
その場に、いられなくて。
どうしても、いられなくて。
私は逃げ出してしまった。
黒茶【セピア】は、どしゃ降りの砂利道を、音を立てずに歩いた。
そして、背中に背負った紺【こん】という少年の寝息を聞きながら、先ほどのことを回想していた。
――黒茶は、腕の立つ用心棒だった。
この時代、表の世界でも闇の世界でも、「黒茶」の名を知らないものはいなかったという。
決められた時間を、決められた人を、しっかりと守ることが出来る、恐ろしいほどの才能の持ち主だったのだ。
事の始まりは、数年前、黒茶宛に送られてきた手紙だった。
丁度朝食の最中だったので、黒茶の手はせわしなく動いていた。
黒茶は、たった二つの文章しか書かれていない妙な手紙を見て、ため息をついた。
手紙なんか机の横に、海になるくらい沢山あったのに、
黒茶はどうしてもその文章から目が離せなかった。
「“頼む。助けてくれ”ですって? 宛名も書いてないし。誰を、どう助ければ良いのよ……?」
黒茶は、もう一度その小さな白い封筒を手に取った。
その手が、一瞬止まった――妙に重かったのだ。
「何かが内蔵されてる――?」
そのときだった。
バリバリバリ、と大きな音がして、窓の外に大きな黒いヘリコプターが見えた。
どうやらこちらに向かっている様子だ。
「……!?」
黒茶の行動は素早かった。一瞬にして家中の電気を消して、ドアの陰に隠れた。
ヘリの音は大きくなって、どうやら着地したようだった。
案の定、玄関の呼び鈴が鳴った。
勿論黒茶は応じない。
――――― ガチャ ―――――
ドアが開いた。
その瞬間、黒茶は入ってきた男の頭に、ライフルを突き付けた。
「――用件だけ言いなさい」
「……はいッ……その――黒茶様が手紙を開かれたようでしたので、お迎えに上がりました……」
「何……? 何の手紙を開いたって?」
「ですから――ご主人様の――」
どうやら、ライフルを突き付けられているのは“さっきの手紙を書いたご主人様”の家の執事らしい。
「執事なら手紙の内容は知ってるわね?」
「ハ――ハイ――頼む、助けてくれ、と――」
「わかった。手荒な真似してごめんなさいね。いつも殺し屋が尋ねてくるもんだから」
「は――はぁ――」
ライフルは執事の頭から降ろされ、家の中に電気がついた。
「黒茶君だね? 入りたまえ」
「はい」
黒茶は豪華な居間に通された。
「手紙を見てくれたのだね?」
「はい」
「あの短い文章には訳があるのだ――理由を書いて、もし黒茶君まで届かなかったら、と考えるとね」
だったら最初から手紙を執事に持たせて差し向ければ良かったのに、と黒茶は考えたが、
せっかくの仕事を捨てるほどバカではない。
「実は、大きな声では言えぬのだが我が社は――ライバル社のワイロ現場のテープを手に入れてしまったのだよ」
「それで、テープを狙った殺し屋や腕利き達がやってくるのですね?」
「そういうわけだ」
「それで、私は何を守れと?」
黒茶がそう問うと、依頼主の主人は、周りにいたガードマン達に、席を外してくれるよう頼んだ。
ガードマン達が部屋から消えると、主人が言おうかどうしようか迷っている様子を見せた。
「切羽詰ってますね?」
「――え?」
「手紙の書き方は、明らかに何者かを恐れている書き方でした。
短い内容には意味があるとおっしゃっていましたが、流れた字は殴り書きした証拠です。
御主人、恐ろしい来訪者達があまりにもやってくるので、あなたはノイローゼ状態なのですね?」
黒茶の問いかけに、主人ははっとし、次に、ひどくうなだれた。
「息子が――いるんだ」
「息子さんが?」
「まだ幼いし――危険にさらしたくなどない――。母親も病気でなくしているし――可哀想な子なんだ」
「……」
「物心がついた頃にはきっと、私のことを恨むだろう――しかしそれでもいい――私が死んだら他の誰が
あの子の面倒を見られるというのだ――」
「つまり――あなたをお守りすれば良い、と?」
「――そうだ。テープは常時私が持っている」
「となれば、あなたと、あなたの持っているテープを守ればいいわけですね?」
「そういうわけだ」
「わかりました。引きうけましょう」
主人は、涙顔を上げた。
「ありがとう――」
数年の間、黒茶はしっかり御主人を守った。
数え切れないくらいの刺客が、黒茶に試練を負わせた。
それでも、黒茶は試練の越え方をしっかりと飲み込んで、敵を倒してきた。
ある日のことだった。
まだ小さい紺が、すやすやとベッドで眠りについていた。
そのベッドの横で、黒茶がじっと考え事をしていた。
この子がいつか大きくなり、父親が大変なことになっていると知ったら――?
