「クレヨン」
太陽は輝かなくなった。
花も笑わなくなったし、雲も踊らなくなった。
彼という一人の人間がいなくなったという、たったそれだけのことで、何も弾んでは見えなくなった。
そういうものだった。
上忍試験に同時合格して間もなくのことだった。
生まれてきてくれて有難う、と言ってくれた人が。
愛していると言ってくれた人が。
(これが怖かったのだ、)
さして変わらなかった日常が、人間一人の人生が終わったという其れだけの事で、世界は色々なものから遮断された。
否、俺の世界が、というべきなのかもしれない。
彼がいなくなっただけで朝も夜も変わらず訪れる、それがまた虚しくて許せなかった。
何も手につかなくなった。
何もする気が起きなかった。
暗部転任を希望した。
生きる意味をなくしたので何の躊躇いもなかったが、サクラが哀願してきた。
「お願いだから。」
泣かれても困る。
「サスケくんが死んで悲しむ人が、一体この里に何人居ると思う?」
「暗部で仕事をするからって死ぬとは限らないだろ。それに生きるも死ぬも俺の勝手だ」
「死んでも何にもならないわ、ナルトとも会えない。お願いだから早まらないで」
「――死んだら何にもなくなる。ナルトもなくなった。」
サクラはぐっと口を噤み、何も言わなくなった。
「死んでナルトと会おうなんざ思わねえよ。俺もなくなる。それでいい。あいつのいない世界に俺が立っていることが許せない」
サクラの眼からまた涙が溢れた。
なくなる、という言葉が痛々し過ぎたらしい。
サクラはもう俺に現を抜かしてはいない。
中忍試験以来会わなかった、割と濃い顔の男の伴侶として、今は戦略家の第一人者として働いている。
彼女にはスリーマンセル時代からの仲間としていろいろ話す機会があって、幼い頃は恋情として見られていた俺も、やっとのこと仲間という意識の元で話せるようになってきた。
それでもこうして俺の為に泣いてくれる辺りの優しさは、あの律儀な男に相応しい伴侶だったのじゃないかと思う。
「あーあー、おまえ一体何人女を泣かせたら気が済むわけ?」
罪な男だねぇ、と呟いて顔なじみの上忍が現れた。
遂におまえらも俺に追い付いちゃったワケねー、とか、数日前までは嬉しそうに細めていた彼の眼は、今や以前より目に見えて落ち窪み、少しやつれていた。
かつての弟子を一人亡くし、そして他の二人は仲間割れを起こしている、彼にとって此れほどの心労はないはずだった。
「死ぬのも生きるのも、サスケの勝手なんだよ、サクラ。わかってやれ」
「そんな、先生! 残酷過ぎる……」
「サスケ、せめてこれを受け取ってから暗部に行くんだな」
弟子に向かって慰めの一言もなしに勝手にしろ、とは傍若無人な、と内心腸が煮え繰り返る思いだったけれど、カカシの抱えたそのダンボールに見覚えがあったので、睨むのを少しやめた。
「ナルトの、遺留品」
カカシから受け取る際、小さく平らな古い箱がダンボールの上から滑り落ちた。
それは持ち主を失い、余りにも無気力な音を立てて散らばった。
――色とりどりのそれは。
「……クレヨン?」
サクラが呟いた。
俺たち三人は、転がったそれを拾おうともせずに、ただ見詰めていた。
クレヨン。
上忍のアイツがこんなものを必要としていたかどうかすら怪しいのに、これは本当にナルトの持ち物だったのだろうか。
サクラが足元のクレヨンを一本だけ拾い上げた。
満遍なく擦り減った色の中で、その一本だけは新品同様の形を保っていた。
黒色だった。
そしてサクラの目から再び大粒のそれは流れ。
カカシがその黒いクレヨンを見るために触れたのにも気付いていない風だった。
カカシはそれを見て、表情を変えずに言った。
「これは確かにおまえが持っているべきだよ」
「……?」
「馬鹿ね、ナルト……! そうよ、あのときそのクレヨンを私に見せたの。何って言ったらあいつ、なんて返したと思う……」
『サスケ色だ』
はっきりあいつの声が聞こえた。
『瞳とか髪の色とかの感じ、そっくりだってば。でもなんか、クレヨンだからこそのあったかさっての? そーいうのもあってさ。俺ってばこの色好きだなぁー』
平仮名で本来「くろいろ」と書かれているべきところには、下手糞な字で“サスケいろ”と書かれていた。
二人に見られている事も構わず、俺は大声で泣いた。
そのうち二人は気を遣っていなくなったみたいだった。
カカシの、『死ぬのも生きるのもサスケの勝手なんだよ』という言葉をふと思い出した。
こんな悲しい自由があっていいのだろうか。