Jazzとは何でしょう




THIRTEEN: Jazzは行き詰まったのか?  
THIRTEEN: Jazzは行き詰まったのか?

「他人のやらないことをやる、出来ないことをやる」方向にジャズ・アーティストたちが進んで行った、と述べてきました。そういう土俵で研鑚を積み続けた結果「他人のやらないこと出来ないこと」の分野が急速にせばまり、よほど奇妙奇抜なことでなければ、すでに誰かが試み済みであることになってしまったのです。さきに挙げた4分の5拍子もその1例と言ってよいでしょう。デイヴ・ブルーベックが1950年代にやったからこそ意味があり、ジャズ・ファンも歓迎したのですが、いままた誰かが4分の5拍子をやったとしても誰も見向きもしないのです。電子技術の発達にともない、電気的電子的に工夫して耳新しい音を作り出して使うことも流行りました。電子的に音を作ればその種類は無限大にひろがるでしょう。ところがその結果は、楽器本来の持ち味が失われ、当初は耳新しかったが、何回か使ったらもう面白くない音、そう思われるようになってしまいました。
クラシック音楽でも同様の現象が出ています。作曲家が他人と違う音、リズムを求めて模索し続けた結果発表した現代音楽の作品に、一部の愛好家、評論家(分かったふりをしているのではないか?)と作曲家や演奏家だけが満足していて、一般の聴衆は何がなんだかさっぱり分からず面白くない、ということはよくあるでしょう。
全くの余談です。
30年ほど前のことです。ニューヨーク・フィルハーモニックの定期演奏会で、あるギリシャ人作曲家の新作のアメリカ初演が行われました。オーケストラのスコア(総譜)のある個所で、ページ全体に斜めに1本線が引いてあったそうです。そのページは廃棄という意味ではなく、そのページの何小節かはすべての楽器の各々が(第1ヴァイオリンが12人なら12人とも別々に)、何でもいいから違う音を出すこと、というのが作曲者の指示だったのだそうです。普段ならすべて暗譜で指揮することで知られていた小沢征爾が、このときばかりは畳半畳もあろうかという大きさのスコアを前にして、必死の形相で棒を振っていました。「こんな音楽を聴いていられるか」とばかりに憤然とした顔つきで、演奏最中に席を蹴って退場する聴衆も何人かいました。マナーにうるさいニューヨーク・フィルの定期演奏会ではまことに珍しいことです。小沢征爾とNYフィルということで当日売りを買って聴いていた私も、その奇妙きてれつさには心底びっくりしたことを覚えています。
クラシック音楽が何百年かかけて到達した、この難解で面白くない世界へ、ジャズは十年かそこらで突っ込んでしまった感があるのです。
数人あるいはそれ以上の人数のバンドが演奏しているステージで、お客のリクエストに応えて、バンドリーダーが指3本を上向けに指したり、2本を下向けに指したりしながら曲名を言っているのを見かけることがあります。指3本上向けは「イ調(♯3個だから)」、2本下向けは「変ロ調(♭2個だから)」でやるぞ、と指示しているのです。
こういうことから、ジャズでもクラシック同様「何調でやるか」が基本にあるということが分かります。
20世紀に入って、クラシック音楽では「無調派」とか「12音階派」というのが出てきました。「○○調」と決めずに、自由に音を並べて行こうということなのです。ナマのコンサートで聴いているぶんには、音の羅列の実験に立ち会っているようなもので、長くさえなければそれほど退屈はしません。しかしそれをディスクで聴く気には、少なくとも私は、なかなかなれません。

101.(MDG−1)
European Echoes Ornette Coleman (alto sax), David Izenzon (bass),
Charles Moffet (drums).
[The Ornette Coleman Trio Blue Note BST-84224 ADD 1965]
ジャズの世界にもこの「無調派」に類するものが早々と入ってきました。その先頭を切ったのはオーネット・コールマンというサキソフォン奏者です。後に「フリー・ジャズFree Jazz」と分類されたものです。この演奏ではまだ伝統的ジャズの名残りが見られ、奇妙ではあるがそれなりに楽しむことができるかもしれません。

