馬恋多淫泥(ばれんたいんでい)。そもそもは戦国時代に武田信玄が優秀な名馬を増やすために考え出した秘術である。
 牛の血やイモリの黒焼き、南蛮渡来のカカオ豆などを混ぜ合わせた泥のような精力増強菓子『血呼粉』を作り、それを与えられた馬は一度に10頭の雌に種付けを行ったと言われている。
 だがあまりに効力が強すぎて多用すれば馬の健康を損ねてしまう恐れがあり年に一度以上の投与は出来なかったため、武田信玄はこの菓子を服用するのを2月14日のみと定めたのである。
 なお、余談ではあるが現代でチョコレートと呼ばれているのは、江戸時代ではこの「血呼粉」は冷やす事で効力が弱まり人にも使えるようになるため、時の将軍が大奥で色事を楽しむ場合に氷室にて冷やされた血呼粉が使われた故事に由来し、『血呼粉冷凍』と言うあだ名で江戸庶民に噂されたのが始まりだと言われている。

――民明書房刊『戦国日本精力地図模様』より

「それなのに、昨今の日本人の浮かれようと言ったら何だ!?
 武田信玄への感謝をしようともせずに色事のみに浮かれていやがる!
 真の歴史を知ろうともせずに刹那的な快楽のみを追うのが、果たして理性的な人間のする事なのか!!?」

「言いたい事の大筋は理解できるし、まぁ確かに考えさせられることだが、
 そんな捏造史観で物事語られても、俺に聞き流す事以外選択の余地があると思うか?」

 まるで一般常識のように嘘八百の逸話を――恐らく即興で――とうとうとまくしたてる友人を見て、相沢祐一は大きくため息をついた。

――そう、今日はバレンタインデー…女子の思惑によって、たかだか茶色い駄菓子風情のために男子たちは容赦なく勝ち組と負け組に分けられてしまう天使のような悪魔の一日……

「だからモノローグのようなフリをして妄言を吐き散らすなよ…北川」



それぞれのバレンタイン



 相沢祐一が遅刻ギリギリで登校してきた時、まず目に入ったのは友人である北川潤の姿だった。
 正確に言うなら、白装束に身を包み、胸には偈箱を提げて頭を白木綿で行者包みにしている昨日まではちゃんとした友人であるはずだった北川潤の姿だった。

「と言うか北川…仲間と思われたくないからこれ以上話しかけないでくれないかな?」

 これ以上無い程の笑みを浮かべて祐一が言い放つ。
 すると、北川は手に持っていた錫杖を振りかざして叫んだ。

「カーッ! 相沢貴様、それでも俺の親友か!?
 むしろ俺とお前がプテラノドンに襲われても手を離さなかったりタケコプターが壊れたら日本まで歩いて行こうとしたりする程の心の友だと言う事はもはや周知の事実だろうが!!」

「あ〜はいはいそうだったなマイフレンド」

 クラスメート達に「相沢、あいつどうにかしろよ」と冷ややかな視線で語られながら祐一は北川に生返事を繰り返す。
 もしタイムマシンがこの世にあったら、7年前に戻ってあゆを救うよりも、10年前に戻って舞を助けるよりも、まずコイツと係わり合いにならない事を昔の自分に強く言い聞かせている事だろう。

「大体、お前制服どうしたんだよ? そろそろ教師来るぞ?」

すると北川は、フフンと不適に笑い返してきた。

「確かに学生ならば学校では制服を着るべきだろうが…
 あいにく、今日の俺は学生である以前に一人のラブウォリアーなんだ。
 狂おしいまでに熱く猛る俺のリビドーは、制服なんかで包み込めはしないぜ!!?」

 朝から全力疾走して教室に駆け込んだ後にこのテンションはキツい。
 どうせ教師がきたら注意されるだろうと思い、祐一は深くツッコまないようにした。

 結局、その後HRの時間は同じように白装束に身を包んだ石橋がやってきて何事も無かったかのようにHRを終えていき、
 1時間目から3時間目までにやってきた教師たちを露骨に北川の方を見ないようにして授業を終え、4時間目にやってきた美人の女教師が流石に注意するも、
 北川に「駄目だ! だったらこのチョコ俺にももらえるようにしてくれよ! チ・ョ・コ! チ・ョ・コ!!」と、魂の叫びを浴びせられ、根負けしたらしくそのまま無視して授業を終えてそそくさと出て行ってしまった。

「(あの事なかれ主義者どもめ…!)」

 心中で毒づいてみるも、同時に流石に無理も無い事なのかもしれぬとついに北川の奇行を諦めた。

「(どうせあと昼休みとその後2時限だけだしな…)」

 すっかり疲弊しきっている祐一が時計と睨めっこをしていると、名雪が元気よく声をかけてきた。

「祐一、お昼だよっ!」

「ああ…やっとか…って言うか、名雪、元気だな…」

「当然だよ。だって今日はバレンタインデーだもん。女の子に勇気を与えてくれるんだよ」

 そう言ってにっこりと微笑む名雪。
 つまり女の子にとってのバレンタインとは、プッチ神父にとっての素数みたいなもんか…そう思いながら祐一が隣を見ると、
 背後からのプレッシャーやら奇声やらですっかり老け込んでしまったように見える香里の姿が目に入った。
 ご自慢の昆布キューティクルの艶も心無しか落ちているようだが、口に出せば大往生間違いなしなので黙っている事にした。

