エイズ事件東京地裁判決について
研修7月号 前田雅英
1 東京地裁平成13年3月28日判決
HIVに関する刑事事件として注目されていたT大学病院内科長Aの業務上過失致死罪事件に関し1)、東京地裁は無罪を言い渡した2)。「業務上過失致死罪は、開かれた構成要件をもつともいわれる過失犯の一つであり、故意犯と対比するとその成立範囲が周辺ではやや漠としているところがあるが、同罪についても、長年にわたって積み重ねられてきた判例学説があり、犯罪の成立範囲を画する外延はおのずから存在する。生じた結果が悲惨で重大であることや、被告人に特徴的な言動があることなどから、処罰の要請を考慮するのあまり、この外延を便宜的に動かすようなことがあってはならないであろう。そのような観点から、関係各証拠に基づき、被告人の刑事責任について具体的に検討した結果は、これまでに説示してきたとおりであり、本件公訴事実については、犯罪の証明がない・・・。」
問題は「犯罪の成立範囲を画する外延」を示している「長年にわたって積み重ねられてきた判例学説」とは何なのかである。具体的には、結果の予見可能性と結果回避義務の有無が最大の争点であり、その際のキーワードは「許された危険」だといってよいように思われる。
もちろん、本件被害者が本件投与行為によりHIVに感染しエイズを発症して死亡したのか否かという因果関係や、Aは血友病の治療方針を定めて本件投与医師を含むT大学内科医師に指示する権限を有していたのか等も争われたが、刑法理論的観点から見た実質的争点は、@Aは、血友病患者に外国由来の非加熱製剤の投与を継続すれば、高い確率でHIVに感染させ、その多くにエイズを発症させて死亡させることを予見できたかという点と、A代替措置が考えられる状況下で、非加熱製剤の投与を控えさせるという回避義務が存したかということにあることは疑いない3)。
2 予見可能性の対象-感染に関する詳細な事情
予見可能性に関する最大の争点は、本判決も認めるように、被告人がギャロ博士に依頼して昭和59年9月ころに入手したT大病院血友病患者48名のHIV(HTLV−V)抗体検査の結果、約半数の23名が陽性であったという事実の評価にあった。この点に関し東京地裁は、実行行為時には、HIV抗体陽性の意味は必ずしも明確ではなく、抗体陽性者のうちどの程度の割合の者について生きたウイルスが体内に存在するのか、将来エイズを発症する者がどの程度いるのか、他人にHIVを感染させる危険のある者がどの程度存在するのかといった点は明らかでなかったとした1)。
ただ、エイズ発症のメカニズムや、その厳密な意味での確率を認識し得なくても、患者の死を導くだけの危険な病気であるところの「エイズ」の原因ウィルスであるHIV感染の可能性が認識できれば、刑事責任を認め得ることは、異論のないところであろう。幼稚園の園長がO-157の存在を予見し得なくても、大腸菌群が混入し飲用不適の井戸水を園児に摂取させれば、O-157による園児の死について帰責し得る(浦和地判平成8年7月30日判時1577号70頁)。
医療に関しても、北大電気メス事件に関する札幌高判昭和51年3月18日(高刑集29巻1号78頁)は、行為時に知り得なかった因果経路をたどって生じた傷害結果について過失を認めている。当時二歳半の患者の手術に際して、電気メスのケーブルを誤接続したため、手術自体は成功したものの、患者の右下腿部に重度の熱症が生じ、そのために下腿部切断のやむなきに至った事案に関し、誤接続した者に過失責任を肯定した。このような誤接続が、安全装置のない心電計を併用すると高周波電流が特殊な電気回路にも分流し、対極板と心電計の接地電極との間の患者の身体部位に大量の高周波電流が流れ、異常な熱傷を惹起することは後に判明した新しい知見であった。
札幌高裁は、看護婦Xの過失に関し、「結果発生の予見とは、内容の特定しない一般的・抽象的な危惧感ないしは不安感を抱く程度では足り」ないとしつつ、「発生するかもしれない傷害の種類、態様及びケーブルの誤接続が電気手術器本体から患者の身体に流入する電流の状態に異常を生じさせる理化学的原因については予見可能の範囲外であったと考えられるけれども、過失犯成立のため必要とされる結果発生に対する予見内容の特定の程度としては、前記の限度で足りる」とした。
