Jazzとは何でしょう




FOUR: Jazzニューヨークへ  
FOUR: Jazzニューヨークへ

  ニューオーリーンズで発芽し、ミシシッピー河を遡りながらつぼみをはぐくみ、カンザス・シティーで、そしてシカゴで花開いたジャズ。これがアメリカの経済、文化の中心ニューヨークに迎え入れられるのに、それほど時間はかかりませんでした。ニューヨークの黒人街ハーレムHarlemには、黒人たちによるジャズ・クラブ(コットン・クラブCotton Clubなど)が出来、この生き生きとした新しい音楽を聴くために、白人たちも出入りしていました。ときあたかも78回転のSPレコードが市場に出回るようになり、ラジオ放送が普及してきたころでした。前述のミンストレル・ショウ、ミュージカルやナイト・クラブに源を発する流行り歌、いま風に言えばポップスが、レコードになり放送されました。人種差別が歴然としていた時代ですから、黒人たちが白人社会の公開の場で演奏することはまだまだ困難な時代でしたが、彼らの演奏するジャズはレコードになっていて、白人たちもそれを喜んで聴いていたのです。
  このジャズの黎明期に活躍したのがハーレム育ちでピアニスト・編曲者・バンド・リーダーのフレッチャー・ヘンダーソン Fletcher Hendersonです。黒人たちの音楽「ジャズ」を白人が徐々に身につけ、腕のいい演奏家たちがニューヨークへ移り、集まってくる、そしてヘンダーソンなどの先駆者からほめられ激励されて精進を続け、新しい分野を探し開拓していく。レコードやラジオがそれを後押しし、それがまたミュージシアンたちの励みになる。こういう過程をほぼ史実に沿って伝えているのが映画「ベニー・グッドマン物語」あるいは「五つの銅貨」です。

16.(MD@−16)
Happy as the Day is Long Fletcher Henderson (piano) and His Orchestra.
[Tidal Wave Decca MVCR-20022 ADD 1934]
フレッチャー・ヘンダーソンの楽団には、後に一家をなすことになる腕ききのミュージシアンが多数名を連ねています。この楽団は初期のジャズ・ミュージシアン養成学校でもあったわけです。ここで聴く快適なリズム感、そして楽器間のかけあいのような音のやりとりが、このテキストのはじめの方で触れたコール・アンド・レスポンスcall and response、典型的なジャズの進行形式のひとつです。

  シカゴそしてニューヨークには、アメリカ全土から白人黒人の別なく、腕に自信のあるミュージシアンが集まってきました。後世に名を残すことになるジャズの名手たちがこのころ陸続と登場します。
ベニー・グッドマン Benny Goodman(クラリネット、バンド・リーダー)、
レッド・ニコルス Red Nichols(コルネットとトランペット)、上掲の映画「五つ
    の銅貨」はこの人の伝記映画です。
グレン・ミラー Glenn Miller(トロンボーン、編曲、バンド・リーダー)、
ジャック・ティーガーデンJack Teegarden(トロンボーン)、
ハリー・ジェームス Harry James(トランペット)、
ジーン・クルーパ Gene Krupa(ドラムス)、以上は白人。
カウント・ベーシー Count Basie(ピアノ、作曲、バンド・リーダー)、
デューク・エリントン Duke Ellington(ピアノ、作曲、バンド・リーダー)、
ファッツ・ワラー 'Fats' Waller(ピアノ)、
アート・テイタム Art Tatum(ピアノ)、
テディー・ウイルソン Teddy Wilson(ピアノ)、
レスター・ヤングLester Young(テナー・サックス)
ライオネル・ハンプトン Lionel Hampton(ヴィブラフォン)、以上は黒人、等々です。
  いずれ劣らぬジャズ史上の巨人たちですが、はじめてジャズに接する人々には一度では覚えきれない固有名詞群でしょう。追々このテキストで紹介し、説明をを加え、演奏を聴いていきたいと思います。
  1920年代後半から30年代にかけて、当時流行していたムーディーな甘い音楽に挑戦するかのように、黒人の演奏スタイルを大胆に取り入れてビートの利いたジャズで人気を得たのがレッド・ニコルス(コルネット)です。甘い(スウィート)の反対だとの意味からホット(激辛?)・ジャズとも言われていました。