「ならば名雪、今すぐこの学年主席にその勇気とやらを与えて立ち直らせてみせよ!」

 軽いボケのつもりで言って見ると、名雪は満面の笑みを崩さぬまま答えた。

「お安いごようだよ〜」

 そして名雪はそのまま香里の後ろで『チョコくれ』と書いた札にひたすら念を込めている北川に近づき、こうささやいた。

「ねぇ北川君、風の噂によると校舎裏で北川君にチョコをあげるべく待ってる女の子がいるとかいないとかって話だよ」

 名雪がそう告げると、北川はたちまち目を光らせ、「委細承知!」と叫んで窓から飛び出していった。
 祐一は一瞬淡い期待を抱いたが、恐らく骨にヒビ一つ入れずに後者裏まで走って行ったであろう事が容易に想像できたので、すぐに自分の甘さを打ち捨てた。

 と言うか、バレンタインデーの勇気とやらがあそこまでの所業を名雪にいとも容易く決断させる事実の方がむしろ怖くなった。

「ねぇ、相沢君…」

 遠くを見つめながら香里が祐一に問いかける。
 何となく会話の内容を察した祐一はそのまま黙って聞き続ける。

「本当はね、どうせ義理だと思って北川君用のチョコも持ってきてあるのよ…付き合い長いしね」

 付き合い長いならどうしてあんなになるまでほっといたんだと言いたくなったが、あえて祐一は黙っていた。
 自分があと10年付き合いを続けてもあの暴走超特急の速度を緩める事すら不可能だろうと言う確信が持てていたからだ。

「それに、あぁ見えて北川君って影では意外にモテるのよ?
 (※1)カッコいいし、(※2)意外に面倒見がいいからって…
 (※3)勇気があったら告白しようって娘達も多いって、栞に聞いたわ…」

 それは祐一にも分かる事だ。
 ついでに、(※)に順に『黙ってれば』、『普段は or 女絡みじゃなければ』『あの奇行に付き合える』、って単語が入る事も分かる。

「…なんであ〜やって自分から泥沼の深みに突き進んで行くんだろうな?」

 せめて今日一日黙っていれば、人並み…いや、それ以上のチョコが手に入ったはずなのに。
 祐一がポツリとつぶやくと、香里はため息をつきながら無言のまま首を横に振った。





 昼食後、学食で合流した斉藤と共に美坂チームは上機嫌で教室目指して歩いていた。
 ただその一団の中で、名雪だけが先ほどとは比べ物にならない程不機嫌そうな表情をしていた。

「う〜、チョコレートムースなんで邪道だよ…バレンタインデーだからって何でもかんでもチョコ一色にすればいいってワケじゃないのに…」

「何言ってんの、バレンタインデーは女の子に勇気を与えてくれる特別なイベントなんでしょ?
 ならそれぐらいは大目に見なさいよ。別にこれから毎日チョコレートってワケじゃないんだから」

「それとコレとは話が別だよ〜…
 こんなのお菓子業界の果物勢力駆逐のための陰謀だよ。
 もし私にお母さん程の力があれば、バレンタインデーで一番売れる商品をイチゴ関連商品にしてみせるのに……」

 和やかなんだか物騒なんだか分からない会話を聞きながら、祐一は名雪の不機嫌と反比例するかのような上機嫌で廊下を歩いていた。
 何故ならば、ちょうど今日に相応しいイベントが色々あって、祐一の手にはちょっとした量のチョコレートが入った紙袋が握られていたのだ。

「…祐一、嬉しそうだね」

 名雪が非難めいた視線を向けてきたため、祐一は一瞬ギクッとなる。

「そんな事は無いぞ? それに名雪からチョコがもらえたんだから嬉しいに決まってるだろうが」

「あら相沢君、私の可愛い妹からもらったチョコは嬉しくなかったって言うの?」

「嬉しいに決まってるだろうが。義理とは言え香里からもらえた分もあるしな」

 たっぷりと余裕を持った受け答えをする祐一。
 本来ならここでサトラレのように心中の独り言を暴露してしまい、
 帰りにイチゴサンデーやらバニラアイスやられ散在するはめになってしまうと言うのに
 今の祐一は、目の前に謎ジャムを突き出されてもフレンチジョーク混じりに受け流せるぐらいの余裕に満ちている。
 やはり心の中で『バレンタインデーにおける勝ち組』にカテゴライズされた至福を神に感謝しているのは男の悲しいサガであると同時に、たったそれだけで大人の階段を一段飛ばしで昇れるのも男ならではの事だろう。

 しかし、その余裕も、次の瞬間、まるで朝日を浴びた朝靄のように霧散してしまう。

「先生! やはりこのような悪しき風習は打破すべきです!!」

「そうですよ先生! このままではこの国の若者達は単なる豚に成り下がってしまいます!!
 今こそ我らが立ち上がり、この手で非国民どもに鉄槌を下し、意識改革を促すべきなのです!!!」

 横に広い奴とか縦に長い奴とか見るからに暑苦しく、かつ明らかに今日と言う日とはとことん無縁そうな集団が一人の男に詰め寄っていた。

 集団から『先生』と呼ばれたその男は、静かに右手を突き出して彼らを制し、そしてゆっくりと口を開いた。

「貴君らの言わんとしている事は分かる。
 奴らは、我々が今日と言う悪しき日にチョコをもらえないと言う理由だけで、
 まるで我々が糞尿にたかる銀蝿のように扱い、生ゴミを見るような目で見下してきやがる」