ジャズは黒人社会から発生したものです。その音楽は今までに見てきた(聴いてきた)ように、白人たちも十分に楽しむことの出来るものでした。しかし演奏する黒人奏者たちが白人優位の一般社会にすんなりと受け入れられるようになるには、非常に長い年月が必要でした。そういう時期にあって、ジャズを人種、階層の不平等、差別撤廃の運動の道具に使おう、そういう動機を抱く人たちが出現してもおかしくないでしょう。楽しむジャズではなく、闘争の音楽です。

102.(MDG−2)
Percussion Discussion Charles Mingus (bass), Eddie Bert (trombone),
George Barrow (tenor sax), Mal Waldron (piano), Max Roach (drums).
[Mingus at the Bohemia debut OJC20045-2 ADD 1955]
チャーリー・ミンガス(ベース奏者でありピアニストでもある)はそういうジャズ・アーティストのひとりです。ベースにせよ、ピアノにせよ、まことに高度な技術を持っているのですが、こ人は高踏的、かつ闘争的なジャズを演じることに一生を捧げました。なにしろ彼の代表的アルバムのタイトルが「直立猿人Pithecanthropes Erectus」 というのですから、変人ぶりは相当なものだと言えるでしょう。

103.(MDG−3)
Free Jazz - Part I Ornette Coleman (alto sax), Eric Dolphy (bass clarinet),
Donald Cherry (pocket trumpet), Freddie Hubard (trumpet),
Scott LaFaro (bass), Charlie Haden (bass), Billy Higgins (drums),
Ed Blackwell (drums).
[Free Jazz Atlantic AMCY-1152 ADD 1960]
オーネット・コールマンの率いるグループによる、これが正真正銘の「フリー・ジャズ」です。ここでは8人の奏者が演奏しているのですが、オクテット(八重奏団)ではなく、四重奏団がふたつ、ダブル・カルテットでお互いに「勝手気まま?」に競演しているのです。「音階」も「拍子」も無視した、「自由」と言えば聞こえは良いけれど、見方によっては「無節操、無秩序」とも受け取れる、そういう音楽になってしまいました。でもこういうのを「最高のジャズだ」ともてはやす人々(はたして理解しているのだろうか?)がいるから、ジャズは奥行きが深いのです。長い曲で約20分かかります。途中でいやになったら、止めていただいて結構です。

104.(MDG−4)
We Free Kings Roland Kirk (tenor sax, flute, clarinet, etc.),
Hank Jones (piano), Art Davis (bass), Charlie Persip (drums).
[We free kings Mercury 826455-2 AAD 1961]
ローランド・カークは、複数のサックスを同時に吹いたり、声を出しながらフルートを吹いたりと、奇抜な演奏で名をあげた盲目黒人アーティストです。何か人と違ったことをしないといけない、が嵩じてこういう芸風にたどりついたのでしょう。実は私はニューヨーク暮らし時代にこの人のジャズを何度かヴィレッジ・ヴァンガード(モダン・ジャズのメッカと言われ最高の演奏が聴けるジャズ・クラブ)で聴いています。目の前でこんな変わった演奏が繰り広げられれば、それはそれでサーカスか大道芸人のパーフォーマンスを見るようで面白いのですが、そしてナマのステージで即興演奏を聴かせるのがジャズの生命というのならそれでよいのでしょうが、後になって落ち着いて考えてみると、またこうして音だけをディスクで聴くと、これが正統派のジャズなのかなぁ、との疑問が沸いてきます。クリスマスに教会学校の学芸会では必ずと言ってよいほど演じられる「キリスト誕生」の聖誕劇で歌われる「我ら東方からの三人の博士たちWe Three Kings of Orient are」の曲を借りて、フリー・ジャズ(ThreeとFree)であることを示しているのでしょう。

