+ ラベンダー畑 +
家の窓から良く見えるラベンダー畑。空き地になっているらしくて、誰も管理しないから、ラベンダーは所狭しと咲いていた。行った事は無い、遠く三階の窓から覗いているだけ。でも、淡い紫が一斉に揺れるその風景には、思わず安堵のため息が出てしまうほど。勝ち誇った顔なんかしないし、揺られるその姿はむしろ"優しい"と云った方が似合っている。
何時か行って見たいと思っていたけれど、最近の私は朝から騒がしい改札に吸い寄せられて、見る暇さえも奪われているみたいな気がした。此所に越して来た頃はこれが美し過ぎて、時間も仕事も忘れて窓際に座っていたのだけれど、そうも行かないのが最近の社会だ。言い訳はいつも"時間が無い"だった。
パソコンに向かい手を動かしながら、世間も変わってきたなぁ、なんて呟いた私は、そう言ってから気がついた。変わってきたのは私だろうか――? 横の窓から入ってくる涼風に、私はそっと想いを走らせていた。
『どうよ、最近』
「君は相変わらず、元気そうだね?」
受話器から聞こえてくる君の声に、私は皮肉をぶつけてみる。少し雑音は入っているものの、その声だけで君の屈託の無い笑顔が浮かぶみたいだよ。
『そっちは? 元気無いじゃん』
「別に?」
曖昧な答えをぽそりと呟いて、私はじゃァね、と短く言葉を切ってしまった。
久しぶりに仕事に追われぬ日曜日となった。けれどそれは同僚も同じだったらしくて、何処かに遊びに行っているのかメール一つ届いていなかった。昨日ちょっと冷た過ぎたのか、あれから君の電話はちっともかかってこない。君はメールが出来ないからわざわざ買った私の携帯電話、なんだか馬鹿みたいじゃない? まだ君にしか番号を教えていないんだから、君が掛けて来なかったら、この携帯電話はいつまでも埃を被ったまんまなんだよ? 君が掛けてこないのを良いことに、私は携帯電話の電源を切った。
私は何とも云えない孤独感と退屈さが自分の奥底に溜まっていくのを感じた。別にもがこうとするでもなく、もう肩まで競り上がってきた感覚に、ただ呆然と沈んでいく。いいよ、私はこのまま溺れたって。だって、心配して引き摺り上げてくれる人もいないでしょう? それに、手を差し伸べてくれる人がいるとしたって、どうせ私は面倒臭くて掴もうともしないよ。
窓の外には、いつもと同じ風景――ラベンダー畑が私を見ていた。心配しているような、それでいて少し笑っているような。思い浮かべて癪になった私はカーテンを閉めてしまうけれど、おもむろに入ってきた風にカーテンが翻って、ラベンダー畑がまた私の視界に入ってきた。
その時私は、ふと思い付く。行ってみようかな――。
わかっていたよ
退屈しのぎでラベンダー畑に行くことが
君に逢えなくてひがんだ私の
現実逃避だなんてこと
でも 何もしないで沈んでいくよりはずっと良いと思わない?
自然がスバラシイとも思うし、勿論消えない方がいいとも思うけれど、まだ私はそれをはっきりした思考として出そうとはしない。だって、誰もそんなことを聞いたりしないじゃない? 仕事で聞かれるものでもないしね。
だからってそういうの駄目なんじゃない、と自分自身の優柔不断さを何処かで馬鹿にする私がいて、だって別にいいよ、と考える事を諦めてる自分がいて。無理に答えを出そうとする心を押しとどめて、私は呟いた。
「もうどっちだっていい。今はラベンダーに浸ってるだけの時間なんだから。余計なことを考えないために此所に来たんだ」
淡い淡い、水を掛けたら真っ白になってしまいそうな紫色。少し甘い香りに酔いしれて、私は自分自身さえも見失っていた。
もしこの優美な姿が、仕事の合間に少しでも眺められたら。目の下に隈を溜めながら書類を整理する私に、甘い香りが私を癒してくれたら。あるいは君が電話を掛けてこなくなった事だってどうでも良くなるに違いない。私の手は、ずっと夢見心地に浸っていたかったから、その細くてツルツルした茎に掛かっていた。
少しだけ。ほんのニ、三本、いや、一本だっていい。この畑にいることで枯れてしまうなら、私の家の花瓶で枯れたって同じこと。ね、良いでしょう? 貴方の綺麗な姿を、いつでも見ていたいんだ。
私の汗ばんだ手が、茎を折ろうとした、そのときだった。誰かが示し合わせたかのように、私の被っていた薄黄色の新着帽子は見えない手にさらわれていく。一瞬だった。少しの間だけど、お出かけ気分で帽子を頭に引っ掛けたことを、私は今更ながらに後悔する。君と出掛けたかったから、君の好きなレモンの匂いがする帽子、買ったんだよ?君がいないからって、欲深いな、私ってば。
もう、やめてよ、と低く唸って、私は後ろを振り向いた。
――立っていたのは、小さな少女。長い黒髪で、ラベンダー色のワンピースを着て、手には私の薄黄色の帽子。
時が止まったのじゃないかと。風が無くなって、世界が、私とあの少女だけなんじゃないかと思えるくらいの静寂が訪れた。
そのとき、私は瞬時にこんなことを思ったんだ
もしかしたらこの子は ラベンダー畑の
私が摘もうとしてたラベンダーの
子供だったのじゃないか ってね。
「ねェ。その帽子。私のなんだけど、返してくれる」
半ば強引に手を差し出した私を、少女は顔をしかめて見つめた。あきらかに、私を怖がって、怯えている目だった。刹那感じる。私から帽子を取ったのはこの子。
「帽子。わ、た、し、の!」
私は一語一語丁寧に教えたつもりだった。それは少女にとって、脅し以外の何でも無いことを、十分に悟っていたのだけれど。少女が私自身を否定しているみたいで、妙にムキになってしまったんだよ。
少女の顔は段々と歪んでいった。虚ろな瞳に、その奥の悲しみと私がくっきりと映っている。なんて大きく輝く瞳なんだろう――でも私のせいで、そのサファイアを思わせる瞳をこんなにも涙につからせてしまった。私の我侭な性格故、"返してくれないから悪いんだ"と突き放したいところだったけれど。そう思えなかった。自分が脅迫したような口調だったからだ、という罪悪感の方が上回っていた。
「ゴメン……ゴメンね。あの……お姉ちゃんちょっとキツく言い過ぎた」
少女が涙目で私を見上げた。上目遣いが何となく居心地悪かったから、私は少女の目線と同じ位置までしゃがんだ。改めて見れば、可愛らしい女の子。
「ね。あなたはラベンダーの子なの?」
好奇心から、帽子を返してもらう前に聞きたかった。少女はその小さな手でこしこし、と目をこすった後、うぅん、と首を横に振った。
違う?