「だからこそ、我々の手で革命を起こし、我らが同じ人間である事を奴らに知らしめる必要があるのでは無いのですか!!?」

「その通り、我々は彼らと同じ人間なのだ。
 同じ人間である以上、我々に彼らの幸せを妨げる権利は無い…
 我々にできる事は、例えそれが醜い足掻きでも、幸せを求めてもがき続ける事だけなんだよ…」

「先生…」

「先生…」

 優しく諭すように集団に声をかける白装束の男。
 そしてその回りで泣き崩れる所謂『負け組』と呼ばれる集団。

「そう…我々は人間…人間なんだ…兄弟達よ…!
 安心しろ…俺は見捨てない…諸君らを見捨てないぞ…!」

 涙を流して同胞達を抱きしめる白装束の男。
 すっかりあきれ返って冷めた目線を向ける美坂チーム。

「…それじゃ、相沢君、斉藤君。後はよろしくね」

 そう言って香里は集団に背を向け、遠回りをして教室へ帰る道を選んだ。

「え!? よろしくって言われても…」

 あんな即警察のご厄介になりそうなもんとよろしくさせられても困る。
 祐一が激しくうろたえて香里を追おうとすると、目の前を再び名雪の満面の笑みがさえぎった。

「祐一、ふぁいと、だよっ!」

 言うが早いか名雪は祐一に背を向け、全力疾走で廊下を駆け抜けて行った。

「…で、どうする祐一?」

 後に残された生贄の片割れ、斉藤が尋ねると、祐一は平然ときっぱり言い放った。

「どうするもこうするも…俺も回り道して帰るよ」

 そう言って祐一が後ろを向こうとした瞬間。
 後ろから肩を捕まれ、グイッと引っ張られた。

「相沢の先生、どこへ行こうって言うんですかい」

 振り向くとそこには白装束の男と、その後ろで目を瞑って首を横に振っている斉藤の姿が見えた。

「その手に提げた紙袋…」

 己の胸に提げた偈箱を撫でながら、北川は祐一の持っている紙袋をにらみつけた。

「いやいや、主人公様はやはりちげぇやすねぇ。
 奴{やつがれ}もあやかりてぇぐらいだ。なぁ斉藤の」

 そう言って北川が馴れ馴れしく斉藤と肩を組む。
 流石の斉藤も愛想笑いが引きつり、かなり居心地悪そうにしている。

「所詮奴たちぁ日陰者。主人公の先生様とは住む世界が…」

 そこまで言いかけて、北川の視線がある一点に集中する。
 それは、斉藤の手に提げられている祐一と同種の紙袋。
 正確には外見はまるで違う。しかし、類稀なる北川の第六感は、その中身がまさに己が欲してやまぬものだと言う事に幸か不幸か気付いてしまったのだ。

 斉藤の肩に回していた腕を力なく下ろし、よろよろと北川が後ずさりする。

「何故…? 美坂チーム内で最も影が薄い、美坂チームのミドレンジャーとまで呼ばれていたお前が…?」

 とても信じられない、と言った面持ちで斉藤を見る北川。
 そして少しバツが悪そうに、頬をポリポリとかきながら斉藤が弁明する。

「いやホラ、最近バレンタインデーだからって俺に作り方聞きに来る子とか多くてさ、
 中には代わりに作ってくれって子もいて、そういう子達の頼み聞いてあげてたらお礼だって…」

 しかし、斉藤の言葉は最早北川には届いていなかった。
 視線はあらぬ方向を向き、焦点が合わず、ガクガクと全身を震わせていた。

「あのな北川? 俺が言うのも何だけど、こういうギブアンドテイクってのも寂しいもんだと思うぞ?
 たとえばホワイトデー目当てにチョコを渡してくる女子とか…まぁ、お前の場合はそこまではしゃがれるとホワイトデーに何されるか分かったもんじゃないから渡せないって理由も大きいと思うが」

「そ、そうだよ潤。こういう理由で貰っても、舞台の袖から覗いてるような気分って言うか、お祭り事にまともに参加できない感じでつまらないもんだよ?
 裏方ゆえの寂しさって言うか…まぁ、潤の場合は裏でも表でも盛り上げすぎてみんなを逆に引かせちゃってるのが問題だと思うけど」

 慌てて祐一と斉藤がフォローに走るが、やはり聞こえていない。
 まぁ、この場合、後半がほとんどフォローになっていないのでそれで良かったのかもしれないが。
 そして当の北川は、しばらく削岩機のように高速振動していたが、ゆっくりと動きを停止し、斉藤を睨み据えた。



「オンドゥルルラギッタンディスカー!!?」


 校内中に響き渡るような滑舌の悪い絶叫。
 心から信頼していた相手に裏切られた。そんな悲壮感を全身から発したような雄たけびだった。

「オンドゥルルラギッタンディスカー!!? オデダヂハナカバジャナガッダンディスカ!!? あだだのこどがずきだから、僕は死にましぇんか!!?」

「落ち着け北川。オンドゥル語以外に武田鉄也が混じってる」

 何事かと言う表情でこちらを見ている生徒達とは違い、流石に慣れたもので冷静に突っ込む祐一。
 しかし流石にどうやったら止めればいいかは分からない。それが分かれば、テンション上げすぎて暴走した江頭2:50だって止められる事だろう。

