私が風の眷属達に仕えるようになってから、1年の月日が経とうとしていた。
 

 トーヴェ近郊の村での生活は、確かに王都のそれと比べたら、貧しく不自由であるかもしれないが、暖かくささやかな幸せに満ちたものだった。
 陛下は何故かいつもどこかへ出かけていて、家族と共に過ごすというようなことはなかったが。
 身体が弱く、床に伏せがちな王妃様は、それでも村人達から特別扱いされることを望まず、出来る限り自立した生活が送れるように、世話人も手伝いの者もほとんど置こうとはしないのだ。
 とはいえ、そこは小さな村。
 私もまた、家族の一員のように迎え入れられ、素朴で暖かい村人達と、共に助け合いながら彼らの面倒を見ることが出来た。
 
 一時の戦乱の喧騒は、既に過去の歴史となったかのように。
 まるで永遠に、この静けさが続くかのように。

 
 
 時すらも緩やかに流れるかのような、静かな生活の最中、私は常に王子と共にあった。
 一日中、その小さな手に余る程の大きさの書物にかじりつき、貪欲に知識を求めるその姿を見て思う。
 この幼子の中の、何が彼をここまで駆り立てるのかと。
 
 彼は自らの欲求を口に出すことはほとんどしなかったが、書物に関しては別だった。
 必要な書物を手にいれるために、私を含め周囲のものは奔走する羽目になったが。それでも唯一つの王子の望みを叶える為に、労力を惜しむ者はいない。
 何より、喜ぶ王子の顔が見たいのだ。その為に、トーヴェの小さな村の小さな館は書物で溢れ返ってしまった。
 書に埋もれて眠りにつき、書に囲まれて時間を費やす生活。
 大人が読むにも難度の高い魔導の書も、流石にまだ、読みこなす程には至らないせよ、それでも一度開いてしまうと数時間も張りついたまま動こうとしなくなってしまう。

 

 手に入りにくいあらゆる道具について、彼は工夫してそれを創出してしまった。
 樫の木の小枝に、柊の枝を編みつけて創った小さな杖。
 石灰粉に赤鉱石を砕いて混ぜたチョークで、山羊の皮をなめして繋いだ敷物に、二人で半年がかりで、魔法陣を描いた。
 蜜蝋を練って自作した蝋燭の呪を用いて、村近郊の洞穴で採れた水晶の破片を加工した魔石から、自作の魔導具をつくって嬉しそうにみせてくれる。
 まるで同齢の子供達が、身の回りの玩具に興味を示し創意工夫をこらすような自然さで。



 この賢明な幼子に必要な守人として、私はものを教える教師ではなく、共に知識を探求する者であらねばならなかった。
 基本的な魔法学と、初歩の古代語は教えられるにせよ。帝王学、兵法、史学、法学、神学、薬学、農学、詩学、天文学、数理学、占学・・・。優秀な専門家が幾人も付くはずの、王家の世継ぎの学習範囲をカバー出来るわけも無く、時折、王妃様の助けを得ながら、共に書を読み解きながら学ぶのが精一杯だ。
 その上、王子は、逆に難儀な命題を次々と与えるものだから、私は彼自身に構う余裕もなく、隣で研究に没頭する羽目になった。
 つい先日にも。どこから見つけてきたのか、やたらに難解な古代語で記された、ボロ布のような本を抱えてきては、訳してくれとせがまれた。これが大変に厄介な代物で、古代語は自分の専門分野であるにもかかわらず、さっぱり解読できないのだ。どうやら、神々に関する伝承を記したもののようであることまではわかったが。
 私自身、王都において、子供でありながらも実力を認められ持て囃されたのにも関わらず。この幼子の、足元にも及ばないことをすぐに自覚させられた。
 知識の量が問題ではない。
 この人はあらゆることにおいて自らに甘えを許さないのだ。
 その精神力たるや、もはや子供のものとは思えない。私自身、追いつくことで精一杯な程だ。
 既に自らが背負って立つ宿命を自覚しているのか、それとも小さな妹や病に伏せがちな母の面倒を見なければならないという気概を持っているのか。
 身に纏う清涼な風の気配も、その能力も、彼が”特別な存在”であることを、否応なく周囲に知らしめていたが、それでも尚、不思議な暖かさがこの人にはある。
 人に馴染み易い穏やかな性格といい、周囲を安心させる存在感といい、幼いこの王子は既に多くの者に信頼され愛されていた。