「じゃあ――何の子?」
だって、あなたは人間の子じゃないでしょう? あきらかに。こんな路地裏の小さなラベンダー畑に来るなんて。それに今時のお母さんが、尖ったアスファルトだらけの道を裸足で歩かせるはずが無い。もはや私だってそんなことさせない。たとえこの柔らかい土の上であっても。
少女は、にっこりと笑った。はっとするほどに、明るくて、可愛くて、私は少女から目が離せなかった。
「じゃぁ……名前は? 名前は何て云うの?」
少女はそれにも答えない。相変わらず笑いながら私を眺めているだけだ。
少女が今にも消えてしまいそうだったから
私は言葉を途切れさせたくなかった
何の子だか 誰の子だか 検討もつかなかったけど
でも私はその少女を 知っている気がしてならない
何処かで――会っただろうか
「あなた、何処かで会ったっけ?」
少女はその問い掛けに、一層笑い顔をほころばせて頷いた。不思議なことに――私の心は妙に落ち着いた。
少女が駆けて行った、ラベンダー畑の奥の奥。行ってしまう。だから私は叫んだ。
「その帽子! あなたにあげるよ」
振り向いた少女の顔が、少し驚いて。そして、さっきよりずっとずっと輝いた顔で、大きく手を振っていた。私も手が痛くなるまで振り続けた。
急に、気が遠くなった。
『なぁ、大丈夫か? 玲、玲!』
五月蝿いな。誰なの? あぁ、聞いたこと有る、その声。
「玲っ!」
私より低いけれども男にしちゃ高い声が、私を我に返した。そうだ思い出した。これは君の声だったよ。携帯に電話してこなかったことの文句を言いたかったけど、その声を聞いた瞬間、私は口から文句が出るんじゃなくて、目から涙が溢れ出していた。さっきの少女と同じ、銀色に光る大雫。
「ったく、びっくりしたよ。玲、ケーキ好きだろ。だから買ってこっちの家に来ようと思ったら畑ン中で倒れてんだもん。どうかしたの?」
私が落ち着いてから、君の持ってきてくれたケーキを頬張りながら。
「うん……夢だったのかなぁ……? この畑でサ、小さな女の子がいてね、帽子――」
言い掛けて私は気付く。帽子が無い。そういえば帽子、あの子にあげたんだっけ。でも、現実に無いとすると飛ばされていったか、もしくは誰かが拾っていったか。
あるいは、あれが夢ではなかったか――。
「帽子がどうかしたの?」
「うぅん。何でも無いよ。ただ――」
「ただ?」
「あの子――誰だったんだろう?」
そのとき
ふわり部屋の中に紛れ込んできた風が 私の顔をかすめた。
――レモンの匂い
優しいレモンの匂いが 部屋中を満たしていった
君が嬉しそうな顔をして 良いね この部屋 と呟いた
そうか。そうだったんだ。私はまたちょっと涙目になった。なんで気付かなかったんだろう。あの子はいつも逢っていた。ラベンダーよりもずっと身近で、私がどんな気分のときだって出迎えてくれていた筈だったんだ。
「え、何? どうしたの? なんで泣いてンの?」
君の心配そうな顔。
「何でもないのっ! だから――あの子、風の子だったんだな、って」
「……? 何だそれ?」
「良いの、気にしないで!」
「何だよー、それが一番気になるじゃないかっ」
春と夏との微妙な狭間で 昼と夕との微妙な狭間で
私が逢ったは風の子です
一番身近な筈なので 一番気付かれない存在
気も変わりやすい気紛れさん
あの子は今日も ラベンダーとレモンの匂いを
私の部屋に運びます
私は今日も ラベンダーとレモンの匂いを
君と一緒に楽しみます
ラベンダー畑で逢ったのは
二度と逢うことのない 風の子さん
ラベンダー畑で逢ってから
私は今日も 横の窓を覗きます
私は今日も 横の窓を覗きます
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