「…どうしよう」

 心の底からどうしようと言った感じで斉藤が呟く。

「…そんな事はこっちが聞きたいぐらいだ」

「君達、あまり校内の美観の損ねるような行動、言動は謹んでもらいたいんだがね」

 祐一達が途方にくれていると、何やらイヤミたらしい声が聞こえてきた。
 だが、いつもは耳障りなこの声も、今の祐一にとっては救いの福音のように聞こえた。

「久瀬か、いい所に来た。生徒会長たるお前の力でこいつにチョコを与えてやってくれ」

「無理」

 即答だった。

「無理とか言うな――!!」

 北川が泣きながら今度は久瀬に食ってかかった。
 祐一は、矛先がそれた事で思わずガッツポーズを取っていた。

「むしろ僕がどうこうするより君が意識改革した方が早いと思うんだがね?
 同性から見ても、流石にそこまでされると薄気味悪いとしか言いようが無い」

 校則を真っ向から無視した衣装を上から下まで眺めながら久瀬が言う。
 流石に制服に着替えろと言わないのは何を言っても無駄で、翌日にでもペナルティを与えればいいと思っているからだろう。

「うう、俺がここまでチョコを欲している事をアピールしているのに、どうしてみんな分かってくれないんだ…?」

 お前がそこまでするからだ。
 全員あくまで心の中だけでそう叫んだ。

「大体、別にそう悲観する事も無いと思うがね?
 むしろ菓子業界の陰謀に振り回されないだけよほど有意義だ。
 大体、こんなもの貰ったら貰ったで色々と煩わしい事だってあるんだよ?」

「五月蝿ぇ! お前みたいなチョコブルジョワジーに俺たちチョコプロレタリアートの気持ちが分かるものか!!」

 北川が久瀬の手に提げられた紙袋を指差して泣きながら叫ぶ。
 すると、久瀬はその袋の中から小さな箱を取り出し、北川の言動に眉を顰めながら中からチョコを一つまみ取り出した。

「別に僕は君から故意に搾取しているわけでも、
 ましてや君が妥当な労働をしているわけでも無いのだからその表現は適切とは言えないと思うけどね。
 君ももう大学受験に向けて勉学に励まなければならない身なんだから、誤った用法で語句を使用するのは避けた方がいい」

 そう言いながら久瀬はガラガラと廊下の窓を開けた。
 窓の下の方では、カラスが生徒達が落としたパン屑をついばんでいた。

「へっ…聞きやしたかい先生。
 あれが持てる者の傲慢ってやつですよ。
 持ってるからこそその大切さに気付けない…
 その価値も知らずに、あんな見下した言葉を吐くんでやすよ…
 奴のような下賎な者にゃあ分からねぇ…いや、分かりたくもねぇ事でやすねぇ…」

「…さっきから気になってたんだが、そのキャラは何だ?」

 やたらと絡んでくるに冷静にツッコむ祐一。
 すると、久瀬が窓の傍に立ちながら、再び北川の方を向いた。

「こんなウザったいものにどうしてそこまでムキになれるのか、理解に苦しむよ…」

 そう言うと、久瀬はなんと手に持っていたチョコを真下に滑り落とした。
 直線的に加速度を増し、やがて小さな音をたてて砕け散る茶色い食物だったモノ。

「な…」

 突然の久瀬の暴挙に声を失う三人。

「何をするだァ―――ッ! 許さんッ!」

 真っ先に反応したのは北川だった。
 瞬時に我に返ると、久瀬の襟首を掴んで持ち上げる。

「何て事を! 何て事を! 何て事をォォォォォォォォッッ!!」

 あまりの出来事にまともに喋る事もできなくなったらしい。
 北川が声にならない抗議の悲鳴をあげていると、横から祐一がさらに久瀬に詰め寄った。

「久瀬、お前なんて事するんだよ!
 いくらいらないからってそれは無いだろうが!
 見るからに手作りだったし、これを作った子の気持ちとか考えろよ!!」

 見知らぬ女の子のために本気で怒れるナイスガイ、祐一。

「俺の目の前で食い物を粗末にするとはいい度胸だ! 三枚に下ろしてやるからそこになおれ!!」

 懐から包丁を取り出して久瀬の鼻先に向ける炎の料理人、斉藤。

「知っているか!?
 かつて一円札に火を灯して成金は、没落した後その時の悪行の報いとして、
 お札を火種にして火あぶりとされたと言う! 自分が無駄に使った金の報いとしてな!!
 余談だが、現代で『爪に火を灯す』と言うのは、この時の成金達の処刑では、爪だけは焼かないように残した事から
 「成金のようにならずに真面目に倹約して溜めろ」と言う意味合いで『爪に火を灯す』と言うようになったんだ!!!
 民明書房刊『ノーモアナヴェツネ』より! お前もこの逸話と同じように、煮えたぎったチョコで釜茹でにでもしてやろうか!!?」

 ベートーベン交響曲第9番第2楽章をBGMに、錯乱しながらわめき散らす北川。
 しかし、そんな三人からのそれぞれの追求を受けてなお、久瀬はまるで表情を変えなかった。

「君達、若いからってそんなに感情のままに動いてると、
 年取った後色々と辛いよ? アレでも見て少し心を落ち着けたまえ」

 久瀬はしれっと言うと、襟首を捕まれたまま窓の下を指差した。

「アレ?」

 久瀬に言われて三人が地面を見ると、窓の下では何匹かのカラスが割れたチョコをついばんでいた。

「おい久瀬! アレがなんだって…」

 再び詰め寄ろうとした祐一は、明らかに人の物ではありえない恐ろしげな断末魔でかき消される事になる。
 突然の事に三人が驚いて再び窓の下を見ると、先ほどのカラスが泡を吹いて仰向けになってビクビクと痙攣していた。