 彼の、知識を探求する執念が、果たして皆の考えるように、使命感や純粋な欲求からくるのか、身近で共に暮らすほどわからなくなる。
 例えば・・・驚くべきことに。この幼子はほとんど睡眠をとらないのだ。
 王妃様でさえ、赤ん坊の時以来、彼の寝顔をほとんど見ることができなくなったと言って苦笑していた。
 誰よりも遅くに床につき、毎朝、日が昇るより数時間も前に一人で起きだす。
 身体を壊すと叱って聞かせても、無駄なのだと言う。それでも、あの子なら自己管理出来るはずだから、もう諦めたわ、と笑う王妃様は、言葉以上に小さな息子に信頼を寄せているようだった。
 しかし主である王子に合わせようとした私は、すぐに身体がもたなくなってしまった。
「ホーク、むりしないで。私のわがままに付き合っていたらたいへんだよ。」
 王子に心配されて気を遣われると困りものだ。
 睡眠不足で青い顔をした私を見て、申し訳なさそうにそう言いながら、彼は周囲に迷惑を掛けまいと、寝る振りなどしてみせるけれども。しかし実際は、床の中まで書を持ちこんでしまうのだ。
 王妃様が彼の少ない我儘を許容してしまう理由がよくわかる気がする。とにかく好きなようにやらせておいて、見守るのが一番だと、私も諦めて自分のペースをつくることにした。
 
 どうしてそんなに無理をするのか、と、一度聞いたことがある。
 むりしてるわけじゃない、と王子は笑った。
 好きなものを、より良く知りたいと思うのは当然じゃないか、と。
 
 時に取り残されたような村の中で、まるで何かに急かされるかのように。・・・私達だけが時間に追われていた。








 村の生活に不満はなかったが。
 唯一つ、私の心には大きな懸案が残っていた。

 郷里に残してきてしまった、小さな妹のことだ。
 妹は重い病に苦しんでいる。いや、正確に言えばそれは、・・・病とは呼べない。
 
 あれは・・・恐るべき・・・悪夢なのだ。

 妹をこの村に呼び寄せたいと願ったが、何故だか、陛下はそれを許可してくださらなかった。
 父も母も、今は村にはいないから、妹のことは村の教会の司祭様の元に託してきたままなのだ。
 馴染みの者達が付いていてくれるとはいえ、長い間、一人にしてしまっている。どんなに心細い思いをさせているかと、思いを馳せるだけで胸が締めつけられる。
 何より、こうしているうちにも、事態が取り返しのつかないことに、なってしまわないかと。
 焦る気持ちが、影のように暗く、私の心を浸していた。



 私自身の身柄と引き換えに。妹を救ってくれると。
 あの時。
 確かに、陛下はそう告げたはずだ。

 ・・・だけど、未だに何も、答えをもらっていない。
 問い正そうにも、肝心の相手が捕まらない。
 
 時ばかりが淡々と、無情に過ぎ。
 心に芽生えそうになる、猜疑心を押し殺しながら。
 私は無力な祈りを捧げることしか出来ずにいたのである。









 ・・・光はいまだ。

 私の心の中で。

 揺らめくように儚い灯火にすぎなかった。





















The Secret Horizon




















 その日は、朝から、常ならぬ空気が漂っていた。



 冬も峠を越し、ここ数日は、春の訪れを間近に予感させる穏やかな日和が続いていたにも関わらず。
 嵐のように吹きつける強い風が、厚い木戸をガタガタと揺らし。
 狭く数も少ない嵌め殺しの小窓から見える、明けたばかりの外界は、薄霧のような靄のためか、暗い曇天の重々しさに包まれていた。




 風の音に叩き起こされたせいか、意識が突然現実に引き戻されたかのような目醒めだった。
 心臓が早鐘のように鳴っている。
 ・・・何か、夢でも見ていたのかもしれないが、思いだせない。



