました。」
「うん・・・」
弱々しい微笑み。
それを見た瞬間、何故か心の奥底から痛みを伴うような不思議な想いが沸き上がり。
私は抑えられぬ感情のままに、小さな主の身体を強く抱きしめていた。
得体の知れない焦燥感に恐怖、漠然とした不安。
それはありとあらゆる想いの入り混じった感覚。
そして胸に抱く確信。
・・・この闘いは”終わり”ではない。”始まり”であるのだと。
何か、がこの世界で起きている。
否、起きようとしている。
そして腕の中のこの人は。違え様もなく大きな宿星に未来を支配され。
恐ろしい業火の中に、自ら身を投じていくことになるのだと。
「うん・・・」
胸の中でもう一度、甘えるような吐息が漏れた。
ただ、この存在を、護りたい。
やがて翼を広げて空に舞い、天に帰る定めにあるものだとしても
この大地に
その存在を繋ぎとめておきたいと願うのは
罪なのだろうか・・・
私は、こうして
村を救った英雄となった。
村は悪夢のような襲来を奇跡的に切り抜けることができた。
象徴たる教会は無残に焼け落ち、司祭や警備兵をはじめとする少なくはない犠牲者の存在は、黒き闇の爪痕を、恐怖の記憶と共に人々の心に刻みはしたが。
黒煙を纏う尖塔の影を前に、しかし生ある者は互いの無事と子供達の帰還を、涙と共に分かち合った。
誰もが皆、歓喜の声で私を迎え、崇敬の眼差しを向けてきた。だが、私の心が喜びに晴れることはなかった。
幼い王子はそのまま、目を覚ますことなく。死んだように昏々と眠り続けたのだ。
ことり、ことりと
規則的に刻まれる水車の音
村外れの小さな粉挽き小屋の、間借りした小部屋の奥。
静かに眠り続けるちいさな主の、日頃、見ることも滅多に叶わない寝顔は、血が通っていないのではないかと思われる程に白く、儚い面差しで。
手を捉えていなければ、今にも消えてしまうかのように存在感を感じさせない。
まるで、人ではない。透き通った精霊が、そこに在るような。
命に別状はないはずだという確信はあるのに、募る不安に、私は眠れない日々を過ごすこととなった。
悪夢襲来の日から5日が過ぎ、村は徐々に落ち着きを取り戻し始めていた。
広場の中央に揺らめく焚き火の、薄く細い紅の舞を眺めながら、私は深い迷いに沈んでいた。舞踏を誘う明るい鼓の音が月夜を彩り、幾つもの軽やかな影が明かりを囲んで交差する。大人達はこれがとっておきの贅沢とばかりに酒樽より安酒を持ちだしてきては、顔を赤くし笑い声をあげていた。
それは貧しい村人達の手による、精一杯の宴であった。恐怖の傷痕を過去のものとし、悪夢を忘れ去らんとするために。
村の復興のために考えなければならないこと、危急の対応を要する課題は数多くあった。
私は休む間もなく、この数日の間に、大人たちと共に忙しなく村長の代理としての働きをこなしていた。
近隣の村と王都に特使を送り、助けを請い資金の工面を求めた。だが貧しい村でおきた奇怪な事件など、王都から見れば手当ての価値もない程に瑣末な出来事である。黒き魔術師の襲来の件と、至急の調査を依頼するも、帝国の官吏には一笑に付されたのみで相手にはされなかった。
近隣の村も同様だ。復興支援と守備兵の派遣に精一杯の協力を約束してくれたものの、貧しく余裕のない状況に変わりは無く。気味の悪い事件への恐れもあり、村そのものの存在が腫れ物に触るように忌避された。情報の遮断された貧しい村ではよくあることだ。彼らを責めることはできない。
我々は自らの力で助け合い、乗り越え、これからも生きてゆかなければならなかった。
村は私を必要とし。
そして皆、当たり前のように私が村に残るものと信じていた。
「おにいちゃん、だいじょうぶ?」
か細い声に振り返ると、妹が心配そうに顔を覗き込んできた。手には山羊の乳を煮込んだスープを入れた、小さな木皿が二つ。
「えいようのつくもの、たべないと」
「フェミナ、・・・お前こそ、身体はもう良いのか?」
「うん」
ちょこん、と嬉しそうに首を傾げると、私に木皿を押し付け、妹は隣に並んで座った。宴が運ぶ、ひとときの非日常感。ゆるやかに、穏やかに流れる時間。
まるで、全てが夢物語の世界であったかのようだ。
最初から、そう最初から何もなければ。得ていたもの。過ごしていたはずの時間。
・・・それはずっと私が求め続けていた、貧しいながらもささやかな幸せに囲まれた日常の姿。
「こうして後姿だけ見ると、我が村が誇る賢者様も、何だかんだでまだ年端も行かない子供なんだと思うねぇ」
背後から肩を叩かれて見上げると、紡ぎ屋の旦那とおかみさんが、香ばしく焼き上げたばかりの七面鳥の丸焼きを抱えて現れた。
「大人も顔負けの知識に、不思議な魔法の力。・・・本当に、御伽話の世界の勇者様みたいになっちまって、あんたは。」
