ブログ 08年4月〜12月

2008年10月23日

再会

”ゲンさん、直樹だよ”、との電話が今週の月曜に鳴った。 会社の電話である。 この前のページで紹介した石原直樹からであ る。 でも、その声を聞いても全く懐かしさが蘇らなかった。 ”本当に直樹かよ?”との問いに、実は扁桃腺を取ったのだと言う。   なにしろ、直樹は矢沢の歌を歌わせれば、泣く人がでる位のカラオケの名手。 甘い声の持ち主であったから、尚更、おどろ いた。
でも、話初めて、その話し方、レスポンスの仕方、等々で、直樹である事を確信できた。 まだまだ骨折の後が完治せず、数週間 を出歩けないとの事で、再会もお預けと思っていたが、電話の後半で、彼の今やっている会社の場所を聞くと、実に近い事がわ かり、そこまでその日も車で来ているとの事。  なら今週中に会おうとなり、昨日再会をした。 場所は、京商秋葉。 せっかくの 再会を一人で楽しむよりも誰かを誘おうと、銀座線の神田の駅から賢二に電話。 まだ仕事中だが、それなら一時間以内に行け るとの話で、店へ向かう。 地下一階店の入り口に行くと、既にその通路で松葉杖をついた懐かしい顔が笑顔で待っていた。
早速の店の中へ入り、店員にこの伝説の男を紹介。 賢二の到着を待つ間、私のdNano(ハイパーミニラジコンカー)を伝説の男に触れさ せる事を企てる。
サブコース(練習調整用の予備コース)で、1-2分調整してから、直樹にパス。  何十年ぶりの送信機に戸惑い、また余りの反 応の敏感な車に驚きながら、それでも走らせる。 直線はフルスロットルとは行かないが、コーナーはインべた(コースの内側をベ タッとなめるように)。  流石としか言いようがない。 最近のラジコンのトップレーサーの前提条件は、これが出来る事なのだ が、その正確なコントロールには往年の直樹を見た。
賢二も到着し、一緒に焼肉屋で、パチリとiPhoneで写したのがこの写真。  もう一人のレジェンドである甲府の流石にも電話を かけ、至福の時でした。
嬉しい時の私の顔はナカナカですね〜 (私だけがビールを飲んで良い気持ちだったようで)。
完治したら、瀬田へ来る事を約束させ、帰途についた次第です。


2008年10月05日

二人のラジコンLegendとの交流

今日は、1979年のジュネーブで開催された第二回ラジコン世界選手権へ一緒に参加した旧友二人と直接間接で接触ができた。
一人は、世界4位となった流石富士夫君、今までも何度も、このブログに登場している親友である。 今は、10年以上前から、人 生初のサラリーマン生活を旭硝子の工場の購買部門で送っており、甲府のブドウ畑の真ん中に一人で住んでいる。   春に会 って以来なので、5ヶ月振りでの電話となった。
彼とは、いつでも何の話をしてもストレスを感じない自分にとっては最高の友である。

もう一人は、このジュネーブの世界選手権で、ダントツのTop Qualify(決勝へ一位で進出)をしたにも関わらず、決勝レースで、彼 を恐れる諸外国の選手に車へのダメージを与えられ5位で終ってしまった、石原直樹君。  この直樹にあこがれて育った現役の トップレーサーも多い。 だから、今でも、ラジコンをやっている多くの人から、直樹はどうしている? と聞かれるという、私がリー ダーを務めた、Team Phoenixのワークスドライバーだった。
その彼が、このブログのBBCに数日前に書き込んでくれていたのを流石君と電話している時に発見したのである。

ラジコンの事を私は良く話題にするが、自分の仕事、交友関係の原点がここにあるからだ。
オリンピックやスポーツの世界大会に出て、有名になる人が居るが、それはそのスポーツ経験者が浅薄を問わず多くいる場合 や、マイナーであっても、マスコミの視点で面白いか等の、私には、良く分からない基準によって作り出されている。
ラジコン関係者の中でも、私が世界チャンピオンの道を最終プロデユースした広坂正美君等は、テレビにも出たりしているが、ま だまだ、オリンピック選手のGold Medalをとれなかった連中よりもマスコミでの地位は低いだろう。

でも、これは単なるマスコミ等の選択基準の問題であり、本当の意味の凄さとは必ずしも一致しない。

ラジコンで世界一になる為には、操縦技術はもとより、使用するマシンの設計、選択、メーカ選定、等、全てを世界の頂点レベル で整える事が必要であり、 1979年当時のラジコンは、今のスポーツのように居ながらにして強豪選手のデータが揃う環境など 全く無く、まだ見ぬ、知らぬ、海外のコンペティターの情報を、協会を通じてでなく、自らの力で入手する必要があった。 その自 分達で集めた情報を元に、無線装置、エンジン、車両、タイヤ等の全てで世界の頂点を越える物を調達するか、開発する事が勝 つための条件だった。  別な言い方をすればマイナーな競技では、組織力でな、情報収集力、交渉力、創造力等の個人の総合 能力が、スタートラインに立つ以前に必要なのである。

