日本に古来から伝わる札遊びに「オイチョカブ」というものがある。
 0から9までの数の書かれた札を二枚ないし三枚引き、札に書かれた数の合計の下一桁の数を競う、至って単純なゲームである。
 その単純さ故に、博打として今日に至るまで親しまれてきたオイチョカブだが、これが語源となった有名な単語に「ヤクザ」がある。
 元は「八九三」と書くのだが、これは八と九と三を足すと下一桁が0となって役に立たなくなることから、転じてゴロツキや、今で言う暗黒街や組織暴力団のことを指す言葉となった。


 日本という風土は不思議なもので、ヤクザ者にはヤクザ者なりの「道」というものが伝統としてあった。
 古今東西、悪党やならず者の生き方を道となぞらえたのは、おそらくこの国だけであろう。
 江戸時代、ヤクザ者の本場といえば何と言っても関東、それも上州であった。
 これは現代にも通じるものがあるが、当時一流の渡世人に必須とされていた事項は三つ、腕、度胸、そして礼儀作法と言われていた。
 上州はこれらにとりわけ厳しく、それ故上州で長年修行を積んだ渡世人は「上州長脇差」と呼ばれ、渡世人のみならず堅気の人間からも畏敬の念を抱かれていた。
 それ故、渡世人に憧れて上州を目指す若者も少なくなかったらしい。
 ちなみに、かの有名な大前田英五郎や国定忠治も、上州出身の渡世人である。


 一家を構える渡世人の主な収入源は、賭場を開帳することによって入る寺銭である。
 ニュアンスは多少異なるが、寺銭とは賭場の使用料みたいなものだと考えてもらえるとわかりやすい。
 無論払うのは客である。
 当時賭場で行われていた博打の大半は、サイコロの目の偶数奇数を当てる丁半博打であり、それ故博打そのもので胴元が得る金はほとんどなく、やはり主催者にとって一番実入りが大きいのは寺銭であった。


 ところで日本の賭場には、外国のそれには見られない珍しい不文律があった。
 勝ち逃げが許されなかったのである。
 一朱や二朱ならともかく、分単位両単位の勝ちとなると素直には返してもらえない。
 そしてそれは、相手が堅気であるうと渡世人であろうと関係はない。
 それを回避するためにはどうすればよいか。
 「心づけ」を渡せばよいのである。
 一般に勝ち分の三分の一から半分を差し出せば、何事もなく丸く収まったそうである。
 だがそれを知らない素人が、賭場で馬鹿勝ちしたせいで血を見るような事態に巻き込まれることも、決して珍しい事ではなかった。


 

稼業と商売のあいだ
 

 異様な雰囲気だった。
 小さな賭場全体を、咳をする事すらはばかられるような、張り詰めた空気が包んでいた。
 誰一人として物音を立てようとする者はおらず、二十名からいる賭場の客や若い衆は、ただ黙って盆の様子を伺っていた。
 その視線の先には、胴元である四十がらみの年増女と、差し向かいで座っている一人の若い渡世人。そしてその間に、蓋をするように置かれている一振りの壷。


 女の名を、おせいという。
 本名であるかどうかはわからない。ただ、この土地の貸元の軒先で仁義を切った際、そう名乗っていた。
 およそこんな場所で壷を振るような人間とは思えない、上品な顔立ちをした女だった。
 だがそのおせいの壷振りは、そこらの渡世人では相手にならないほど様になっているものだった。
 場の流れを的確に読み、適当に勝たせて入り浸りにした方がいい人間にはちょぼちょぼと勝たせる、見る人間が見れば感嘆の声をあげるような、非常に手練手管に長けた勝負を繰り返していた。
 それ故に、今夜の賭場は、夜半を過ぎても盛り上がっており、客も一家の人間も、非常に満足していたのである。
 そう、この男が現れるまでは。


