非日常というものは、いつも日常の中に潜んでいるものだ
普段は露骨なほどに息を潜めているくせに、ある日唐突に顔を出す

これは、そんな日常の中の非日常に遭遇した、ある少年の物語



眠り姫を起こさないで


俺はいつものように、隣の部屋で演奏される目覚まし時計のオーケストラで目を覚ました

欠伸と共に大きく伸びをして、俺は上体を起こす
そして、時間に余裕があるのを確認し、のろのろと起き上がると部屋を出る

行き先は言わずもがな
隣で寝ている従姉妹の部屋だ
年頃の娘の部屋に堂々と入るのもどうかと思うが
直接叩き起こさねば、絶対に名雪は起きないのだから仕方が無い

「…そういや、今日は誰もいないんだよな」

目覚ましの騒音の中
ふとそんな事を思い出す

秋子さんは仕事の都合で数日間の出張
真琴は保育園の2泊3日のお泊り会に参加
あゆも親戚の家に顔を出すとかで里帰り中だ

つまり、昨日からしばらくの間
この家には俺と名雪の二人だけしか存在しないのだ

広い家に男女が二人きり…
とてつもなく桃色な響きのフレーズだ

なのに

「う〜、岬ユリ子はもうただの女だお〜

意味不明の寝言を発するこの娘は
昨日みんながでかけてから、かれこれ16時間は眠り続けている

夜這いをかけにいっても
起こすまでに夜が明けてしまうだろう
そうなれば朝一番に持ち込める体力など皆無
故に俺は昨日、そのまま眠りこけてしまったわけだが…

「本当によく寝れるよな、この大音響の中で」

俺は溜め息をつけながら目覚まし時計を一個づつ止める

「きっと、よほどの事をしなけりゃ、何しても起きないんだろうな」

口に出してそう言った時
俺の脳裏にある思考が浮かぶ
あるいは、悪魔の囁きが耳に届いたのだろう

「…いやいや、それはイカンよさすがに」

その考えを振り払うように首を左右に振りながら自分にツッコミをいれる
そして、再びベッドの方に目を向けると、そこには安らかな寝顔の名雪がいた

「……………………………………………」

俺は思わず魅入ってしまい
そして、ゴクリと生唾を飲み込む

頭から振り払ったはずの考えが
脳内でむくむくとその存在を膨れ上がらせる

「いやいや…しかし…でも…」

俺は必死に欲望と葛藤する
それをやってしまったら、俺は皆に軽蔑されるだろう
いや、軽蔑ぐらいですんだらまだいい方だろう
それよりも、秋子さんが帰ってきた時が問題だ
笑って済ませられるような問題では無い
そう考えると、あまりにリスクが高すぎる

しかし

その欲望はあまりに魅力的すぎた
罪に対する罰のリスクを考えたとしても
抗えぬほど強烈な魅力が、俺の脳をしびれさせた

「…名雪、朝だぞ」

軽く、呼びかけてみる
しかし、ほとんど反応は無い
当然だ、これぐらいで起きるようなら
毎朝毎朝遅刻寸前まで苦労する事は無いのだから

「…一度だけ…なら…」

そう、一度だけなら
これを最初で最後にすれば
この欲望に身を任せてみるのもいいかもしれない

そう、俺はたとえどんなに罵られようとも
どんなに責められても、どんなに軽蔑されても













このまま名雪を起こさない


前から興味はつきなかった事柄がある、即ち
『果たして名雪はいつまで寝続けられるのか?』

秋子さんの話では
名雪は生まれてこの方
自分から起きた事が無いらしい
そう、この17年間ただの一度たりとも、だ

そんな少女が俺の目の前で
すやすやと寝息を立てている
他に誰も起こす人間も存在せずに
静かな家の中、ただただ眠り続けている

「…これを起こしたら男じゃないよな」

このまま俺だけ一人で学校に行って
北川達には、名雪も秋子さんについていったと報告する
早くてもみんなが帰ってくるのは3日後、もし帰ってきても
秋子さん以外になら名雪の存在を誤魔化しとおす自信はある

大体、前々から常々疑問に思ってたんだ
『瀕死の重傷を負って3日3晩眠り続ける』とか『春眠暁を覚えず』とか
そんな事が実際に起こりうるのだろうか? と

答えは、ありえない
実際、俺も15時間ほど眠り続けた事はあるが
自分の意志とは関係無く、何時の間にか意識は覚醒してしまう

だが、それは俺だからだ
では、名雪ならどうだろうか?

