夏休み――牛丼と妖精と戦争と――
水銀党
[序章――覚醒]
八月の下旬には珍しい、雲一つ無い良く晴れた夜だった。
月と星が発する微かな光以外照らすものの無い黒々とした太平洋の上空を、C‐17は鈍いエンジン音を響かせながら、北西に向けて飛び続けていた。
グローブマスターVの制式愛称で知られる、米国空軍の大型長距離輸送機である。
攻撃ヘリ三機、兵員なら百名以上を同時に輸送できるという広大な貨物室にはしかし、本来の用途とは異なり、降下作戦用の空挺部隊も支援火器の姿も無い。
代わりにそこを埋め尽くしていたのは、所狭しと並べられた無数の機械類だった。
最新鋭の電子機器がクリスマスツリーのように明滅を繰り返し、巨大な冷却装置に備え付けられた発電機が低いうなりを上げている。
一見すると医療用設備にも見える、それはまるで急ごしらえの研究所だった。
片時も目を離さずにモニターを睨んでいる白衣姿の何人かの男たちの一人に、操縦室から歩いてきた若い将校が踵を合わせ敬礼した。
「ベジュリフ少佐殿、機長より伝言です。現在本機は予定された航路を順調に飛行中。後約二時間ほどでヨコタ基地に到着します」
「ご苦労、大尉」
軍服の上から白衣を着た中年の将校は、満足そうにうなずくと他の部下たちの方を振り返った。
「聞いたな諸君!ディエゴガルシアからの長旅ももうすぐ終わりだ。日本に着いたらスシもゲイシャも食い放題だぞ!」
上官の下世話な冗談に普段は辟易としている兵士たちからも、この時ばかりは歓声が上がった。モニターを監視している技術者の多くはこれまでほとんど一睡もしておらず、目には隈ができていた。
「いよいよですな」
大尉は少佐の横に並んで立つと、感慨深げにいった。
「ああ。最初に任務を聞かされた時はこんな得体の知れないものの運び屋なんぞまっぴらだと思ったが、こうしていざランドルフ隊に引き渡す段になると、連中にあっさりくれてやるのが惜しくなるから不思議なもんだ」
ベジュリフ少佐は立ち上がると、ゆっくりとした足取りで並んだ電子機器の奥へと進んだ。大尉が後に続く。
貨物室の中に設置された全ての機械、そこから這い出たケーブルはどれもみな、中央に置かれた一つの物体に接続されていた。
長さ二メートルほどの、円筒形の水槽。
水槽は本来透明だったが、発せられる強い冷気で外側が完全に凍り付き、中を見ることはできなくなっている。
この水槽の輸送を支援するために、現在インド洋から極東方面にかけて展開する全米軍が密かに緊急警戒態勢に入っていることを思いだし、少佐は思わず身震いした。
「旧KGBの流出資料、最初に読まされた時には自分にも信じられませんでした」
大尉が横で呟くようにいう。
「まさか実在していようとは」
「・・・・・・神話の全てが作り話というわけではなかった、ということか」
少佐は肩をすくめて苦笑した。
「軍に入って、シュリーマン精神を学ぶとは思わなかったな」
「しかし、こんな代物を英国軍は四十年間もただ隠して眠らせていたとは、とんだ宝の持ち腐れでしたな」
水槽を見下ろして、大尉は嘲笑した。少佐も同様の笑みを浮かべる。
「骨董品はただコレクションにしてしまいこんでおけば値打ちが上がると思っている、女王様の軍隊の悪い癖だ。過ぎ去った大英帝国時代を懐かしがり過ぎて、頭にまでカビが生えているんだろう。老いとは恐ろしい、これだから」
そこまで言って、少佐は笑うのを止めた。
「我々が手にすればコイツは、核をも超越する戦略兵器となる。そうすれば――」
水槽を見る少佐の眼差しは、巣に持ち帰った獲物を吟味する猛禽のそれに近かった。
「我が合衆国の軍事的優位は、今後千年は動くまい」
本来なら職業軍人としての見識を疑うようなその発言にも、大尉は少しも驚いたそぶりは見せない。少佐が言っていることは少しも荒唐無稽ではなく、むしろ控えめな予測だと大尉は思った。それを述べようと口を開きかけた時。
電子機器から突如けたたましい警告音が鳴り響いた。
「何事だ!」
大尉が声を張り上げ、少佐が慌てて振り返る。
モニターを監視していた白衣の技術者たちが、上ずった声を上げた。
「対象の体温が急速に上昇中!脳波も安定しません!」
「心拍数が上がっています!仮死状態が維持できません!」
少佐はモニターまで駆け寄ると、部下たちに矢継ぎ早に指示を出した。