刑法上の予見可能性は「何らかの傷害が生ずるかもしれない」という不安感では足りない。しかし、「電気メスの接続のプラスとマイナスを逆にすれば身体に危険が生じるかもしれない」という予見は、それとは明確に一線を画し得る(拙稿「医療過誤と過失犯の理論」『医療と法と倫理』380頁)。そして、本件でも危険なエイズの原因ウィルスに感染することの予見が可能でありさえすれば、当時、抗体陽性の意味を厳密に認識していなくても過失責任は問いうる。
3 何%の発症率が必要なのか
また、判決は、当時の学術雑誌を詳細に検討することにより、検察官の指摘する「6.9%」というエイズ発症率は誤りであり、遥かに低い数値を挙げる1)。ただ、たとえ1%に満たない発症率であっても、その認識は、エイズの致死性の高さからすれば、過失致死罪の責任非難を基礎付け得るものであることは、確認しておかねばならない2)。
そして、判決要旨は、被告人自身の「生涯発症率は漠然と10%程度と考えていた」との供述の存在を認めつつ、「自らに不利益な事実を任意に供述したものであることを考えても、余りに不自然であり、被告人が本件当時において真実そのように考えていたというのではなく、その後HIV感染者からのエイズ発症率を10%前後とする文献に接するなどし、それが23名中2名にエイズの発症をみたという当時のT大病院第一内科のデータと結び付いて、自らの記憶を再構成するに至ったのではないかという疑問を禁じ得ない」と、『医学的』に評価したのである。
ただ、東京地裁も、本件投与行為ころまでに、被告人が、HIV抗体陽性者はウイルスに感染している者であるという基本的認識を抱いていたことは認めている。その上で、「従来の感染症の常識とは大きく異なるHIV感染症の性質を、被告人が本件投与行為ころまでに認識していたはずであるとみることはできない」ことを強調するのであるが、しかし、被告人は、昭和58年当時既にエイズ研究班班長なのである。そして、ギャロ検査結果等のHIV抗体検査の結果や、T大1号・2号症例の存在など、被告人らT大血液研究室グループが、他の医療施設の血友病専門医に先駆けて接した情報を有していた。少なくとも、10%ではないにしろ『一定の割合』でエイズが発症するのではないかと認識し得る基礎となる手がかりとなる事実を認識していたと強く推測されるのであり、その根拠が現在の医学的水準から見て合理的で明確である必要は必ずしもない。
東京地裁は、被告人の扱ったT大1号症例は、昭和58年度のエイズ研究班において、班長であった被告人の強い主張にもかかわらず、エイズ認定がされなかったことを取り上げ、「ある医師が一定の考えを得たからといって、それが医学界一般に受け入れられる前に、あるいは医学界の反応がむしろ否定的である間に、自らはその考えに基づいて行動すべきであるとし、結果予見可能性の前提事実として考慮すべき」ではないとする。しかし、行為時の被告人のエイズ発症の「予見可能性」の判断において、「被告人がエイズだと考えていた」という事実が考慮されないことは実に不可思議である。行為時には、医学界で通説的なものとして認知されない知見でも、そのような事実の認識があれば、結果回避措置を導きうるような事情は、当然考えられるのである3)。
そして、本件予見可能性判断において決定的に重要なのは、「HIV抗体陽性者の『多く』にエイズを発症させることを予見し得たか否か」を問題とする点である。すなわち、判決は、被告人において、抗体陽性者の「多く」がエイズを発症すると予見し得たとは認められないし、非加熱製剤の投与が患者を「高い確率」でHIVに感染させるという客観的事実自体が認め難いとして予見可能性を実質的に否定するのである。これは公訴事実の文言によるものとも考えられるが、判断しなければならないのは、211条を基礎付け得るだけの予見可能性なのである。「多く」ではなくて「一部」への発症が予見されれば、刑事責任は問い得る。
ただ、判決は、予見が困難であったということを強調する一方で、予見可能性を完全に否定したわけではなかった4)。「低い予見可能性」しかないことを重要な論拠として、結果回避義務を否定するのである。
4 許された危険- 二つの意味
エイズ感染の予見可能性を肯定したにもかかわらず結果回避義務を否定した本判決の論理に影響を与えたのが、許された危険の考え方であったように思われる。
例えば、西原博士は「結果発生の予見可能性が否定できないのに結果が発生した場合過失を否定する−これが許された危険の法理にほかならない」とされてこられた(『交通事故と信頼の原則』39頁)。ここでは、本来主観的なものである「予見可能性」と客観的な「危険」が同視されているという点で、議論がないとはいえないが、高い価値実現を目的とした行為であれば、かなり高い結果発生の蓋然性があっても、生じた結果を含めて正当化されるという考え方は、学説上かなり認められている(大塚仁『刑法概説(総論)3版』339頁)。