答えは、ありうる
だって、名雪だから
そう、俺は名雪を信頼している
寝汚さだけなら、世界一だと俺は確信している
人体の限界を超えて眠り続けられる女だと、信じている

だから起こさない
愛するがゆえに、信じるがゆえに起こさない

そう、俺が名雪を起こさずに学校に行くのは
それは名雪を愛するがゆえの行動なのであって
決してただ単に知的探究心を満たしたいがだけの行動では無い

「そうとも、だから俺が名雪を起こさなくても、責められるいわれは存在しないのだ」

そう言って俺は踵を返し
ドアの方を向いて一歩を踏み出そうと…

「ちょっと待て」

「…誰だ?」

突然、俺の脳内に声が響く

「お前、本当にそれでいいと思うのか?」

「だから誰なんだよ、お前?」

「俺はお前さ、お前の良心だよ」

思わず、俺は頬をつねる
夢かどうか確かめたわけではない
寝惚けてるであろう頭を覚醒させるためだ

「いや、お前は寝惚けているわけではない
思ってる事を口に出してしまう癖があるぐらいだから
自分の良心と対話できる癖だってあっても不思議じゃないだろう?」

「それは癖のうちに入るのか?」

「細かい事は気にするなと言うに
まぁ、そんな事はどうでもいい事だ
問題は、本当にお前はこのまま名雪を放っておく気か?」

「…俺は、名雪の従姉妹である前に一人の求道者だ
知的探究心を満たさずに生きてはいけない、不器用な男さ…」

「そうやって自分に酔うのは勝手だがな
この事が秋子さんにバレたら…ジャムだぞ?」

「ぐあ…
わざわざ一呼吸区切りやがって…
良心の声のくせに芸が細かすぎるぞ、お前」

「そんな事はどうでもいい
好奇心は猫を殺すとも言うが
この場合、殺されるのはお前だぞ?
しかも死因はジャムだ、男としてそんな死に様誇れるのか?」

俺の背筋を冷たい汗が流れる、そして次の瞬間

「祐一〜、猫を殺すと化けてでて7代祟ってやるんだお〜」

俺の心のどっきりメーターの針は振り切れ
声にならない悲鳴をあげて、思わず床にへたり込んだ

と言うか、祟るのはお前か?
普通、祟るのは猫の方だろ?

