アルマ河1



黒海を東進した連合軍はロシア軍の抵抗を受けることなくセバストポールの45マイル北方に上陸し南進を開始しました。ロシア側は途中にあるアルマ側の対岸に35000人の兵力を集めて迎撃することにしていました。ここは北側は広いスロープで、ロシア側の南岸は急な岩山になっており、防御には絶好の場所と考えられたのでここに斜面を見下ろす形の大保塁と小保塁が設けられ、必勝を確信したロシア側は女性連れの見物を決め込むものまでいました。

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アルマ側の両岸で出会った両軍はしばらくにらみ合っていましたが仏軍の受け持った右翼は海岸沿いの場所で、特に300feetの崖はロシア軍が登はん不可能として兵力をほとんど配備していませんでした。仏軍はこの高地への細い登坂路があることを発見し、ここに殖民地からの精鋭部隊を派遣して渡河させ頂上の僅かなロシア軍を奇襲することに成功しました。

ところが間が抜けたことに仏軍はこの有利な状態で留まってしまい、一部は崖を降りて後続部隊へ合流を始めます。仏軍のナポレオン以来のマニュアルでは歩兵部隊は常に大砲とともに進軍することになっており、まだ荷車に梱包して搭載されたままの大砲が狭くて急な登坂路を上がってくるのを待つことになります。当然ながら停止している部隊はロシア軍の砲兵から射撃を浴び始め、仏軍は英軍の正面攻撃を要請しました。

一方イギリス軍は砲兵の援護が敵陣地に届かないことから渡河したままで待機していたのですが、Raglan将軍が前線に出て指揮に当たったので下痢と渇きで憔悴しきってはいたけれど志気だけは旺盛な英軍は前衛の2部隊が前進を開始します。
ナポレオン戦争の時代さながらの幅2マイルにも達する2列横隊の形でロシア軍の砲弾と射撃の中を犠牲を無視して前進が続けられました。ほとんど生き残るのが困難に見えるなかをひたすら坂を登って前進してくる英軍に対してロシア軍の司令官のPrince Menschikoffはニコライ皇帝から聞かされた「Wellingtonは生涯一門の砲も奪われなかった」との言葉を思い出し砲を奪われる心配から前線から大砲を後退させるように命じます。これが契機になって英軍は一気に大保塁に殺到してここを占拠しました。

本来ならここで後衛である近衛連隊とHighlandersが追撃に入る筋書きになっていました。ところが皇族のCambridge公爵が指揮する後衛は一向に前進しません。一説にはRaglanの幕僚の将軍からの命令が明確でなかったことと、実戦などまるで経験のない皇族が戦場のあまりの凄まじさに恐れをなしたのだとも言われていますし、Raglanとその幕僚は前線を突破してそこから1マイルも先のTelegraph高地にまで達していたので伝令などが届けにくい状況でもありました。

前衛隊は死傷者が続出して指揮系統が混乱している上に、小保塁や崖の上からの射撃を浴びて全滅の危機に陥りやむなく折角占領した大保塁から撤退を開始しました。このときになってようやく後衛隊に前進の命令が出され近衛兵連隊がロシア軍の射撃と砲撃のなかを再び整然と前進を開始します。

また殺戮が開始され、あまりの犠牲の多さに士官がCampbell大佐に「このままでは近衛歩兵は全滅します」と進言したのに対してCampbellは「女王陛下の近衛兵は後退するより前向きに倒れることを望んでいる」と答えたそうです。

これにHighlander連隊が加わり英軍砲兵の援護でロシア砲兵の勢いがなくなったことから保塁の正面に近づくとロシア軍は総崩れとなり保塁から撤退を始めました。このころになるとやっと仏軍の砲兵が歩兵に合流して攻撃を開始しました。これによりHighlandersを中心とした英軍は一挙に保塁を陥落させてしまいます。