「活性化させるな!フェイズ3までの干渉波形を打ち込んで、元の数値まで引き戻せ!酸素供給はゼロにして構わん!冷却システムもフル稼働だ!」
ほとんど悲鳴に近い少佐の命令に、技術者たちのキーボードを必死にたたく音が重なる。しかし状況は彼らの懸命の努力をはるかに上回る速度で悪化していた。あらゆるモニターが絶望的な数字を表示し、計器が次々と火花を散らしてシステムダウンしていく。
「駄目です、干渉派相殺されました!」
「冷却システム融解しています!こっ、このままでは防護槽が保ちません!」
部下たちの叫び声を聞きながらベジュリフ少佐は何もできず、ただ呆然と立ち尽くしていた。凍り付いていた水槽の表面は瞬く間に氷がすっかり融け、澄んだ青色だった中の溶液は赤く灼熱している。
その中で、何かが動いた。少佐は息をのんだ。
もはや何も視界を遮るものの無くなった透明な水槽の中に見える『それ』はとても美しく、そして――身の毛のよだつほど、恐ろしかった。
理性では無く、本能が告げていた。自分たちが、決して侵してはならないものに足を踏み入れてしまっていたのだ、ということを。
「まさか・・・・・・こんなところで、覚醒するだと?」
そう口にするのがやっとだった。
直後、水槽から発せられた眩い閃光が彼らを襲った。
「脱出しろ――」
大尉が叫んだが、その声は途中でかき消された。
猛烈な衝撃。膨れ上がる炎。彼らが感じることができたのは、そこまでだった。
高度九千メートルの空中で、グローブマスターは爆発した。ちぎれ飛んだ胴体が、翼が、その他の部品がばらばらに四散し、燃えながら海へと落下していく。
その爆発の炎の中から、突如として光り輝く物体が飛び出した。引力に逆らって舞い上がると、空中を旋回する。まるで墜ちていった輸送機に、哀悼の意を捧げるかのように。
やがて『それ』は、空中の一点に静止した。
内蔵されたセンサーが、周囲全方位にわたる走査を開始する。
不完全な状態で覚醒してしまったため、エネルギーの残量が充分でなかった。
このままではいずれ、重要な機能のいくつかが停止、あるいは本来の能力を維持できなくなるだろう。こうしてただ滞空しているだけで、相当なエネルギーを消費している。
エネルギー切れで活動停止する前に、着陸可能で安全な場所を見つけなければならなかった。
やがて航続距離圏内にあるいくつかの着陸候補地がリストアップされた。予想されるあらゆる可能性を考慮して、瞬時に演算を行う。
複雑な地形、脅威の有無、擬態すれば容易に潜伏できるだけの人口密集度――。
『それ』は素早く最良の選択肢を見つけ出した。目的地に向け、驚異的なスピードで飛んで行く。知らない者が見れば、夜空を駆けるその姿は流星のように見えただろう。
その先には、総人口三千万を超えるといわれる東洋有数の巨大都市圏が広がっていた。
[1――天使]
「諸君、私は宿題が嫌いだ。諸君、私は宿題が嫌いだ。諸君、私は宿題が大嫌いだ」
二十歳大学生独身の相川弘一はシャープペンシルを放り出すと、パルプンテを唱えるかのごとく天を仰いで叫んだ。
しかし、何も起こらなかった。
都心から電車で三十分ほどのところにある、神奈川県羽柴市の住宅街の外れ。
築三十年木造アパートの一室に、へたくそでなおかつ投げやりな物真似が虚しく木霊する。一人暮らしの大学生が自室で何をどうボケたところで、誰かのツッコミなどあるはずもない。ちなみについこの間まで弘一が部屋で何か大きな音を立てるたびにご丁寧に毎回『うるせえぞ!』と壁をドンドン叩いて即レスしてくれていたお隣りの住人は、大家と喧嘩したらしく残念ながら先週別のアパートに引っ越してしまった。
「・・・・・・まあ諸君も何も、俺しかいないし。つーかこれじゃ俺まるで危ない人みたいじゃん・・・・・・」
東京の大学に進学し、東北の実家からこの街に出てきて一人暮しを始めて一年半。最近どうも独り言を言う回数が増えてきたような気がする。
そしてとうとう一人ボケ一人ツッコミ。気分転換どころか、返ってさらに鬱になった。
頭を現実に引き戻す。
目の前の勉強机にうずたかく積み上げられているものは、必修科目の教授たちがレポートの課題に指定した分厚い書物、語学の授業で夏休み明けに行われる実力テストの範囲になる単語帳、一般教養で履修した自然科学の自由課題で楽そうだからと選択し、結局今日に至るまで白紙の五十日分のお天気ノート・・・・・・エトセトラ、エトセトラ。
