私的コンピュータ論義

私を知る友人達からは奇妙に思えるかも知れないが私の計算能力は決して得意とか言えるものではない。
それでも小学校以前から中学時代まで算数や数学が自分で言うのも何だけれど抜群の成績であったのは多くが記憶能力のためであった。
このことは自分が一番認識していて、この状態は長続きしないことも解っていたので様々な計算手法なども調べて少しでも状態を維持しようとしてきた。
対数表があればそれを端から記憶しようとかの無茶なことを試みた記憶もある。 計算尺は早くから使ってみたけれど、タイガー計算機は中古でも高価なためさすがに手がだせなかった。
電子計算機の存在を知ってからはそれに関する知識を求め、高校の図書館に共立全書の「計算機械」なる本を見つけた。
そこには電子計算機ENIACに関する記事と、それによって求められた円周率πの一部が掲載されており、それを契機としてこの世界に関わり合うことになった。

昭和34年の春、いつもの習慣で福岡・天神にある新天町の金文堂と積文館、呉服町の丸善の電気関係の書籍売り場を廻っていたときに「ディジタル制御技術の基礎」(市川著、コロナ社)が目にとまった。
それまでは主として無線関係の本だけが興味の対象であったのであるが、初めて目に触れるディジタル技術の解説は目新しく、それまでの電子装置などの説明書が部品の特性ばかりを主体にしているのと異なり論理的な回路としての抽象的な説明に全く新しい分野であることに気付いた。
早速買い求めて読んだのであるが決して多くない量の内容ではあるけれどもそれまでの無線関係の書物にない興味が沸いてきた。このときの感動を人に伝えたくて夜に友人の家に行って遅くまで話し込んだ記憶がある。
それまでは部活(無線部)は、先輩の組み立てて未完成のまま放置されていた白黒テレビの修理・改造に明け暮れていたのであるが、折から殆どの上級生が他の方面に興味を持ったり受験勉強とかで部活を去り一年の私が事実上の部長となったことでもあり、今後の部の進路としてディジタル回路の研究を推進することを皆に納得させ、さしあたり春の文化祭に向けて計数回路の作成計画を立てた。
実際の無線部の状況は白黒テレビ以外は動作する装置は皆無であり、測定器も私が自宅のテスターを持ち込んでいる以外には無く、文献も戦前の「無線と実験」誌が何冊かと、終戦後のどさくさに先輩が持ち込んだ日本軍放出の送信菅やブラウン管があるだけと言う大変なものであった。
それでもこの旧型のブラウン管(住友真空管のSSE120Gと言う5インチの緑蛍光体)を用いてのオシロスコープを作成に取り掛かった。旧型で奥行きが長いので強度の関係から0.5mm鋼板を用いての筐体を作ると言う力仕事である。
掃引回路は未完成で偏向電極に手を触れるとスポットが移動する程度までしかならなかった。
この当時はディジタル回路と言うものは日本では研究が開始されたばかりであり、世の中の多くの装置(当時実用化が始まった自動販売機など)は継電器(リレー)を用いていた時代である。参考資料としては先の市川の本以外には共立全書の川上正光著の電子回路、新初等数学講座の計算機の記事程度しかない状態であり、如何にも蛮勇であるが何しろ経験して見ないと問題の所在は検討もつかないのだから仕方ない。

