アタナソフのABCコンピュータ


復元されたABCコンピュータ


1930年代の終わり頃、当時アイオワ大学の物理学科教授であったアタナソフは微分解析法に電子機器を用いるアイディアを思い付きその実現手段を模索中であった。
17世紀の後半あたりから関数はその実測値を多元連立方程式として、これを解くことで近似多項式の係数を求める解法が提案されており、この微分解析法の手法のための多元連立方程式の計算手段が求められていた。
これを電気的な手段を適用して解くには多くの要素を繰り返し利用するための高速の電気的記憶手段が模索の中心であったが、たまたま気晴らしのために隣州までの深夜ドライブ(当時アイオワでは夜間の酒の提供がされていなかった)の最中にキャパシタ(俗に言うコンデンサ)に蓄えた電荷を記憶手段に用いるアイディアを思いついた。
アタナソフは酒を飲みながらそれをメモにまとめて帰路は慎重に運転しながら研究室に戻った。
このアイディアは彼がジョギングと名付け現在ではリフレッシュの名前で知られているキャパシタへの情報の電気的記録方式である。
キャパシタ(コンデンサ)に記録した電荷は時間の経過により自然放電によって漸減するが書き込み・読み出しともに電気的に高速で行え、これは現在でも磁気記憶に比べても遥かに高速である。
この自然放電で情報が失われるまでに同じ情報を書き込むか新たな情報に書き換える制御を行えば多量のデータを少ないコストで処理することが可能となり、アタナソフが取り組んでいた多変数の微分解析を電子化によって行うことが実現できそうである。
アタナソフは11本の真空管を使用したこの記憶機構のプロトタイプを作成して1939年に学内でデモを行い、それが認められて300個以上の真空管を用いた全規模のモデルの製作を続く2年間に実施することが認可された。
彼は助手として当時大学院生であったベリーを雇い入れ、彼と共同作業によりいわゆるABCコンピュータを製作した。

開発資金を得たことでいわゆるABC(アタナソフ・ベリー・コンピュータ)の製作が行われ1941年までにはその一応の完成をみた。
記号論理学の素養のあるアタナソフは三極真空管を用いての抵抗入力の論理回路を作成して論理演算によるディジタル演算をこの記憶手段に蓄えられた数値との間で行う最初のディジタル型電子計算機の設計となった。
これは二進法の演算を論理回路で実現したもので、回転するキャパシタ記憶は商用周波数の60ヘルツで動作した。
間もなく米国の大戦への参入により米国社会は戦時体制に入り、アタナソフ、ベリー共にそれぞれ別の開発事業に動員されたためにABCコンピュータの研究は中断せざるを得なくなり大戦が終了しても再開されることはなかった。

このABCの存在が再び世間に知られたのは1960年代の終わりにかけてのランド社とハネウェル社の特許権紛争の中で、ハネウェル社がランド社ユニバック部門が継承していたENIACを最初の電子計算機として申請した、それまで既成の事実として疑われていなかったENIACの特許への反証としてABCを採り上げたためである。
イリノイ州立大学の教授であったアタナソフと彼の下の大学院生ベリーが共同で設計製造した所謂ABCコンピュータの存在が浮上し、ENIACの設計者の一人であるモークリー氏がアタナソフの元を1941年に訪問して完成していたABCから情報を得ていたことが認定され、ENIAC特許を巡るスペリー社の優位性が否定される結果となった。
つまり法廷はENIAC特許をアタナソフの電子式コンピュータ技術から導かれたものと認定したのである。
実際にはこの法廷におけるスペリー社側の技術者モークリーがアタナソフのことは知らぬと強弁したのが証言などから否定され、その態度が裁判官に不誠実と見做されたことが大きかったらしい。

この間にベリー氏は仕事上の悩みからか酒浸りとなって自殺同様の生涯を終えたが、アタナソフ氏は晩年になって最初の電子計算機の開発者として認められ生前に名誉を回復する。

この裁判の後にイリノイ州立大ではABCが大学の重要な研究成果の資産であったことが改めて認識され、アタナソフの不在の間に解体されてしまっていたABCコンピュータは当時の資料によっての復元が行われて展示されている。
米国のIEEEでは1990年にこの装置が計算機工学における重要なマイルストーンであることを認定している。

ABCコンピュータの装置の特徴としては
・演算と記憶の分離 ENIACでは置数をレジスタに記憶しレジスタの機能を用いて演算を行っているが、この装置では記憶ユニットはキャパシタを用いた(現在のDRAMと同原理)記憶である。
・ストアドプログラムの概念はない。
・演算はバイナリ(二進数)によっている。(ENIACは十進法)
・真空管を用いたロジックゲートを最初に採用した。
・多重演算動作が行われたとされているが、これは少し買い被りであると思われる。

プロトタイプが僅か真空管11個による構成であることから、これは演算よりもキャパシタによる動的記憶の動作の有効性を実証したものと考えられる。(真空管11個では基本的な論理回路の1個でも実現は難しい)

真空管300個、机大の規模の装置は当時のテレビ受像機の10倍以上の規模であり、設計者が2名と言うことからこれが限界であるとも言える。
当時の米国では日本と異なり電子部品の工業化が進み高品質の部品が市場で入手可能な環境ではあったであろうが、この規模ならば部品故障の悪夢に悩まされずに製作が可能だったようである。
設計者は二人とも電子技術の専門であるから機械工学の素養は不十分であっただろうと推定され、この装置でも中間や最終結果を外部に紙パンチの手段で出力し、また外部から入力する必要があるがこの機能は必ずしも完全ではなかった。

この装置の基本的な動作は毎秒一回転する一組のドラムに配置された1600個のキャパシタから成るメモリから50ビットのデータを取り出して電子回路で処理することで行われる。
これが毎秒60回行われるので毎秒3000ビットのスループットとなる。
動作速度は商用の60ヘルツの電源をクロックとして用いることで決定され、メモリに相当するキャパシタドラムへのアクセス速度からこれで十分とした。
真空管による論理回路はインバータ、2または3入力の論理回路で、これは抵抗分割器やリレーを組み合わせて作られた。

システムの規模
・重量320kg
・配線長1.6km
・使用した電子管:真空管 総数280本、多くがG管6C8Gと推定される
 :サイラトロン 31本、これは中間記憶としての紙カードに放電さん孔する目的での大電流出力に用いられた。結果的にはこのさん孔の信頼度は低かったらしい
・初期入力 IBMの80桁カードにて10進数、結果出力 パネルに10進数形式表示