キャッシュカードの不正使用と窃盗罪の実行の着手
研修643号3頁
1 はじめに
実務においては、具体的事案の結論の妥当性が重視される。しかし、そこに「理論」の介在がなければ、無秩序な価値主張が錯綜するのみである。ただ、正しい理論を見いだせば、自ずと正しい結論が演繹的に導き出されるというものでもない。
戦前から、刑法理論のもっとも主要な「戦場」は、未遂論であったといってもよいであろう。新派対旧派の時代はもとより、行為無価値論対結果無価値論の時代となっても、未遂の処罰処罰根拠や実行の着手の意義について、激しい理論的争いが展開された。
実行の着手に関する主観説と客観説は、新派刑法学と旧派刑法学の対立を象徴するものであった。主観主義刑法学の採用する主観説は、意思の危険性を重視して「客観的な実行の着手」を必ずしも必須とは考えない。ただ条文がそれを要求する以上、「犯意の遂行的行為」(牧野英一・重訂日本刑法(上巻)254頁)、「犯意の飛躍的表動」(宮本英脩・刑法大綱179頁)などにより、犯罪意思が外形的行為により明らかになった時点を着手と解した。犯意が外部的に明らかになれば足りるので、強盗の目的でピストルを持って家に侵入すれば強盗未遂の成立を認め、人を殺そうと刀を抜いて家に侵入すれば殺人未遂となる。しかしこれでは、未遂罪の成立範囲が広すぎると批判され、また、準備行為としての予備罪と未遂罪の区別が困難となるとされた。もちろん、この批判は、「成立範囲をそれより限定するのが妥当である」という価値判断を前提としたものであり、その価値判断がより多くの支持を得たために、主観説は勢いを失っていった。
2 具体的・現実的危険とは何か
客観説は、行為の有する法益侵害の危険性を基準として着手時期を判断する。そして、主観説より遅い時期に着手を認める。そのような結論を妥当とする判断を内包している理論であった(論理的には、主観説より早い時点に未遂としての「危険性」を認めることも可能ではあるが)。そして客観説のうち、形式(的行為)説は、構成要件行為の開始時点を着手とする。つまり、殺す行為や盗む行為といった、構成要件該当の実行行為の開始の有無をもって、殺人未遂・窃盗未遂の成否を判別する。ただ、例えば、窃盗罪において、物に直接触らない限り窃盗の着手がないとするのは不合理なので、形式説も「構成要件行為及びこれに接着する行為」の開始を未遂とする修正を行なっている。
客観説の中で、現在最も有力な見解は、実行の着手を「既遂結果発生の一定程度の危険性の発生時」と捉える実質的客観説である。そして同説の内、「犯罪構成要件の実現にいたる現実的危険性を含む行為を開始したこと」が実行の着手であるとする見解が有力である。「実行」の着手であることを強調し、行為者の手を離れた時点に「着手」はありえないと考える。これは、実行の着手時期を若干早めることになり、客観説ではあるが「行為無価値的」といえないことはない。それに対し、より結果無価値を重視すると、着手の要件である「具体的危険の発生」を必須のものと考え、たとえ犯罪者の手を放れた時点にならざるを得ないとしても、法益侵害の危険性が具体的程度以上に達するまでは実行の着手を認めないとすることになる。これが、行為無価値対結果無価値時代の実行の着手時期に関する実質的対立であったといえよう。
しかし、実践的作業としての具体的な解釈論を考えた場合、「実行の着手」という法文の解釈としては、各構成要件の具体的文言を基礎に、未遂犯として処罰をすべき範囲を「実行行為の始まりの時期」という形で具体的に類型化する作業が重要な意味を持たざるを得ない。やはり、構成要件行為をの解釈を中心に考えていかなければならない。その際には、「一定程度の危険性」「具体的危険性」という理論的説明は、必ずしも結論を導き出す道具とはなり得ない。
その様な観点から見て、非常に興味深い判決例に接した。原審と控訴審が「一定程度の危険性」「具体的危険性」という同一の基準を用いながら、結論が逆になったのである。そして、両者を比較すると、「犯罪構成要件の実現に至る具体的ないし現実的な危険性を含む行為を開始した場合」「他人の財物に対する事実上の支配を犯すにつき密接な行為の開始」という、現在、ほぼ共通に採用されている抽象的説明具体化する手掛かりが得られるように思われる。
3 興味深い無罪判決
名古屋地裁判平成13年3月30日は、N市内の駐車場に駐車中の自動車内からA所有のキャッシュカード2枚(B銀行発行のもの及び郵便局発行のもの)ほかを窃取したXが、 さらに同カードを用いて現金自動預払機から現金を窃取しようと考えてB銀行C支店D出張所に赴き、同所に設置された現金自動預払同機の画面にある残高照会の表示部分を押し、同機を作動させたうえ、画面の指示に従って、上記キャッシュカードをその挿入口に挿入したところ、既にAからB銀行に対し盗難届が出されており、挿入したキャッシュカードが機械の中に取り込まれたままの状態となったため、Xは、その場から逃走したという事案1)において、後段部分に関する窃盗未遂罪の成立を否定した。
