先の敗戦に際して軍用機器の現物や図面などの多くは組織的に廃棄処分されたり、占領軍によって接収されたりしたので個人的に持ち出したもの以外はあまり現存していない。しかし海軍の電子機器に関しては米軍のNaval Technical Mission(海事技術調査団)が1945-1946に特に調査を行った記録があり、その調査報告書が情報公開されマイクロフィルムなどの形で日本に返還されている。この報告は特に日本のレーダー技術の状況に的を絞って作成されているので当時の技術レベルを知る上での重要な資料と言える。この報告書は占領下で当時の軍や産業に従事した人物から得た情報により作成されているが、資料は総て英文であり、図面のトレースなどでの記述ミスも見受けられる。問題なのはマイクロフィルム化によって細部の情報が失われていることや部品の規格などの情報が少ないことであるが、何も復元する訳でもないので資料としては充分であろう。

日本海軍が最初にレーダーに興味を持ったのはニューヨークに入港したフランスの豪華客船ノルマンディー号に搭載された氷山検出を目的とした超短波レーダーが発端とされている。
その後1941年になってドイツからレーダーの原理についての情報がもたらされたが、詳細な情報については届いていなかった。この時点で欧州戦線では英独による海軍と空軍のレーダー戦が盛んであったのだから日本と欧州の格差は大きかった。
当時、陸軍では連続波を用いたレーダー(ドップラーレーダー)が開発されており、この方式は60-70MHzを用いて比較的簡単な技術により航空機のような高速の移動体による反射波との差分を可聴周波で「聴く」ことができた。しかし、この方式は低速や静止物体の検出には適していない。また大型のアンテナが必要で艦船への搭載も難しかった。
陸軍のシンガポール占領により当時の英軍の設備を知ることができたが、機材は占領時に破壊されており、ノーマンと言う下士官が不注意で残した取扱いメモだけが情報として得られた。ここにはYAGIと言う名称で大正時代に以前に東北大で八木秀次氏(当時東工大学長、戦後に緑風会参議院議員)が宇多氏と開発した超短波指向性アンテナの記述があって有名になっている。これは探照燈の方向合わせに用いていたレーダーである。

海軍が艦船搭載用として当初に手がけたのはパルス型、2mの波長の航空機検出用のレーダーであり、沿岸警備用の陸上型レーダーを改良・転用して21型および後に13型として制式化された。
これと並行してマグネトロンの開発により射撃管制用を兼ねたセンチメートル波レーダーが開発され22型として制式化され主として対艦射撃を行う戦艦、巡洋艦、および大型の駆逐艦、潜水艦に装備されていた。
実際の艦載の状況は以下の表に示された通りである。
海軍艦載レーダーの搭載状況
この調査報告によると、日本海軍での電子兵器の開発における組織上の問題が1945年の初めまで残っており、それが兵器の整備に大きな障害になっていたとされている。これは開発部門や関連企業が主として部品レベルでの研究と製造に注力し、完成した製品へのアプローチが不充分だと言う指摘である。特定の部分の設計や製造に関わる研究者や企業はそれが現場でどのように使用されるかについての情報を与えられておらず、実際の用途への知識の不足から改良の計画もされていなかった。これは1945年1月の組織改革でやっと対応された。

装置の艦船への装備は多くが呉工廠にて行われた。
装置の搭載場所はアンテナまでの配線が最短で、全装置が収められることを基準に選定された。同種装置を複数個搭載するときには被害を局限するための分散配置が図られた。空母葛城を例にとると3台の対空レーダーの2台は艦橋にできるだけ離して搭載され、残りの1台は左舷飛行甲板の引き込み式の台に設置された。
実際の場所の選定は工廠に任せられ標準的な手順は無かった。その結果として整備や利用の容易性への考慮が不足しがちだった。配置が悪いとオペレータや担当将校は狭い部屋の中で複雑な動作を強いられる。このために継続しての操作を行うことは困難であった。