「…なんだアレ?」

「カラス…だよね」

「…犬猫にはチョコは有害だって言うが…カラスもそうだったのか?」

祐一達が呆然としていると、久瀬はさも愉快そうにその様子を眺め、
 手に持っていた箱を逆さにし、中身を全て校庭にバラ撒いてしまった。

「いやぁ、最近生徒達からカラスについての苦情が多く寄せられていてね…
 まったく、実にいいタイミングだよ。この日は駆除用の毒物入手に困らないからね」

 声を殺してクックックと笑う久瀬。

「久瀬、一つ聞かせてくれ。それはチョコ…なのか?」

 祐一が何が何だかよく分からないと言うような感じで聞くと、久瀬は再びいつものイヤミな表情に戻って答えた。

「チョコだよ。正確に言うなら仕込んだ毒物のカバーとしての、だけどね」

「…毒?」

「まぁ、僕もちょっと差出人が分からないぐらい敵は多いからねぇ…
 でも形はどうあれ、ここまでの思いが込められてるって事は男として喜ぶべき事なのかな?」

 そう言って久瀬は再びニヤリと笑った。

「…それ、全部そうなのか?」

 祐一が紙袋を指差して言うと、久瀬は軽く首を左右に振った。

「いや。1,2割程度は本物が混じってるはずだ。
 まぁ、どうせそれも義理だろうけどね。見分けるのが難しいよ。
 何しろ、間違って『本命』を一つでも食べてしまったら、もう他は食べられないだろうし」

「食う気かお前!!?」

 祐一達が心底驚いたように叫ぶ。
 すると、久瀬はわざとらしく意外そうな表情を作った。

「おや相沢君。「作った子の気持ちを考えろ」と言ったのは君だろう?
 それに僕はまとまな食べ物を粗末にしたり、チョコで釜茹でにされる趣味は無いからね。
 最初は閉口したけど、慣れればマインスイーパーみたいで楽しいものだよ。どうだい、君たちも二つ三つ?」

 それはどちらかと言えばマインスイーパーと言うよりロシアンルーレットに近いだろう。

「いや、遠慮しておくよ」

 流石に苦笑いしながら拒絶する斉藤。
 祐一はその隣で、反射的に受け取ろうとした北川を羽交い絞めにしていた。

「は、話せ相沢! 目の前にチョコが落ちてるんだ!!」

「落ち着け北川! 久瀬の性格考えてみろ!
 一目で毒入りって見抜いた物だけ渡そうとしてるに決まってるだろうが!
 大体、お前久瀬からチョコを受け取って、本当に満足してバレンタインデーを終えられるのか!!?」

 祐一の必死の説得に、北川の動きがぴたりと止まる。

「…分かってる。最初から…全部分かってたんだ…でも…俺はチョコが欲しい…チョコが欲しいんだ…」

 そう言って嗚咽を漏らしながらうずくまる北川。

「分かっとる。おいちゃんはみ〜んなわかっとるで…」

 何故か関西弁で慰める祐一。

「しかし毒かそうでないかとかよく区別つくね…なんかコツでもあるの?」

 祐一と北川がコント紛いの掛け合いを続けている横で、斉藤が久瀬に質問する。

「……10%の才能と20%の努力………そして、30%の臆病さ……残る40%は……“運”だろう……な……」

「…そうなんだ」

 劇画タッチの表情で答える久瀬に、再度苦笑いを浮かべる斉藤。
 すると、今度は北川とのコントを終えた祐一が久瀬の方を向いて尋ねてきた。

「しかしそこまで数があったら、一つ二つぐらい外したりしないのか?」

 すると、久瀬はフンと鼻で笑った。

「愚問だね。僕がこんな低脳で陳腐な愚策を弄するような人間の罠に嵌まると思うのかい?」

 そう言ってニヤリと不適に笑う久瀬の顔を見て、祐一は思わず苦笑いをする。

「少しぐらい毒食った方がまともになるんじゃないかお前の場合?」

「それならなおさら君も一つ食べるといい。
 上手く下半身に毒が回れば女狂いも治るかもしれないしね。
 大体、僕は…まだこの程度で倒れてしまうワケにいかないのだからね」

 軽く憎まれ口を叩きあった後、急に真面目な表情になる久瀬。
 そして、何かを察して同じく神妙な表情になってうなずく祐一。

「…そうか、大変だな」

「大変なのは君の方だろう?
 なんせ『本命』なんだからな…」

 そして突然固い握手をかわす祐一と久瀬。
 手を解いた後、二人は互いに背を向け、一度も振り向かずに立ち去った。

「…何かあるの?」

 その斉藤の問いを、儚げな笑顔のみで返して祐一は教室へ向けて歩み始めた。
 なお、北川はその間に、生徒会の意見箱の隣に『北川潤専用チョコレートポスト』を設置していた。





「祐一、放課後だ…」

「何故じゃあ!!?」

 突然教室に鳴り響く北川の蛮声。

「何故もう放課後だと言うのにチョコが一つも得られんのじゃあ!!?
 ぐぅ…これもフリーメイソンの陰謀か!? それともジャニーズ事務所が俺が得られる分のチョコを買い占めたのか!!?
 押尾学と付き合えないからと俺で妥協する女の子からのチョコの一つも回ってきたりはしないのか!!? 主水の浮気は成功するのか!!?」

