「はぁ…はぁ…はぁ…」

俺は朝の通学路を疾走していた
理由は何のことは無い、学校に遅刻しそうだからだ
遅刻自体はもう慣れた事なのだが、その慣れが問題なのだ
今日も遅刻すると、ちょうど連続20回目になってしまうのだ
昨日、担任の石橋がさすがにキレて、俺達に向かってこう言った
『明日も遅刻したら、お前らは一週間便所掃除の刑だ!!』
一回の遅刻と一週間の便所掃除では言葉の重みが段違いだ
だから今日だけは、何が何でも遅刻するワケにはいかなかった

それなのに
運命とは無情なもので
今日に限って目覚し時計が起動せず
起きてから部屋の時計を見て、俺は愕然とした
そして、すぐに正気に返り、ドタバタと暴れながらの着替えを終えて
朝食も取らずに部屋から一直線に玄関へと突っ走り
そのまま今のように走り続けていると言うワケだ

「…よし!いいペースだ!!」

俺は腕時計を確認する
走りに集中していたせいか
これまでは自己ベストを記録している
このままの速度を維持し続ければ
なんとか滑り込みセーフになるだろう
そう考えると、わずかに心に余裕が出てきた
余裕は、俺に走る以外の思考をする事を許した
そして、ふと現在の自分の状況について思考した時
不意に、俺は漠然とした喪失感を覚えた

「…あれ?」

何かがおかしい
何かが足りない
いつも通りに登校しているはずなのに
今の俺には何かが決定的に不足している
具体的に何かは解らないが、足りない事だけがよく分かる
それが足りないと言う事は、あってはならない事だという事もよく分かる

では、それは一体何なのだ?
ハンカチやティッシュか?
いや、小学生じゃあるまいし
そんなもの忘れた所でどうって事無い
では、教科書やノートか?
いや、それは昨日のうちに確認した
よしんば忘れたところで
別に今日は宿題も無いのだし
授業中寝てれば済む話だった
いずれにせよ、今この場で心配する事では無い
今、優先すべき事は、今日の遅刻を防ぐ事
それ以上に憂慮すべき事は存在しないはず
ならば、何故俺の心はこの喪失感に対し
警鐘を鳴らし続けているのだろうか?
このまま忘れ続ける事は、致命的なミスである
そんな漠然とした不安が心の中を占める
俺は一体、どんな重要な事を忘れていると言うのだ?

「…………………………あ」

そして、俺ははたと気付く
忘れていたモノに
思い出さなくてはならぬ『者』に

「………………………………名雪起こすの……忘れてた」



進むべきか、退くべきか


OK、まずは状況を整理してみよう
俺はひとまず歩みを止めて、思考に集中した
そうする事で、超高速の思考を可能にするために

「このまま走り続ければ
俺だけは遅刻を免れる事ができる
名雪を連れに帰れば、遅刻は決まったも同然だ…」

俺はあえて口に出す事で
焦る心を無理矢理ねじ伏せようとした

「…名雪を見捨てるか?」

ある意味、正しい選択と言えよう
名雪を起こしに今から帰れば
二人とも共倒れになってしまう事は必然
ならば、名雪の犠牲を踏み台にして
俺だけ便所掃除の十字架から逃れる
その行動は決して罪では無いのだ
いわゆる、カルアネデスの板という奴だ
二人が犬死にするよりも、一人を生かした方が良い、しかし…

「…残金は0に漸近するか」

財布を開き、下らないギャグをつぶやく
もちろん、結構な金額は中に入っている
しかし、ここで名雪を見捨ててしまえば
激怒した名雪に奢りを強要、いや脅迫され
俺の所持金は百花屋のイチゴサンデーへと変化し
俺の行いに激怒した他の女の子達も
罰と称して俺に奢りを強要してくるのだろう
その強引な論理に理屈はいらない
彼女らにとって、俺が悪事を働けば
罰として俺に食事を奢らせるのが当然なのだから

「…名雪を売るっていうより、便所掃除回避を買うって形だな…」

では、名雪と二人で便所掃除するか?
それはそれで嫌すぎる
何が悲しくて一週間も便所掃除などせにゃならんのだ
第一、今から起こしに帰ったとしても
名雪の怒りを買う事に変わりは無い、何故なら…