許された危険論は、もともと社会生活上不可避的に存在する法益侵害の危険を伴う行為につき、その社会的有用性を根拠に、法益侵害の結果が発生した場合にも一定の範囲で許容するという考え方で、19世紀末からドイツで主張され、不破博士などにより日本に紹介された考え方である(拙稿「許された危険」現代刑法講座3巻25頁)。そして、この理論の基礎には、社会の進歩・発展を期待し、行為の有用性を重視する態度が存在した。
ただ、行為の有用性の故に結果を含めて危険な行為を正当化するという法理には、具体的な解釈論とはいえない主張がかなり含まれている。例えば、「近代交通手段一般が有用だから許容される」というが如き主張は、具体的に過失の有無を論じる上でほとんど意味を持ち得ない。飛行機の墜落による死は、決して航空事業が許されているというそのことのみによって許されるものでないことは明らかであろう。その意味で、「医療行為は許された危険行為だ」という様な言い方は誤解を招き易い。本判決は「一般的に医薬品の副作用などの危険性が伴うことは当然だが、その点を考慮してもなお、治療上の効能、効果が優ると認められるときは、適切な医療行為として成り立ち得る」とするが、行為の有用性は、個々の具体的な犯罪実行行為について、個別的に検討されねはならない。その意味で、許された危険の法理によって具体的に正当化され得る範囲は、実はかなり狭いものなのである。
解釈論として必要なのは、@危険な行為を敢えて行うことにより得られる価値の大小、A予想される法益侵害の大きさ、B結果発生の蓋然性の程度、C行為を敢えて行わなければならない必要性・緊急性の程度を衡量することにより、違法性を的確に判断することである。そして、本件では、まさにこのような違法性判断が行われるべきであった。すなわち、「非加熱製剤の使用がエイズというほぼ確実に死を導く病気の発症を導くことが予見である以上、その使用によって得られる血友病治療の利益との比較がなされなければならない。そしてその際に特に重要なのは、Cの行為の必要性である。エイズ発症の一定の危険を有する非加熱製剤の使用と、他のより危険性が小さいものの治療上難点のあるクリオとの比較の問題である。
この点、本判決も、「非加熱製剤の投与」と「クリオ製剤による治療等」との比較を一応は問題にしている。しかし、クリオ製剤による治療では、重篤な後遺症を残さないのは無理で、運動制限も必要となり、十分なクォリティーオブライフを持った生活をするのには不適当であるとし、さらに、投与のしやすさや、保存・保管・持ち運びの容易さなどの面でも、非加熱製剤が優れているとし、非加熱製剤の投与を止めなかった被告人には過失犯は成立しないとしたのである1)。
だが、@エイズ発症の予見可能性がありながら敢えて非加熱製剤を使用することにより得られる利益が、後遺症が少ないなどの患者としての生活レベルの高さと、治療のしやすさだとすれば、Aエイズが、客観的に死に至る確率の高い危険なものである以上(そして被告人にはそのことの予見可能性は存在した)、Bたとえ発症率が1%に満たないものであっても、行為が正当化されると考えるのは、かなり無理がある。
5 もう一つの許された危険論−結果回避義務の緩和
しかし、東京地裁は、このような正当化事由としての「許された危険の法理」をそのまま適用したわけではなかった。
判決は、「通常の医師であれば誰もがこう考えるであろうという判断を違えた場合などには、その誤りが法律上も指弾されることになるであろうが、利益衡量が微妙であっていずれの選択も誤りとはいえないというケースが存在する」として、医療行為の専門性・裁量性を強調し、「通常の血友病専門医が本件当時の被告人の立場に置かれれば、およそそのような判断はしないはずであるのに、利益に比して危険の大きい医療行為を選択した」場合にのみ、刑事過失が認められるとしたのである。ここに見られる医療の専門性の尊重の態度こそが、戦後の過失論に最も影響を与えた許された危険論の実質的側面なのである。
医療は社会的に有用な行為の代表例であり、「医師に厳しい結果回避義務を課すると医療の進歩が停滞する」として過失の注意義務の限定が、許された危険の名の下に主張されてきた。正当化事由としての「許される危険」の範囲を拡大するという形を採ることもあるが、通常は過失の構成要件要素としての結果回避義務を限定するのである。
