ENIAC Computer



ENIACの開発はある意味で戦時下の異常な環境における仇花のようにも見受けられる面がある。
ENIACが最初の電子計算機と言う話は当時占領下であった日本の関係者には一種の事大主義の形で米国ならではの技術の集大成のように受け取られ、多くの出版物や文献もそれに倣っての説明がされている。
しかし、米国や欧州では評価は冷ややかなものもあり、当時の米国の力から言えば考えられたノーベル賞へのノミネートへの動きがあったかと思えばその種のものは皆無である。
この開発の発端には物理学の博士号を持つモークリーが大戦中に陸軍の主催するペンシルヴァニア大学のムーアスクールに受講生として参加することから始まる。モークリーは物理学の教師としての仕事に限界を感じて、新たなキャリア資格としての電子工学の知識を得ようとしたのであり、そこで教育の補助を担当していた若い電子技術者エッカートに出会う。
モークリーはムーアスクールを終了後に陸軍のゴールドスタイン中尉の元でメリーランドの陸軍弾道研究所において射表の作成に従事することになった。
射表は大砲の設置場所や気象条件、砲弾の特質に応じて作成されるので戦線の移動に従い次々と作成の要請が来て、それを弾道研究所の主として女性からなる計算チーム(彼女らは計算屋:コンピュータと呼ばれた)が手動または電動計算機によって計算するのである。
この計算の進捗の遅さからモークリーは先にムーアスクールで学び、また赴任前に立ち寄った説明を受けたアタナソフのABC計算機のことを思い出した。
モークリーにはまだ電子工学の基礎知識程度の素養しかなかったけれど、そこが素人の大胆さで、電子装置にすれば機械式の数100倍の速度に出来る筈とのアイディアをエッカートと共にゴールドスタインに企画書を提案した。
この時期にはたまたまマンハッタン計画などの巨大プロジェクトが予算化されつつある時期でもあってゴールドスタインの提示したENIACプロジェクトは当初数万ドルの規模であったのでさしたる論議もなく簡単に承認されてしまった。陸軍でもレーダーに匹敵する電子兵器が欲しかったのだろう。
モークリーの構想は電動計算機の電子化であり、これにプロの電子技術者であるエッカートが実現手段を肉付けしたものであるからENIACは10桁の10進レジスタを20個備えた高速カウンタの集合体である。
戦時下で技術者の確保など難しい状況であり製造を支える技術陣もいない中であったが、優れた技術者であったエッカートはレジスタの共通化、ユニット化、ユニット間の接続を少ない信号線数で実現、各ユニットに動作点検用の表示部を備えるなどの製造の容易性に配慮、またユニット種類を少なくして迅速な交換作業を可能な設計とした。
最終的な開発費用は48万ドルとされているが、これには部品調達や製造における陸軍のバックアップによる効果は多分参入されていない。
製造には陸軍の通信隊あたりのコネで戦時下で仕事の少なかった電話会社の製造部門を利用している。
電子装置を知る専門家からすれば当時の技術と部品で18000本の電子管(レーダーの数10倍)を備えた電子計算機は信頼性の上から使用に耐えないものとして計画段階で一蹴されていたであろうが戦時下のことでもあり、批判する動きもなく設計から2年足らずで稼働にまでこぎつけた。
完成当時には戦争は終結しており本来の目的である射表の作成に供されることはなかったが円周率の計算など一定の成果は上げて面目は保てた。
実際の運用に際しては確かに連続稼働には問題があり、発生した障害のモードは予想されたようにヒータの断線、ヒータとカソードの短絡が大部分を占めている。
これは使用部品である真空管のヒータは停止時の低温状態では電気抵抗が低く、突入電流が過大であるのと点灯による高温への変化で熱ストレスが発生するためである。
エッカートは電子管の寿命を伸ばすのと装置全体の発熱を少なくするために回路への供給電圧を動作に支障のない限界まで低下させることで少しでも安定な稼働ができるように工夫しており、戦場で使用されるレーダーとは異なり、安定した静かな場所に設置されているENIACでは故障は比較的少なかったようである。
それでもこの装置は計算内容の変更にはスイッチやコネクタの接続変更の作業が必要で(いわゆるプログラム制御ではなく物理的な構成変更)、またメモリに相当するレジスタが20個と言う制約から計算への利用には大きな制約があった。
勿論このメモリの量からしてプログラムなどと言う概念は当初から念頭になく定数の設定はスイッチでと言う制御方式で現代のコンピュータとは全く異なるものである。
クロック速度は10μ秒、加算速度は200μ秒であり、それでも当時の機械式計算機の数100倍は高速であった。
乗算には10進の九九のテーブルを内蔵することで速度の向上が図られている。
砲弾が飛んでいる間に計算が終わるとの宣伝文句は実際の砲弾の飛翔時間は数10秒かかるのだから驚くような話ではない。
兎に角完成して一応の動作が確認されたので陸軍は面目を保ち、ヒューズ社の巨人飛行艇ハーキュリースのような騒ぎにはならなかった。
それでも通常は開発費・製造費の負担が大幅に少ないことから当然に行われる姉妹機が製造されなかった事実はこの製造費用が表向きの48万ドルをはるかに上回る陸軍の負担で行われた何よりの証拠であろう。
ENIACの一応の成功によりモークリー達の実績が評価され次の開発計画として構成を大幅に改良し、汎用性を持たせるEDVACが話題に上がった。
ここで乗り出してきたのが核分裂の確率計算などで実績を挙げたフォン・ノイマンである。
彼はモークリー・エッカートのチームが数理論理学の知識に乏しく計算機理論の知識もないことに目をつけて助言者として計画への参画を試み、二進法の採用、プログラム内蔵、などの種々の提唱を含めた論文を発表した。
実際にはこれは英国などでは多くの専門家において周知の事実であり、それに基づく開発が進行していたがENIACのお披露目によるプロモーション効果と疲弊した英国での開発投資の量からどうしても米国が先行する形になり、未だにこの種のストアドプログラム方式の電子計算機は「ノイマン型」との呼称が広く用いられている。
これは論文発表に関して契約や機密保持の面から制約があったために多くの研究者がこの概念を公表することができない中でノイマンが抜け駆け的に論文を発表し、知名度から不問にされたとの事情があり、結局この問題を契機に発生した内紛によりEDVACは英国に先を越されて米国は最初の現代型コンピュータの開発の名誉を得られなかった。
ノイマンはコンピュータの専門家からは甚だ受けが良くないようだ。