母親はすでに病気で死んでいると知ったら――?
いずれにしろ、悲しむことに違いはないのだろうな――可哀想に。
黒茶は気付いていなかった。
門番や他の用心棒が倒され、自分の背後に敵が来ていることに。
黒茶は後ろから殴られた。
「――がッ……!?」
「フン――お偉いさんの部屋はこの奥だな」
とてつもなく巨大な男だった。
黒茶はわかった――こいつはもうとっくにこの屋敷の構造を飲み込んでいることを。
「……待――て――くな――!」
「――アマが」
黒茶はその巨大な男の足を掴んだが、男が持っていたナイフをビュンと振りまわした。
ピッと血が飛び、黒茶の左頬に切り傷が出来た。
数分気が遠くなった――。
それでも黒茶は立ち上がった。
ヨロヨロと主人の部屋に向かう。
この仕事だけは失敗できない――。
主人の部屋に入った黒茶が見た光景は、黒茶の仕事の失敗を物語っていた。
主人は無惨にも胸にあの短剣を突き立てられ、目を見開いたまま血の海に転がっていた。
そして、その主人の前には、さっきのあの巨大な男が立っていた。
「ちッ――こいつ、テープを何処に隠しやがったんだ――」
「――うッ……うわああアァ―――――――――ッ!!」
黒茶は男に殴りかかった。
しかし、男は声に気付き、とっさのことで避けていた。
「こンのアマ――女に何が出来る!!」
「私の名前は――黒茶」
「!!」
男は顔をこわばらせた。
顔は知らなかったようだが、しっかりと名前には反応した。
“女に何が出来る”――黒茶の頭にさっきの言葉が響いた。
「何って――用心棒」
黒茶はゆっくりと腰から愛銃のライフルを抜いた。
一発の銃声が屋敷に響き渡った。
主人の服からテープを抜き取って、黒茶は屋敷を出ようとする。
黒茶の足が止まった。
そして、思い出したように紺の部屋に向かう。
そこには、何も知らずすやすやと眠っている紺がいる。
黒茶は、少しの間紺のことを見ていたが、やがて紺を背負って屋敷から出た。
――屋敷から出たのは何ヶ月ぶりだろう。
主人の世界会議に付き合って以来かな。
外はいつのまにかどしゃ降りになっていて、山奥の屋敷はドラキュラの館に見えた。
でも、門番もやられているし、中のガードマン達もやられているのだから、
ドラキュラの館というよりも死人の館、なのかもしれなかった。
そうなってしまったのは自分のせいだと考えるのは、あまりにも辛かったのだけれど。
紺を背負ってどのくらい歩いたか、暗くて深い谷まで辿り着いた。
黒茶は、右手に握っていたテープを、谷に落とした。
テープは、カシャンカシャンと痛そうな音を立てながら見えなくなった。
雨のせいもあるし、さっき男に殴られたせいもあって、視界はすでにぼやけていた。
黒茶はふらつく足を進めた。もう家の近くまで来ているはずだ。
「もう歩けない――」
黒茶の足が止まった。
黒茶はその場にしゃがみこんだ。
紺の足が地面についてしまわないよう、黒茶は紺を自分の膝に乗せた。
紺は疲れているのか、目を覚まさない。
「ごめんね――あなたのお父さん、守れなかった」
黒茶はそういって、紺をしっかりと抱いた。
仕事の失敗。
黒茶には初めての経験だった。
黒茶の脳裏に、あの日の主人の言葉が浮かんだ。
“私が死んだら他の誰が、あの子の面倒を見られるというのだ――”
「……私が――育てます」
黒茶はまた紺を背負って、ゆっくりと立ち上がった。
「責任を持って、私が死ぬまで――紺を育てます」
雨はまだ止みそうも無かった。
GALLERY
※螺旋さんのHPから来た方はブラウザでお戻り下さい。