コロンボ通信 第3号

スリランカは今年は雨期が遅れてやってきて、だらだらと続きます。どの子供も 咳をしたり、熱を出したり、高すぎる湿度には参ります。萌も顔色がどーんと悪く心 配になりますが、てらこやで見るとどの子も日本の子供はそんな顔色をしています。
6月18日からOSCの長い夏休みが始まり、萌は「First Step」と
いうアメリカ人女性の経営するデイケアに通っています。シェルリーンというそのア
メリカ人女性は本国で20年近く保母の経験を持ち、洋くんのヨガのクラス仲間でも
あります。
OSCのお友達はみんなスリランカを出てしまいましたが、かとうけいいち君と
いう男の子が新しく来て、弟のまさるくんも一緒にF.Sに通っています。年上の男
の子とえいやっ、と遊ぶのが好きな萌は1才年長のけいいちくんをすっかり気に入り
、こころやさしいけいいちくんにつけ込んでまとわりついてべたべたしています。あ
る日のお迎えの車の中での会話。
萌 「もえ、けいいちくんとけっこんしたい」
私 「けいちゃん、もえがけいちゃんと結婚したいらしいんだけど、結婚し
てくれ
る?」
慶一 「いつ?」
私 「もえ、いつが良いの?」
萌 「12がつ!」
私 「くんちゃんとあすかちゃんが12月に結婚したからもえも12月が良
いんだね」
萌 「そおそお、ずるいから(うらやましいからの意)」
慶一 「12月かあ、12月じゃ、まだ、ちびやがね」
私 「けいちゃん、まだちびだって言ってるけど、どうする?」
萌 「そ! じゃー11がつ」
慶一 「11月のなんにち?」
萌 「11がつ5がつ」
慶一 「11月には5月はないやがね・・」
加藤家は名古屋は瀬戸の出で、デイケアへの行き、帰り一緒に過ごし、レクチャ
ーされるうちにすっかり名古屋地方の言葉が好きになってしまいました。
○ 蛍を見る・・残された家族のひととき
もう夜もふけ、暗くなった庭に出てセックにおしっこをさせようとしばらく外に 居ると、蛍がブランコの脇でちっちっと光っています。おとーさん捕まえて、と萌。 やがて蛍を捕らえた父親と先に中に入った萌が「おかーさん早く!」とうるさく叫び 、あまり目が見えなくなっているセックの足下を懐中電灯で照らしながら、連れて中 に入ると、蛍が笹の葉に止まってほのかな明かりを明滅させています。「てらこや」 の七夕祭りで使用した笹の枝に蛍の光りが灯り、その光りは線香花火の丸い火の玉が 、地面に落ちる最後の力をふりしぼって点滅する輝きにも似て、なんともはかないも のです。
去年の夏にお猫の家族と行った熱川温泉の最後の夜は、雄也と萌お待ちかねの花 火でした。リゾートホテルの駐車場にぞろぞろと花火と水を持って二家族で行き、花 火をしました。私は好きな線香花火だけして、肌寒いように感じたので、健太を抱い て、先に部屋に戻りました。みんなと過ごしたお盆休み。熱川温泉の旅は健太と過ご した1度きりの夏の思い出です。奥沢でも何回か花火をしました。健太はさして関心 を示さなかったのに、洋くんは萌と花火をするたびに「健太くん、健太くん、花火見 ようね」と必ず健太も連れ出して、白くて柔らかな健太の肌はぶんぶんと蚊にかまれ てしまい、私を怒らせたものです。
熱川で花火したね、と言うと、それには答えない萌が、セックに蛍を見せようと 犬の顔に手を触れて必死で笹の方へ向けようとしています。「セック見てごらん蛍だ よ、ほ・た・る」セックは訳が解らない、というように萌の手を振りほどき私の顔を 無垢な瞳で見上げています。
その夜の絵本は「ほたるホテル」。カズコ・G・ストーン作品。四季の変化にあ ふれるやなぎ村の夏の篇です。
○アイリーン先生
ピアノを習い始めて、2ヶ月になりました。アイリーンさんという30年間音楽
の先生をしていた方に付いて、週に1度、バッタラムラというコロンボから約10キ
ロ離れた郊外に通っています。水田の広がる、うっそうとした椰子林の残るその地域
にはヨガの先生のキャシーさんや白人メンバーが住んでいて、萌の通うOSCスクー
ルもそこにあります。
出勤時間にはコロンボに向かう車が込み合い、萌を送って帰るのに1時間近くか
かるのが常です。今年のように雨が多いと、混雑はひとしおで、市内に向かうオート
バイは時々、家族3人乗せています。父親を中心に前にヘルメットをかぶった子供、
後ろにはヘルメットにサリーの母という3人乗りオートバイは雨の中、泥をはねあげながら車の脇をぬって走ります。