一言で要約してしまうなら『夏休みの宿題』に分類されるものの山。その高さは、横に置かれたパソコンのモニターをはるかに上回る。
そして壁のカレンダーに赤ペンで丸印をされた、秋学期の授業開始日は九月二十六日。これでも他の大学よりは相当長いと羨ましがられるが、それとて無尽蔵ではない。
今はもう八月の下旬。夏休みも、後半分で終わってしまう。
大学に入れば宿題などというものからは解放されると、昔誰かが言っていたことを思い出す。大嘘もいいところだが、今更そんなことを責める気にもならなかった。
課題など大した事は無いとたかをくくって何もかも後回しにしてきたのは、他ならぬ自分なのだ。
七月の終わりから今日まで、好き放題のことをして楽しく過ごしてきた。サークルの合宿で同級生のガンダムオタクから『一週間戦争』という言葉を聞いて、戦争だって一週間でできるのだから、大学の課題なんか余裕だと豪語したのも今となっては遠い記憶だ。ちなみに後で聞いた話ではその『一週間戦争』とは、一年間続いた戦争の最初の一週間を指す言葉だそうだ。あの時あのガンオタの言うことを、もっとちゃんと聞いておくんだった。
そして今目の前には、本来は夏休み二ヶ月分の宿題の山。
とても終わりそうに無い。
ならばここは誰かに協力を要請して――途中まで出かかった考えを、弘一は心の中で呑み込んだ。
弘一がこんな時に頼れる友人は一人しか思い浮かばなかったし、その友人を頼るという選択肢をこんなことで使うのは、弘一にはどうしてもできなかった。
弘一にもプライドというものがある。宿題ぐらい自分の責任で何とかしたい。何についてもいい加減な弘一だが、こういったことにだけは頑固だった。
(あ〜あ、やっぱやるしかねえのか・・・・・・)
悲壮感を覚えながら一度は放り投げたシャーペンを拾おうとすると、今度は盛大に腹が鳴った。
そういえば朝からこのことで頭がいっぱいで、ろくなものを食べていない。
何はともあれ、まずは食事にしよう。強引にそう決意し、弘一は立ち上がった。
席を立ったついでにテレビをつける。NHKでは、九時のニュースをやっていた。
『今日からワシントンで行われている日米局長級協議で、日本側は米国産牛肉の輸入再開には全頭検査による安全確認が必要との政府の基本方針を、改めて示しました。これに対し米国側はあくまで現体制での早期輸入再開を強く要請した模様で、両国間の議論が平行線を辿る事が懸念されています。米国政府の一連の強硬姿勢の背景には、先週食肉貿易問題での日本への制裁措置を定めた法案が下院で可決されるなど、この件での議会からの圧力が勢いを増していることがあり、』
今朝コンビニで買っておいた牛丼をレンジに入れながら、タイムリーな話題だなとぼんやりと思う。とりたててポリシーの無い弘一には、食えれば別にどこの肉だろうと構わないのだが。
『――次のニュースをお伝えします。今夜午後七時頃、三浦半島沖を操業中の漁船乗組員から、南東の海上で大きな航空機の破片らしきものが炎上しながら落下していくのを見たとの情報が寄せられていたことを、海上保安庁が発表しました。これまで民間の航空会社で行方がわからなくなっている機体が無いことから、海上保安庁では自衛隊などに該当する機体は無いか確認を急ぐ一方、巡視船を現場海域に向かわせるなどして、捜索活動にあたっています』
一分半でレンジから牛丼を取り出して台所のテーブルにつくのとほとんど同時に、床に転がった弘一の携帯がメールの着信音を奏でた。
拾い上げてメールを開く。
メールの送信者名は――杉崎恵。
弘一の語学クラスのクラスメートであり、同時に人付き合いの苦手な弘一にとってこの大学に入ってから新しくできた、数少ない友人の一人である。
彼女からのメールの文面は、いつものようにいたって簡潔だった。
『来週の水曜、涼子と美鈴ちゃんと一緒に久しぶりにカラオケ行こうと思うんだけど、もし暇ならあんたも来ない?』
来週の水曜といえば、八月の末日だ。
夏の終わりの夜をごく親しい友人たちとの楽しい思い出で飾ろうという、杉崎らしい風流な思い付きだった。
素晴らしい提案だ。是非とも参加したい。
だが――弘一の視線の向こうには、勉強机の上に山積みになった宿題の山。
遊んでいる余裕など、本来は無いのだ。
(・・・・・・悪魔の誘惑か、これは?)
