犯罪共同・行為共同


(1) 判例の動き
  共犯の中心である共同正犯に関し最2小決平成17年7月4日(判タ1188-239) が共同正犯について、非常に重要な判示を行った。最高裁は、「Xは,自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせた上,患者が運び込まれたホテルにおいて,Xを信奉する患者の親族から,重篤な患者に対する手当てを全面的にゆだねられた立場にあったものと認められる。その際,Xは,患者の重篤な状態を認識し,これを自らが救命できるとする根拠はなかったのであるから,直ちに患者の生命を維持するために必要な医療措置を受けさせる義務を負っていたものというべきである。それにもかかわらず,未必的な殺意をもって,上記医療措置を受けさせないまま放置して患者を死亡させたXには,不作為による殺人罪が成立し,殺意のない患者の親族との間では保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯となると解するのが相当である」と判示した。不作為の殺人罪の成否の点もさることながら、共同正犯者間において、一方には殺人罪で保護責任者遺棄致死罪の範囲で共同正犯、他方には保護責任者遺棄致死罪の共同正犯の成立を認めた点に注目すべきである。
近時の最高裁は、行為共同説に近い判断を占めていた。最決昭54・4・13(刑集33・3・179)は、暴力団組員ら7名が共謀し、巡査Aに順次暴行ないし傷害を加えたところ、激昂したそのうちの一人Xが、未必の殺意をもってくり小刀でAの下腹部を一回突き刺し、死亡させたという事案において、「殺人罪と傷害致死罪とは、殺意の有無という主観的な面に差異があるだけで、その余の構成要件要素はいずれも同一であるから」「殺意のなかった被告人Yら6名については、殺人罪の共同正犯と傷害致死罪の共同正犯の構成要件が重なり合う限度で軽い傷害致死罪の共同正犯が成立するものと解すべきである」(傍点引用者)と判示して、明確に完全犯罪共同説を否定した。この判例は、いわゆる「やわらかい行為共同説」を採用したものだとも解されるのである(前田『刑法総論講義3版』396頁)。
 これに対して、最2小決平成17年7月4日は「 一方は殺人罪の共同正犯、他方は保護責任者遺棄致死罪の共同正犯」とはしなかった。あくまで共同正犯は保護責任者遺棄致死罪の範囲内にとどめたのである。その意味では、犯罪共同説的に動いたようにも思われるのである。
(2) 行為共同説
 犯罪共同説は、共同正犯を「特定の犯罪を数人の関与者が共同して行うこと」と定義する。1個の犯罪を前提として、その犯罪を複数の者が共同で行うことが共同正犯だと考えるのである(数人一罪)。犯罪共同説は小野清一郎博士、団藤重光博士に代表される旧派刑法学と、本質的な部分で結びつくと解されてきた。しかし、それ以上に、「構成要件」を犯罪論の基本に据えることと密接に結びつくと考えられてきたのである。戦後の、構成要件や実行行為を軸に、「恣意的解釈を排除しうる形式的な犯罪論」の象徴的な存在が、「共同正犯者は一つの構成要件を共同して実行する」という犯罪共同説であった。そして、狭義の共犯でも、正犯と共犯の成立罪名は同一でなければならないとされたのである(罪名従属性の徹底))。
 これに対して、行為共同説は、数人が行為を共同し各自の犯罪を実現するのが共同正犯と捉える。この見解によれば、同一の犯罪のみならず、異なった数個の犯罪(例えば、殺人罪と傷害致死罪)についても共同正犯(共犯)が成立することになる(数人数罪)。行為共同説は、牧野英一、木村亀二博士に代表される新派が採用するものであるとされてきた。犯罪を行為者の社会的危険性の徴表と解し、「構成要件を必ずしも重視しない犯罪論」に立脚すると解されたのである。そこで、行為共同説は「構成要件を離れた自然的行為自体についての共同が考えられる」とする考え方とされた(ただ、行為共同説が、構成要件を離れた自然的行為自体を共同するということと必然的に結びつくわけではない)。