 満月が南天に差しかかろうという頃、この若者はふらりと賭場に現れた。
 どうやら旅鴉らしく、夜旅で通りかかったところを、たまたまこの賭場に誘われてきたという感じだった。
 若い衆に長脇差や三度笠、道中合羽に振り分け荷物を預け、盆の前に座る。
 両端を尖らせた五寸ほどの長い楊枝を、唇の端にくわえていた。
 売り出し中の渡世人が、目立ちたいがためにそうしているのかとも考えたが、その貫禄を見るに、そうとは思えない。
 おそらくはただの癖なのであろう。
 おせいはその男の顔を見た途端、何か背筋が冷たくなるような、違和感にも似た何かを感じていた。
 普通の渡世人と何かが違う。
 例えるならば、獣の群れの中に蛇が、それも猛毒を持った太い蝮が紛れこんだ、とでも言おうか。
 とにかく、もしもこの場で万が一血を見るような事態になれば、何か恐ろしいことも平気でしかねない、そういう怖さが、眼の奥に宿る光から読んで取れた。
 男は自分の目の前に駒札を置くと、小さく張ったり張らなかったりを四半刻ほど繰り返し、じっと場の様子を伺っていた。
 やがて、少しずつではあるが、男の手元に駒札が貯まり始めた。
 おせいの手を見切ったのか、それともツキに乗ってきただけなのか、或いはその両方なのかはわからないが、とにかく勝つ割合が段々と高くなっていったのは間違いない。
 そして男が、手持ちの駒札を残らず盆の上に乗せた時、それまで穏やかだった流れに急激な異変が起きた。


 それから瞬きするほどの短い間に、男の前には駒札の山が出来ていた。
 ここに現れた時には、せいぜい一分程度の駒札しか持っていなかったというのに、勝ち分はもはや十両をゆうに越えていた。
 周囲の客は皆昂奮していたが、代貸を始めとした賭場を仕切る一家の人間は、一様に渋い顔をしていた。
 一両やそこらの負けならば、仕方ないかと笑って済ませることもできる。
 だが十両を越える負け分を、二度とこの賭場に現れることのないであろう旅人に持っていかれたのでは、金銭面だけでなく、一家の名誉にとっても大変な損害である。
 何としても勝たねばならない。
 そこで代貸が持ちかけたのは、男とおせいの一対一の勝負だった。
 勝てば何事もなく収まるが、負ければこの小さな賭場の存続すら危うくなる、非常に危険な賭けだ。
 本来なら流れ者のおせいに勝負を預けたくはなかったが、一家には残念ながらおせいに匹敵する腕の壷振りがいない。
 それにこれまでの様子を見るに、おせいを信頼しても問題はないだろう。そう判断してのことだった。


 男は表情も変えず、ただおせいの顔を覗きこむようにじっと眺めていた。
 おせいも同じように、男の表情をじっくりと伺っている。
 長い沈黙の中で、周囲の客から生唾を飲む音がちらほらと聞こえる。
 視線を壷に落とし、再びゆっくりと目を上げたかと思うと、男はゆっくりと口を開いた。
「丁」
 一同の視線が男に集まる。
「半」
 返しておせい。
 客の目が一瞬おせいに集まり、そして壷へと向けられる。
 この若い渡世人は全てを失うのか。
 それとも、真っ当に働いては絶対に稼げないような大金を手にするのか。
 内にこもった熱気が、最高潮にまで高められてゆく。
「勝負……」
 そしておせいは、それまでと変わらぬ動作で壷に手を乗せ、そして手早く持ち上げた。


 

 東の山から昇った太陽が、砂利と石がうんざりするほど転がる街道を照らしていた。
 上州と信州を繋ぐ、ある峠道。
 その中腹に、長く伸びた影が一つ。
 シルエットから、影の主が渡世人であることが見てとれた。
 三度笠。
 道中合羽。
 振り分け荷物。
 腰に差した長脇差。
 そして、口にくわえた長い竹の楊枝。
 昨夜賭場で大勝負を行った、あの若い男だった。
 男は上州側から峠を登り、信州へと向かう最中だった。


 人を殺してお上から手配を受けている人間をことを「凶状持ち」という。
 凶状持ちの渡世人の、お上の追手から逃れるための逃亡の旅を「急ぎ旅」という。
「仔細あっての急ぎ旅、折角の楽しみも早々に切り上げなきゃなりやせん。ごめんなすって」
 銭箱から取り出された紙包みの小判の束を受け取り、それを懐にしまうと男は、足早に賭場を去っていった。
 四六の丁。
 開けた壷の中の賽の目が表していたのは、おせいの敗北、即ち男の勝利だった。
 賭けた駒札は倍返しとなり、文字通り山のように積み上げられた。
 二十五両三分と二朱。
 男は寺銭に三分二朱を置いていった。実質の勝ち分は、丁度二十五両である。
 これは大変な金額である。当時は十両あれば、一般庶民が一年間、何もしないで暮らせたという。
 そのような莫大な金を、縁もゆかりもない旅鴉に、たった一夜にして巻き上げられたのである。
 当然、金を手渡した代貸が、いい顔をするはずもなかった。