弘一は思わず頭を抱えたくなった。
この緊急時だ、普通の誘いなら、即断っているだろう。
だが弘一にとってこの誘いは、安易な気持ちで返答することが躊躇われるものだった。
弘一の大学の中で、杉崎恵という学生はちょっとした有名人である。
現役モデルも顔負けの容姿で、家柄も良く、その上頭脳明晰。
その卓越した優秀さから、まだ二年生だというのに、大手学生団体の代表を務めている。
彼女が書いた講義ノートのコピーは、試験が近付けば闇市場で一部5千円近い値が付くという。学内の様々なコンクールで表彰されたことは一度や二度では無く、大学の運営方針について学長から直々に助言を求められることさえあるとのもっぱらの噂だ。
だが杉崎恵の本当の魅力は、こうした輝かしい肩書きよりむしろ、そういった諸々のことで偉そうな態度をとって他の学生を見下したり、変にすましたりしないところにある。
いつも気さくで明るく、誰に対してもわけ隔てなく接する彼女は、クラスではムードメーカー的な存在だ。困っている子が近くにいれば手助けのために力を惜しまないし、忙しいはずなのにクラスの飲み会などではいつも幹事を引き受けて、皆が楽しめるよう気を配っている。その一方で言うべきときには躊躇せずにはっきりと自分の意見を言う。だから杉崎恵には人気があった。男子は勿論、女子の間でも人望が厚いことが、彼女がただのアイドルでは無いことを証明している。
ただそうは言っても、昔から人と付き合う努力をあまりせずどちらかといえば一人の方が気楽だと考えがちな弘一にとっては、本来なら縁遠い人種であることに変わりは無い。
そんな弘一が杉崎恵と親しくなったそもそものきっかけは、一年の最初のクラスコンパで、偶然席が隣同士になったという、実に他愛も無いものだった。
その後教室で会った時にどちらからともなく挨拶を交わすようになり、いつの間にか自然な会話ができるようになり、段々と距離が狭まっていって、気がついたら互いに親友と認め合う関係になっていた。
大切なのは今、が信条の弘一は成り行きについて特に深く考えたことは無いし昔のことなどあまり良くは覚えていないが、それでもちょっと考えてみると、今自分が杉崎恵と交友関係にあるのはすごいことだと思う。弘一は元来クラスの人気者的な人間があまり好きでは無い。そういった人間には大抵性格に裏表があるので、あまり関わり合いにはなりたくないのだ。杉崎のことも、もしこうして深く知り合う機会が無かったら、他のそういった類の人間と同様に八方美人の嫌な奴だと敬遠してしまっていただろう。
だが今の弘一にとって杉崎恵とは、少なくとも単なるクラスメート以上の存在だった。そして杉崎恵もまた自分のことを、彼女の幅広い交友関係の中にいる数百人の友人達とは違う特別な友人として扱ってくれていることを、弘一は口には出さないが心の中で理解していた。
メールに記されていた杉崎恵の二人の友人――秋月涼子と小野寺美鈴――も、杉崎が一年生の頃、あるいはそれ以前から特に仲良くしている旧友たちだ。
例え色々な仕事でどんなに多忙な時でも、涼子、美鈴、それに弘一と過ごす時間を、杉崎がどんなに大切にしているか、弘一はわかっているつもりだった。
もしここで弘一が誘いを断っても、杉崎は恐らく何も言わないだろう。だが彼女の気持ちを知っているのに、それを無下にしてしまうのはどうしても気が引けた。
結局弘一は、誘いに乗ることにした。
「『了解だ。集合の時間と場所を教えてくれ』、と・・・・・・」
携帯を買ったばかりの頃は難しかった親指だけでメールを打つという作業も、杉崎に教わって最近ではだいぶ手慣れてきた。もっともメールアドレスを登録している知人友人は、杉崎を始めまだ数人しかいなかったが。
「あーあ、にしても宿題どうしよう。妖精さんでもやってきて俺の代わりに宿題やってくれないかなあ・・・・・・」
駄目人間の典型のような独り言をぶつぶつ呟きながらも、メールを打つ手は休めない。
弘一が異変に気付いたのは、文章を書き終わり送信ボタンを押そうとした時だった。
(――あれ?)