 ところが、新派刑法学の系統に属しない平野博士が、実質的に行為共同説を展開された(『刑法総論U』364-5頁)。平野博士は、「行為共同説とは、共犯は行為を共同にするものだという見解であるが、これに対しては、犯罪共同説の側から、この見解は、共犯の成立に犯罪以前の単なる社会的行為ないし事実の共同で足りるとするものであって不当だという批判が加えられている。たしかに行為共同説論者のなかには、そのようにとられやすい発言をしている者もないではない。しかし、本来の行為共同説とは、犯罪行為の全部にわたって共同である必要はなく、その一部の共同でもよいとする見解なのである」とされたのである。そこで主張された行為共同説の核心部分は、共同正犯者相互で、罪名が異なり得る点であるといってよい。行為共同説に対置される犯罪共同説は、成立する罪名が共通なので、窃盗を教唆したところ正犯が強盗を犯した場合などには、強盗罪の教唆であるが窃盗教唆の刑を科すことになる。そこで、犯罪共同説でも、罪名が異なってもよいことを認める説(部分的犯罪共同説)の結論は、「行為共同説とちがいがないことになる」されるのである。共同正犯者相互で罪名が異なってもよいとするのであれば、行為共同説と呼びうるのである。
 最高裁判例の一部が採用してきたと思われる行為共同説に最も近いと考えられるのが、中野次雄博士の見解である(『刑法総論概要2版』138頁)。博士は「犯罪共同説は、犯罪を共同にするものだと考えるから、「○○罪の共同正犯」という観念に固執する。しかし、さきに述べたように、共同正犯の共同正犯たる所以は、共同者の一人のした実行行為が同時に他の者の実行行為でもあると観念されるところにあるのであって、その結果各自のしたとされる実行行為の範囲は結局等しいことになるから、その意味で「実行行為の共同」だとはいえるが、しかしそれ以上の意味をもつものではない。犯罪は、右のようにして各人に帰責された実行行為(しかもそれは後述の合意にくいちがいのあった場合や承継的共同正犯の場合のように実行行為の一部だけであることもある。)にさらにそれ以外の犯罪要素が加わってはじめて成立するものであり、この後者の犯罪要素は必ずしも各人に共通だとは限らないので、人によって成立する犯罪が違ってくることもありうるのは当然である。犯罪の共同は共同正犯にとって必然的なものではなく、実行行為を全部または一部共同にするのがその本質であるから、行為共同説の考え方が正しいというべきである」とされたのである。

(3) 部分的犯罪共同説
 現在、犯罪共同説とされる学説も、その考え方を徹底する者はほとんど無い。その意味では、ほとんどが部分的犯罪共同説なのである。そして平野博士は、部分的犯罪共同説と行為共同説は実質的に差がないとされたが、必ずしもそうとはいえない。
 部分的犯罪共同説とは、正犯と共犯の構成要件が異なっていても、両者が同質的で重なり合う範囲で共犯の成立を認める考え方である(大塚『刑法概説総論3版』268頁)。ただ、部分的犯罪共同説は、厳密には2つの異なった考え方に分類し得る。犯罪共同説である以上「共犯の罪名もあくまで正犯に従属するが、科刑は重なり合う範囲の軽い罪の範囲で行う」という、かたい部分的犯罪共同説と、重なり合う軽い罪の範囲で1個の共同正犯が成立するというやわらかい部分的犯罪共同説である。
 かたい部分的犯罪共同説によれば、例えば、Xが殺意を有し、Yが傷害の故意でAに加害を加えて死亡せしめた場合(どちらの行為が原因で死亡したか不明)、XYに殺人罪の共同正犯が成立し、Yは傷害致死の範囲で科刑されることになる。この考え方が行為共同説と異なることは明らかである。ただ、近時は、犯罪の成立と科刑を分離させる点に強い批判が向けられており、かたい部分的犯罪共同説の支持は少なくなりつつある。