 やがてあと少しで峠を越えようかという所で、男の視線が一点で止まった。
 思わず足を止め、遠目に頂上を見やる。
 そこにいたのは女だった。
 それも若い女ではない、結構な年齢の年増女である。
 男のくわえた楊枝の先が、くるくると円を描く。
 自分の見間違いでなければ、あの女は……
 そう思うが早いか、男は早足で歩を進めていた。
 頂上に辿り着く。
 そこにいたのは、紛れもなく昨日の壷振りの女。おせいだった。
「おや……また会うとは、縁がありますね」
 おせいはそう言っていたが、別段その表情に驚いた様子はなかった。
 おそらくはここを通ることを見越して、男を待ち伏せていたのだろう。
「何か御用ですかい」
 男はおせいにそう問いかけた。
 かなりの速度でここまで来たはずだが、息はほとんど乱れていない。
 よほど旅馴れて足腰が強いと見えた。
「お前さん、渡世人じゃありませんね」
 出し抜けにおせいはそう言った。
 壷振りをしていた時の鉄火女のそれと比べて、まるで別人のように穏やかで品のいい、しかし意志の強さを感じさせる口調だった。
「何故、そんな事を仰られるんで」
「立居振舞いを見ていればわかります。お前さんのそれは、明らかに渡世人のものではありません」
「まだ駆け出しで、行儀がなっていないもので」
「駆け出しという言い訳は通用しませんよ。お前さん、とんでもない事をしでかしたものですね。」
「とんでもない事?」
「わかりませんか?」
「わかりやせん」
「その懐に入った、二十五両という大金のことですよ」
「これがどうかしなすったんで」
「本当の渡世人なら、それをそのまま受け取るような真似はしませんよ」
 そう言うとおせいは、峠の向こう、つい先ほど男の通ってきた道に目をやった。
 男も振り向いて、おせいの視線の先を見やる。
 そこにいたのは、渡世人の一団だった。
 皆、襷をかけて着物の裾を端折り、竹槍を持っている一人を除き、それぞれ腰に長脇差を差している。
 明らかな喧嘩支度だった。
 そしてその一団は、頂上にいる二人の姿を確認すると、飛ぶようにこちらへと駈けてきた。
 先頭に立っているのは、昨日の賭場を仕切っていた、地元の一家の代貸・佐太郎であった。


 

