戦後の一時期において欧米では各研究機関がコンピュータの開発を競い合ったがやがてそれが一巡すると商用ベースでの開発力を持った企業による本格的な商用コンピュータの時代が始まった。
勿論資金の豊富な米軍だけは軍用システムとしての資金提供を行っており、その恩恵を享受してランド社、IBM、ヒューズ社などが特殊システムと言う商用以外のシステムの開発を続けていたが、商用コンピュータとして提供を行っていたのは1960年代に入るとIBMとBUNCHと呼ばれる6社に絞られてきた。
これはIBM社と並んで資金と技術力が強かったGEグループが商用コンピュータの開発からの撤退を表明したためである。

残る5社とは
・バローズ社:ここは簡易言語(インタプリタ)を用いてユーザレベルでも開発が可能としたシステムの提供に特徴があった。日本にも一時高千穂交易社を通じて持ち込まれた。
・ユニバック社:ランド社のユニバック部門の製品であり、ENIAC以来の技術の継承によって大型コンピュータを中心に提供を行った。90桁のパンチカードなど特徴のあるシステムであった。
NCR社:ナショナル金銭登録機のブランドでリテール部門に浸透し特に小売店関係への端末装置を含めた規模の大きなシステムを提供した。
コントロールデータ社:天才的設計者と言われたシーモア・クレイを擁して超大型システムCDC-6000やその下位モデルCDC-3600などいわゆるスーパーコンピュータの提供を行った。
後にクレイはCDC社を退社してクレイ・コーポレーションでスーパーコンピュータの開発に専念するようになった。
ハネウェル社:宇宙・航空機部門の開発を行っていた会社であり、その一環としてコンピュータの提供を行い、またバーコードリーダシステムにも貢献している。日本のコンピュータに関しては一時日電・東芝グループとの提携を行っていた。

これらの社の中では規模の小さなバローズ社がまず脱落したが、IBM社がシステム360/370シリーズを発表してハード・ソフトの両面でシリーズ化を推進していく中でやがてどの企業も汎用コンピュータから撤退したり端末のみに専業化するようになっていった。

先に紹介したENIAC特許を巡る訴訟騒ぎはこの時代背景を抜きにしては語れないものである。
1960年代後半にランド社とIBM社の技術提携(特許のクロスライセンス)の話が持ち上がった。
他のコンピュータ会社にとってはこの巨大な両企業のクロスライセンスによって開発費における特許負担分が非常に不利になることが予想され、このためにランド社が継承して保有するENIAC特許の無効であることを訴訟によって示す必要に迫られた。
一方で米国政府は自国内の多くの先端企業が競い合っての技術開発が基幹産業であるコンピュータ産業において重要との認識からこのクロスライセンスに否定的な動きがあったようである。
技術者としてのモークリーの資質に問題があったのは事実であったろうがこの裁判は当初から彼の資質の貧弱さを暴き出すような面があって必ずしも公平なものではなかったようにも思える。
モークリーがアタナソフの装置とその設計書を見て説明をうけたが自分の装置の開発に「余り役に立たなかった」との証言は一面で彼がアタナソフの設計を理解する資質のなかったことの正直な告白であり、事実ENIACの設計に論理回路の考えはほとんど採用されていない。
この裁判の結果としては別にモークリー個人が裁かれた訳ではなかったが、裁判官がモークリーの証言態度を不誠実と受け取ったことが記録に残されてモークリーの名前は地に落ちてしまう結果になった。
70歳近い老物理教師に四半世紀前の開発の経過を証言させてそれで評判を貶めると言うことは決してフェアとは言えないけれど、米国内での産業の発展がこの裁判にかかっていたのだから一人の老人の立場などどうでも良かったのだろう。
モークリーはたまたま歴史の中で良い場所にいたために名声と財産を得て、またその結果として晩年に多くを失った一人の男の物語として記録されることになった。