雪が降っていた。
重く湿った空から、真白な雪がゆらゆらと舞い降りていた。
冷たく澄んだ空気に、湿った木のベンチ。

「・・・・・・」

俺はベンチに深く沈めた体を起こして、もう一度居住まいを正した。
屋根の上が雪で覆われた駅の出入り口は、今もまばらに人を吐き出していた。
白いため息をつきながら、駅前の広場に設置された街灯の時計を見ると、時刻は3時。
まだまだ昼前だが、分厚い雲に覆われてその向こうの太陽は見えない。

「・・・・・・遅い」

再び椅子にもたれかかるように空を見上げて、一言だけ言葉を吐き出す。
視界が一瞬白いもやに覆われて、そしてすぐに北風に流されて行く。
体を突き刺すような冬の風。
そして、絶えることなく降り続ける雪。
心なしか、空を覆う白い粒の密度が増したような気がする。
もう一度ため息交じりに見上げた空。
その視界を、ゆっくりと何かが遮る。

・・・あれ?
一体『』が視界を遮ったんだ?
一瞬、頭にもやがかかったかのように記憶が混乱する
が、すぐに気のせいだったと思い直し
呆けたように目の前の景色を眺め続けるのを再開した

「誰かを待っているのかね?」

突然、声をかけられる
隣かららしいが、俺はその気配に今まで全く気付かなかった
こういう場合、普段なら声の一つもあげるぐらい驚くのだろうが
今はそれどころではない、あぁ、人がいたのか、ぐらいにしか思えない

「・・・・・・・・・・・・・・・えぇ」

少し失礼な返答な気もしないでも無いが
正直、まともに受け答えできる余裕は無い
おざなりな返事で適当に受け流す事が精一杯だ

「見たところ随分と辛そうな様子だが・・・」

ほっとけ

心の中でそうつぶやいた

「辛ければ帰った方が良いんじゃ無いのかね?」

「・・・出来ればそうしたいんですけどね・・・」

俺はそう言って言葉を一旦区切り、苦笑した
もやがかかったような状態だった意識が
次第に覚醒してきたので、俺は暇つぶしも兼ねて
隣の人・・・この渋めの低い声から察するに、30〜40の中年男性だろう
彼の話に少し付き合う事にした

そして、俺は視線を目の前の景色に向けたまま
ベンチの隣に座っているであろう男に先ほどの言葉の続きを言った

「実は俺、家の都合で今日からこっちで暮らす事になったんですよ
それで従姉妹に迎えに来てもらう事になってるんですけど
1時に待ち合わせのはずなのに、まだ来ないんですよ・・・」

普段はこんなにペラペラと自分の身の上を語ったりはしないのだが
何故か俺はまだ顔すら見た事も無い男に、親しみのようなものを感じた
上手く言う事は出来ないのだが、教会で牧師に懺悔をするように
話していると、心のつかえが取れるような、そんな温かみを感じるのだ
そして俺はそのまま調子に乗って前の町での事や、7年前の記憶が無い事など
赤の他人にとっては、聞いても意味の無い事まで話していた

「・・・それで、俺が昔よく遊びに来てたらしいこの町の
叔母のところに預けられる事になったんですよ・・・」

長話を終えて、俺はふぅ、と一息ついた
そこで、俺はとある事に気付いた

{・・・ヤバイ、さっきから俺一人で喋りっぱなしだよ・・・}

さすがに自分から話し掛けたといっても
初対面の人間にここまで長々と語られては
どう繋げればいいのか、判断に困ってしまうだろう

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

二人とも無言のままただ時間だけが過ぎていく
その間、俺は心の中で必死に叫びつづけていた

何か喋ってくれよ、と

気まずいったらありゃしない
とてもじゃないが、俺からまた話を切り出したり
相手の方に視線をやれるような雰囲気ではない
かといって、このまま何時来るかも分からない名雪を待つのは
精神的な拷問と呼んでも差し支えないだろう
俺は何とか打開策を打ち出そうと、必死に考えを巡らせた
しかし、こんな失敗は生まれて初めてなので、対処法が見つからない
ただ後悔ばかりが押し寄せて、まともな考えすら浮かばない状態だ