携帯の小さな液晶画面、その隅にある電波状態の表示が、圏外になっている。
「・・・・・・はあ?ありえねえだろ」
何かの間違いだろうと思って、そのまま送信ボタンを押す。
〈メールが送信できません〉
地下やトンネルの中でメールを送ろうとした時によく出るメッセージだが、ここで目にするのは初めてだ。弘一は首をひねった。
弘一が住んでいる部屋はアパートの一階だ。確かに電波状態が素晴らしく良好とはいえないが、それとて電話で相手の声がたまに聞き取りにくくなる程度で、メールのやり取りには全く支障は無いはずだ。現にこれまでに圏外になったことなど一度たりとも無い。
しかも、異変が生じたのは携帯だけでは無かった。
ニュースの後バラエティー番組の予告を流していたテレビの音が次第にノイズ混じりになり、画面には砂嵐が生じている。
「おいおい、一体どうなってんだよ・・・・・・」
驚いた弘一が見ている前で、テレビはとうとう何も映らなくなった。
「くそっ大家め、嫌がらせで屋上にECMでも設置しやがったのか?」
異常の原因はわからないが、どうやら携帯が壊れたわけではなく、この部屋全体に電波が届かなくなってしまっているようだ。
理由が何であれ、返信が遅れると、杉崎が心配する。弘一は仕方なく携帯を持って立ち上がると、玄関の扉を開けて共同廊下に出た。
携帯の画面を見る。まだ圏外だ。
諦めずに共同廊下を歩き狭い中庭を抜けて、アパートの外まで出てみる。
画面の表示は――なおも圏外。
弘一は携帯を凝視したまま立ち尽くした。
屋内でならまだ説明もつきそうなものだが、さすがにここまでくると本格的に異常だ。
さっき軽い冗談で電子妨害かと言ったが、真面目な話本当に誰かがこの辺り一帯にジャミングでもかけているとしか思えない。
途方に暮れて、弘一は思わず空を仰いだ。
そして次の瞬間、さらなる異変に仰天する。
(・・・・・・何だ、あれ?)
何気なく見上げた、ただそれだけだったはずの夜空。
最初に感じたのは、眩しい光だった。
弘一の直上。
通常の夜空とは別に、光る何かがそこにあった。
ここは街外れの裏通りで街灯が少なく、晴れた夜は星が見える。だが弘一が今見ているものは、天空の星よりもはるかに大きく、強い光を放っている。
そして、次第に、しかし確実にその何かは、弘一の視界の中で大きくなっている。
(落下してくる・・・・・・?)
