朝から天気予報が告げる降水確率は百パーセントのままで、昼間になってもそれが変わることは無かった。そして忌々しいことに、それは全くの現実で、雨はそこここに降りしきっていた。
姉貴がやればいいのに、と散々ルーシーが文句を云っていたけれど、家事は全てダリルの仕事になっていた。フィリアがそれをやったとしても、何か壊すのは目に見えている。何故なら、過去にフィリアが洗濯物をする際、洗濯機が壊れるのにものの数分と掛からなかったからだ。
「洗濯物は隣の部屋に干すしかないですね」
「んー。そだな」
「ホント雨って面倒臭いなぁ」
ダリルが白くなったシャツやブラウスを籠に入れて、隣の部屋に入る。昔からこういった家事などは得意だった気がして、ダリルは不思議な気分だった。“昔”のことは覚えていない筈だったのだけど、そういえば慣れているなぁ、と思っていたのだ。
「あんまり気にしない方が良いんですかね」
そう、ダリルはもう殆ど何も気にしていなかった、自分の過去のことなど。“そういう”メンバーだったこともある。この家に来てからはそれが痛いほど良くわかった。二人の、今を生きようと前向きになっている体制に憧れて。もしそれが揺らぎそうに成るのなら、出来る限りで協力をして行きたいと。それはもう自分で決めたことだった。
ダリルが掴んだシャツは真っ白で、昨日付けた茶色い染みは全て取れていた。そして、ダリル自身の心も――或いは其のシャツのように真っ白であったに違いなかったけれど。――果たして今まで自分で付けていた染みは、全て洗われたのだろうか?
ふと、ダリルの洗濯物を扱う手が動きを止めた。またこれからも自分が洗い続け、きっとどんな染みも落としていくのであろうシャツと、どんなに擦っても落ちない染みだらけの自分の心を――比較していた。
夕方になっても雨は止む事を知らなかった、むしろ勢力を増して、この小さな家を吹き飛ばそうとしているかのよう。洗濯物は依然乾く気配を見せず、かったるい気持ちを煽って下に引っ張られ、シワが付いていた。 ダリルは部屋で一人読み物をしていたが、ふと顔を上げ、暗くなり始めた空を映す窓を眺めた。雷が鳴らないこんな静かな雨の日もたまには悪くないな、とダリルは思う。階下ではさっきから黄色い声がぶつかり合っていて、たまに水音と炎の音が聞こえた。何も考えずにダリルは窓を開けた。雨の音が大きくなって、逆に黄色い声は聞こえなくなった。
「こんな雨の日は――何も考えられなくなるというか――、」
云い掛けてダリルは止めた。何も考えられない、と云った瞬間、何かがふと頭の中を過ったのだ。それが何だったかはわからない、何しろ一瞬だったのだから。記憶の断片かもしれないし、幸せなこの時間の終わりを告げる悪魔だったかもしれない。でもダリルは一つだけ確信していた、今過ったのであろう「何か」は、決して良いモノではなかったのだ。背中が微かにぞくりと動き、鳥肌が立ちそうなくらい、何か不吉な予感。
そんなダリルを嘲笑うかのように、窓の横では大きなモミの木がざわざわと腕を振り回していた。降りしきる雨に打たれている葉には、いつもの輝きはなかった。
どのくらいそうしていただろうか、ダリルのシャツは吹き込んだ雨で少しずつ濡れ始めていた。ダリルは外を眺めるのと、さっき頭を過ったもののことを考えるのを諦めて、窓を閉めた。そして、ため息をついて読書という時間に戻ることにした。
アミーナの夕食も食べ終え――彼女は自家用車で来たらしい――、何時もの静かな時間が来る、筈だった。二回目の来客に、フィリアは半ばイライラしながらドアを勢い良く開けた。そして、不快なものでも見るかのような目つきで、そこにいた来客を睨み付けた。
「……何の用だ? こんなチンケな家に政府が尋ねてくるなんて」
「お嬢さん……保護者さんはいらっしゃるかね?」
「保護者だぁ? ……居るかそんな奴。家主はオレだ」
お嬢さんなどと云ったり子供扱いしたりで、フィリアの機嫌は更に悪くなった。それに、政府の者が家に来るといったことは普段でも珍しく、事件の捜査に当たっているとき位しかこのような行動には出ない。まるでこの家に犯人が居るかのようなその行動にも、フィリアは腹を立てていた。
「そうですか。この家に、ダリル=カレイングという男性は居るかね?」
「だったらどうなんだ?」
「カレイング氏に――事情聴取をお願いしたいのです」
フィリアの目つきが一際険しくなった。逮捕状が出るような事を、ダリルがやるはずが無い。何故ダリルが疑われなければならない?
