―― それを、見ていたのにも関わらず。

俺は、手さえ出せなかったのだ。








「階段」








 そして喧嘩が始まった。
些細なことで、下らない言葉の間違いで、彼、ナルトを傷つけてしまったのだ。
それは授業が終わって久し振りの帰り路で、共に学校の階段を降りているときの話。


(――有り得ない、)


『なんっで赤点しか取れねーんだってばよー!』
『フン、万年ドベ、赤点以外取ったことねぇんだろ』
『……』
『教えてやろうかって何度言ったことか、一度でもそれを承諾したことが――』
『あーもー煩い煩い煩い!! ほんっと煩いよお節介なんだよ! 大体サスケだって教えてやろうかなんて、優しさから言ったことなんかないくせに、嫌味だろ! 俺はどーせやっても出来ねーんだから、ほっとけってば!!』

 ナルトは頬を上気させて一気にそこまで言った。
ほっとけってば、と言った割には辛そうで、空色の湖は潤んで今にも溢れそう。
 言い過ぎた、と思ったときにはもう既に遅かった。

 もういい、と彼がそっぽを向き、すごい勢いで階段を降りようとした、そのときだった。

 ナルトの足が、もつれるのが見えた。
前のめりになった彼の体が、階段を滑り落ちていった。

(――あ、ッ……!)

 自分の口は閉まりがなく驚きの形を残したままだというのに、自分の手は彼の服に触れてすらいなかった。


 彼を、傷つけてしまったという自己嫌悪感が、逆に。
いつもなら掴めるこの腕の反射神経を鈍らせてしまった。

 ナルトの落下運動が終わってさえ、俺の体はもう硬直して指一本動かなかった。



「……っにやってんだよナルトッ!! サスケ、早く、保健室に連れてかねーと!! 頭、打ってるかもしんねーだろ!? 手伝えよ!」

 我に返ったのは同級生のキバの言葉で。
ああ、そうか、頭を打ったかもしれない。
だから、保健室へ。
そこまで頭が、回らない。
どうして。
頭が、打ちつけられた様にぐらぐらしている。
胸が、締め付けられた様にずきずきしている。
痛い。
落ちて気を失ったりしていない俺の方が。
――痛い。

……痛いッ……!

「悪…ィ……」
「んだよ、良いから早く手伝えよ!! ナルト、口ン中切ったみてぇだ」
「……」
「……なに泣いてんだよ」
「悪ィ……」

 何に対して謝っているのか、それさえわからない。
迷惑をかけているキバに対して?
自分への嫌悪感?

――傷つけたナルト?

 それでも涙は止まることがないのだ。
いくら、時が流れようとも。

「もういい!! おまえは、ナルトが起きたときの気持ちも考えらんねーような奴だったのかよ! 知らなかったぜ」

 ナルトと、同じセリフを。
俺に向けて発するな。
そんな言葉で、終わらせたかったわけじゃない。
終わらせたいわけがない。

 俺は、キバがナルトを担いで廊下の角へ消えるのを、呆然として見ていた。







「足の捻挫が一番ひどいわね、口の中の切り傷と合わせて、全治1週間てとこかしら」

 医療品を片付けながら、保健医は言った。

「頭は強くは打ってないみたいだけど、小さく瘤はできてるから少し打ったのね。睡眠不足も重なってるから、今は寝かせておきなさい」
「……傍にいて良いか」
「いいわよ。あたしは職員室に戻るから、用があったら呼んでちょうだい」
「……ああ」

 てきぱきと、彼女は手元の荷物をまとめて部屋を出た。


「……くだらないよな」

 キバが呟いた。ぎくり、とする。

「……何が」
「惚けるな、聞いてたんだよ。ったく恋人のくせに日に何度も傷つけやがって、俺ならナルトにこんなこたぁしねーな」
「……」
「絶対、泣かせねー。……大事に、してやれよ」
「……当たり前だ」
「……そうか。じゃ、俺は帰る」

 こいつには、いつも核心を突かれてしまう。
 キバが粗雑にドアを閉めた音を聞きながら、俺は先程の言葉を反芻した。


(……守る。絶対、泣かせない、)

 起きたらまず、謝るんだ。
また、彼の瞳が涙を含まないうちに。



(俺がいる間は、おまえに黄泉への階段を登らせは、しない)


 ふいに、ナルトの手が俺の手を握り返した。