 隣でもぞもぞと動く気配に目を向けると、小さな身体が寒さに身を震わせながら身支度を整えていた。
「あ、ごめん。おこしたかな・・・。」
 王子は申し訳なさそうに私をちらと見上げて、そのままいつものように居間へ向かった。
 皆のために、寒い冬の朝を一足先に暖めておくつもりなのだ。

 誰に言われた訳でも、頼まれた訳でもなく、これは、この幼君の毎朝の習慣のようなもので、近頃は気が向くとそのまま早朝から時間をかけて、冬菜や獣肉を煮込んだスープなど用意しては、母君の元に届けることもある。
 もう脱帽するしかないが。これがまた、なかなか美味いものだから、時には村人達へのお裾分け分まで作られるようになってきた。本人は、どうやらこうして人の世話を焼いたり気を配ったりすることに喜びを感じる性分のようで、ここは素直に甘んじて受け入れてやるのが一番なのだと、私も理解しはじめていたが。

 小さな後ろ姿を見送って、うっすらと額にかいた冷や汗に気付いた頃になって、やっと、寝起きの異様な浮ついた脈が落ち着きを見せてきた。
 自分も手早く身支度を整えると、いつものように、床に散らかったままの本をまとめなおす。
 私は自分の部屋をきちんとあてがわれてはいたけれど、結局こうして王子の部屋で書を広げたまま眠ってしまうことが多い。
 主の希望で設けられた隣室の書庫に、本を戻そうと立ちあがりかけた時。
 床に開いたままの、分厚い本のページが、風も無いのにはたはたと捲れ上がった。
 昨夜、王子が何やら深刻な表情で張りついていた本だ。何気なく手に取ろうとして、これは、もともとは私が持ちこんだ、いわゆる、”禁書”の類であることに気が付いた。



 黒光りする表紙に、やたらと鮮やかな赤いインキで文様のような飾り枠が描かれている。
 暗黒魔法と呪術について記された本。
 この書は、私にとって少なからず因縁のあるものだった。
 ・・・しまった、と思った。王子の目には止まらぬようにして置いたはずだったが。
 最近になって、一度だけ、妹を救う糸口を探せないかと、書の封を再び解いた。そして、不注意にも、他の本と共に書庫に片付けてしまったのだろう。
 慌ててしまおうとして、おや、と思った。
 開かれたページには、何も書かれていないのだ。黄ばんだ羊皮紙の汚れ以外は、何も・・・無い。
 このような頁などあっただろうか?
 魔法による封がかけられている様子もない。僅かに不自然で、・・・かと言って何があるわけでもない。
 開かれた本を片手に、立ったまま、私は幾度か頁を前後にはぐりながら思案した。







 突然。

 風が窓をガタガタと鳴らす音がやけに大きく唐突に感じられて、私は面を跳ね上げた。
 ・・・風?いや・・・違う、この感じ。
 屋内だというのに、自分の周囲の空気が不自然にざわめいている。
「セティ様?」
 慌てて手に持った書を書庫の隅に押し込み、寝室を飛びでて、居間へ向かい、違和感の理由に確信を持った。
 この館の・・・主の帰還は、いつもこのように唐突であり、ある意味で事件でもある。

 ・・・いる。

 目にする前から感じる、日常を非日常に変えてしまう、気配。知らず緊張感に、心音が跳ねあがった。
 吹き荒れる風が、ごおおと地鳴りのように遠くに響くためか、閉ざされた館の中の世界がやけに広く感じられる。
 居間へ通じる両開きの木戸の手前で一息いれて、自然さを装いながら室内に足を踏み入れた。









 日中、厚い土壁に溜めこんだ陽光の熱を夜間に放出し、明け方の部屋は凍りつきそうな程の冷気に包まれている。
 窓辺に悠然と腰掛け、暗い窓の外、遠い彼方に視線を飛ばしていた陛下は、私の入室の音に視線を向けた。
 幾重もの木戸が閉めきられたままの重暗い室内ではまるで影のような輪郭しか捉えられないが、その紫色の眼だけが、不自然に爛々と光を放って見える。
「・・・おはよう。早いじゃないか。」
 まるで、自分がそこにいることが当然であるかのような自然さと気軽さで放たれた言葉。
 入室した、私の前に、幽霊でも見たかのように、凍りつき立ち尽くしていた王子が、我にかえったようにその小さな肩を震わせた。
「お、はようございます。父上。・・・いつ、お帰りになったのですか。」
 上ずった声は、常ならば決して聞かれぬもの。
 同時に、炉にくべられていた火が、ぱちぱちと音をたてて燃え広がり始め、室内は僅かに明るくなった。王子が火をつけた暖炉だ。
 ・・・逆を返せば、つまり。
 最初から、いたわけではないのである、あの存在は。



