先般2006年9月2日(土)5PM(まだ明るい)より緑ヶ丘芝松(鈴木正治君の店)にて、8年ぶりに藤田先生を囲み同期7名(森田、富桝、川井、高村、渡辺龍、西田、藤巻)が集まった。
特に日向・長州で長い隠遁生活を送っていた西田が20数年振り参加したので、社会人となって(残念ながら水田はいないが)初めてフルメンバーが揃うこととなった。66歳になられた藤田先生と48歳になった我々と、先生は相変わらず若々しいのであまり見た目は違いがない(特に上の方が寂しくなったT君)。
先生ご夫妻は現在、伊豆函南町の別荘をベースにご両親のおられる逗子葉山と東京世田谷下馬のご自宅と3箇所を都度転々とし悠々自適にお過ごしとのこと。まさに“自由人”藤田先生らしい生き方だ。
我々の中学入学は今から35年前、当時の先生が31歳と今の我々より遥かに若造(失礼!)であったかと思うと大変面白い。宴盛り上がり酒がすすむにつれ、先生は熱血若手教師に、我々は中学生のガキに戻っていくのだった。
(写真)ボトルにサインをされる藤田先生
当時、目黒11中でHは体育会系クラブ活動が盛んだったが野球部がなかった。多くは野球少年であった我々にはそれが残念でならなかった。しょうがないのでそれぞれ既にあったクラブに所属した。森田と富桝と俺はバレーボール部、西田と龍男と高村と水田はテニス部、川井はサッカー部?忘れた(ごめん!)。背の低かった俺がバレー部というのはお笑いだが、後日ミュンヘンオリンピックで活躍した木村・嶋岡等の出た名門クラブということで女の子にもてるだろうとの不純な動機だった。
そのうち、1Bを中心に “リージャース”(”暇人達の集まり“という意味)という草野球チームを創って日曜日に二子多摩川のグランドで練習をしたり、碑文谷鷹番の一勧グランドでの区大会に出たりした。
あの狭いグランドの11中で野球部を創るという夢を実現するのはとても難しく、いろいろな壁が立ち塞がっていた。そんな時、1年も終わりかけた頃に2年次より課内クラブという制度が出来るので、それに乗じて男子ソフトボール部というのを幸運にも創ることができた。狭いグランドなので野球は駄目でもソフトボールならいいだろうとのことだった。ソフトボールというのは道具が多く、理由をこじつけて一番多く予算を取ったのもいい思い出だ。
当時女子ソフトボール部は何年か前に藤田先生がやはり創られて、課外クラブとして立派に存在していた。裏話として、例のリージャースが女子ソフト部の練習試合の相手を継続して務めており、それが男子ソフトボール部創部の起源となったということだ。女子ソフトボール部はそういう意味で大恩人であり、感謝している。
外に五十嵐宰君、平井清豪君、長田君、森章君、福江君、高橋修君、小室君、岩瀬君、伊藤幸生君、高瀬信彦君等も発足時の仲間だった。
翌年、課外クラブに昇格し、新人(1年生)のソフトボール大会を見学し、有望な1年生を1本釣りでスカウトして一気に15名も集め、2年生9名、3年生8名と併せ、一躍新しいクラブとしては異例の32名という大集団で発足した。
自分たちのデザインでユニフォームや帽子のマーク(目黒のMと11中の11をデザインしたもので今でも気に入っている)も作った。俺の好きな中日ドラゴンズのブルーやみんなの意見を集め盛り込んだら、まとまりのない派手なユニフォームになってしまった。
当時、試合に行くと対戦相手は普通、白と黒の地味なユニフォームが一般的でかなり我々は浮いていた。しかし、それを作ってくれたスポーツ用品屋さんも、たかが中学生の無理な注文によく付き合ってくれたものだった。いい時代でした。
(写真)左から森田君、川井君、高村君、西田君
我々の代ではまだ正式名称は男子ソフトボール部のままだったが、課外クラブになった途端に当初からの目論見通り、野球の練習を始めた。グランドの端にはブルペンとしてマウンドも土を盛り上げて作った。
試合は野球とソフトボールと両方に出た。我々の代では大した実績はあげられなかったが、ソフトボールの都大会で優勝した小松川2中と大乱戦の上、惜しくも8対9で敗れたことがあったぐらいだった。それも投手がノーコンでだらしなかったのが最大の弱かった理由だった(みんな、すまない!)。
その後、直ぐ正式に野球部に衣替えし、後輩たちの代では区大会で優勝したこともあったらしい。
さぞ他のクラブには迷惑をかけたことと思う。打ったボールがちょうどセンターの位置にいる女子バレー部員の背中に当たったことがあった(芥川さん、二瓶さんほか皆さん、怖い思いをさせ、本当にすみませんでした!)。
狭いグランドに沢山のクラブが練習時間を取り合うなかで、新参で広々とグランドを使う野球をクラブとして認めてもらうというおよそ叶いそうもない夢を実現できたのは今から考えると驚異的なことだった。校長先生・教頭先生ほか職員室、PTA、他のクラブ、区の野球連盟・・等々、いろいろとクリアーしなければならない壁があった。
1Bの担任であり、体育の先生でもあった藤田先生が顧問となってくれ、いろいろとお骨折りを頂いた。甲子園球児でもあった藤田先生が野球に拘りを持っておられたことも大きく、現在の教師にはあまりいない「型にはまらない自由に生きる情熱家」であったなと、今更ながら出会えたことを有難く思います。また、メンバーみんなが野球をやりたいという思いが強かったことも原動力となった。
「夢は一気に実現できるものではなく、プロセスを踏み、既成事実を積み上げ、じっくりとコンセンサスを得て実現していく」というビジネスセオリーや戦略をこの体験を通し、わずか15歳にして学べたのは貴重だった。
以降、自分の前に立ち塞がる壁はこの時の経験からすれば、どれも大したことじゃないなと思えるようになり、今でも折にふれ勇気を与えてくれる。
目黒11中は今、クラスも学年1〜2クラスに減ってしまったと聞くが、恐らくなくなったクラブも多くあるだろう。10年程前に学年同窓会の前にぶらぶらと歩いてグランドを見にいった際に、立派な野球用のバックネットが出来ていたのには驚いた。その時、目の前に軟球がひとつ落ちていて、「まだ野球部はあるのだな。」といたく感動したことがあった。しかし、今の人数では恐らく野球部はないのかもしれない。
中学の部活で学んだことは口では言い表せないほど多くのものがある。それは33年も経った今だからこそ、より輝いて思い出される。今の学生は全体的には当時ほど部活は熱心にやらなくなったようで、可哀想に思う。一方で我々の時代は幸せだったなと、あの土曜日の午後の校庭の賑わいが懐かしく思い出される。
(写真)芝松前で全員で
最後は、残ったボトルに全員がコメントを書いて藤田先生に渡し、自分達が50歳になる2年後の9月に、元気な姿で再会することを約束して別れた。
藤田先生や野球部の仲間と久々に会い、当時を思い出しつつ、自分達の原点を確認できたたいへん嬉しい一晩だった。