計数回路は8個の真空管型フリップフロップを直列に接続した8ビットカウンタであり、状態は各ビットの陽極に負荷として接続したネオン菅の点灯状態で表示するのである。
双三極管5814(当時福岡・大橋の井尻橋のそばにある米軍放出品を扱う福三商会で安価に入手できた)を8本用いた8ビットカウンタの設計にかかったのであるが、実際に全体で20本近くの真空管(当時の白黒テレビに相当)を動作させるには回路に直流電圧を供給する電源回路とヒータ点灯のための6.3Vの電源が別途必要でこれがかなり大きなものとなった。
(ヒータを直列として商用100Vで点灯する手もあったが感電したりして気持ち悪いのと耐電圧が明確でないので採用していない)。
この34年の春休みに東京に遊びに行ったのであるが、無線従事者免許の受験の他に初めて秋葉原に行き新しい部品など見て廻った。
カウンタ回路のヒントとなりそうなものとして当時製品化が始まったデカトロンの商品名の10進放電型計数管やEITと呼ばれる電子式の十進計数管などが展示されていたが非常に高価な上に用途が限定的なものであった。これらのカウンタ専用の部品はは60年代半ばに絶滅している
この二組の8ビットカウンタは昭和34年5月の文化祭に展示したがこのときは他の展示物は少なかったと記憶している。
この完成した2個の8ビットカウンタをシフトレジスタに改造し、その2組のレジスタのシフト出力を1ビットづつ加算して第三のシフトレジスタに入力することで加算器を作ることが当初の構想であった。
この構想をまとめて全真空管の電子式加算器の研究として読売新聞社が募集していた学生科学賞の研究に応募することにした。
完成にはまだ回路や部品の追加が必要であったが、これについては高校からある程度の補助金を提供して貰えることになった。
文化祭の提示において問題になったのはカウンタへのパルス入力を作るため用いていた無線通信用の電鍵の出力を誤ってカウントする事例が続出したことである。
この不安定さを解消するためにも当時無線部の顧問であった教師の紹介で彼が高校時代に友人だった九州大学工学部の通信工学科の研究室に教えを乞いに出向いて指導を仰いだ。
通信工学教室では顧問の教師の紹介もあったが時間を割いて丁寧に対応して貰えたが、研究室では実際にディジタル制御回路を扱っているのではなくその基礎実験などを行っている様子であった。パルス回路の扱いについて特に波形を綺麗に整形することが重要であるとしてワンショットマルチ回路の利用など教えられた。
実際にその研究室では理想的なパルス波形を得るために同一のパルスを一方を遅延させて合成するために同軸ケーブルを利用した遅延回路を用いているとのことで床には長い同軸ケーブルが何本も設置されていた。
我々の部にはこの種の測定設備など勿論なかったけれど通信工学研究室でもパルス回路の研究は始めて間もないところであったらしく将来九大に入学して研究に参加など勧められたが実際には私は九大に進学することはなかった。
二学期が始まってから私は運動会の練習よりもこの加算器の設計に多くの時間を割いて完成させることに夢中になった。
しかし最後の段階で1ビットの全加算器(二個のレジスタと一つ以前のキャリー出力を加えて加算結果とキャリー出力を得る回路)が不完全であることに気づいて再設計をする始末になった。
当初の考えではフリップフロップに順次3入力を与えてこれを全加算器とする積りであったが、AND、OR、NOTのゲート回路を組み合わせると論理回路による3入力の全加算器が作れることを知り、これを作ってみることにしたのである。
実際に設計に入るとこの全加算器の論理回路はかなり複雑であり、思ったより多くの二極菅、三極管を組み合わせたものになって結局作り上げたものの正確な動作確認を行う時間がなかった。
この全加算器は初期の集積回路(IC)のシリーズに登場しているが、真空管回路で作成するには論理ゲートの数がいささか多いものであった。
結局この加算器は完全な動作を行うことなく、その製作段階の報告書までが読売学生科学賞に応募することになった。このレポートは未だ母校のどこかに眠っているのかも知れない。
秋の中間テストの準備も返上して皆で徹夜で報告書を作り、このとき机で漆かぶれになるハプニングも起きて皆は中間テストの終了時には疲れ切っていた。
私も不満の残る全加算器の仕上げを行わねばならなかったが、これは当面先送りとした。
このころ生徒会の次の役員選挙の話があってこれに集中していたためでもある。
秋の終わりに久しぶりに入った無線部室では学校荒らしにあって主要な装置が盗み出されると言う事態が発生していた。
部室には一応施錠はされていたのであるが床にあった穴から侵入されたらしい。そのような理由でついに改良の機会も無くなってしまった。

50年経って振り返って見ると反省すべき問題は多い。
一番の問題は情報の共有と役割の分担であるが、シフトレジスタや全加算器への理解を全員に持たせることは高校2年のレベルではやはり困難であっただろう。
文化祭でのカウンタのデモが目的で8ビットカウンタとしてその目的は達成できたのであるが、電子回路による加算機器をテーマにするなら4ビットで良いから1ビット全加算器の厳密な設計、試験と評価に重点を置くべきだったようだ。
1ビットの電子式全加算器でも当時の高校生の研究としては十分に価値はあったと思われる。
いずれにしても、研究計画の立案から資材の必要量と製作範囲、試験方法と試験機材の準備などプロジェクトを進行させるための要素を手際よく整備することの重要性は以後の参考にはなったようである。

後に知ったのであるが米国のモークリー等の製作し最初の電子計算機と称されたENIACは10進数を用い10進リングカウンタで加算するタイプであった。これに関する文献など調べているとどうもモークリー等は論理演算による演算方式を理解していなかったためにまさに算盤型のリングカウンタの演算機能で設計したらしく、そのために機能に比べて膨大な量の真空管を用いた巨大システムになったらしい。

これに先行した「本当の」最初の電子計算機と呼ばれるアタナソフ・ベリーのコンピュータ(ABCマシンと呼ばれた)では2進数でのレジスタ、論理回路による加算回路が用いられている。
これに関しては以下に続く解説で説明する。