 これに対し、やわらかい部分的犯罪共同説説では、前述のXYには傷害致死罪の範囲内で1個の共同正犯が成立する(福田『全訂刑法総論三版』200頁)。このやわらかい部分的犯罪共同説とやわらかい行為共同説は、平野博士の指摘の通り、重なるといってよい。ただ、前者は、殺意を有していた共同正犯者にも傷害致死罪の共同正犯の成立を認めるのではないかという点が、対立点として残るのである。そして、科刑の妥当性をはかるために、殺人罪の単独正犯をも別個に成立させることになるように思われるのである。
 この点、犯罪共同説の代表者とされ、構成要件の視点を最も重視される団藤重光博士も「甲がa罪を乙がb罪を実行したときは、たとい同一の日時場所で甲乙が意思の連絡のもとに行ったとしても、共同正犯にはならない。このばあい、甲がb罪につき、また、乙がa罪につき、教唆犯または幇助犯になることほありうるが、それは別論である。ただ、ab両罪が構成要件的に重なり合うものであるときは(殺人罪と傷害罪など)、その重なり合う限度で、実行行為の共同、したがって共同正犯の成立をみとめるべきであろう」とされ、より具体的には「たとえば、甲・乙が丙に対して共同して切りつけたとしよう。甲が殺意をもってし、乙が傷害の意思をもってしたときは、甲の行為は殺人罪の実行行為であり、乙の行為は傷害罪の実行行為であるが、傷害罪の限度では、共同正犯の成立を認めるべきである。したがって、丙が乙の行為によってではなく、甲の行為によって死亡したとしても、乙は傷害致死罪の罪責を免れないものといわなければならない」とされるのである(『刑法綱要』297-297頁、改訂版364-365頁)。その意味では、団藤重光博士もやわらかい部分的犯罪共同説といえよう。ただ、共犯と身分の領域などでは、共犯者相互で同一罪名の共同正犯が成立し、科刑のみ個々の関与者に応じた扱いをするという「かたい部分的犯罪共同説」が展開されている(『刑法綱要』325頁)。
 この点、最高裁の判例も、かたい部分的犯罪共同説を採ってきたといえよう。最判昭32年11月19日(刑集11・12・3073)は、業務性を欠き占有もないXが業務性のある占有者Yらと共同で業務上横領罪に加功した事案に関し、65条T項により全員に業務上横領罪(253条)が成立し、科刑は個別に扱うとした。すなわちXYら全員に業務上横領罪の共同正犯が成立し、Xには委託物横領罪の刑が科されるとしたのである。また、最判昭35年9月29日(裁判集刑135・503)は、Xが恐喝の意思でAを公園に誘い出したところ、Yが強盗の意思でAに暴行を加えて現金を強取し受傷させたという事案に関し、]およびYに強盗罪が成立し、Xは、38条2項によって恐喝罪の刑を科せられるものとしていた。近時でも札幌地判平成2年1月17日(判タ736・244)のようにかたい部分的犯罪共同説的な判示を行ったものが見られる。
 ところが最高裁は、前述のように昭和54年決定において、7名が共謀し、Aに順次暴行ないし傷害を加えたところ、激昂したそのうちの一人Xが、未必の殺意をもってくり小刀でAの下腹部を一回突き刺し、死亡させたという事案に関して、殺意のなかった6名については、「殺人罪の共同正犯と傷害致死罪の共同正犯の構成要件が重なり合う限度で軽い傷害致死罪の共同正犯が成立するものと解すべきである」(最決昭54・4・13刑集33・3・1799)として、かたい部分的犯罪共同説を否定したのである。

(4) やわらかい行為共同説
