実戦でレーダーを最初に実用化したのはドイツです。海軍で1936年に2mの波長のパルス方式であるFreya型測的装置を開発して陸上の対空用として実験を行います。これは後に80cmの艦船搭載型Seetakt型となりました。このタイプは距離は比較的に正確に求まりますが、方向はアンテナの方向を変えて最高感度を求める方法なのであまり精度は出ませんでした。同時期に英国でも同種のものをRadioLocatorとして実用化し、1937年に海岸5個所に設置しています。

ドイツ空軍では1934年にPhilips社の開発した50cm波長で40Wの出力のマグネトロンをベースに50cm波長のレーダーの開発を始めました。この結果1939年に完成したWuerzburg射撃指揮用レーダーは最終的にはマグネトロンをあきらめて真空管での発振出力による超短波帯利用のレーダーでした。このレーダーは波長が50cmで直径3mのパラボラアンテナを備えた本格的なもので1940年に実戦配備されてから英国空軍の被害が増加します。この600MHz帯を利用したレーダーは、自軍機に搭載のトランスポンダによる味方識別や、レーダーと連携した戦闘機への指示までも含むかなりに高度なシステムだったようです。Wuertzburgレーダーの後期の型は表示に複数のブラウン管を使用しています。メインのものはPPI表示による方向と距離を、他のものは各高度における分布を示します。これによって航空機の3次元位置が示されるのです。

左図は1944-45年にドイツ軍が国内と占領地区に配置したレーダーサイトです。その多くは2基のFreya型と2基のWuerzburg-Riesen型で構成されていました。


英国は1942年2月にドイツレーダー基地の一つであるBruneval(ノルマンディ付近)に第一空挺部隊のコマンドを派遣して基地を急襲しWuerzburgシステムの奪取を行いました。これは1941年から周到に計画されたもので、120人の精鋭に加えて、元は映写技師で飛行機はおろか船さえ乗ったことがないレーダーの専門家も連れて行きました。襲撃の意図はメンバーにさえ秘密にしていた効果があって、空挺部隊の襲撃は成功し、Wuerzburgシステムとドイツ軍技術者2名を得て一行は水雷艇で救出されます。戦死2名、行方不明6名ですが彼らは戦後に無事が判明しています。このときの直接の成果としてはドイツ軍レーダーの特性が判明したために、レーダー探知、妨害用のFighter Direction Tenders (FDTs)艦が開発されノルマンディ上陸作戦に使用されましたが、さらに自国レーダーの改良に大きく貢献しています。英国では1940年に9cm波長でピーク出力50kWのマグネトロンを開発していましたが、これを改良して波長が10cmの航空機搭載型レーダーとして爆撃機の目標選定と対潜水艦攻撃機に使用を始めました。当時のドイツ海軍はこの波長のレーダー電波を検出する装置を潜水艦に搭載していなかったために潜水艦の被害が急増し、一時は全艦を基地に引き揚げざるを得なくなりそれが戦局を左右したとも言われています。
 

1941年に北海からデンマーク水道(グリーンランドの東側)を通って出撃した戦艦ビスマルクは英国海軍の巡洋艦のレーダーに捕捉されて、最終的には撃沈されます。このときドイツ側のレーダーでは相手を充分に捕らえることができなかったために追い払うことができなかったようです。英国空軍の偵察機もやはりレーダーで発見して深夜に雷撃機を誘導しています。このためにドイツ軍では大西洋での水上艦の活動は無理と判断して占領地にあるフランスの大西洋に面したブレスト基地からの撤退を行うことになり、以後は大西洋の制海権は米英の下になりました。