「・・・立ち寄っただけだ。すぐに発つ。」
「ま、まってください!ではせめてなにか食事でもごよういして・・・」
 必死な様子で、訴える息子の声には耳を貸さずに、陛下の紫色の視線が私を捉えた。
 す、と右手が私を指し示すように軽く挙げられる。
「そろそろ一年経つ頃だな。どうだ?”これ”のお守には慣れたか?」
「陛下・・・。」
「ちちうえ!」
 私が何か言う前に、王子が前に出てフォローをいれた。
「彼は優れた教師であり、たいせつな・・・友です。これからも、ともに、多くのものを分かちあえるでしょう。」
「なるほど・・・」
 僅かに、肯くように、陛下が首を縦にふった。
 さらり、と長く結わえた髪が肩からこぼれおちる。
「確かに。お前はよくやっている。」
 静かな声。
 私達の日頃の暮らしなど見たこともないくせに。当然知るもののようにそう告げて。
「”それ”に懐かれるぐらいなら大したものだ。お前は自らの素質に自信を持っていい。」
 一人息子を、”これ”とか”それ”としか呼ばずに、淡々と、言葉は紡がれた。
 そのまま音もたてずに立ち上がり、堅く閉ざされた戸口へ向かい、ゆらめく影のように背を向ける。
「ちちうえ!」
「陛下!」
 慌てた王子が、駆け寄ろうとする姿を見とめたまま。
 私もまた、追い立てられるような気持ちで言葉を紡ごうとした。





「・・・そういえば。」





 まるで、今思いだしたかのようにわざとらしく。陛下が歩みを止めた。
 肩越しに振りかえった瞳が、私に向かって軽く細められる。
「お前の妹だ・・・、そろそろ、危ない。」



 私は言葉が返せなかった。
 唐突に訪れる、容赦の無い決定的な宣告。
 それをもたらすこの残酷な存在は、私の目にはまるで翠色の死神のように恐ろしく映った。
「すぐにでもここを発ち、助けに行かねば手遅れになるだろう。」
「・・・陛下。妹は・・・救われるのですか?」
 掠れる声を振り絞る。
「お前がそれをしなければ、何も変わりえない。」
 流石に。堰を切ったように怒りが湧きあがった。
「では・・・、ではどうすれば、良いのですか?!貴方はこの一年、何も答えてくださらなかった!・・・最初に、約束して下さったはずです。妹のことを・・・。」
「時は早すぎず遅すぎず、時期を計らねば意味はないことだ。私は誓約を裏切りはしない。お前の為に、3つの助けを与えよう。」
 私の怒りを軽く受け流して。
 面白がってさえいるように、風の王は口元に小さく笑いをたたえた。
「一つに、暗黒の呪を打ち破る知恵を。二つに、心を断つ魔法の刃を。そして、鋼の牙から身を護る守護の腕輪を。」
 足元に、不安気に立ちすくむ小さな薫風を見下ろして。
「セティ。」
「・・・は、はい!」
「やれるな?」
「・・・・。」
 突如名を呼ばれて、肩を震わせて反応した王子は、王の問いに言葉を詰まらせた。
「やれるな・・・?」
「・・・はい。」
 再度、問われた言葉に、幼子は、噛み締めるようにゆっくりと返事を返した。
 その答えを当然のように受け止めて、陛下は肯いた。
「よかろう。では一つ目の助けは”これ”だ。私の代わりにお前につけよう。風は光の導き手となるだろう、連れていくがいい。」
「・・・な・・・」
 私の驚きには構わず、振りかえった陛下は、一体どこから取りだしたのか、一振りの剣と腕輪を、乱暴にも床に投げてよこした。
 それは美しい黄金の細工が柄から刀身にまで施された魔法剣と、南海のように青く澄んだ魔石がはめられた銀色の腕輪だ。
「受け取るが良い。何も持たぬよりは助けになるはずだ。」
「陛下!」
「・・・不安があるのか?それとも不信があるのか?」
「・・・。」
 紫玉の瞳が細められた。
 深呼吸を一つ。心を落ち付けて、冷静にと気持ちを整える。
 ここでの、返答を誤るわけにはいかないからだ。
「・・・いいえ。」
「結構。」
 王は私の返事に満足したように、僅かに口の端を上げた。