名古屋地裁は、「刑法43条本文所定の『犯罪の実行に着手して』とは、犯罪構成要件の実現に至る具体的ないし現実的な危険性を含む行為を開始した場合をいうと解する。そして、窃盗罪において実行の着手があったと認められるためには、その犯罪の性質上、他人の財物に対する事実上の支配を犯すにつき密接な行為を行うことが必要である。もっとも、窃盗行為には、種々の態様があるから、実行の着手があったといえるかどうかは、財物の形状、性質、その財物の管理状況、犯行の手口、犯人の意図等の諸事情を総合したうえ、社会通念に照らして個別具体的に判断すべきである」とした上で、具体的事案について、「キャッシュカードを用いて本件現金自動預払機から預金の払戻しを受けるためには、同機に設けられた払戻し表示部分を押して払戻しの機能を作動させることが不可欠であり、他の機能の表示部分を押した場合にはそれに対応する機能が作動するだけであって、預金の払戻しを受けることはできない。」「同機では、残高照会の機能を作動させた状態から、引き続いて、払戻しの機能に移行することもできない.そうだとすると、窃取したキャッシュカードを用いて同機から現金を窃取しようとする場合、払戻し機能を作動させようとした時点で、他人の財物に対する事実上の支配を侵害する具体的ないし現実的な危険性を生じたというべきであり、それに至らない以上は、窃盗の実行に着手したとはいえない」として、残高証明を行うだけでは窃盗未遂は成立しないとして、無罪を言い渡したのである。
そして、窃取したキャッシュカードを用いて現金自動預払機から現金を窃取する意図を有している犯人が、残高照会行為を行うことは、後の現金窃取行為と定型的に密接する準備的行為であり、預貯金窃取を実現するための引出行為に密接な行為として実行の着手を認めるべきであるとする検事の主張に対し、「残高照会行為は、当該キャッシュカードによって払戻しの方法により窃取すべき預貯金残高があるのかどうかを確認する準備行為にとどまり、他人の財物に対する事実上の支配を侵害する具体的ないし現実的な危険性は未だ生じていないというべきであり、預貯金窃取を実現するための密接関連行為であると評価するには困難が伴う。特に、本件現金自動預払機においては、前述したとおり、残高照会後、一旦は、キャッシュカードが排出され、払戻しを受けるためには、再度、払戻しの表示部分を押して払戻機能を作動させることが必要であり、財物の存在を確認する行為と窃取行為とが2段階に分かれることになる。このことは、預貯金窃盗を行おうとしている犯人の主観的意図を考慮に入れてみても、密接関連行為であるとの評価を一層困難にさせる」と判示したのである。
4 控訴審の破棄判断
検察側から控訴がなされたのに対し、名古屋高判平成13年9月17日は、原判決を破棄し、被告人を懲役1年(執行猶予3年)に処した。名古屋高裁は、「窃盗罪において実行の着手があったといえるためには、原判決の指摘するとおり、財物に対する事実上の支配を侵すにつき密接な行為を開始したこが必要と解されるところ、その判断は、具体的には当該財物の性質・形状、占有の形態、窃取行為の態様・状況、犯行の日時境所等諸般の状況を勘案して社会通念により占有侵害の現実的危険が発生したと評価されるかどうかにより決すべきものであり、これを本件についてみれば、キャッシュカードを現金自動預払機ないし郵便貯金自動預払機に挿入した時点で、犯罪構成要件の実現に至る具体的ないし現実的な危険を含む行為を開始したと評価するのが相当であって(たまたま盗難が届けられていたために各キャッシュカードが機械の中に取り込まれた事実は、この判断に何ら影響を及ぼすものではない。)、かかる預払機に使用方法として、先ずキャッシュカードを挿入し、残高照会をした後に入力画面から払戻しに移行する場合と残高照会後に再度カードを入れ直して払戻しをする場合と直接払戻しの操作に及ぶ場合とで占有侵害の具体的危険性に実質的な差異があるとは考えられない。そうすると、被告人の各所為は、窃盗の実行の着手と認められるものであって、窃盗未遂罪の成立は否定できないところである。この点に関し原判決は、キャッシュカードによる残高照会と払戻しという一連の行為を財物の存在を確認する行為とこの財物を窃取する行為の2段階に分け、前者のみでは窃盗の実行の着手とはいえないとしているが、払戻しとこれに先立っ残高照会とは、残高を確認して現金を盗もうとする窃盗犯人はもとよりのこと、一般の顧客においても密接に関連したものとして捉え、そのように利用しているのであり、この間の操作に障害となるものがないことなどに照らしても、確認行為と窃取行為の分離を強調する原判決の見解は採用できないところである」としたのである。
たしかに、キャッシュカードを利用する場合、引き出し得る額がわからないと金額ボタンを押しにくい。残高証明作業を行って、いくらあるか調べてから引き出すのはごく自然のことであるといえよう。これを一体のものと捉え着手を認めることは、十分考えられる。
5 窃取の開始時期