「・・・私は」
満面の笑みで背を叩かれ、思わず困り果て目を反らしてしまう。村の人々は私一人を英雄扱いしているが、本当は違う。
未だ眠り続けるあの幼い風の化身が、村を守り、邪悪を祓う力を私に与えてくれたのだ。だがその事実を話すことは許されない。
そう、そして。全てが解決した今、私が本当に望むことは・・・
「おにいちゃん?どこへ」
徐に立ち上がった私を不思議そうに見上げて妹が声を上げた。
「いつまでも、皆に囲まれて、こうしているわけにもいかない。」
「ホーク?」
「おかみさん、すまない。連れの・・・容態が心配なんだ。流石に、5日も目を覚まさないと・・・」
宴の場を立ち去りかけた私の言葉に、紡ぎ屋の夫婦が不思議そうに顔を見合わせた。
「連れ?いったい誰の事を話しているんだい」
「何を言っているんだ。借りている水車小屋の、・・・?!」
言いかけて私は、突如背筋を駆け上がるような衝撃に支配された。
それは不安という名の一抹の予感。
「お前こそ何を言っているんだ、ホーク。お前さんは最初から・・・」
「おにいちゃん?!」
紡ぎ屋の旦那の言葉を最後まで聞き終えることなく、私は駆け出していた。
鼓動は喉元までせり上がり、急速に脈を早く打ちつけた。まるで夢の中を駆けるときのように、焦燥に反して足は前へと進んでいないように思える。
宴の人波を掻き分け、小川の細道を転げるように駆け下り、村の外れの水車小屋の扉を蹴るように開ける。
不安は常に警鐘を鳴らしていたはずなのに、傍を離れた。それは私の、過ちだ。
「セティさま!!」
ことり、ことりと
水車の回る規則的な音だけが
がらんとした小屋の中に響く
もとより、”誰も”そこにはいなかった・・・
粉挽き小屋に設えられた古びた小さな寝台は、歳月を偲ばせる埃を被ったまま、月の青白い斜光を受け止めている。
空虚な喪失感と共に、私はただ立ち尽くす他なかった。
宴の喧騒はもう私の耳に届かなかった。
粗末な布袋に最低限の荷を叩き詰めると、私は飛び出した。
途中、片っ端から村人をつかまえては、幼い主の行方を問うものの、返ってくる答えは皆同じだった。
その存在も、そこに在ったという”事実”ですらも、まるで霧が晴れたかのように忽然と消えてなくなる。
・・・そんな、ありうべくもない現実を目の当たりにして。
「ホーク!いったいどうしたんだ。何をそんな急に」
「すみません、村のことを頼みます。私は行かなければならない!」
「いったい何故、何のために?!この村はお前を必要としている。故郷を・・・お前はまた捨てるとでもいうのか!」
「ちがう!・・・私は」
引き止める手を振り解く。元より、迷いを抱く余地もなかったのだ。
何も終わってはいない。はじまりを告げる重き鐘の音は、引き鳴らされたばかりだったというのに。
私が果たすべき使命、護るべき未来、踏み入れた世界の大きさ。全ては生半可な覚悟で臨めるものではないことを、目の当たりにしたばかりだというのに。
「いつの日か・・・そういつか必ず。だからその日まで、どうか許してほしい。私には果たさねばならないことが!」
背に縋る人々の声を振り払い、ただ無我夢中で私は村の出入口を目指して駆けた。
粗末な門扉の前、佇む妹の姿が視界に入る。だがここで足を止めるわけにはいかない。
妹は私の姿を認めると、静かに指先を暗い森の木々の先、小高い丘陵へ向けて差し出した。
月が、煌々と天より睥睨するかの如く地を照らす。
「おにいちゃん・・・あっち、・・・うた、がきこえるよ」
妹の言葉を受けて、擦れ違うその一瞬に、目だけで私たちは想いを交わし合った。
もう振り向くことはできない。
そうしなければ、これから対峙しなければならない運命に立ち向かうことは出来ないと、知っていたから。
月明かりを湛え、無音の静けさを宿した小さな丘。
息が上がり、眩暈がするほどに鼓動が胸を打っていた。
半ば枯れて傾む一本杉の根元に、今にも消え入りそうに細く揺らぐ、白き王の御影を捉えて、転がりこむように白雪の大地を掻き分けた。
最後に、拝謁を許されたのは、僅かなりとも試される価値はあると、少なからず評価はされたということか。
上がる息を必死で整え、白雪の大地に片膝を付き跪く。
「陛下!」
「誓約は、果たされたようだな。」
その姿は、振り返ることもなく。ただ静かな声のみが場を支配した。
目を凝らして捉えていなければ瞬きの間に消えてしまうのではないかと思えるほど、視界に写る姿は遠く、だがまるで耳許で囁かれたかのように美しい音が降りてきた。
逸る心を必死の思いで押し留め、言葉を一つずつ、誤らぬよう選び取る。