「こんな事なら…」

俺は激しく後悔した

「『明日絶対起こしてやるから、代わりにノート写させてくれ』
なんて言うんじゃ無かった――――――!!!!」

やはり、男としては
責任を取るために帰るべきだろうか?
だが、そんな中途半端な責任の取り方とは
男的な思考による自己満足に過ぎない
女性にとっては、大事なのは結果だけなのだ

「…でもまぁ、名雪だしなぁ…」

少なくとも俺の知る限りでは、名雪というのは
そういったデジタル的思考とは最も程遠い女だ
うまくいけばごまかせるかもしれない
だが、ごまかせても結局は便所掃除だ
最悪、便所掃除+イチゴサンデーだ
やはり帰るのは得策では無いだろう
しかし、そうなれば結局奢りの刑だ

「イチゴサンデーか便所掃除…
両方とも回避する手段は無いのか…?」

両方、という可能性がある以上
一時帰宅はもっとも愚かな手段と言える
だが、正直、奢りコンボHITは回避したい
それに、名雪から恨みを買ったままでは
精神衛生上、大変よろしくない

「…つまりアレだ
名雪の怒りを静められれば良いワケだ」

逆転の発想だ
大体、イチゴサンデーとは
名雪をなだめるための手段なのだ
目的では無いのだから、それを選ぶ必要は無い

「しかし、キレた名雪の怒りをそう簡単に収められるとは…」

言いかけて、俺はある事に気付く
そして、ふと空を見上げると
見覚えのある三人の男の笑顔が見えた

「…斎藤{アヴドゥル}、久瀬{花教院}、北川{イギー}…」

俺の脳内をよぎる悪魔的発想…!
『この三人を生贄にして名雪の怒りを静める』
これは、あながち不可能な事では無いのかもしれない
名雪にしてみれば、約束のためと称して無理矢理ノートを写された上に
俺が一方的に約束を反故にし、起こさなかったせいで便所掃除が決定してしまう
その怒りはさぞや凄まじいものだろう{まぁ、俺の自業自得ではあるが}
静めるのは用意な事では無い、俺の全財産と引き換えになるかもしれない

「しかし、チームプレイならば…!!」

イケるかもしれない
三体の生贄ならば神をも召還できるはずだ
奴等の犠牲の上に、俺が無傷で立つ事も不可能では無い
大丈夫、奴等は親友のためなら平気で命を投げ出せるはずさ

「うん…チームプレイもいいかも知れないな」

生贄やら犠牲やら言ってる時点で
チームプレイとはかけ離れてる気がするが
まぁ、そんな形の友情だってあってもいいはずだ

「しかし、奴等を巻き込むとなると…」

斎藤はお人よしだから
泣き落とせばなんとかなるかもしれない
北川には、元々人権が無いからどうでもいいだろう、だが…

「問題は久瀬か…」

奴は一筋縄では行かない
よしんばなんとか巻き込めても
その後にどんな復讐をされるか解らない
下手をすれば便所掃除や奢りよりも酷い事になる
リスクを考えると、久瀬は巻き込むのは軽率かもしれない

「斎藤もキレると怖いしなぁ…
このチームプレイはリスクが高すぎるか…まてよ?」

再び俺の思考はコペルニクス的転回をする

「わざわざ生贄を三人にする必要は無いんだ…
むしろ、たった一人に集中させれば…」

『北川潰し』
それが俺の新たな戦略
ただ北川を巻き込むのでは無い
嫌がらせ大好き人間の久瀬と協力し
名雪の怒りの矛先を徹底的に北川に向けさせるのだ
幸い、数日前に北川は室内野球をした際に
廊下のガラスにヒビを入れてしまっている
久瀬は現在犯人をやっきになって探しているはずだ
ならば、俺の戦略は上手くいく可能性がかなり高い
北川からは口止め料をいくらか貰ってはいるが
まぁ、数日間黙ってたんだ、料金分の義務は果たしたはずだ

そう、俺は心を鬼にせねばならない
悪鬼に魂を売らずして、この策は行えない
自分が助かるためだけに俺は友を犠牲にするのだ
自分の不始末を、他人に押し付けて逃げようとしているのだ
仏心で隙を作れば、たちまちそこから計画はほつれ、失敗する
鬼の心で速やかに事を成さねばならんのだ
例えこの非道を他の誰に咎められようとも
例えどんなに激しい罵倒を受けようとも