精一杯の強がりでツッコミを入れ
そしていまだ眠りこけている名雪を見て
安堵とも憔悴ともとれる深い溜め息をつく

「…ね、寝言かよ…」

どうやら良心の声も
口に出して喋っていたらしい
それに名雪が反応したと言うワケだ

「どうだ?
この先は想像するだけでも恐ろしいだろう?
悪いことは言わない、素直にこのまま名雪を起こすんだ」

「あ、ああ…」

俺はゆっくりと立ち上がると
そのままベッドに近寄って、名雪の体を揺さぶろうと…

「そうやってお前の見つけるはずの感動は
また日常の中に埋もれて隠されてしまうんだな」

良心の声とも、俺自身の声とも違う、第三の俺の声

「お前は誰だ?」

「俺はお前さ、お前の本心だ
それよりも、お前は本当にその選択でいいのか?
このままいつも通りの日常を繰り返して、本当に満足なのか?」

思わず、俺は言葉に詰まってしまう
もう一人の俺の言う事ももっともだったからだ
すると、激昂したように良心の俺が叫び声をあげる

「貴様何しに出てきたんだよ!!
もう話は終わってんだからとっとと帰れ!!」

「違うな、終わってなんかいない
俺という相沢祐一の心の影が出てきた事が、何よりの証拠さ」

「心の影…?」

その言葉に、俺はポンと手を叩く

「ああ、要するにお前は黒ナナみたいなものか」

数瞬、俺の脳内が水を打ったように静かになる
そして、壊れたダムから噴き出すような勢いを持って飛び出す言葉

「要するな!!
俺はお前が考えてる以上に哲学的な存在なんだぞ!!?
お前だって高校生の端くれならユングとか聞いた事あるだろ!!?」

「そうだそうだ!
いくら何でもあんまりだ!!
俺にはロウ祐一って名前があるし
こいつにだってカオス祐一って名前が…」

「んな事言ってもありがちだしなぁ…
もう良心は白俺で、そっちは黒俺でいいだろ?」

当然、それについても猛烈な抗議があったが
自分の内面の声など一々考慮に入れる気は無い
適当に相槌を打ちながら、聞き流す事にした

「で、お前らは結局どうさせたいんだよ?」

話が遅々として進まないのに痺れを切らし、俺は自分自身の心の声達に尋ねる

「簡単さ、お前が名雪を起こせばいい」

事も無げに言い放つ白俺

「確かに簡単で単純だな
しかし、そこに進歩は無い
ただ同じ場所に留まるだけだ
大事なのは一歩踏み出す事だ」

やけにもったいぶって言う黒俺
どうにも物事を複雑に言うのが好きらしい、さすがカオスだ

「だがそれが人として正しい行為だと思うのか?
名雪はお前が起こすのを信頼して眠っているんだぞ?」

「自分で起きない方にも非はあるだろ?
それに何ももう起こさないって言ってるワケじゃない
たった一度だけ、このまま眠らせつづけるだけと言ってるんだ」

「その一度が秩序を乱す事になるんだ!!
一度乱れた秩序は二度と元に戻る事は無いんだぞ!!?」

「乱れたぐらいで意味を失う秩序に、なんの価値がある?
そんな秩序なら、いっそ無くなってしまった方がはるかに有益さ」

「それこそ刹那主義者の戯言だ!!
秩序無き世界など滅ぶだけだと何故わからない!!?」

「違うね、滅びるんじゃない
混沌とした世界の中でこそ、人は自分の進むべき道を選び取れるんだ」

「ならばそれを選べない弱者はどうなる?
秩序という救いが無ければ、弱者は生きていけない
平等にもたらされる救いと罰があって、初めて人は生きていけるんだ」

「それは支配者の都合に過ぎない
絶対的に滅びない者などないのさ
だからこそ弱者は強くあろうとする」

「それこそ詭弁だな
要するに自分本位なだけだ
世界の理など、何一つ考えぬ愚者の詭弁だ」

「お前にとっては、自分以外の存在は全て愚者なんだろ?
そうやって人を見下して、常に自分の正しさだけを主張する」

「何故事実を穿って見ようとする?
正しい事を正しいと言って、何が悪いと言うんだ?」

「別に、正否を説いているワケじゃない
その万人に自らの正義を押し付ける考えに反吐が出ると言っているんだ」

「貴様はただ捻くれているだけだ
所詮貴様の言い分は俺の平行線を辿るに過ぎない
貴様が正義に寄らない限り、俺たちが交わる事は決してない」

「違うね、大本は一本の線さ
ただお前と俺が正反対を向いているだけでな
元が同じなだけに、絶対に先端が重なる事は無い
そして、ただ繰り返すだけ、だが今の俺にとってはそれは実に都合が良い」

「!!?」

そして、名雪の部屋のドアが
最新の注意をもって静かに閉じられる

「き、貴様!!」

「そうさ、俺はただの時間稼ぎさ
ひとつの事にすぐ執着しようとする、お前の悪い癖だ」

「この俺を謀っただと…許さん!
この罪、貴様の死をもって償わせてやる!!」

「ぐはっ…!!」

「ば、馬鹿な!!
何故よけようとしない!!?」

「…言った…だろ…
俺は…お前の…足止め…さ…」

「!!?
筋肉を収縮させて俺の拳を…!?
貴様、自分の命を捨ててまで…そうまでして…」

「…一度だけでいい…見逃してくれ…頼む…」

「…駄目だ
俺はロウ、秩序を司る法の番人
悪を見逃すなど、許される事ではない」

「……………………………………………………………」

「…だが、この状態では
もはや早急に任務を遂行する事は出来そうも無い
口惜しいが、今回は失敗を認めざるをえないようだ…」

「…ふふっ、お前らしい…言い草…だな…
…こ…今度…生まれて…くる時は…………!!