いや、違う。
引力の法則に従って落ちてくるなら、もっと早い。『それ』は空中を漂いながら、ゆっくりと高度を下げているのだ――こちらへ。
何の音もしない。恐らく航空機の類ではない。地上まで、もうかなり近付いている。
弘一は目を凝らし、そして――『それ』を視認した。
弘一は、言葉を失った。
自ら光を放ち、引力に逆らって空中を浮遊している『それ』は、明らかにヒトの形をしていた。いや、ヒトのような形と表現するべきだろうか。こんな超常現象を可能にする存在が、人間であるはずが無いのだから。
だが、弘一が何よりも驚いていたのは、そういった細かいことでは無かった。
本当はありえないはずの現象の全てをどうでもよく感じさせるほどに、『それ』は美しくて、神秘的だった。
さらに高度が下がる。今やはっきりと見えるようになった『それ』はヒト、厳密には女性の姿をしていた。
光と同化し、燦然と輝く金髪。透き通るような白い肌。
まるで舞い降りる天使のようだなと、思考の片隅でそう思った。
実際にその光景は、多くの人間が信じたいと願い、存在を望み、しかし本当は信じていないものの存在でしか、説明することは不可能ではないのだろうか。
どれくらいの時間、そんなことを考えていたのだろう。数秒間が、永遠に感じられた。
不意に、『それ』を纏っていた光が途絶えた。
同時に、それまで空中にゆっくりと浮いていたのが急速に落下を始める。あたかも唐突に引力の存在を思い出したかのように。
弘一の中で、止まっていた時計の針が動き出す。
無意識に、身体が動いていた。
落下予想地点に駆け付け、精一杯両手を伸ばし、何とか無事に抱き止める。
衝撃とともに腕に伝わってきたのは、女神でも天使でも宇宙人でもなく、普通の人間一人分の重さ。
その感触が、弘一の意識を正常な世界へと引き戻した。
「しっかりしろ!大丈夫か?」
乱暴にならないように注意しながら、肩を揺すって耳元で声をかける。
つい先ほどまで繰り広げられていた超常現象のことは、もうすっかり頭から消えていた。
今弘一の腕の中にいるのは、気を失っている外国人の少女だ。
日本人でないので判別は難しいが、顔つきや背の高さからして、年齢は弘一と同じぐらいか、それより少し下か。
目を閉じていて動かないが、すう、すう、と規則正しい呼吸音が聞こえ、白い胸がゆっくりと上下している。身体機能に異常は無いようだ。
(・・・・・・胸?)
その時になって、弘一は初めて気付いた。腕の中の少女は、身に何も纏っていなかった。
「う、うわっ!」
思わず叫んでしまった。
そういえば歳の近い異性の裸を生で見るのは、これが初めてだ。鏡で見れば、多分今自
分の顔は真っ赤になっているに違いない。
どうしたらいいのかわからず弘一があたふたしていると、眠っていた少女の目が、不意
にうっすらと開いた。
「あ――」
硬直した弘一の顔を、澄んだ湖水のような蒼い瞳が映す。美しいが、どこか色濃い疲労を感じさせる瞳だった。続いて、ゆっくりと口を開く。
「ポーテ・・・・・・」
「・・・・・・え?何だって?」
「・・・・・・ポーテ・・・・・・スィーメラ・・・・・・プイーネ・・・・・・・・・」
少女が紡ぐ声は途切れ途切れで、ひどくかすれていた。だがもし少女の声が明瞭だったとしても、その意味は弘一には理解できなかっただろう。彼女の母国語なのだろうか、容姿からして外国人なので日本語が喋れるとは流石に思っていなかったが、それは弘一の全く知らない言語だった。もっとも大学で習っている英語とフランス語以外の国の言葉などまるで知らない弘一の知識など、もとよりあてにはならないが。
弘一は途方に暮れる。――と、それまでどこか焦点の合っていなかった少女の目が、初めて弘一を捉えた。
無表情だった少女の顔に、微かな微笑みが浮かぶ。
「・・・・・・エフハリストー・・・・・・」
ありがとう、助けてくれて。
瞬間、弘一の頭の中で、そんな言葉が響いたような気がした。少女の喋っていることは相変わらずわからないはずなのに、何故か少女がそう言ったように、弘一には感じられた。
その言葉を呟き終わると同時に、少女は再び意識を失った。疲れているのに無理して喋ったせいかもしれない。少女が安らかな寝息を立てているのを見て、弘一は少し安心した。
だが、問題は何も改善していなかった。
今自分がおかれている状況を、客観的に整理して考えてみる。
人通りの無い暗い夜道で、気を失った全裸の外国人女性を抱きかかえている怪しげな男。それを見た第三者が何を思うかは、鈍感な弘一でも容易に想像がついた。
「やばい。このシチュエーションはやば過ぎる・・・・・・」
