これは、紺が一時期考えた、自分についての思考記録である。



その日、黒茶の帰りは遅くて、迅雷も淡雪に無理強いされての買い物で手間取っているらしかった。
だから家の中には淡雪と紺だけだったのである。

今日の天気は最悪に悪く、雷雨があたりの空気をさらに重苦しいものにした。
時々真っ白に照らされる窓枠に、紺はピクリピクリと反応する。
数秒後、身の毛のよだつような大きな音が、家を襲うからだ。
窓は冷やされた蒸気によって白く曇っていて、こすると直ぐに水滴が紺の指を伝って落ちて行った。

雷はさっきより収まったようだったけれど、雨はまだ止む事は無かった。

こんな雨の日はなんだか胸騒ぎがする。
紺は静かに、淡雪の方を眺めた。

淡雪はさっきからずっとテレビを見入っていて、テディ・ベアの縫いぐるみが少しでも
出ようモノなら、目を輝かせて思わず立ちあがり、ソファの横を飛び跳ねた。
紺にとってはどうってことないただの玩具屋CMなのだが、
淡雪が云うにこれは、神の示した運命の出会いなのだそうだ。


家の中にいると、外の雨音は全然聞こえない。
テレビからは一方的に声がいっぱい流れてくるだけ。
淡雪はさっきから酔ったようにぽうっとしてそれを聞いているだけ。
声は絶え間無く聞こえてくるのだけれど、紺はどうしても沈黙の中にいる気がした。

そしてとうとう、淡雪が見ていたテレビ番組が終わり、淡雪はつまらなそうにテレビを消す。
淡雪はまるで紺がいないかのように、今度は雑誌を開く。

紺は、この雨の中黒茶と迅雷が帰ってきた時用にタオルを取りに行く。


この頃、紺は思う。

僕は本当に黒茶お姉ちゃんの弟なんだろうか?
黒茶お姉ちゃんは、誕生日を聞いたときも何だか慌てていたし、
お父さんとお母さんのことを聞くと言葉を濁してしまう。
黒茶もなるべくバレないようにしていたのだが、子供の目は鋭くしっかり着眼点を定めていた。

紺に有る、とてつもなく遠い日の記憶の一つに、雨の日の記憶がある。
それは黒茶に酷似した女性の背中で、雨に打たれる記憶だった。
自分を背負っていた女性が本当に黒茶なのかもわからなかったし、
何しろ当時の彼は幼すぎて、自分が如何してそこにいるかさえ考えなかった。

歳を増して行く毎に彼のその記憶は薄れてきていて、彼は焦り始めていた。

そして、最近はこうも思う。
黒茶お姉ちゃんは、両親のことを言いたくないんじゃなくて、言えないんじゃないかって。


それが馬鹿な考えだってコトは自分自信よくわかっているはずだし、
本当にそうだったからといって他に行く当ても知らない。
第一それが本当かどうか、自信なんて無かった。

ただ、勘だった。



「ねぇ……淡雪お姉ちゃん」
「……」

淡雪は楽しそうに雑誌を眺めていて、紺の方を向く様子を見せない。
彼女の雑誌の全面にテディ・ベアが載っていたのだから、紺を見ない事はわかるといえばわかった。

「淡雪お姉ちゃん」
「……」
「おね――」
「聞こえてる」

淡雪の突っ張ったような咎め声に、紺はまた黙ってしまう。
ペラ、と淡雪のめくる雑誌の、薄い紙の音が部屋に響く。

「なんか用?」
「う……ん。あの……僕って本当に……」
「なに、聞こえない」

今さっき聞こえてるとか言ったくせに、ちょっとトーンを下げただけで聞こえない?
きっと集中して聞いていない証拠だ。

「僕って本当に、黒茶お姉ちゃんの弟なの?」
「知らないわよ」

気遣いも迷いも見せず、淡雪は平然と答えた。

「知ら……ない?」
「アタシだって黒茶とそんなすごく長く付き合ってるわけじゃないんだから」
「じゃあ、僕が何処の子かもわからない?」

紺のこの質問に、淡雪が紺に初めて視線を送る。
それも、ちょっと驚いているかのような。
こんな表情は初めて見たな、と紺はごくりと息を飲みながら俯く。

「アンタ、本当に自分が黒茶の弟じゃないって思ってるの?」
「……わかんないけど……」
「じゃあ気にしないの。第一、もし本当に黒茶と血が繋がっていないとしても、
 黒茶が悪意からの理由でアンタを引き取ると思うの?」

思えない。
黒茶はどんな人にも優しかった。
迅雷から、黒茶は用心棒をしていた時代があった、と聞いたことがある。
仮に用心棒時代の頃の“黒茶”の人格が有ったとしても、それが悪いものだったとは、
紺には到底思えなかった。

「でっ――でも――」

紺には過去の記憶がある。
記憶が嘘だとも思えないのだ。

「アンタ」

ずい。
淡雪が不機嫌そうな顔を紺に突き出す。

「えっ……」
「自分はどうしたいわけよ」
「……自分は?」
「そう。アンタ」
「……」
「ずっと黒茶やあたしや――えーとあと一匹、とワイワイにぎやかに暮らしたい?
 それとも、自分の説が正しいと思い込んで黒茶を疑い続けたい?」


さっきも考えた。
ここを出たら他に行く当てがないってこと。
でも、それ以外に、紺にはここに留まりたい、理由があった。

それがなんなのかよくわからない。

“今の”お姉ちゃんの黒茶が好き。
話し相手をしてくれる淡雪お姉ちゃんも好き。
遊び相手の迅雷お兄ちゃんも好き。
そうさ。みんな大好き。

――“だから”、離れたくなかった?


そう。
みんなのことが好きだから。
ここにいるのが楽しくて、本気で一緒に笑える仲間がいるから。

僕の今のお姉ちゃんは黒茶お姉ちゃん。

だから、それでいい。

「……!」
「過去を疑う必要なんて無いの、わかった?」

淡雪の、雑誌を読みながらの気の無い返事が、今の紺にはとても納得できた。
過去を弄繰り回していたって仕方ないのだということが。
大切なのは今を生きることだと言うことが。

自分が好きなのは、ここにいることだ、ということが。


「僕――! ここでずっと――!」


ピンポーン。
「ただいまァー」

「迅雷お兄ちゃんだっ!」

さっき用意したタオルを掴んで、紺は玄関に走る。

「迅雷お兄ちゃんっ」

紺は、今までに無く嬉しそうな顔を見せながら、タオルを手渡した。
彼の満面の笑顔が、迅雷に意外さを与えた。

「おう、紺。なんかいいことあったのか?」
「うぅんっ。それよりあのねっ」
「なんだ?」


「僕に“男らしくする特訓”をして! お願い!」



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