「賭場からこっち、おせいの姿が見えないと思ってたら、そうか……てめえらグルだったのか……」
 佐太郎は殺気剥き出しの表情で、溢れる怒りをゆっくり吐き出すようにそう呟いた。
 男はふっとおせいを見た。
 明らかにその身に危険が迫っているにも関わらず、おせいの表情はまるで変わっていなかった。
 この程度の場面にはとうの昔に馴れている。そういう事なのだろうか。
 女の身で、よほど凄まじい人生を送ってきたのかもしれない。
「それなら話が早いぜ。おう若いの。その懐の金、残らず置いていってもらうぜ。おせい、お前もだ」
 説得や交渉の余地はない。断れば殺す。佐太郎の顔は明らかにそう言っていた。
「お断りしやす」
「何だと!」
「この金は、博打に勝って稼いだ金でござんす。親分さん方に返さなきゃならねえいわれはござんせん」
「てめえ……」
 佐太郎は腰の長脇差を抜き払い、切っ先を男の鼻先に突きつけた。
「てめえは渡世の掟ってものを知らねえのか!いくら田舎の賭場だからって、勝ち逃げが許されると思ってんのか、このイカサマ野郎!」
 男は一瞬間を置いて、再びおせいを見やった。
 おせいが自分を「渡世人ではない」と言った理由に、今ようやく気付いたのである。
 だが今となっては、そんな事を考えても始まらない。
「さあ、さっさとこの場で有り金を残らずよこしがれ!」
 完全にいきり立つ佐太郎だったが、対照的に男は、何を考えているのか全くわからないほど無表情だった。
「それを嫌だと言うと……そっちの兄さんの鉄砲がズドン、というわけなんでござんすね」
 そう言って男は、佐太郎の後ろに控えている松造、嘉助、陣八、定吉の四人の子分衆の、更にその後ろを指差した。
 自分の連れてきた人間に、鉄砲を持った奴なんかいなかったはず。
 おかしいと思って後ろを振り向き、そして男の言った事がでたらめだと気付いた時には、もう遅かった。
 佐太郎の脇腹は背後から、男の長脇差の抜き打ちに割られてしまっていた。
 あっ、と一同が声をあげた瞬間、男の長脇差は、竹槍を持った嘉助の首筋に叩きこまれていた。
 鮮血があたりに飛び散る。
「こっ、この野郎!」
 ようやく状況を理解した残りの三人は、それぞれ長脇差を抜いて反撃の態勢に入ったが、その時には既に男は身を翻し、一直線に峠を駆け下っていた。
「待ちやがれっ!」
 定吉がそう叫んで男を追いかけると、残った二人もそれに続く。
 十間ほど走ったところで、いきなり男の足が止まった。
 そして背後を振り向き、足を開いて長脇差を構える。
 やばい、と思った時にはもう遅かった。
 つられて急激に止まろうとした定吉が、バランスを崩して転びかけた。
 男はそれを見逃さず、長脇差を横薙ぎに振るい、右の太腿を深々と断ち割った。
 だがその時、甲高い金属音と共に、異様な手応えが手に伝わってきた。
 握った長脇差に目をやる。
 長脇差が、鍔元から綺麗に折れてしまっていた。
 折れた刃先は、倒れて悶絶している定吉の大腿部にめりこんだままである。
 日本刀というものは、斬撃という刀身に負担のかかる使われ方をするため、それほど長くは持たない。
 よほどの名刀でも、二人も斬れば刃こぼれと血脂で十全に機能しなくなる。
 まして名も無い渡世人の使う、決して頑丈とは言えない長脇差。
 一人すら相手できずに使い物にならなくなることも決して珍しくなく、この場合、三人倒せただけでも十分過ぎる働きと言えた。
 だが、相手は全員で五人。まだ敵は二人残っている。
 脚から血を流してそこに倒れている、定吉の長脇差を無断拝借する余裕などない。
 残った二人は既に足を止めて間合いを伺い、再び長脇差を構え直している。
 その顔には、明らかに余裕の表情が浮かんでいた。
 それも当然のことだった。
 確かにこの男は強い。たった一人で、一家でも喧嘩自慢の五人を、あっと言う間に三人まで倒してのけたのだ。
 まともに斬りあっては、例え二対一でも勝ち目はないだろう。
 だが、相手が丸腰なら話は別だ。
 向こうに反撃の手段がない以上、少なくとも負けることはあり得ない。思い切って戦うことができる。
「……陣八、そいつは任せたぜ。俺はあっちだ。」
 男から見て奥側にいた松造が、たった今下ってきた坂道を再び駆け上り始めた。
 こいつの相手は陣八一人で十分だ。それよりおせいを逃がしてはならない。そう判断したのだろう。
 不意に男の口から、ひゅう、という風を切るような音が聞こえた。
 口から吐いた呼気が、楊枝を震わせたのである。
 この危機的状況にあっても、男は相変わらず無表情のままだった。