「やがて巡り来る、動乱の時代はいまだ遥か地平の彼方にあれど、知恵ある者は、隠された時の真実を知らねばならぬ。」
 
 紫色の瞳が、遠くを見つめるように、陰りを帯びた。微妙に光の加減で、その色が翠色に揺らめいて見える。
 僅かに寂しげな響きを伴って、独り言のように最後の言葉は紡がれた。


「健闘を祈ろう。時代を動かすのは人の心に燈された光一つ・・・。私はただ、無力にも、揺らぐ風の語り部にすぎないのだ。」















 王はそのまま背を向けると、別れの挨拶も告げずに館を後にした。
 いや、正確に言えば、・・・消えたのだ。
 炉の明かりが一瞬弱まり、室内が闇に覆われた、その揺らぎの一瞬に。
 無謀にも後を追おうとした王子は、外へ通じる戸口の前で躊躇して、立ち止まった。
 そして振り返ると、何も言えずに立ち竦んだままの、私のもとまで来て下から顔を覗き込んできた。
「ホーク。しんぱいしないでくれ。わたしが、かならず、何とかするから。・・・しんじて。」
「セティ様・・・。」
 ・・・信じていない訳ではない。
 しかし、結局何も明らかな答えは得られなかった。ただ、この幼い風の君が、自分の代わりに助けとなる、と告げられただけ。
 だが。どれ程優れた資質を持つのであっても、ほんの5歳になるばかりの、幼い子供に見つかる答えならば、とうに私自身が辿りついていたはずだ。
「ホーク・・・。」
「・・・王子は、私の妹を救う方法をご存知なのですか?」
「・・・。」
 案の定、私の問いに顔を曇らせた王子は、伺うように私の目をちらと見上げて、俯いてしまった。
「・・・一体、どうすれば・・・。」
「ちちうえは、約束を違えはしない。わたしたちが失敗したとしても、きっと、必ず助けてくれるはずだ。・・・でもそれではダメなんだ。」
「・・・。」
「託された・・・。”あの人”の期待をわたしは裏切る訳にはいかない。必ず答えは私達に、与えられている。」
 深い翠色の瞳が私を覗き込んできた。揺らぎの無い、その力強さが与える安心感。
 自分の胸下程にしか背丈の満たない、小さな存在に勇気づけられる。自分が護らねばならない存在に。
「すぐに村を発とう。ホーク。・・・急がないと。”あの人”がそれを知らせに来たんだ。」
 嫌な予感が早鐘のように警鐘を鳴らし始める。
 王子の言う通りだ。猶予はならない。
「・・・わかりました。セティ様。王妃様にお話して、許可を得ましょう。」
 