そんなラジコンだったから、今の私は、学校教育で得られたものを遥かに超えた知識、知恵、判断力、行動力をそれなりに身につ ける事が出来たのだと思う。
現在、異なった業種、種類の会社の社長職をいくつも務める事ができているのも、ラジコンのお陰だと断言できる。

だから、今日、コンタクトできた二人は凄い奴らなのである。  第二回の世界選手権と書いたが、第一回の開催は、残念ながら 一部の人にしか知らされておらず、本当の意味での世界協会が開催した初の世界選手権がこのジュネーブの大会であり、世界 を知らないで参加した我が日本チームの、この二人が8人しか残れない決勝レースに駒を進め、石原君は、予選をダントツの一位 で通過したのである。 そして初参加にもかかわらず、世界の強豪から恐れられ、決勝レースでもトップを突っ走り、周回遅れの アメリカ選手達に数度、ぶつけられ、ダメージを受け、諦めずに走りきり5位を獲得した。  そんな中、一匹狼のように、新しいメー カの車を一人で使い参加し、淡々とラップを繰り返し、日本人最高位の4位となったのが流石君。  

私にとっては、オリンピックの金メダルをとったどの選手よりも、圧倒的に誇り高い存在 !!
であり、大切な友である。

そんな二人に触れる事ができた幸せな日だった。


2008年09月15日

エッ !! と言う話

ラジコン仲間であり、ピクチャーテル時代の社員でもあったF君の、結婚式に招かれて奥方と二人で、長野の素敵なチャペルへ行 って来た。  東京から300Km位は離れている場所での結婚式。  F君がこの嬉しい話を持ってきてくれた時、私の反応は、な んでこんな遠くでやるのだとのクレームであった。 しかも、式の前日からバスで現地入りするとの事。 何を考えているのだ?  との問いに、彼女も、自分もここが気に入ったので・・・・との彼らしい答えだった。  F君にはもったいないような清楚で素敵な新 婦の為なら、前泊は嫌だが、朝駆けして結婚式から参列し、大きな声で讃美歌を歌ってあげたいと決めた。 幸い奥方も、前泊で はなく、当日、チャペルから近い、渋温泉を良く知っており、そこに泊まろうとの事で、プランをした。   
暫く多忙な日々が続き、式の3週間位前の土曜日に、F君から出席の確認と同時に、親が挨拶をしたいとの申し出があり、まあ ご両親がどんな方かを知っておくのも悪くないと思い、我が家へ来ていただいた。 F君の性格の良さ、育ちの良さは、この親が あってか・・・と思えた。  実に丁寧に、当日はよろしくお願いしますとの事で、勿論、家内と二人で必ず参列させていただく事を 約した。

ここまでは、愕く話はないのだが、実は、ここからが驚き!!
当日、朝5時に起き、チャペルを目指す。 奥方のメルセデス。  連休の中日だったからだろうか、比較的道は空いており、9時 過ぎに、現地に到着。 まだだれも来ておらず、チャペルとその回りのワイナリーを散策。  そして、披露宴が行われるレストラン で着替えと休憩。 暫くするとF君、新婦、ご両親、恩師等が到着。 皆さん前泊していたようで、かなり打ち解けていた。  多く の方々と挨拶をし、式の時間を待つ。  そして結婚式。  美しい花嫁のウェディングドレス姿、F君のダンディな晴れ姿。 ハー プの奏でる中での素敵な結婚式が執り行われた。 
隣の披露宴会場であるレストランに席を移して、家内と主賓席へ着いた時に、エッ!! が起きた。 席に配られている、座席 表、 そこに私と家内の名前が書いてあるのだが、その上に考えた事も無い、説明が書かれているではないか !!    そこ には、”媒酌人” ”令夫人” と。
思わず、全く聞いていないぞとF君に話したが、全く想像をしていなかったわけではなかった。 何しろ、ご両親がわざわざ我が家 に挨拶に来たのだから。

更に、披露宴が始まる前に、席の横の司会者に、媒酌人の話は聞いていないし・・・・ と話すと、
”それでは、主賓の挨拶と、スピーチの二つをお願いします” との事。 これも前代未聞と思ったが、私が主賓の挨拶、スピーチ の上手な家内にスピーチと対応する事で事なきを得た。