 命のやり取りに馴れていることもあるだろうが、おそらくは生来、あまり感情を表に出さない性格なのだろう。
 また、楊枝が震えた。
 陣八が長脇差を再度構え直した。
 柄を腰のあたりに据え、刀身を寝かせて切っ先を前に向け、前のめりの姿勢をとっている。
 突くつもりだ。相手が丸腰ならば、斬撃を用いずともそれで十分事足りる。
 むしろ刀身を痛めない分、この方が望ましい構えと言えた。
 そのままじりじりと間合いを詰めてゆく。
 決して幅の広いとは言えない峠道。
 男は峠の頂上の方向を向いたまま微動だにせず、ゆっくりとこちらに向かってくる陣八の顔を見据えていた。
 陣八の体が疾った。
「ぎゃあっ!」
 だが苦悶の悲鳴をあげたのは男ではなく、突っ込んでいったはずの陣八だった。
 だらだらと血をながしている額を掌で押さえ、苦痛に身をかがめている。
 陣八が踏み込んだ瞬間、男は、折れた自分の長脇差の柄を思いきり投げつけたのである。
 それが当たった際、鍔元に僅かに残っていた刃が、額を強烈に切り裂いたのだ。
 男の右手が、長脇差を握っている陣八の右手首を掴んだ。
 思いきり引き寄せて体を入れ替え、背後を取る。
 左手が、口元の楊枝を取った。
 次の瞬間、その楊枝は先端から、陣八の頚椎に深々と埋まっていた。
 関節の多い首の骨の隙間を縫って、その奥にある急所を確実にえぐる。それも、決して固いとは言えぬ長楊枝で。
 並ならぬ業であった。
 男が楊枝を引き抜くと、陣八は呻き声を発することすらなく、そのまま前のめりに倒れ、息絶えた。
 峠の頂上に目をやる。
 先程と同じように、全く表情を変えずにこちらの様子を伺っているおせい。
 かたや、たった一人残った松造は、顔色が紙のように白くなっていた。
 よもやここまで追い込まれるとは、予想だにしなかったに違いない。
 血に濡れた楊枝をその手に握ったまま、男はゆっくりとこちらに向かってくる。
 その時、鉄仮面のように無表情だったその顔に、一瞬ではあるが、ニヤリと笑みが浮かんだ。
 口にこそしないものの、その微笑の意味するものは明らかだった。
「ち、ちちっ、近づくんじゃねぇっ!」
 松造はおせいの背後に回ると、襟首を掴みあげ、首筋に長脇差の切先を突きつけた。
 ようやく頂上に戻ってきた男は、足を止めて松造の二の句を待った。
「こ、こいつの命が惜しかったら、てめえの懐の金、まとめてこっちによこしやがれ!」
 男は呆れたように一つ溜息をついた。
 そして二人の前を素っ気無く通りすぎる。
「お、おい……」
 戸惑う松造を尻目に、男は、うつ伏せに倒れている嘉助の屍の前に立った。
 腰を曲げ、嘉助の竹槍を手に取って、再び向き直る。
「一つ申し上げておきやすが……」
 男は槍の切先を松造に向け、一歩歩み寄った。
「勘違いしねえで下せえ。昨日の勝負は、姐さんがイカサマであっしに勝たせてくれてものじゃあござんせん。たまたま、馬鹿にツイてただけござんすよ」
「な……」
「あっしとその姐さんは、一切関わりがないって言ってるんでさあ」
 更にもう一歩、歩み寄る。
「よ、寄るなっ!」
「……悪いことは言いやせん。今日の所はお帰りになっておくんなさい」
「え……?」
「あっしも、これ以上の血を見たくはありやせん。もしここで帰ると言ってくださるなら、この二十五両、耳を揃えてお返しいたしやす」
 そう言うと男は、手にした竹槍を地面に突き立て、懐から昨晩貰い受けた切り餅を取り出して掲げて見せた。
「ほ、本当だな?本当に金を返してくれるんだな?」
「嘘は申しやせん。あっしが駈けだしの未熟者だったとはいえ、渡世の掟を破るような真似をして申し訳なかったと、兄さんの口から親分さんによろしく伝えてやっておくんなさい」
 神妙に頭を下げる。
 それを見て安心したのか、松造の表情は、明らかに安堵の色を浮かべていた。
 おせいに突きつけられていた切先は、既に地面を向いている。
 男に向かって手を伸ばす松造。
 だがその瞬間、
「うぐっ……」
 松造の口から苦悶の呻き声が漏れた。
 がっくりと地面に膝をつき、そのまま横になって倒れる。
 腹のあたりが、真っ赤な血に染まっていた。
 おせいを見る。
 その手には、血に濡れた懐剣が逆手に握られていた。
 いつの間に抜いたのか、全く気付かなかった。
 もしかすると、佐太郎達が追いついてきた時から既に、懐剣を抜いて隠し持っていたのかもしれない。
 男の左手から、ぺきん、と乾いた音がした。
 左手に隠し持っていた、陣八を仕留めた時の楊枝を、指でへし折ったのだ。