17.(MD@−17)
Battle Hymn of the Republic コルネットの演奏者は不明.
[映画「五つの銅貨Five Pennies」(VHS Video)サウンド・トラックより]
手もとのレッド・ニコルスの実演音源には適当なものが無いので、映画のビデオから音を取りました。ニコルス役をやっているのは喜劇役者ダニー・ケイ Danny Kayeですが、バックでコルネットを吹いているのが誰かは分かりません。しかしなかなかの芸達者、そしてトランペットとダミ声のヴォーカルがルイ・アームストロングです。禁酒法下のニューヨーク、ハーレムのスピーキージー speakeasy(=もぐり酒場)・ナイトクラブです。飲み慣れないお酒に酔っぱらったレッドが、ルイ・アームストロングほかの黒人ミュージシアンが演奏しているステージに上がってしまいました。
「楽譜は無いのか?」と尋ねるレッドに
「ジャズに楽譜があるものか」と応えるルイ。
「じゃぁ、素晴らしい演奏をもう一度やってくれ、と求められたらどうする?」
「美しい啼き声のウグイスに、もう一度啼いてくれ、と頼めるかい?」
との、ジャズの本質をあらわす気の利いた台詞のやりとりなどがあったあとで、レッドが南北戦争時の北軍々歌「リパブリック賛歌」を吹き始め、それにルイやその他の黒人奏者たちが逐次加わって行く。この映画の最初の山場、そして「ジャズとはこういうものだ」を教えてくれる素晴らしい聴かせどころです。

  こういう奏者たちはニューヨークやシカゴのホテルの大宴会場のステージで、ナイト・クラブで、あるいは地方都市の公民館や大学・高校の体育館で演奏しました。この頃には音楽教育を受けているミュージシアンも多くなっており、中には理論や作曲を勉強している人もいました。したがって、ジャズといえども楽譜に基づき演奏することが多くなり、リズム(ビート)の強いものながら、耳に心地よい、ときには斬新なハーモニーが重視される音楽へと少しずつ変わって行き、レコードになりラジオで放送され、急速にアメリカ全土で愛好されるようになりました。かくして「ジャズ」はアメリカの音楽としてしっかり根を下ろすようになったのです。
  1920年代(から30年代前半にかけて)のアメリカは「ローアリング・トゥエンティーズ The Roaring Twenties」と言われていたことからも分かるとおり、第一次大戦勝利の好景気から一転して世界同時大不況、そしてそのきっかけをアメリカが作るなど、折からの禁酒法の影響さらにはマフィアの台頭もあって、物情騒然とした世相でした 。
  そういう時期、アメリカ人は繁栄を謳歌し、ついで不況の世の憂さを晴らすのに恰好なものとして、ジャズを迎え入れ、ジャズに熱中したのでした。映画「華麗なるギャツビー The Great Gatsby」(1974、原作スコット・フィッツジェラルド Scott Fitzgerald)がその当時の世相をよく描いていると思います。ロングアイランド Long Island(ニューヨーク市の東側にある横長の島)の富豪豪邸での大パーティーで、若者たちが踊りながら正装のまま噴水池に飛び込んで行く、そんな狂気のシーンがありました。あの場面での音楽が、ニューヨークの富豪たち、その二世たちを夢中にさせた、流行最先端の新しいアメリカの音楽「ジャズ」でした。

18.(MD@−18)
Take the 'A' Train Duke Ellington (piano) and His Orchestra.
[The Dixieland to Swing Cedar D2CD09 ADD 1941]
演奏しているのはジャズの高顕デューク・エリントン、さきに聴いた貴公子カウント・ベイシーとともにジャズの歴史を自らの手で書きつづけ、ジャズの王道を歩みつづけてきた偉大な人です。曲はジャズ史上不滅の名曲でデューク・エリントンの看板曲「A列車で行こう」、これが本家本元の演奏です。この 'A' Trainとは、「1本の列車」ではなく、ニューヨーク地下鉄のA路線のことです。A路線はマンハッタンの中心、繁華街からハーレム地区を抜けて北の方へ走っています。つまり、「さぁ地下鉄A線に乗ってハーレムへジャズを聴きに行こう」ということなのです。

19.(MD@−19)
Love Jumped Out Count Basie (piano) and His Orchestra.
[The Essential Count Basie, Vol.3 Columbia 44150 ADD 1940]
カウント・ベイシーのニューヨーク時代の録音です。

20.(MD@−20)
It Don't Mean a Thing If You Ain't Got That Swing Duke Ellington (piano)
and His Orchestra.
[Duke Ellington Bluenite BN-012 AAD 録音年代不詳、たぶん1930年代前半]
たびたび引用してきたデューク・エリントンの至言そして名曲「スウィングしなけりゃ(ジャズをやる)意味がない」の本家本元の演奏です。ジャズの基本中の基本である、このうきうきとしたスウィング感覚をこころゆくまで楽しんでください。

  私ごとで恐縮ながら、私の父は1920年代の終わりごろ、「ロアリング・トゥエンティーズ」の真っ只中のニューヨークに住んでいました。そして新しい音楽「ジャズ」が気に入っていたらしく、ニューヨークで買い集めたレコード(もちろんSPです)が家にたくさんありました。だから私は、理解していたかどうかはともかく、幼少の頃からこうしたアメリカの音楽を聴いていたということになります。









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