 錯乱気味に絶叫を繰り返す北川。
 もはやクラスメート達は何事も無いかのように帰り支度をしている。
 唯一、名雪だけは、祐一へ声をかけようとした時に邪魔してきた声の主を恨めしそうに見つめていた。

「何だ水瀬? さっきから俺の方を見つめているが…はっ!? お前まさか俺にチョコを…」

「祐一、放課後だよっ!」

 全てを無かった事にして笑顔で祐一に向き直る名雪。
 しかしその内心は、背後から徐々に歩み寄る存在に対する恐怖心で満ちていた。

「チョコ…水瀬…チョコ…」

 最早前後の見境がつかないピークに達しかけていた北川が名雪に迫る。
 そして、その手がかすかに震えている名雪の肩に届こうとするその瞬間、見かねた祐一が助け舟を出してやった。

「あっ、そういや名雪。今日は部活が早めにあるんじゃなかったか?」

 その一言に、名雪はまさに天の助け! と言った笑顔を浮かべ、早口でまくしたてた。

「そうそう、そうなんだよ。今日は部長さんにしかできない重要な仕事があるんだよ。
 それじゃ祐一、私部長さんだから行くけど、また後でね。それじゃ」

 そういうと、名雪は一瞬沈み込み、北川の手をかわして一瞬のうちに教室から走り出て行った。

「ちぃっ! 逃したかっ!!」

 咄嗟に伸ばして空を切った右手を握り締めながら、悔しそうに北川がひとりごちる。

「…それじゃ、相沢君、後ヨロシク」

 ため息混じりに教室を去っていく香里。結局義理チョコは北川に渡さないらしい。
 まぁ、今の親友に降りかかった災難を見て、それでも渡そうとするのはかなりのカブキモノだけだとは思うが。

「ヨロシクって、まさか相沢、俺にチョコを…?」

 正気を失った瞳で北川が祐一を見つめる。

「渡すかっ! 渡さんっ! 渡せるかっ!」

 思わず三段活用になる程熱く否定する祐一。
 すると、北川はみるみるうちに涙目になっていく。

「なんだよ! お前そんだけチョコ貰ってるんだから一つぐらいいいだろ!!
 お前に、お前に毎年家族からしかチョコがもらえない男の気持ちが分かると言うのか!!?
 前日にこっそりチョコを買いに近所の菓子屋に走ったのを久瀬に見咎められて、わざわざ新聞部に校内新聞の号外作られて学校中にばら撒かれて、全校生徒から白い目で見られて斎藤にお情けでチョコケーキなんて焼かれた俺の気持ちが分かるって言うのか!!!?」

 どうやら、分かりたくも無い重いトラウマを抱えているようだった。

「つーか相沢! お前はっきり言ってどれぐらい貰ったんだよ!!?」

 血涙を流しながら祐一に食ってかかる北川。

「…聞いてどうすんだよ」

「参考にする! 参考にして頑張ってチョコを貰う!!」

 何をどう参考にするのか。そしてまだ諦めていないのか。
 北川の執念に根負けし、祐一は昼休み時よりさらに増えたチョコを物色し始めた。

「まぁ、義理だけでも結構あるな…え〜と、ひぃふぅみぃ…」

「数は数えるな。流石の俺もそこまでの辛さには耐えられない」

 北川がすっと祐一の手を差し止める。
 懸命な判断だろう。クラスの男子の大半も耳を抑えてうずくまっている。

「大体相沢テメェ! お前甘いもの苦手なくせにそんな大量にチョコもらってどうすんだよ!!」

 北川が叫ぶと、祐一は多少渋い顔をする。

「どうって…食うしか無いだろうが。
 少なくとも手作りは多少不味くても食う事にしている。
 せっかく俺のために作ってくれたのを駄目にするのも悪いからな。
 結構辛いんだぞ? もうこの日だけで一年はチョコを見たくもなくなる」

 何気に自慢にしか聞こえないが、本当に辛そうな表情で言うので北川も許す事にした。
 そして、ノートに『甘いものが苦手でも残さずに食べるのがジゴロの心意気』と書き込んだ。

「そういや相沢、おなじみの面子からはどれぐらいもらったんだ?」

「おなじみってなぁ…まぁ、まず朝から秋子さんお手製のチョコレートでトーストを食ったな」

「待て。それは所謂『甘くないチョコ』とは違うものなのか?」

 少し予想とは違った祐一の返答に、北川が首をかしげる。
 すると、祐一は考えただけでも寒気がすると言った感じで苦笑いを浮かべて答える。

「そんなもの朝から食ったら学校これないだろうが。まぁ、手製な分甘さ抑え目で美味かったな」

「そんなもんか…で、他には?」

「名雪からチョコレートフォンデュ。まぁ、全部イチゴだったがな」

「…チョコの代わりに紅しょうがが混じって無かったのか?」

 意外そうに北川が言い、祐一は再び苦笑する。

「だからそういうネタに走ったようなのは無いって。で、あゆからチョコ入りのタイヤキ」

「…黒こげの?」

「いや、ちゃんとした出来で美味かったぞ。甘いのが苦手な俺用に生地を集めに作ってくれてたしな。
 で、真琴がチョコ饅頭。天野に手伝ってもらったらしくて意外によくできてたな。」