 言って、振りかえった先、広間の大階段の中段付近、手摺に持たれるようにたたずむ優美な影に気が付いた。
 重い風の音が遠くに響く。

「フュリー様!」
「ははうえ!」
「説明は結構です。あの方から話は聞き及んでいます。その子を連れて、すぐにでもここを発ちなさい。」
 一体いつの間に、王は妃に会っていたのだろうか。
 王妃様は、影のように静かに階段を降りて、私達のもとへ歩みながら。その気丈な、后の貫禄をもって、凛と告げた。
「セティ。王からの・・・主命である以上、基本的に失敗は許されないものと思いなさい。出来ること、全てを尽くして力になってあげるのよ。」
「はい、ははうえ。わかっています。」
「・・・遠出するのははじめてね。」
「ホークもいますし。だいじょうぶです。」
 気丈に答える小さな後継ぎに、王妃様はくすりと笑みをこぼした。
「本来なら護衛の従者をつけてあげるものね。でも時間がないから、トーヴェの街へ出て馬車と一緒に雇うといいわ。」
「大袈裟です。ははうえ。二人で平気です。道行の途中に商隊の荷馬車でも捕まえた方が早いでしょう。」
「・・・それもそうね。」
 この辺りの肝の座りようは、親子揃って流石というべきだが。
 確かに距離的にも、馬車で一日もあれば着く距離ではある。
「ホーク、この子をよろしく頼みますよ。」
「・・・お任せ下さい、フュリー様。」
「あなたがついていてくれるなら心配ありませんね。」
 信任してもらえるということは、嬉しい反面、重圧を感じる。
 必要以上に過保護になることを望まれているわけではないが、この国の宝に、もしも何かあればそれは一大事だ。
「あまり心配しないで。今はとにかく、貴方の妹さんが晒されている危険が一刻を争うのですから。」
 王子と私を一人づつ、優しく抱きしめて、頬に軽くキスをして。
 そうだ、と気付いたように王妃様は暖炉脇の小棚から何かを取り出してきた。
「あの方に倣って、私からは、セティ、貴方に、3つ、お守りを渡しておきましょう。」
 聞いていたのだろうか、先程のやり取りを。
 小さな、ガラスの小瓶と、碧色の魔石がはめられた細い腕輪を一つ、息子に手渡して。
「何かあった時には、これで自分の身を守りなさい。」
「ははうえ・・・。」
 次に王妃様は、暖炉脇の壁に、飾りのように掛けられていた小振りの杖を持ってきた。
 僧侶の持つ普通の杖と比べても、細身で、小さな王子の身の丈程しかないが、相当位の高い品と見て取れる。月のように優美な円環には、繊細な金細工が施してあり、中央に卵のように大きい半透明の真紅の石が据えつけられている。儀礼用の品にも見えるが、確かに強い魔力が感じられる。
「この杖は昔、レヴィン様から私が譲り受けたものです。あの方も私も、あまり重々しいものを持ち歩くのが好きでなかったから・・・。」
 そう言って思いだしたように笑う王妃様の明るさは、日頃あまり見れぬもの。この方はこうした話の時だけは、まるで少女に戻ったかのように明るさを取り戻す。
 シレジア天馬騎士団の中でも4天馬騎士程の高位の者となれば、伝説の一角獣を操り、祈りの杖を振れるというが。
 細身の身体で儚げな印象を与える美しい王妃様も、かつては天馬騎士団を束ね、多くの激戦をくぐり抜けた猛者なのだ。
「その杖は、一本で治癒や解呪など様々な用途に使えます。さすがに専用杖程の助けは得られないけれど。使い手の能力次第ではとても便利なものよ。貴方にふさわしいと思うわ」
「ありがとうございます!ははうえ。」
 王子は、随分と嬉しそうに顔を破顔させて喜びを表した。
 実際、魔道杖と言えば、樫の木を加工して自作した玩具のようなものしか持っていなかったのだ。5歳の子供にとっては持つだけでも多分に贅沢すぎる黄金の杖を託されて、幼顔を誇らしげに紅潮させて杖を眺め回す様子は相当に可愛らしい。
「では行こうか。ホーク。急ごう」
「セティ、貴方に限っては大丈夫だと思うけれど、気を付けてね。」
 同じ国内とはいえ、慣れた世界から離れて未知の地へ旅立つというのに、不安も恐れも感じさせない。むしろ私のほうが、本心では動揺していた。もちろんそれを面に出すようなことはしなかったが。
 妹のこと。
 護らねばならないこの小さな主のこと。
 そして、突如現れては、道標を指し示して去った”あの存在”。

 ・・・ただごとではない。不吉な出来事の予感。気のせいであればいいが。





 旅立ちの空は、夜明けよりも更に暗く、渦巻く雲が山裾近くまで垂れこめてきていた。
 強く吹きぬける風は、低く大地を揺るがすような唸り声のように響き、奇妙な色合いの空は、樹林の道をまるで異界の入り口のように染め上げている。
 私達二人は、結局目に付いた簡単な荷だけをまとめて、村を出た。




 そう。
 このとき、私達はまだ知らなかった。


 この旅立ちが。



 恐ろしい、血塗られた真実と死闘の渦中に身を投げる第一歩だとは・・・。






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