左手の薬指が落ち着かない。
何故薬指をいましめるのだろう。
自分は右利きなので、左手の薬指といったら一番無くなっても困らない指な気がする。
するり外した銀輪をしげしげと眺める。
輪の先に天井が見えてそこも拭かなければいけないと思う。
半ばで止まっている掃除を再開しなければならないのだが
眠気がもやのように掛かっていてどうにも身を起こすのが億劫だ。
目を閉じて指輪をはめ直す。
自覚はしている。
こんな風に指輪をいじってしまうのは精神が不安定な時だ。
開け放した窓から外の匂いを連れて風が入ってくる。
陽光が燦燦と庭に降りそそいで小鳥の鳴き交わす声。

暗い身の内。赤い記憶。

こういうのが始まるのは決まってあの人が居ない時だ。
丸まって耳をふさぐ。
実際自分とあの人を繋ぐ物など存在しない。
指にはまった銀色の輪っかに拘束力なんて無い。
まして神に誓うなどどの口がほざくのだろう。
ばかばかしいと独りごちても、たしなめてくれるあの人はいないので
吐き出した言葉はいつまでも無くならない。

ばかばかしいのではなくさびしいのだ。

ちゃんと帰って来てくれるのか不安なのだ。
そんなことはないと彼女に叱られたい。
まとまらない思考を引きずりながら眠りの淵に落ちてゆく。
高い確率で悪夢を見るであろう予感に鳥膚をたてながら。

どれくらい経ったのか、もがくように意識を覚醒させる。
酷い寝汗で気持ちが悪い。
鳥の声はいつの間にか虫の声に代わっている。
息をついて頭を動かすと下に敷かれた座布団と
掛けられたブランケットの存在に気が付く。
微かに漂う良い匂いと人の気配に飛び起きて、ばたばたと台所に向かうと
仕事着のまま流しで作業する後ろ姿が振り向いた。
望んでいた人物が当たり前のようにそこに居る。

「ただいま」
「お、おかえりなさい、です」

髪をまとめてエプロンを着け、自分がすべき夕食の準備をしている。
状況が理解できずに軽く混乱する。
自分は寝惚けているのだろうか。

「あ、あれ?帰ってくるのは明日じゃ」
「予定を繰り上げて早めに帰してもらいました。
正解でしたね」

エプロンで手を拭ってから手の甲を自分の額にあてる。
心地好い冷たさに目を伏せる。
押し寄せる安堵感で泣きそうだ。

「熱がありますね」
「そうですか」

人事のように言うと彼女は嫌そうに顔をしかめた。

「ろくに食べてないでしょう。冷蔵庫の中身が減っていません」
「お腹空いてなくて」
「寝てませんね。隈が出来ています」
「さっき寝ました」
彼女は目をつぶってため息をついた。
自分のそれと違いどこか様になる。
どんどん寄せられる彼女の眉と対照的に自分の頬はだらしなく緩んでいく。

「たかが三日の出張で死にかけられたらたまりません」

そう言う彼女の方こそ疲れているのかあまり顔色が良くない。

「僕は大丈夫ですよぉー!何ならトラックの前に飛び出してもいいです!!」
「トラックの運転手が被害者になりますね。お風呂沸いてますからどうぞ」
「はい」

自分のリアクションをにべもなく躱して、流しに向き直り作業を再開する。
返事はしたものの何となく離れがたくて、
つい持って来てしまったブランケットをいじりながら立ち尽くしていると、
動かない自分を気配で察したのか怪訝に振り返る。

「どうしました?」
「お手伝いします」
「大丈夫ですよ」
「でも疲れてるでしょう」

するとお気遣いなく、と苦笑して手をひらひらと振った。

「他人の心配は自分の余裕がある時にしてください」
「僕は超、余裕ですが。ていうか他人じゃないでしょう僕らは」

憮然とした気持ちが隠し切れずに声に出る。
彼女の素っ気無さはいつもの事だがたまに落ち込む。

「ああ、失礼。家族でしたね・・・
でも帰って来て寝ているのを見た時死体かと思いましたよ」

仕事というよりも、あそこで物凄く疲れたと前を向いたまま呟いた。
なんと返したらよいか分からずに黙してしまう。
意識が無い時の事とはいえ醜態をさらしただろうか。
謝罪の言葉しか浮かばないが、謝っても彼女は喜ばないだろう。
流水で何かを洗う音、鍋から漂う匂い。
急に聞こえ出す虫の鳴く声。
金属が軽く擦れるような音を鳴らして、蛇口をひねり水が止まる。

「猫でも飼いますか」
「な?」

突飛な言葉に絶句する。
再度こちらに向き直り、腕を組んで見上げてくる眼差しに揶揄の色は含まれていない。

「一人で寂しいんでしょう?」
「ち、違います!」
「無理しないでください友達も居ないのに」
「んな、僕にだってご近所付き合いぐらいありますよ!」

これでも外面はいい方なので人付き合いは悪くはない。
ただ。

「忘れましたか、僕が動物に嫌われることを」

猫が逃げる犬が避ける、彼女には腹を見せていた連中がだ。
別に不都合はないが気分の良いものでもない。

「大丈夫。私は動物ですが君の事好きですよ」

慰めなのか、らしくもない屁理屈を言う。
自分はそんなに弱って見えるのだろうか。

「なんですかぁーそれ・・だったらいいじゃないですか」
「ん?」
「梓さんがいてくれ たらいいです」
犬も猫も他の誰かもいらない。
すると目を細めてどこか悲しそうに笑う。
それに引っ掛かりを感じても人心の機微を読めない自分には彼女の真意は量れない。
体を寄せたくなったが、今したら多分怒られるので我慢する。

「だからちゃんと帰ってきてくださいねぇ」

それが約束されているはずの間柄なのに、
いちいち声に出して確認してしまうのはやはりどこかで疑っているのだろう。
この人と、何より自分自身を。
彼女は組んでいた腕を解いてこちらに手を伸ばす。
言葉で何を言っても伝わらないと判断すればこのようなやり方をとる。
彼女の左手に鈍く光る銀色がちらりと視界に入って滑稽だと思う気持ちと安堵がないまぜになり、
捲り上げられた腕を引いて力任せに抱き寄せるとやはり抗議の声が上がった。

「ちゃんと帰ってきますよ」

分かっていますと口に出せば嘘になるので黙って頷く。
そのまま腕に力をこめると、やけに弱々しく彼女が笑った。

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ジャスティンの「お帰りなさい、です」が
めちゃくちゃ可愛くて転げまわります。
なんとなく梓の側から離れがたくて
ブランケットをもじもじしてるジャスティンとか!
だめだもう。
最終兵器彼氏。

ていうかお前・・・
3日の出張でこれか!(笑)
手がかかるにもほどがあるだろ!(笑)
くそ!かわいい!
けしからん可愛さ!(笑)
なんだろね。ダメかわいい。(笑)

ジャスティンのこう、ドロドログチャグチャした感じと
それを表面的には冷静に引き締める梓に萌えまくりです・・
ジャスティンの手綱はキミにしか引けないよ・・難しすぎて・・