藤木博士らによって、医学上の進歩発達や、医師の営業上の採算等を考慮して結果回避措置を軽減すべきだとの主張がなされた。また、判例の中にも、静岡地判昭和39年11月11日(下刑集6巻11=12号1267頁)の如く、「医師は人命を尊重すべき反面において、逆に人命を救うために、ある程度の危険のあることを知りつつ、危険を侵しても思い切った処置をとらなければならない症例がある。このような場合には、たまたま処置に失敗があっても法律上責めらるべき過失とは言えない」とするものも存した。そこには明確に、許された危険の思想が示されていたといってよい。
この「医療行為は社会全体の利益にとって重要である」ということに、「医師は患者のために常に最高・最善の努力をしている」という医師の側に存する抽象的な建前論が結びつき、医療過誤のより一層の処罰の謙抑化がみられた。すなわち、初歩的な、いわば「医療以前のミス」を除くと、医師の過失責任の追及は大変困難であるとされるのが一般であった。
しかし、昭和40年代以降、薬害事犯や公害事犯の多発、そして科学技術の進歩・発展への安易な信頼感に陰りが生ずると共に、過失責任の追及を強めようとする動きが生じたのである。医療過誤に関しても、前述の北大電気メス事件の有罪判決はそれを象徴するものといえよう。
「裁量の『遊び』を認めなければ、医師がのびのび医療行為を行えなくなる」という発想は、既に昭和50年代以降通用しなくなっていたといえよう。やはり、非加熱製剤の投与(さらに遡れば販売の放置)の合理性は、当該行為者の立場に立たされた専門家を基準にして、客観的に判断されるべきであり、一方でエイズ発症の危険性が懸念されていた以上、単に「自分の治療方針」「クリオは使いにくい」という程度では許容されない。
6 医療水準論 一般人標準とは何か
本判決は、被告人の注意義務違反を否定する根拠として、「通常の血友病の専門医」は、当時非加熱製剤を使用していた点を挙げる。通常の血友病専門医が本件当時の被告人の立場に置かれれば、およそそのような判断はしないはずであるのに、利益に比して危険の大きい医療行為を選択した場合には該当しないのだから、注意義務違反はなかったのだとする。しかし、被告人は血友病治療の第一人者であり、エイズに関する情報もより得やすい立場にあったことは疑いない1)。
たしかに、注意義務の判断は、一般通常人の注意能力を基準にしなければならない。そして、「一般通常人」とは、医師という職業やその専門分野等によって類型化されるものであり、本件の場合、通常の血友病専門医の注意能力がその基準となる(山崎学「構造的過失(2)-医療過誤」『現代裁判法体系30』40頁参照)。しかし、個々の具体的な過失の認定においては、行為者が具体的に認識していたことは当然織り込まれる。自動車運転者が、見通しの悪い雪道で歩行者を跳ねた場合に、特に視力のよい者を基準に「見えたはずだ」といって過失を認めることは許されない。しかし、その道をよく知っていて、注意深く進行したので通常ならば見落とす被害者の動きを現認してした被告人について、一般人を基準に過失を否定することは許されない。
エイズ発症の一定の危険を認識し、血友病治療をリードしていた被告人について、他の医師達が治療方針をまだ変えていなかったということを根拠に、非加熱製剤の使用を差し控える義務がなかったとすることには疑問が残るように思われる。
たしかに、戦前の判例の中には、東京区判昭和6年3月18日(野村好弘・宮原守男編『医療過誤判例大系』686頁)の如く、「被告人が叙上の如き重症患者を手術する程度の技術を有せざれども、当時迄に既に十数名の患者に人工流産の手術を行いたることは亦被告人の当法廷に於ける其の旨の供述により認め得るが故に、被告人が該手術を引受けたること自体は又過失として責むべきものに非ず。仮りに過失なりとするも、斯る過失による責任は被告人が将来医業を正当に営むにより、又更に余裕を生じたる場合には医療を他に受くること能わずして滅び逝く人々のため診察施療をなし、以て世の不幸の裡に慰安と幸福とを与うるにより自ら医療せられ賠わる可き所謂道義上の責任にして、権力の作用に基き被告人を追求して再び立つこと困難ならしむべき打撃を与うべき所謂法律上の責任と言う可からず」と判示するものも存した。しかし、国民の医療に対する意識は変わった。それを踏まえた「注意義務の基準」でなければならない。