アイリーン先生は、現在65才。この国の人にはめずらしくピンクやオレンジ色 のスラックスに花柄のブラウスという出で立ちで私を迎えてくれます。戸口には先生 のお嬢さんのマリサが車椅子の上から外をながめています。
高校1年のとき、武蔵小杉のヤマハに通ったのがピアノを習った最後で、桐朋か
ら当時のソ連へ留学した経歴を持つ、もう若くない男性がその時の先生でした。自分
の経験からでしょう、音楽大学へ行って音楽を職業にするより、自分の生活を豊かに
するためにピアノを弾く方がよっぽど意義がある、と言われました。
イスタンブール時代、日本人補習校でボランティアとして子供達に音楽を教えた
とき、日本人の奥様連中から「あの方、音大を出ていらっしゃるの?」という陰口を
たたかれたことがあったかも知れませんが、それ以外は不便を感じないで来ました。
もう帰国してしまった万希さんがバイオリンを始め、彼女の伴奏を弾くようにな
り、お猫(田港さん)の忠告もあって、再度ピアノを始めました。
万希さんと山下さんの送別会ではバイオリンとピアノの演奏のあと集まった人た
ちで「ふるさと」を歌いました。山下さんの目に涙があふれ、しんみりした送別のパ
ーティーになりました。
○コンサートへ行く
教え子ナンバーワンの万希さんが日本に帰ってしまって寂しがっている英語のイ
ンドラ先生とROBIN ZEBAIDAというピアニストのコンサートに行って来
ました。ラフマニノフの校正前の難解なコンチェルトにはインドラさんも私もうんざ
りしましたが、アン・ドライバー(1897−1985)というイギリスの作曲家の
曲は素晴らしいものでした。母親がユダヤ人、伯母が神学者という彼女の曲はキリス
トにちなんだもので、あたたかなそして敬虔な気持ちになりました。会場はブリティ
ッシュカウンシル内の小さなホールで、ピアノは韓国製のヒュンダイ。聴衆はサリー
を着た年配の女性が多かったけど、白人も来ていました。お決まりの「予約席」には
大柄な白人カップルと脇にいたお付きの白人男性はおそらくブリティッシュカウンシ
ルの部長クラスの人でしょう。
日本ならびに、アジアの国々に公費で雇われる白人のある種のタイプと文化施設
特有のいかがわしい空気にひさしぶりに触れました。
そしてまたある金曜日の夜、アイリーン先生から紹介されたコンサートがレディ
スカレッジという古い女学校のホールでありました。萌を加藤けいいち君の家に預け
る手筈を整えて、洋くんと行くことになっていました。
その夜、さて出かけよう、という時になってざんざんと大雨が降り出し、この国
の雨は嘘のようにあっさり上がるから、と少し待ちましたが、雨はひどくなるばかり
。一歩を踏み出すのも躊躇する勢いで降っています。玄関からエントランスに駐車し
た車めがけ、萌に持たせると約束した夕飯用のコロッケを手に走りました。片方の手
にはめったにささぬ傘を持っていました。車に乗り込んだ拍子にコロッケの包みが手
から落ち、ばらばらとコロッケが車の床に落ちました。咄嗟に拾おうと屈むと、アル
ミホイルに残っていた残りのコロッケまでが丁寧に落ちてくれました。結局揚げたて
のコロッケ全部ばらまいてしまい、やー困ったなー、どーしよーと言うと、事情を話
して持っていけば?揚げ直せば食べられる、とは洋くんの弁。落ちたコロッケをおみ
やげに持って来られたひとの気持ちを想像するのもはなはだ難しく、はたして、けい
いち君の母が、チンで消毒すれば食べらりゃーね、と言ってくれるか、よく落っこと
したコロッケ持ってくりゃーね、(そんな名古屋弁あるかな?)と憤慨するか、あた
たかさの残る揚げ物を手のひらに乗せて、私は混乱しました。
けいいちくんの家に付くと、もえがきたよー、と家に飛び込んで行く萌とその後
を追う父親にまかせ、私は車の中で「まーいいや」としらんぷり。
・・・後日、「ありがとー、食べたよ」とひと言お礼を言われたけど・・。
チェロは賞を獲ったという16才の少女の演奏でした。音は外すし、舞台でにや
にや笑っているし、お金取って聴かせる程のものか、と思ったけど、チェロのわなな
きが胸の奥に直にしみて涙が出ました。
2番手はソロのボーカルで、このスリランカ人の女性の声は素晴らしいものでし
た。つややかで自在。バッハのパッションドマチュウもカルメンも歌い上げていまし
た。バッハの官能美もカルメンの熱情も心を動かすものでした。