 

「お見事な腕前ですね。五人を相手にして、無傷で斬り抜けるなんて」

「姐さんには、借りを作っちまいやしたね」

「借りというほどのものでもないでしょう。貴方がやろうとしていたことを、代わりにしてのけただけです」

「……それで、あっしに一体何の御用で。用もないのに、こんな時間からこんな場所にずっといるってことはないでしょう」

「お前さんに、頼みたいことがございまして」

「頼み?」

「私を、京まで送っていただきたいんです」

「……京まで」

「京に、私の知り合いの髪結いがいましてね。それを頼っていこうと思いまして。お礼は弾みますよ」

「何でその頼みをあっしに」

「お前さんだから頼んでいるんですよ」

「あっしが道中、何かよくない了見でも起こしたら、いかがなさるおつもりで」

「そんなケチな下心を抱くようなら、そこまでの貫禄は身についていませんよ」

「買いかぶりでござんすよ」

「まだお若いのに、相当な修行を積まれたご様子。修羅場をくぐり抜けたことは、一度や二度ではないんでしょう」

「……………」

「特にあの、楊枝を首の急所に刺し込んだあの業。察するにお前さん、元は……」

「姐さん」

「……どの道、お前さんはもう、渡世人としては終りですよ。こんな騒ぎを起こした以上、街道筋の親分衆には残らず回状が回り、事によっては命を狙われることになるでしょう」

「仕方ありやせん。自分で蒔いた種でござんすから」

「かと言って渡世人をやめたところで、どうやって生きるおつもりです。何か深いわけがあって一つ所に留まれず、そして自分以外に頼る当てがなかったからこそ、お前さんはこうして旅鴉をしているんでしょう」

「仰る通りで」

「昨夜手にしたお金で、しばらくは暮らしていけるでしょう。でもそれも、決して長くは続きませんよ。そうなったらどうします」

「その時はその時……としか言いようがござんせんね。元々、明日も知れねえ命でござんすから」

「本当にいい度胸をしていますね、その歳で……みすみす死なせるのが惜しいぐらいに……」

「……………」

「……さっきも言った京の髪結いの知り合いは、顔の広いお方でしてね。お節介を焼くわけではありませんが、住む場所と何か適当な仕事ぐらいなら、何とかしてもらえるでしょう。いかがです?」

「一つだけ、聞かせておくんなさい」

「……何ですか?」

「姐さんにとってあっしは、昨日あそこの賭場でたまたま会っただけの、見ず知らずの他人でござんしょう。しかも、あっしと関わったせいで、命まで狙われる羽目になりやした。なのに、どうしてそこまで世話を焼いて下さるんで」

「……………」

「……………」

「死んだ息子に似ているから、でしょうね」

「……息子さんで」

「生きていれば、お前さんよりもいくつか年上なんですが……裏稼業に生きる人間に真っ当な最期など望めないことなど、とうの昔にわかっていたはずなのに、それをあの子が改めて、身をもって教えてくれるとは、皮肉なものですよ……」

「そうだったんですかい……」

「私のように骨の髄まで血の染みついた人間は、もうどう足掻いても足を洗うことなど出来ないでしょう。でも、お前さんは違います。まだ若い。遠く離れた土地で、人生をやり直すことも出来ます。償いだとか、世のため人のためとか言うつもりはありません。でもこれ以上、あの子と同じ末路を辿る人を見たくはないんですよ……」

「……………」

「……私を京まで、送ってくださいますね?」

「……………」

「……………」

「……………」

「……………」

「……わかりやした。お引き受けしやしょう」

 

 

 そういえば


 まだ


 名乗っておりやせんでしたね


 あっしの名前は


 市松


 と申しやす


 生国は江戸


 しがねえ竹細工師の


 倅でさあ

 

 

(終)






なんとも上手いねこれは
まさに『稼業と商売のあいだ』って感じ
私もこんな感じに『必殺』の二次創作やってみたいねぇ・・・

樫の木おじさん「やってみりゃあいいだろうが」

桜邪「そうですよ。『明日の無い俺達は無様に生き続けるしかないんですよ』って半兵衛さんも言ってたじゃないですか」

しかし『必殺必中仕事屋稼業』と『仕置屋稼業』と『商売人』知らないと分からんネタだねこりゃ
最期の市松とおせいの掛け合いは、政吉の最期を思い出したから涙腺が緩みそうになったよ・・・

樫の木おじさん「お前の書く話じゃ百年かかっても無理な現象だな」

五月蝿い。しかしブランクあるのに腕が落ちてないから羨ましいなぁ

桜邪「最後の掛け合いが本当に心に染みる良い小説ですよコレは」



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