「・・・and the king's men・・・」

「・・・え?」

ふと気付くと、隣の男は何やらぶつぶつと呟いていた
見るに見かねて何か俺に話題でもふってくれたのだろうか?
正直、助かったと思い、俺は一瞬ガッツポーズでもしようかと考えた

しかし、そんな考えも、ほんの『一瞬』であった
息苦しい空気からの開放感は、全て『不快感』へと代わった

「♪Humpty Dampty sat on a wall.
Humpty Dampty had a great fall
・・・」

彼は『呟いて』いたのでは無かった
小さな声で『歌って』いたのだ
そして、この歌の題名は・・・

「・・・あの・・・ちょっといいですか?」

少々トゲを含んだ口調で俺は彼の独唱を制する
すると、彼はぴたりと歌うのを止めた

「いや、歌うなってんじゃあ無いんですよ・・・
ただ、その歌は止めてもらえませんか?
フォークでガラス引っかく音より嫌いなんですよ、その歌・・・」

そして、すみませんね、と一言つけ足して
俺はそのまま黙り込んでしまう
気まずい空気がまた辺りを包み込むが
あの歌を聴かされ続けるよりははるかにマシだ
そして、俺は上半身を前傾させ、両ひざの上に両ひじを置き
手を組み、その上にあごを乗せ、視線を足元に落として
先ほどまでよりも遥かに重くなってしまったこの空気を
どうやったら少しでも軽く出来るか、という事をかなり必死に思案し始めた

「♪All the king's horses and all the king's men・・・」

先ほどと同じ歌が聞こえる
俺の声にあからさまな『不快感』が篭る

「その歌は止めてくれって言いませんでしたっけ?」

しかし

「♪Couldn't put Humpty together again・・・」

「止めろって言ってるだろッ!!」

彼は歌を止める事は無かった
それどころか、ますます声のトーンが上がった気さえする
ついに俺は激昂し、今の姿勢を崩さないまま、声を張り上げて叫ぶ

「だから、嫌ならば・・・
辛ければ帰った方が良いんじゃ無いのかね?」

「だから出来りゃあ帰ってるんだよッ!」

組んだ両手に力を入れて叫ぶ
殴りかかりたい衝動を必死に抑えこんでいるのだ
だが、そんな俺の、今にも心の奥から右拳に噴出しそうな怒りも
次の彼の予想外の一言でどこかに吹き飛ばされてしまった

「違う違う、その叔母とやらの家では無くて・・・
君の前の町に帰った方が良い、という意味だよ・・・」

言葉を区切り
声の調子を変えて続ける

「『相沢祐一』君?」

俺は、はっと正気を取り戻し
そして、ある事に気が付いた
俺は、さっき散々自分の身の上について語ったが
最後まで、自分の名前だけは言ってはいなかったのだ

「あんた!何で俺の名前・・・を・・・?」

俺が問い詰めようとベンチから立ち上がり
彼の座っていたであろう場所を向くと
そこには、俺が会話をしていたはずの中年男性など存在しなかった
ただ、そこには・・・

「・・・何だよ、コレ・・・?
・・・・・・『卵』・・・か・・・?」

彼の居たであろう場所には
何の変哲も無い、そう、ただの卵があった
俺はそれを拾い上げてそれを観察するが
別段変わった様子も見受けられない、本当にタダの卵が?

「どうなってんだ・・・?」

幽霊にでもであったのか?
それとも俺は寒さで幻聴を聞いていただけなのか?
何を考えても、確かな答えだと確信する事は出来なかった
ただ、俺に出来る事はただ呆然と卵を見つめる事だけだった

ピシッ!

「なっ!!?」

卵にヒビが入った
俺は手に力を込めてはいない
卵に独りでにヒビが入ったのだ

「一体何がどうなってるんだよッ!!」

この時の俺には何も分からなかった
この卵の殻が割れた時、それまでの人生で
当たり前のように信じていた常識もまた同じように砕け散り
今までとは全く違う人生が始まろうとしている事も
この時の俺には何も分からなかった





KANONの奇妙な冒険〜第1部〜
『始まりの白銀』


第1話『白からの始まり』


to be continued