アイリーン先生はあなたの音楽は天賦のもの、と言ってくれます。テクニックは まだまだだけどとてもきれいだ、と。
○麻布音楽スタジオのこと
しかし、私は、歌の方は、うまくないらしい・・。去年、健太が愛育病院の集中
治療室に幽閉されていた間、私は自分自身のために授乳時間と授乳時間の間の2時間を歌のレッスンに当てることにしました。
地下鉄の広尾駅から愛育病院へ向かう途中に「麻布音楽スタジオ-ピアノ、ソル
フェージュ」と書かれた看板がマンションの2階にかかっていて、思い切って訪ねて
みると、両足に若干ハンディのある美しい女性が出てみえました。歌を習いたい、と
だけ言いました。あと1ヶ月か1ヶ月半、広尾に来る用事があるので、その間をめど
にレッスンして欲しいと言うと、受験かなにかなら、もっと専門の先生をご紹介しま
すけど、とおっしゃられます。いやいや、とにかく声を出してみたいのだ、と言って
、カラオケもすごく下手で笑われるので練習してみたい、と言うと、こぼれるような
笑顔をされ、その方の笑顔を見ると、長いこと張りつめていた神経がほっとゆるみ、
来て良かった、と即座にレッスンの日を決めました。
健太の面会に合わせて何回か、発声を習いました。発声をすると、病院から来た
自分の恐いような顔が柔らかくなって、楽譜のあいまから集中治療室の健太のことが
浮かんできて可哀想になると声にすぐ力がなくなって注意されます。コンコーネとい
う中声用の楽譜を買い、そのきれいなメロディーを先生と2人で歌うと、先生ご自身
もなんとなく元気になると言われ、私も気分がずっと良くなって、グランドピアノの
でんと置いてある居心地の良い部屋でほがらかな先生と小1時間過ごしたあと、再び
有楠川公園に沿った坂道を歌いながら病院へ戻ったものです。
健太が退院すると同時に音楽スタジオも後にし、今日が最後という日、先生の下 さった評価は「ともかく音痴ではありません」というものでした。
その後先生に連絡することもなく、たまに発声をしてみようと健太を抱きながら ピアノに向かうと、何故か彼は泣いたのです。いつも私が発声をしようとドレミファ ソファミレドを始めると口をへの字にぎゅっと結び、悲しげになって泣く準備をし、 なおも続けようものなら本格的に泣きだしました。2人が離ればなれになっていたつ らい時期が私の声にこめられていたのか、と思ったりしました。ただ音痴ではない母 の声に我慢がならないというにはあまりに悲しい顔でした。
アイリーン先生のお嬢さんは脳性マヒで車椅子の生活をしています。いつも母親
と一緒にレッスンを聴いています。アドレスや電話番号を空で覚えている彼女に母親
が「ダーリン、○○の住所は何番だったかしら?」とか「ダーリン、あの調律士の電
話番号は何番だったかしら?」と聞かれると、すぐに答えてくれます。スリランカで
ただ1人の脳性マヒで仕事をしている方だそうです。少し羨ましいほど、ぴったり寄
り添って生活している母と娘です。
今年の日本の夏はとても暑い、と聞いています。中学3年生の事件の報道を読ん だり、聞いたりするたびに、ピントがはずれている、と感じます。
イスタンブールに居た時、フランス領事館のフランス語の授業でトルコとフラン
スと日本について何やかや議論になったことがあって、その時、トルコとフランスの
混血であるマルチーヌという先生が、2つの国を行ったり来たりして、人工的な社会
-フランスと伝統的な社会-トルコの違いの重さについて身にしみているけど、日本の
ように短期間に伝統的な社会を壊して、人工的な社会に生きなければならないひとの
メンタリティーはどんなになっちゃうのか、計り知れない、と言って涙を浮かべたこ
とがあります。マルチーヌは「ラマルセイェーズは歌えない、フランスは恥だ」と泣
き出した老スザンヌ教師のようなファナチックな人ではなく、とても静かな穏やかな
人だったけど、その人が涙を浮かべて言った言葉なので、とても印象に残っています。
ロレッタは健太が生まれて自宅に帰ってきたとき、見に来てくれて、まあ、なん
て小さいの、と赤ん坊を抱き、この子がダウン症なんて、と泣いてくれました。しば
らくして、そうね、この頭の部分はちょっとそういえば、ダウン症かしら、と白くて
太い指で健太の頭を計ると、健太はいやーな顔をして泣く構えを見せました。「あー
!ソーリー、ソーリー、ケンタ、気を悪くしたのね」と手を振って謝るロレッタ・ハ
イランドでした。