「…イタズラで中に爆竹が入ってたりしなかったのか?」

「だから何でそうなるんだよ。まぁ、ホワイトデーは期待してるとか何とか言われたけどな」

 おかしい。コレはどう考えてもおかしい。
 あまりにも不条理な事態に、北川の脳には『?』マークが百個程浮かんでいた。
 あのヒロイン‘Sが、ソツなくバレンタインデーのチョコレートを作って渡していたなんて…
 小休止に祐一のちょっとした不幸話でも聞こうとしていた北川にとって、これは予想外にも程がある不意打ちだった。
 しかし祐一は、そんな北川の思惑とは裏腹に、淡々と自分のハッピーバレンタインエピソードを北川に一つずつ聞かせていった。

「で、栞にはチョコアイスもらっただろ」

「…四次元ポケットから大量に出されて、凍死しかけたりは?」

「無いな。で、他に香里やら天野やらからも義理チョコもらったし」

「何でお前が美坂から貰ってんだよ! 美坂チーム創設当時から在籍している俺が貰ってないのに!!」

「創設当時も何も、その名前提唱したのがお前だろうが」

 ちなみに本当は「斎藤ももらってたぞ」と言おうかと思ったが、
 目の前で血涙流して猛る北川を見て、巻き込む事もあるまいと考え、やめた。

「じゃ、俺はちょっと生徒会に用があるから行くぞ」

 そう言って祐一は鞄を持って立ち上がる。

「間違ってる…こんな世の中は絶対に間違っている…まさかこいつは相沢ではなく木目沢なのか…?」

 ブツブツと呟きながら祐一の後を追ってフラフラと歩く北川。
 ちなみに、コレが抑止力となって放課後の祐一にチョコを渡そうとする女子は皆無だった。





「お〜い、久瀬いるか〜?」

 祐一が生徒会執務室のドアを数回ノックしてからドアを開ける。
 すると、そこには数名の生徒会員が各々の役割を果たすべく無言で仕事をしていた。
 そして、一人の男子生徒が書類から顔もあげずにドアから一番離れたところにある生徒会長の机を指差した。

「久瀬………そうか、一足遅かったか………」

 こちらに背を向けて椅子に座っている久瀬の姿を確認し、祐一が呟く。

「なぁ相沢、久瀬の奴どうかしたのか?」

 そう言って北川が久瀬の前に回りこんでその顔を覗き込む。

「うわぁ!」

 驚いて後ろに跳ぶ北川。
 久瀬は、窓の方を向いて足を組み、
 とても満足そうな表情を浮かべて…目を閉じていた。

「寝てる…いや、死んでる…?」

 北川が突然の事態に状況を把握できずにいると。
 数名の男子生徒会役員達が嗚咽を漏らし始めていた。

「な、泣いてる!!?」

 北川は久瀬の絶命(?)より遥かに驚いた。
 生徒会役員達と言えば、ある意味反生徒会のメンバーよりも久瀬を怨んでいるとのもっぱらの噂だ。
 仮に久瀬が絶命したところで、祝杯をあげるのならともかく涙を流すとは…一体、何が起こったと言うのだろうか?

「会長は…会長は最後まで男…いえ、漢でした…」

「真似できねぇ…俺達には真似できねぇよあんな事…」

 やがて、副会長が涙をぬぐい、祐一に向かって言った。

「相沢さん…会長からの伝言です。
 『僕はここまでだ。先に地獄で待ってる』…だそうです。
 相沢さん…気をつけて下さい。義理とはいえ、威力はあの通りです…」

「そうか…分かった」

 祐一はそう呟くと、久瀬の後姿はしばらく見つめ続けた。
 そして、隣に立った北川の方へ向き直ると、穏やかな声で語り始めた。

「北川、お前はもう帰れ。ここから先は、お前の出る幕じゃない」

「な…何を言っているんだよ相沢」

 北川がうろたえる。しかし、祐一はなおも強い口調で北川に言いつける。

「帰るんだ! お前にはまだ、チョコを貰うって夢があるんだろ…?」

「相沢…?」

 ただならない祐一の態度に、北川が何か秘められた決意を感じた時、再び執務室のドアが開いた。

「あはは〜、舞〜、やっぱり祐一さんここに来てましたよ〜」

 そこには、倉田佐祐理と、その後ろになにやら大きめの箱を持った川澄舞が立っていた。

「よぉ、佐祐理さん、舞。俺に何の用だ?」

 とても穏やかな表情で受け答える祐一。
 それはまるで、腹を切る前の武士のようだと北川は思った。
 腹を切る武士などに会った事は無いが、何故か北川は…そうだと感じた。