 行為共同説といっても、犯罪としての類型性を無視することは許されない以上、各自がそれぞれの犯罪を共同して実行したと認められなければならない(やわらかい行為共同説)。他人の行為との共同関係が、成立する犯罪類型の重要部分を占めていなければ、一部行為の全部責任の効果は認められない。やはり、共同実行という以上、構成要件の重要部分を共同する必要がある。ただ、各自に成立する共同正犯は別個の犯罪たり得る。例えば、Xが殺意を有し、Yが傷害の故意でAに加害を加えて死亡せしめた場合、どちらの行為が原因で死亡したか不明でも、Xには殺人罪の共同正犯、Yには傷害致死罪の共同正犯(結果的加重犯の共同正犯が成立するのである。
 最判昭和54年4月13日(刑集33・3・179)は、殺意のない者に傷害致死罪の共同正犯、殺意のある者に殺人の共同正犯の成立を認めたと読むべきである。殺意のある者にも傷害致死罪の共同正犯が成立し、別個に殺人罪(単独犯)の成立を認めたとみるのは無理があろう。すなわち、殺意のない者に傷害致死罪の共同正犯、殺意のある者に殺人罪の成立を認めたのである。
 やわらかい部分的犯罪共同説によれば、Xには傷害致死罪の共同正犯が成立し、それに加えて殺人罪の単独正犯を認めざるを得なくなるが、両者の罪数関係の説明は困難である。さらに、Xの行為と死の結果との因果関係を立証し得なかった場合には、Xに殺人既遂を認めることは苦しい。共同実行を媒介してはじめて既遂となり得るのである。しかし、傷害致死の共同正犯として死の結果が帰責されるXに、傷害致死に加えて殺人未遂の成立を認めるのはより一層不自然である。部分的「犯罪共同説」である以上「共通の犯罪の共同」を捨てることはできないのであろうが、そうなると、結論が妥当ではなくなるのである。
 この点、前記最決平成17年7月4日(判タ1188-239)は、「被告人には,不作為による殺人罪が成立し,殺意のない患者の親族との間では保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯となると解するのが相当である」と判示した。被告人に殺人罪の共同正犯が成立するとはしていないのである。たしかに、単数の被告人を殺人罪の共同正犯という言葉にあてはめにくいことは理解できるる。ただ、殺意を有する被告人が複数である場合には、そこに殺人罪の共同正犯が成立することには躊躇はないであろう。また、殺人罪に問擬された共同正犯者が殺害結果を惹起していなくても既遂罪とされる以上、「殺人罪の共同正犯」に該当すると表示する方が合理的であるように思われる。
平成17年判例は、昭和54年判例が触れていなかった重い罪の故意のある共同正犯者の罪名について、重い罪が成立することを明言し、同時に「軽い罪の限度で共同正犯となる 」とした。ここで重要なのは、「殺意ある者にも保護責任者遺棄致死罪の共同正犯が成立する」とはしなかった点である。共同正犯の間で成立する罪名が異なることを当然の前提とした上で、共同関係を基礎づける「重なり合う部分」を「限度で」という形で明示したものとみるべきである。
実質的に影響を及ぼした以上、自ら実行しなかった部分について帰責されるのが共同正犯の核心部分である。行為共同説でも、一定の犯罪の実行を共同したといえなければならないが、共同しなかった個人的事情の存在によっては、それぞれ異なる罪についての犯罪の成立を認める方が処理しやすいのである。
 ただ、問題は、最決平成17年7月4日の事案において、殺意がある者に成立するのが殺人罪であり、一方では遺棄致死罪の範囲で共同正犯が成立するということの意味である。
ここではっきりしているのは、殺意のある者に遺棄致死罪の共同正犯は成立しないという点である。「殺人罪の予定する実行行為は行い、さらに遺棄致死罪の範囲で他者と共同実行しているので、その結果、共同した範囲で共同正犯者の惹起した事象についても含めて殺人罪の成立が認められる」という趣旨であると解すべきである。殺意のある者に殺人罪と遺棄致死罪の共同正犯が成立するわけではない。この結論は、やわらかい行為共同説もやわらかい部分的犯罪共同説も共通に認めるものだったのである。