私のコンサート評




私のコンサート評  
April 28 (Fri), 2000  Carnegie Hall

Ives: Symphony No.4
Adams: Century Rolls
Vares: Ameriques
Christoph von Dohnanyi (conducting), Emanuel Ax (piano)
Dessoff Symphony Choir, Cleveland Orchestra

 あの大きなカーネギーホールがこのプログラムで満員!!。評者同様世界各地から「リング」のためにはせ参じた音楽ファンが「リング」の谷間を利用してきているからなのか、実力派クリーヴランド管だからか、はてまたニューヨークの音楽ファンはレベルが高いのか(答えはその三つの総和だと思うが)。

 保険会社の役員をしながら趣味で作曲をしていたアイヴスの楽風は、アメリカというよりは、彼が住んでいた東海岸北部ニューイングランド地方、その風土を色彩濃く背景にしているものである。民謡やわらべ歌のような調べ、プロテスタント教会賛美歌のコラール風メロディーがあちらこちらに、ときには大きくときにチョコンと顔を出す。オケあるいは合唱があるメロディーをあるリズムで奏している、それと同時に違うグループが全く別のメロディー、リズムで演奏する。これを混乱、混沌と言うか画期的な試みと見るか。この曲が作られた1910年ごろなら世評は前者であったろう。

 現代の音楽愛好家の視点で捉えればそれは「生活の心配のない人だからこそ書けた実験的」なもので、この「第四番交響曲」はその典型的なものである。メロディーもリズムも異なる演奏者群が同時に音楽を発信するのだから、正指揮者のほかに副指揮者を置かなければならない。合唱を使い、ピアノ、オルガンその他の鍵盤奏者多数を含む、特大のフル・オーケストラが必要である。気軽にプログラムに乗せ得るような曲ではないのだ。小技は巧みな素人画家が、あちこちまわりの風景を写生している。そしてそれらを集めて一幅の大きな絵にまとめようとするのだが、どうもうまく額縁内に収まらない。この曲はちょうどそういう不整合さを音楽にしたようなものだ。

 アダムスの「センチュリー・ロールス」(1997)、クリーヴランド・オーケストラの委嘱に基づく作品で実質はピアノ協奏曲である。そしてこの日がニューヨークにおける初演とのこと。

 新ミニマリズム派アダムスの特徴は、弓を細かく動かして刻んだ弦楽器等の音でモチーフを連ねてゆく作曲手法にある。(ディスクで聴いただけだが)アダムスの音楽は、あたかも短い電子音の洪水に囲まれたごとくで、現代に生きる我われが等しく抱く、何が理由なのか分からない不安感を表現しているようだ。ところが不快ないらだちを感じるとともに不可思議な共鳴感も覚えるのである。アメリカのインテリ層にアダムスのファンが多いと聞く。エマヌエル・オクッスのピアノは上手いが、率直に言って「アダムス新作のNY初演を聴きました」と誇りをもって後世に語り継ぐ、というほどの曲ではないように思う。

 ヴァレーズの「アメリクス」、これは日本でも何枚かのディスクが入手可能な彼の代表作のひとつ(ただしドホナニー・クリーヴランド管のデッカ盤は絶版)、現代というよりは近代曲の範疇である。評者の世代には戦時中の空襲警報を想起させるようなサイレン音を随所に挿入するという、当時(初演は1926年だからバルトークの【管弦楽のための協奏曲】の約20年前である!)としてはすこぶる斬新、革新的な音楽であったろう。現代の我われが聴いて「ほどよく現代的」と感じるくらいだ。

 3曲を通じてクリーヴランド・オーケストラの上手さに感嘆。その上手さは驚異的と言ってよい。そしてドホナニーはそれを完全に掌握し、君臨して、団員の尊敬と信頼を一身に集めている。その様子がありありと聴衆に伝わってくるのである。日本では絶対に聴くことができないプログラム、そして熱意をもってそれに臨んでいる名人オーケストラの秀演を聴いたという経験。








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