「あはは〜、舞が祐一さんに渡したいものがあるんですって〜。ね〜、舞〜」

 朗らかな笑みを浮かべる佐祐理と、恥ずかしそうにうつむいている舞。

「…今日、バレンタインだから…さっき、久瀬にもあげた…久瀬のは義理だけど…」

 舞がそう言って箱を差し出すと、祐一はとても嬉しそうにそれを受け取った。

「おお、チョコか。ありがとうな、舞」

「…祐一、甘いもの嫌いだから…私の好きなもので、甘くないチョコ料理を用意した」

 舞の言葉に、他の生徒会員達の表情が若干こわばった。
 しかし、祐一はあくまでその満面の笑みを崩そうとはしなかった。

「おお、そうか! それは楽しみだ………で…」

 数瞬躊躇った後、祐一は、意を決したように

「どんなチョコを用意してくれたんだ?」

 すると、舞は無言で箱をラッピングしてあるリボンを解いた。
 その瞬間、執務室にほんのり甘い匂いと、ここしばらくあまり嗅がない匂いがたちこめた。

「…おぉ、これか…」

 やや力なく祐一がソレを見ながら言う。それは…

「…牛丼」

 北川は一瞬、己が耳を、鼻を、そして目を疑った。
 しかし、どれだけ己を疑っても…確かに、箱の中には牛丼が存在していた。

 よく見ると、舞の後ろで佐祐理が祐一に向けてほんの少しだけ悲しそうな表情をしていた。
 彼女はこの料理の威力を間近で見て、それでもなお笑っているのだろう。手作りチョコに挑戦した親友を悲しませないために。

「…特製の合わせチョコ牛丼」

 舞がやや誇らしげに胸を張りながら答える。
 祐一は、一瞬今にも泣きそうな顔になって…やはり、笑顔を維持した。
 きっと久瀬もこうだったから。それを承知で、トラップを避け、ここで果てる為に生き抜いたのだから。
 祐一に出来る事は、ずっと笑う事だけだった。北川は…呆然とその様子をただ見つめていた。

「…秘訣は、この全体にまぶしてある三食チョコレート」

「へぇ…なんなんだそれは?」

 祐一に対し、やや嬉しそうに料理の説明を始める舞。
 その場にいた全員が、できれば舞の口を閉ざしたいと思った。
 食すまでの時が経てば経つほど、きっと祐一は辛いに違い無いと考えたから…

「…佐祐理から聞いた。料理では『同じものを重ねて旨味を足す』事があるって。
 …チーズバーガーも、牛の旨味を重ねるために牛乳から作ったチーズを重ねるらしい。
 …だから、私も牛の旨味を引き立たせるために牛乳が入っているホワイトチョコを足してみた」

 『牛の旨味を重ねる』牛丼ならばそれも面白いかもしれないが、これはあくまでチョコだ。チョコ料理で牛の旨味を重ねてどうしようと言うのだ。

 しかし、その疑問は誰の口からも出される事はなかった。

「…そして、こっちが秘訣の赤いチョコレート。これを入れて私の三食チョコ丼は完成する」

「それは何なんだ? イチゴ味のチョコレートか?」

 しかし、舞の返答は祐一の想像の一歩斜め上を行くものであった。

「…違う。これは牛の血を混ぜたチョコ」

 祐一の笑顔が凍りつく。凍りつくが、あくまでその表情は笑顔のままだ。

「…チョコの期限は、牛の血を固めたものだと聞いた。だから、牛の旨味を足すために原点の味を出してみた」

 その瞬間、最も驚いていたのは北川だった。
 そう、北川はつい最近この先輩に話した事があるのである。
 民明書房直伝の『血呼粉冷凍』の話を…どうせこの先輩も相沢にチョコを渡すのだと思って、軽い気持ちで…

 ――ならば、今、相沢が死地に立たされている原因は――

「あ、相沢…俺は…」

 思わず北川は祐一に声をかけていた。
 そして祐一は、悲壮な顔をした北川を見て少し驚いた後…
 全てを察したように穏やかな笑みを浮かべ、そして口を開いた。

「なんだ北川、まだいたのか。早く帰れって言っただろ?
 俺はこれから…舞の手作りチョコを味わわなければいけないんだからな…」

 その場にいた全員が声も出さずに泣いていた。
 ある者は口元を抑えて、ある者は天を仰ぎながら。
 北川は…はらはらと静かに涙を流し続けていた。

 やがて、北川は頭を行者包みにしていた白木綿を外し、
 そして懐から鈴を取り出すと、りんと鳴らして、一言――

「――御行奉為」

 北川の声と、鈴の音の余韻が収まると、やがて祐一はゆっくりと口を開いた。

「それじゃ――いただきます」

 祐一がそう言った後。
 静かに、静かにドアが閉まる音を、北川は確かに聞いた。
 それでもいいのか。
 寂しくはなくなった。でも、如何にも悲しい気分になったから――。
 北川は、後ろを見ずに去った。





あとがき

樫の木おじさん「なんだコレは?」

何もコレも…ねぇ?

樫の木おじさん「お前、バレンタインだからって勢いで書いただろうが。なんだこの明らかに着地地点を決めてなかったクライマックスは」

いやぁ、ギャグからシリアスに移行するってのはよくある事だし

樫の木おじさん「これのどこがシリアスだ貴様」

…こんな感じになったのも、北川が白装束など着込んでいたから悪いのだ!
いや、むしろこんな感じに私の心を誘導した『巷説百物語』を書いた京極先生が悪い!!

樫の木おじさん「責任の押し付けはともかく、ラストの『覗き小平次』は分かる奴皆無だと思え」

何故だ!? 最後の最後、北川がようやくチョコを追い求める妄念から解放されて幸せになるSSを書きたかったのに、どうしてこんなバレンタインの『業苦』を描いた物悲しいラストになるんだ!!? 一筆啓上業苦が見えたのか!!?

樫の木おじさん「それはこっちが聞きたいぐらいだ。つーか分かりにくい小ネタ連発すんのやめぃ」

…やはり、バレンタインとは悲しいものなのかもしれないねぇ?

樫の木おじさん「…その一言で済ませられる奴らがかわいそうでならないんだが」



腐海文書に還る