105.(MDG−5)
Death and the Flower Keith Jarret (piano) Quintet
[= + Dewey Redman (tenor sax), Charlie Haden (bass), Paul Motian (drums), Guilherme Franco (percussion)].
[Death and the Flower impulse! AS-9301 ADD October, 1978]
「このファンタスティックな暗さが好き・・・」と褒め称える日本のジャズ評論家もいますが、私などはこれがジャズとはとても思えない。ジャズの生命であるはずのリズム(ビート)をことさら排除して、奇妙な音の連続で、これではジャズであることを放棄していると言われても抗弁できないでしょう。それでいてクラシック音楽でもない。約23分の長い曲です。キースが弾き出す後半からは多少ジャズらしくなる。一部評論家によればジャズ史上画期的な作品だそうですから、我慢して聴いていただきたいが、全部聴くと頭が痛くなるようならば、これも途中で端折っていただいて結構です。

キース・ジャレットはクラシックの素養が深く(バッハの「平均率クラヴィア曲集」をハープシコードで弾いたすばらしいCDが出ています)、また若い頃にはマイルス・デイヴィスのバンドでピアノを弾いていたし、前にもちょっと触れたように自分のコンサートでは常にその場かぎりの即興演奏、「オレのライヴを聴いてくれ」というタイプのアーティストなので、ジャズの本流は良く知っているはずです。それなのにこういう出口なき迷路に迷い込んでしまった。でも最近ではこの人も本道のジャズに戻ろうとしているようなので、ほっとします。

106.(MDG−6)
Maiden Voyage Herbie Hancock (piano), Fredie Hubbard (trumpet),
George Coleman (tenor sax), Ron Carter (bass), Tony Williams (drums).
[Maiden Voyage Blue Note CDP-7 46339-2 ADD 1965]
ハービー・ハンコックは、ロックのビート感や、電子ピアノ(いわゆるキーボードkey-board)その他のロックの楽器類、編成をジャズに持ち込みました。そしてジャズ界の新しい旗手ともてはやされ、新しいファン層を作った人です。この「処女航海Maiden Voyage」というアルバムもひところのベストセラー、評論家たちがこぞってほめるせいか、今でも繰り返し再発売盤が市場に出てきます。これを新しくて、良いジャズとみるか、どうも馴染めないとみるかは、聴く人の好みの問題でしょう。

先に余談としてご紹介したギリシャの現代音楽作曲家の作品、日本やアメリカのレコード店でそのディスクにお目にかかることはありません。ところが「途中で止めていただいて結構」と申し上げた103.の「フリー・ジャズ」はじめその他コールマン・ホーキンズのディスクは、すくなくとも東京やニューヨークの主要レコード店なら、何枚かは見つけることができます。ということは、クラシックの前衛現代音楽作品よりは前衛的ジャズの方が世の中に受け入れられている、ということなのでしょう。
ロックやポップスのディスクは、当たれば、いちどきにン百万枚単位で売れます。これに対してクラシックやモダン・ジャズのディスクは、地球規模の市場で多くてン万枚、普通は良くてン千枚売れるだけです。ところが前者はほとんどが1回かぎりの使い捨て商品であるのに対して、後者の良いものは何年、何十年にわたって、再発、再々発、再々々発を重ね、40年経って結局はン十万枚売れた、という息の長い商売なのです。このテキストで取り上げ、聴いてきたディスクの多くは古い録音です。それが、発売元の会社を変え(企業買収あるいは版権の移転で)、体裁を変え(逆に昔のLP時代のジャケットに戻したり)、ディスク番号を変えて、繰り返し発売されてきたもの、そのほとんどが今でも店頭に並んでいるディスクばかりなのです。
「ジャズは1回かぎりの演奏が生命。」、と繰り返し述べてきました。
ということは、言葉を変えれば、「1回かぎりでその後は見向きもされない、レベルの低い演奏(そして録音)も、たくさんたくさんある(あった)。」わけです。我われは、厳選されたジャズの名演ばかりを聴いてきているのですから、「ジャズはなかなか良いものだ」とお感じでしょうが、行き当たりばったりでディスクを取り上げたり、ジャズ・クラブをのぞいたりして、いつも良いジャズに巡りあえるわけではありません。








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