窃盗罪に関し判例は、他人の財物の占有を侵害する具体的危険を、対象となる財物の形状、窃取行為の態様、犯行の日時・場所等の諸般の事情を勘案して判断しているが(大コンメンタール刑法(9)261以下参照)、例えば、侵入後に物色のため箪笥等に近づく行為(大判昭9・1・19集13-1473)、電気店に侵入した後現金のありそうなタバコ売り場に近づこうとした行為(最決昭40・3・9集19-2-69)があれば着手といえると判断している。これに対し、鶏を窃取しようと鶏小屋の入口に右足と右肩を入れたが内部が暗いので外に出ようとして捕まった場合には、着手が否定されている(最判昭23・4・17集2-4-399)。学説は、判例のこのような判断を「物色説」と呼んでいる。たしかに物色行為のあった時点にいたれば着手を認めてよいとするものであることは明らかであるが、しかし、必ずしも物色行為がなければ着手が認められないとするものではない点に注意を要する。
そして、土蔵や倉庫のように、侵入しただけで財物に対する高度の危険性がある場合には、侵入した時点で未遂となるとされてきた(名古屋高判昭25・11・14高刑集3-4-748。内倉につき大阪高判昭62・12・16判タ662-241)。これらの建物は、通常は財物を保管するためにだけ用いられるものであるから、侵入行為を開始した時点で財物の占有侵害の危険が高まったといってもよいからであろう(名古屋高判昭25・11・14高集3-4-748、高松高判昭28・2・25高刑集6-4-417、大阪高判昭62・12・16判タ662-241)。そして、自動車内から財物を窃取する「車上狙い」の事案も、土蔵等と同様、ドアの鍵の解錠、破壊や窓ガラスの破壊など自動車内への侵入行為を始めた時点で着手が認められる(東京高判昭45・9・8判タ259−306)。
このような先例との比較からは、キャッシュカードを現金在中の自動預払機ないし郵便貯金自動預払機に挿入した時点で、実行の着手を認め得るように思われる。
6 スリの「あたり」行為
ただ、原審の名古屋地裁判平成13年3月30日は、「窃盗罪の他の態様による場合を検討してみても、財物の保管状況が堅固な場合に、保管場所の中に実際に財物が存在しているのかどうかを確認する行為は、社会通念上、その後の窃取行為の準備行為にとどまり、未だ窃盗の実行の着手が認められないとされるのが一般的である(例えば、スリにおけるいわゆる当たり行為は、予め犯人において被害者のポケットの中に財物があることを認識しているような特別の場合を除いて、実行の着手が否定される傾向にある.また、ドアの鍵のかかった自動車内から財物を窃取しようとして、自動車の外側から車内の様子を見て財物の有無を確認したにとどまる場合にも、窃盗罪の実行の着手は否定されると考えられる)」と判示している。
たしかに、スリの場合は、スリの対象としようとする相手方の衣服や携帯品に外から触れて財布等の有無や場所を確かめる「あたり」行為の段階では、意図した客体への窃取行為が開始されたとはいえず、いまだ予備に止まるというべきである。
この点、名古屋高裁は「原判決は、財物の保管状況が堅固な場合における財物の存否等確認の行為は窃盗の準備行為にとどまるとし、他の態様による窃取の場合と対比して検討しても、被告人の本件各行為は窃盗の実行の着手とはいえない旨説示しているが、被告人がキャッシュカードを挿入口に入れている以上、その行為は、いわば金庫の鍵穴に鍵を挿入した場合と同一視すべきものであって、原判決のように、スリの犯行における「当たり行為」の場合やいわゆる車上狙いの犯行において自動車の外側から車内の財物の存否等を確認する場合と対比して考察すること自体相当ではなく、この見解には賛成できない」としている。残高確認は、客体の存否確認ではなく、自動支払機内の金銭窃取の開始と評価すべきとするものと思われる。
ただ、そもそも、「あたり」行為が絶対に着手にあたらないとするわけにはいかないであろう。探って財物の存在が確認できればそのまま窃取に及ぶような場合には、「あたり」行為の段階でも実行の着手を認めてもよい場合があるように思われる(『大コンメンタール刑法(9)』263頁)。そして、「あたり」なのだが着手と呼べるのか、「あたり」ではなく財物窃取行為の開始なのかは、実質的には差がないともいえる。あえて言えば、犯人の主観面において「目的物の有無を探る」という意識しかなかったのか財物の占有を奪いはじめる認識を併有していたのかによる差なのであろう1)。ただ、いずれにせよ「目的物の存在が確認されればほぼ同時に窃取行為に移る」という計画であれば、やはり、実行の着手にあたるといえよう。残高証明作業を行っていくらあるか調べてから引き出し額の数字ボタンを押すことがしばしば行われる以上、本件について実行の着手を認める方が現在の社会通念に合致するように思われる。
最近、外国人を中心に類似の犯行がかなり実行されて、検挙数も多く、裁判例も蓄積されている。すべて、残高証明のみを行った段階で検挙されたものである。そして、前掲の名古屋地裁判決以外は、例外なく窃盗未遂罪の成立が認められている。