「あら相沢君、今日は早いのね」

そう、例え香里に
『あら相沢君、今日は早いのね』と…

「はい?」

俺がびっくりして振り向くと
香里がいつもの余裕の表情を浮かべて立っている
そして俺は、やっと自分の妄想世界から脱出する

「…香里、皮肉だったら後にしてくれ
俺は今から速やかに学校に行き、成すべき事を成さねばならんのだ」

そう言って俺はクラウチングスタートのポーズを取る
少し必要以上に思考のための時間を取ってしまったようだ
特に最後の自己弁護にも似た自分への言い聞かせ
あんなものは必要無かったのだ、北川を売ると決めたなら
もうためらわずに売ればいい、ただそれだけの事だったのだ
とにかく、今はもうその事について考える時間も惜しい
俺は、思考の間に体力が回復をしていた事を確認し
さらに腕時計を見て残り時間を確認する
死ぬ気で走ればなんとかならん事は無い
俺は真っ直ぐに向かうべき方向を見つめる
そして、自分で『よ〜いドン』の合図をかけ始める

「位置について…よ〜い…」

全身にパワーを充実させる
身体の導火線に火をつける
筋肉が爆発させる準備は万端
そして、今まさに走り出そうとした時

「あら?相沢君、その時計かなり進んでない?」

「へ?」

俺の腕時計を覗きこんでの香里の一言
その予想しえなかった一言に
俺の体に流れていたエネルギーは
一気に力ない煙となって体外に放出された

「ホラ、1時間以上も進んでるじゃない」

そう言って香里が自分の腕時計を見せる
たしかに、この時計ではまだ遅刻まで一時間以上余裕がある

「…でも、俺の部屋の時計も
全部この時間に合わさってたぞ?」

俺がそう言うと、香里は太陽を指差して言う

「何言ってんのよ、アレ見れば一発じゃない
いつも相沢君達が走るよりも日が低いでしょ?」

確かに、日はまだ低い
言われてみれば、実にその通りだ
俺はこんな事にも気付かないほど動揺していたのか

「それより、名雪はどうしたのよ?
あの子も朝練あって、先に行っちゃったの?」

なるほど、香里は部活の朝練かぁ…
そうかぁ…そうなんだぁ…ハハハ…

「いや、俺はちょっとジョギングをしてただけだ…
最近、運動不足でな、毎朝のダッシュじゃ足りなかったんだ…」

明らかな強がり
だが、今はこれが精一杯

「ふ〜ん…まぁ、別にいいけどね
今日遅刻したら便所掃除なんでしょ?
ジョギングに夢中で遅刻しないようにね」

それだけ言うと
香里はスタスタと学校の方へと歩いて行った
俺は、その背中が見えなくなるまで見つめ続けた
別に、見たくて見てたワケじゃない
気がついたら呆然と見つめていたのだ

「…さっ、名雪を起こすか
結果的に約束も守れるワケだしな
うん、やはり男は約束を守らねばならんよ
そうそう、なんてったって早起きは三文の得だしな」

脳が勝手に深く考え出さないように
俺はぶつぶつと独り言をつぶやきながら今来た道を引き返した


「おはよう香里〜」

教室についた名雪が香里に挨拶する
俺はもう挨拶済みなので、とっとと席につく
というか、香里見てると朝の事思い出すから嫌だ

「おはよう、名雪
やっと遅刻連続記録打ち止めね」

「う〜、酷いよ香里〜
私だって好きで遅刻してたんじゃないのに〜」

名雪と香里のいつもの漫才が始まる

「おっ、相沢に水瀬!今日はもう来たか!!」

教室に入ってきた北川が嬉しそうに言う

「まぁ、生徒の素行が良いと言う事は
我が生徒会としても喜ばしい事なんだがね」

久瀬がつまらなそうに言いながら
財布から500円取り出して北川に渡す

「ホラ、賭けは君の勝ちだ…
だが、はした金での賭けは正直感心しないね」

それより、俺は生徒会長が学校内で堂々と賭けをする方が感心しない
何よりも、どうして奴らは勝手に俺達を賭けの対象にしているんだ?