ああ、桜咲く男塾の校庭でまってるぜ









どうでもいいが



俺は朝から一人で何をしていたんだろう?


…まぁいいや
後は名雪を起こさないように
秋子さん達が気づかないように隠しとおすだけだ
男の行動として何かを著しく間違えたような気がするが、気にしない事にする

さぁ、次の舞台は学校だ
香里は勘が鋭いから気をつけないとな

「行ってきま〜す」

俺は、小声で形だけの『行ってきます』をすると
もう振り向かずに、真っ直ぐに学校に向かって走り出した








後日談{エピローグ}


4日後の朝

名雪は部屋の掃除をしに部屋に入った秋子さんの手によって発見された

「…祐一、覚悟は出来てるよね?」

長い間食事も摂らずに眠り続けたため
頬がこけ、全身の筋肉も衰えて衰弱してしまい
ちょっとバイオがハザードってる名雪がこちらを睨む
はっきり言って下手なホラー映画よりもよっぽど迫力がある
もしこの状態の名雪に猫を与え、その様子を栞にスケッチさせれば
国宝級の地獄絵図が完成することだろう、天野あたりが欲しがりそうだ

まぁ、そんなくだらない事を考えている場合では無い
前方にはそんな最終進化を遂げた生物兵器『ダオー』が仁王立ちし
周囲は同様に凄まじい殺気を放っている水瀬家一同に完全に取り囲まれている

いわゆる絶体絶命の窮地というヤツだ
しかし、俺はそんな窮地にも、まったく動揺していなかった
だって…死ぬ前にとびっきりいいものが見られたんだからな…

「まさに人生は甘くないってヤツだな」

俺は、目の前のオレンジ色のジャムを見つめ
そして、自嘲気味にフフッと笑った






後に、水瀬名雪はその時の出来事を言葉少なに語る

「あんなにさっぱりした笑顔でお母さんのジャムを食べる人は初めてだったよ…」

と…



『一目見れ 我に悔い無し 眠り姫』



相沢祐一、辞世の句であった





あとがき

いきなりですが、半分実話です

樫の木おじさん「どこが?」

詳しくは2002年6月22日の日記参照
あの出来事であまりに感動したために
その感動を祐一君にも味合わせてあげようと
勢いでこのSSを書いてしまったというワケ{笑}

樫の木おじさん「会話文ばっかだなぁ」

う〜ん、心の葛藤を文章で書くのは難しいなぁ
でも、こういうのが自分の思い通りにいくって、妙な達成感があるよね?

樫の木おじさん「…お前だけって気もするが」

もう謎ジャム食ってもいい!!
ってぐらい感動したから、こんなオチになった

あと、前半部読んで
邪まな想像をした人は心が汚れています
たしかにどうせジャムなら犯っときゃ良かったとは思いますが

樫の木おじさん「思わせぶりに書いたのは貴様だろうが」

あと、それを期待して読んでた名雪萌えの人、マジですいません、特に最後
真琴が木乃伊化してるアンソロジー読んだんで、つい書きたくなって…{言い訳}

樫の木おじさん「…さしずめ、『ダオー来訪者』ってとこか」

…それはそれで書いてみたい気もするが

樫の木おじさん「やめい」

祐一君の自問自答シリーズ
書きにくいけど、もう一回ぐらいやるかも

樫の木おじさん「ネタ自体はすぐ思いつくんだけどな」

まとめにくいからねぇ
今回も少々失敗した感があるし
まぁ、次回はもうちょっと工夫しよう
あと、今回の話、一人でブツブツ言ってる祐一想像すると、とてつもなく頭の痛い人間に思える

樫の木おじさん「外なら捕まる領域だからなぁ」

次回は萌えられるようなSSを書きたいにゃ〜

樫の木おじさん「…今回は萌えが皆無だったからなぁ」



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