「妹も、村も・・・救うことが叶いました。闇を祓い、魔に打ち克つ光を得られたこと、すべては陛下より賜りしご加護、尊き御厚情あってのことでございます。」
「なれば・・・今になり、何をそう急いている」
苦しい。今この場でたった一つ言葉を選び損ねようものなら、もう2度と。まみえることが叶わなくなるであろう。
慎重に、冷静にと己が心を御する。
「今、此方に在るは、風司る神使の君・・・その御力に救われてこそ。王子は、・・・今は何処に?」
「・・・・・・」
ゆっくりと、王は振り返った。風が古木を揺らし、小高い丘の上から、威圧的な光に見下ろされる。
心を射抜くような、冷たく強い紫色の眼差し。
「・・・既にあれの役目は果たされただろう。お前が気を掛ける必要はない。」
「畏れながら」
私は雪中に膝をついたまま、目を反らすことなく必死で食い下がった。
「かの尊き御身と共に在ることが我が誓約の代償。使命と心得ております」
「誓約は”果たされた”と告げたはずだ。」
「・・・・・・」
「お前は自由を得た。いまさら己が枷に再び自らを繋ぎ留める必要もあるまい。」
風が。一瞬ふわりと身を包み、不思議な暖かさを感じた。何故か懐かしさを感じさせるような感覚。春薫る風を運ぶかの人の。
遠く影のように揺れる視界に映る、王の表情が。意外な柔らかさを宿していることに気づいて、私は息を呑んだ。
この存在が、慈愛に近しい感傷を僅かでも持つというのであれば、このような表情(かお)をすることも偶にあるのかもしれないが。
そう、私に。
最後の、”選択肢”をくれてやろうと言うのだ。
今、私が選びとらんと手を伸ばす道は、深潭の闇より襲い来る、修羅を呼ぶ嵐に自ら身を投じるに等しい行為。
一度足を踏み入れれば、もはや二度と引き返すことは叶わない。
今なら、まだ間に合う。光満ちる世界へ戻り、自分を必要としてくれる多くの人々と共に歩む道を、選ぶことが。
「陛下!」
だが振り返るつもりはない。迷うこともない。私が得た一握りの”真実”。それが今は自身の揺ぎ無い道標(みちしるべ)となっているのだから。
「我が身、我が魂、例え炎獄の業火に焼かれ尽き果てることになろうとも」
吹き渡る風が次なる居所を求め去らんとするように、背を向け歩み去ろうとする、その姿に向かって私は必死に叫んだ。
「全て、我が誓い捧げし御君の為に。影となり、いつ如何なる時も傍に在り、身を盾とし、お護りいたします・・・だから!」
信じているのは、自分だけなのか。私と、王子の間に、別ち難い確かな絆があるのだと。
それを今更、”なかったこと”にすることなど出来ない。
まるで夢のように、全てを忘れて生きていくことなど、耐えられない。
「ならば・・・」
”証” を見せてみよ
風は最後にそう告げ
そして静かに消えた。
私が。
今度こそ自分自身の、偽り無き意思を示したその時に。
再び契約は交わされる。
力も、覚悟も無き者に。”本当の”役目は果たすことはできない。
はじめから。風王は、私を試すつもりであったのかもしれない。
だが私以外の誰が、この使命を成す事が出来ようか。
胸に秘めた決意を天へと捧げるかの如く。祈るように、雪原の丘に浮かぶ月影を仰ぐ。
今、私の目の前に広がるのは闇ではない。
冷たくも鮮やかな輝きを示す北天の星の輝きを目指して。
私は白雪の大地に、確かな一歩を刻んだ。
すべてはここからはじまるのだと。
こうして
私は、姿を消した幼き主の面影を求めて
再び旅立つこととなった。
その後
引き離された私と王子が再会に至るまで、実に2年もの歳月を費やすこととなるのだが、これはまた別の話。
閉ざされた北の大地。小さな貧村で起きたこの事件が、正史に記録されることはないだろう。
奇怪な惨事の真相は闇に葬られ、また残された人々による復興は、困窮を極めたと後に聞くこととなった。
それでも、暖かく純朴な村の人々は、生を受けた大地と共に暮らすささやかな営みを、必死になって護り続けたのだ。
そして私は、古き約束を果たし。
10数年の時を経た後に、懐かしき故郷の地を、再び踏むことになる。
大戦の終結と共に、国に帰還し即位した若き国王は、この名も無き辺境の村を突如視察先の一つとして選んだのだ。
王に近従する私の姿と共に、村の人々は、そのときはじめて、失われた事件の真実の一端を知ることとなった。
国王の指示のもと、廃墟として寂れていた教会の復興が大規模に行われ。
長き年月を経て、再びこの大地を、暖かな風の息吹が包むこととなった。
そして、風が齎した加護は、ひとときの夢に留まることはなかった。
やがて、村は巡礼の大地”風還る地”と呼ばれるようになり
集い来る数多の人々と共に、豊かになり、富み栄えていくこととなる。
そう、それは今はまだ語られぬ遠い未来の話ではあるが。
SSTOP BACK