「オイ……!! 概要を詳しく話せ……ダリルに会わせるのはそれからだ」
政府の男性二人は、顔を見合わせる。片方が帽子をちょっと直して、コク、と頷いた。
それはこのような事件だった。つい先程、殺しがあった。家の廻りにあった大きな石で滅多殴りにされていたらしい。その事件現場というのが、フィリア達の家に一番近い家なのだ。近い家といっても、フィリア達の家はあまりにも村外れにあるので、距離は少し離れていた。そして目撃者が言うには、家から飛び出した犯人であろう男性は、ダリルにそっくりだったと、そういうことらしかった。
「ダリルがそんな事する筈ねぇ、人違いだ、帰れ!!」
「そうよ、どうせ目撃者の見間違えだわ。証拠も無いくせに!!」
リビングの椅子を蹴り倒して、フィリアもルーシーも怒鳴った。その怒号に政府の男性もたじたじとなって、もごもごと何かを口走っていたが、其の内何も喋らなくなった。でも、少し姉妹の罵声が途切れたので、男性も声を荒げた。
「そういって此所で帰るわけにはいかんのですよ、犯人で無いかどうかはまだ解りませんが、とにかく会わせて頂かないと」
「他の家はもう調べたのか? 此所だけが“近い家”に含まれる筈無いだろう」
「えぇ。隅々まで」
男性はそこだけ一寸誇らしげに、胸を張って云う。あとはこの家にしか可能性が無いと、まるでそう思っているよう。
「どうしたんです? どなたかいらっしゃったんですか?」
さっきフィリアとルーシーが叫んだのが聞こえたのか、ダリルが居間に入ってきた。タイミングが良いというのか悪いというのか――、政府の男性が帽子の縁越しにダリルに視線を向ける。
「あれ? ……政府の方ですか?」
「コイツら、オレ等ン家に近い家での撲殺殺人犯の容疑者にダリルが含まれてるんだと」
流石のダリルも、少しだけ眉をひそめた。
「……殺人ですか。それで? 僕は何故容疑者に?」
「……ダリル=カレイング氏ですね。実は目撃者が居られて、貴方にそっくりだと仰るもので」
「何時頃ですか」
「つい先程、夕方の四時から五時あたりだと思われます。失礼ですが其の時間のアリバイなんかを」
「三時から六時半ぐらいまではずっと自分の部屋で読書をしていました」
「証人はいらっしゃいますか?」
「いえ」
政府の男性が、一寸怪訝そうな顔を上げた。
「そうなりますと、矢張り容疑者として一番怪しいのは貴方ということになりますな?」
「政府まで御同行願います」
がたん、と席を立った政府の男性は、冷酷な目をダリルに向ける。逆にダリルは、其の目を見つめ返したまま、単調な口調で喋った。
「僕が犯人であるという証拠は?」
男性がちょっと自分の顎に手を添えて考え、次に其の手をダリルのシャツを指差した。
「濡れている君のシャツがその証拠だ。君は自分の部屋の窓から脱出して殺人をしたあと、また自分の部屋に舞い戻った。違うかね」
ダリルは静かに目を伏せて、ため息をついてまた目を開けた。どうやら先程頭を過った予感は当たったようだ。「幸せ」の時間が終わりだとは思わないが、少なくともあれは悪魔だった、疑惑の目と云う名の――残酷な悪魔。
「残念ながら全て違います。シャツが濡れているのは窓を開けたときに雨が吹き降りだったから。僕が脱出したというなら、靴か靴下は泥だらけでしょうね。でも僕の靴や部屋には泥の跡はありません、外には一回も出ていないからです。――そして最後に、撲殺されたなら返り血は僕の真っ白なシャツにベッタリですが――洗濯機の中にはそんな物騒な服はありません」
一同はしんとする。その全ての論理において正しかった。全て調べれば一目瞭然のことばかりだった。
政府の男性は帽子をきゅっと直して、ため息をついた。
「失礼したな。――いずれまた」
そう云って彼等は、静かに、何も言わずに帰って行った。ドアが閉まった瞬間、ルーシーとフィリアは口々にしゃべり始めた。
「ったくアイツらムカつくぜ!」
「でも凄いよダリル! アイツら逃げてったよ?」
「……そうですね」
「……ん? どうしたの?」
「――本当にそうだったんでしょうか」
「え? 何が?」
「僕は、犯人じゃなかったんでしょうか」
「な……何云ってるんだ、ダリルが犯人だっつぅ証拠は何一つ無いし、自分でそう云ってただろう」
「えぇ。だと――思うんですけど」
そう、確かにダリルは自分でやってはいないと思っていた。でも、一度――ずっと窓を開けて瞑想に耽っていた時間もあった。だから若しかしたら、自分が意識していない間に殺人なんてことをやらかしたのかもしれない。あの時何も考えられなくなっていたのは紛れも無い事実なのだから。
「……僕の着るシャツはずぶ濡れです、染みも付いてきっと取れません」
「え……? ……白いよ、ダリルのシャツは白いよ。それにもう乾き始めてる」
「いえ、心の方です」
あ、と小さく、困ったように呟いてルーシーは黙ってしまう。
「そうか? ……オレなら汚れ過ぎたシャツなんか捨てちまうけどな」
フィリアの其の言葉に、ルーシーもちょっと笑顔を取り戻す。そしてダリルには解った、その一言の意味が。
染みが沢山ついて、洗っても洗っても落ちないなら、そのシャツごと取り変えてしまえばいい。嫌な出来事なんか真実を必死に求めようとしなくても、自分に必要が無いなら捨ててしまえばいい。
それは心も同じ。もし嫌な出来事であっても、自分に関係ないのなら其の全てを捨ててしまえ、染みは見栄えを悪くするだけ。
後ろなんか見ない、だけど前を見つめる際に、後ろにあったことを活かすのは間違ってはいない。
「そうですね、有り難う御座います。……おやすみなさい」
「おやすみ」
「おやすみ、ダリル!」
翌日の天気は、昨日の集中豪雨が嘘のような快晴。
――今日もダリルはちょっとだけ染みの付いたシャツを洗う。自分次第で、真っ白にもボロボロにも出来る、そして染みの付き易いシャツ。それはまるで自分の心のようで。
窓から見える物干し竿には、真っ白なシャツ。
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