「相沢〜、ありがとうな〜
お前のおかげで500円儲けられたぞ」

500円ぐらいで嬉しそうに笑う北川
そんな北川の顔を見て、俺は少々自己嫌悪に陥り
北川に向かって、ボソリと一言つぶやく

「すまんな」

「は?何でお前が謝るんだよ?」

「いや、別に…」

不思議そうにしている北川を余所目に、俺は思案に更ける
朝の話に関しては、もう記憶から消し去りたい気分だった
だが、自分にけじめをつける意味で、一言謝らずにはいられなかったのだ
意味についてわざわざ説明する気は皆無だ、ただのけじめなのだから
そして、俺は自分の心が悪に染まらなかった事への感謝を…

「いやちょっと待て」

俺は北川の方へと向き直る

「何だ?」

「今の、お前『が』謝るってどういう意味だ?」

「ああ、その事か…
だから、久瀬とちょっと賭けしてな
お前に今日遅刻してもらっちゃ困るから
昨日、電話で真琴ちゃんに悪戯の入れ知恵して
お前の部屋の時計の時間、全部進めてもらった」

北川が悪びれる様子もなく答える
そういえば、今朝家に帰った後
妙に真琴がニヤついてたワケだ

「いや〜、しかし上手くいったな〜
あまり賭け金高くすると
今度は久瀬がイカサマしようとするだろ?
その辺の調整が絶妙だったよな〜」

北川が自分で自分に感心している
つまりアレだ、俺が朝から無駄に疲労して
危うく悪魔に魂売りそうになり
今もこうして情けない思いをしていたのは
一重に目の前のこの野郎のせいと言うワケか

「まぁ、おかげで相沢も遅刻しなかったし
俺も500円儲けたし、二人とも得して
めでたしめでたし、と言うワケだな」

北川が満面の笑みで言う
そんな北川の顔から目を反らし
俺は時間を合わせなおした腕時計を確認する
チャイムが鳴るまで、あと十分ほどだ
うん、十分あれば充分だ

「おい、北川
ちょっと便所行こうぜ」

俺はそう言って北川の肩にポンと手を置く

「痛ッ!おい相沢!痛いって!!」

「ん?ああ、すまんな
うっかり力が入ってしまったようだが…
まぁいいじゃないか、実に些細な事だ
それよりいいから便所に行こう便所に
できれば誰も来ないような寂れた便所がいいな」

そうだ、ついでに久瀬の奴にも会いに行こう
ガラスひび割れ事件の犯人を告発せねばならないしな

「わ、祐一、凄い顔してる」

「見ちゃ駄目よ名雪
触らぬ神に祟り無しって言うでしょ?」

「俺もその方がいいと思うな
アレは人殺しを決意した人間の目だよ」

後ろの方で名雪、香里、斎藤が
何か失礼な事を言っているが、別に気にしない事にした

「もが〜!もが〜!!」

隣で北川が何か騒いでいるが
五月蝿いので口をふさいで、後は気にしない事にした

「安心しろ、時間が足りなくなったら
股関節と顎骨外して、個室に監禁してやるからな」

言葉に殺意をみなぎらせながら
俺は北川を引き摺って教室を出て行った

結局、その日の出席簿には
俺と名雪の連続遅刻の打ち止めと
北川の終日欠席の記録のみが残された


あとがき

今回の話は結構ありがちだったからね〜
どういうオチに持ってくかで、少し悩んだ
いつもはオチが弱いのばっかだったから
各所でオチを誘導しまくって、誤爆を狙った

樫の木おじさん「早い話が
お前は自分のオチに自身が無かったから
読者をミスディレクションする形で
予想外のオチと思わせて不備を消したかったワケだ」

…でも、根幹のところで
一応伏線張ったんだからいいじゃん
便所掃除の罰ってのも、最後の『便所でボコボコ』
にあわせて変えたもので、最初は『廊下でシェー』
にする予定だったんだよ、そっちの方が好きだったんだけど…

樫の木おじさん「別にどうだってええわいそんなん」

途中で、オチを『結局祐一が悩みすぎて遅刻』とか
『悩みすぎて名雪に追いつかれる』とか予想してくれていれば
これほど愉快な事は無いよ、作者冥利に尽きるってもんだ

樫の木おじさん「…さすが
麻雀で平和崩してでもヒッカケ狙う馬鹿だな」

失礼な、高目三暗刻の高目牌の筋切ってリーチした事もあるわい

樫の木おじさん「威張るな」