実は、その晩は、この新郎新婦、私と家内が取っておいた渋温泉に同行、同じ部屋で一夜を過ごした。 

常識的な判断は私には似つかわしくないが、今回の件は、やはり愕きであった事は、確かである。 でも我が奥方も、新婦も、宇 宙人的な人であり、飄々と、意気投合し
本当に楽しい時間がすごせた。

これは常識に支配されない人達の、Win Winなのだろう。
もしかすると、”媒酌人は一生やらないのが私の信念” とピクチャーテル時代から言っていた事が、今回の原因だったのかも知 れない。 だとすると自業自得か。


2008年08月05日

ひさしぶりの休日

ArcSightに招かれて5ヶ月が過ぎた、相変わらず世話しない日々が続いているが、ドタバタする事は減って来たように感じる。  先週は本社の副社長を呼び、朝から晩まで忙しかった。 でも忙しさも目的があっての事だから、それなりにエンジョイも出来た。  久々に商社マンのプロレベルの接待を受け、なんとなく懐かしい気もした。 今日は火曜だが、久しぶりの休日とした。 でも、 結局、昼過ぎまで仕事のメールの対応をしていたから、自宅でかってに仕事もやっている・・・・と言う状態。  せっかくの休みな らメールも開けず、仕事もせずに・・・・とも考えるが、公私を切り分ける事をあまりしないでここまで生きて来た自分にとっては、今 したい事、すべき事は公私の区別が無い。 だから、気になるメールが仕事であれ、私的な事であれ、対応すべきタイミングで対 応する。  これを休みの日だからと言って、放っておくと、宿題をやりの残しているような気持ちになってします。 まあこれを貧 乏性と言う人も居るかもしれないが。
そういえば、先週は楽しい出会いがあった。 某オークションサイトで野球チームをもっている企業へのセールスプレゼンに行った 時の事である。 その企業へは前職の時からターゲットにしており、数度訪れた事があったが、移転して、産まれて初めてその移 転先へ訪問した。 セールスプレゼンが会議室を押さえていた時間内に終らず(私が話しすぎた部分もあるが、相手の興味も高く)会 議室の外の待機スペースに出て質問の続きを受けていた。 そうした所、空いた会議室に入ろうとした人が立ち止まり私の顔をし げしげと見た直後 ”PictureTelでお世話になりましたxxxxです!!”といきなり挨拶をして来た。 名詞を頂戴するとなんと、そ の企業の執行役員になっていた。  彼は、PictureTelでアルバイトをしており、私の部屋であった”LIVE 0"(こう命名していた) で相談した事まで憶えていてくれた。 正直言って、自分の部屋をそんな風に呼んでいた事もすでに自分の記憶に残っていなか ったくらいだから、彼にとって、暴君であった私の社長室に呼ばれた事が強く記憶に残っていたようである。  彼は大学を卒業 後、外資系であるPictureTelのアルバイト経験を生かし、外資系のAコンサルティングに勤め、ドットコム時代の中で、転職し、その 会社が現在の企業に吸収合併され、その中で頭角を現したようである。 
この日は挨拶くらいしかできなかったので、その後、一緒に食事をする機会を持てた。
最近は、偶然な出会いが多くある。  産まれて初めて行く会社、でも確かに、この会社へ向かう電車の中で、この青年の事を思 い出していた。  そうしたら、数時間後に偶然のタイミングで出会えたのである。

なにか多くの縁が、素敵な良縁になってきているように感じる今日このごろである。


2008年07月20日

警告 & ご注意を!! (私は、ラジコン関連の新規事業はしておりません)

今日、電話を貰った。 内容は、その方のお子様が、私と会い、松戸かどこかにラジコンのサーキットとお店をつくる新規事業に投 資しないか? との誘いを受けている。
本当にそんな事を息子に話しているのか? との突然の電話だった。 勿論、私は、その方も、息子さんも知らず、またそのよう な事業をやる事を考えた事もない。

だから、どうぞ、私の名前を語り、そのような事業の話をしている人が居たら、友人である皆様。  富田はそんな事をするわけが 無いと言っていただきたい。
そもそも、富田は、自分しか出来そうにない事、そして、世の中の為になる事にチャレンジするのが信条であり、 お店付きのラジ コンサーキットにはその範囲には入らないし、全く興味が無い。
ラジコンでは、今は、京商秋葉原で、大人買いをする変なおじさんとして存在し、また商売には全くならない、川崎Phoenix、瀬田 All Star Race(Team Setaとも言う)のオーナーとして、正に、仲間の奉仕で運営しており、ラジコンは儲けるものではなく、お金 を使うもの、奉仕するものと考えている。  どうぞ、人の名を語り、人を騙そうとの企みは即刻止めていただきたい。

    この件で、何か知っていたら、BBSでもメールでも結構、知らせてください。
 




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