ここまできたのは完全な不可抗力の連続だったが、他人にそれを話して信用してもらえ
るとは思えなかった。とにかくこの危機を打開しなければならない。
こういうときまず最初に思い浮かぶのは警察だが、警察に行くのは避けたかった。
弘一が体験したことを正直に警察に説明したとして、彼らがそれを信じてくれるとは思えない。頭のおかしくなった性犯罪者が自首しに来たとでも思うだろう。ならばもっともらしい嘘をついてごまかすか?いや、相手は人の嘘を見破るプロだ。嘘をつくのが下手な弘一に、警察の厳しい事情聴取をごまかせるはずもない。どちらにせよ、家には帰してもらえそうになかった。
とはいえ、ここまできて今更少女を置き去りにして逃げることなどできない。
「ああ・・・・・・何で俺がこんな目に・・・・・・」
己の不幸を嘆きながら、それこそ犯罪者のような気分で辺りをきょろきょろと見まわす。
人通りが少ない道とはいえ、今まで誰にも見られていないのは奇跡だった。
もう迷っている場合ではない。
弘一は眠っている少女を抱え直すと、一目散にアパートの自室へと駆けていった。
部屋に戻り、少女の身体をベッドに横たえると、新しい毛布を出してきて上から被せる。
携帯を見ると、いつのまにか圏外表示は消えていた。
弘一は急いで電話帳を開くと、さ行を選択する。
こんな時に頼れる友人は、やはり一人しか思い浮かばなかった。
[2――地上の星]
その電話がかかってきた時、杉崎恵は自宅で飼っているハムスターに餌をやっているところだった。
神奈川県横浜市の中心街に立つ瀟洒なマンションの高層階。室内に置かれた家具はどれも機能的で女性の居室にしては派手さに欠けるが、部屋の隅の花瓶に活けられた花や、壁にかけられた何枚かの油彩画が、その部屋の主人の趣味の良さを物語っている。3LDKのこのマンションに、彼女は一人で住んでいた。
窓辺のサイドテーブルに置かれた携帯がワーグナーの着信音を奏でるのを聞いて、恵は餌やりを中断して立ち上がった。
窓の外に広がる横浜の夜景に勝るとも劣らない美貌だった。
分けた前髪は顎のラインで揃え、後ろ髪は肩まで流している。瓜実の輪郭、楚々とした唇、高い鼻梁・・・・・・あまりにも整った容姿はともすれば冷たい印象を与えかねないが、彼女の場合は、どこかいたずらっぽそうにきらきらと輝く大きな瞳がそれを打ち消していた。
画面に表示された電話をかけてきた相手の名前を見て、端整な顔がほころんだ。
相川弘一。ちょっとオタクっぽいのが玉に傷だが、その代わり他の男子のように軽薄なところが無い、大学でも恵と特に親しい友達の一人だ。先ほどメールでカラオケに行かないかと誘ったから、多分その返事だろう。メールの返事はメールですれば良いのに、相変わらず操作になれていないのだろうか。あれだけ個人指導して少しはできるようになったと思ったのに・・・・・・。恵は微苦笑しながら受話ボタンを押した。
「あ、もしもし弘一?さっき送ったメール見てくれた?・・・え、何?良く聞こえないよ」
電話の向こうで、弘一が何かがなり立てている。何を言っているのかよく聞き取れない。
「ほら、カラオケのこと・・・・・・え、今はそれどころじゃないって?もう、ひっどいなあ。涼子もね、『たまには相川君のアニソンでも聴いてアキバ系を疑似体験してみるのも悪くあるまい』っていってるのよ?あの子があーゆーこという時は、本当は絶対に来て欲しがってるんだから・・・・・・って、え、何?非常事態って何よ。もっと分かり易く説明してもらわないとわからないわ」
恵は首をかしげる。だが次に弘一が言ったことに、恵はさらに困惑した。
「・・・・・・はい?いいから女物の服の着替えを持って大至急俺の家まで来てくれ?事情は後で説明する?ちょっと待ちなさいよ、一体何があったの?言っておくけど変態プレイのお誘いならお断りよ。・・・・・・いや、流石に今のは冗談だけど・・・・・・ってまだ話は終わってないわよ、待ちなさいって・・・・・・あっこらっ!」
一方的に用件だけまくし立てると、弘一は電話を切ってしまった。一人残された恵は憤慨して眉をひそめながら、ハムスターの檻の方を振り返った。
電話の中で、弘一はひどく慌てて、取り乱していた。いつもの彼らしくない。一体何があったのだろう。
「はあ・・・・・・どうしたのかしら、彼。ねえ、ブレジネフ?」
ちなみにブレジネフというのが、恵が飼っているハムスターの名前である。ごつい名前とは裏腹に愛らしいつぶらな瞳が、真っ直ぐに恵を見返してきた。
「やれやれ・・・・・・」
もとよりハムスターに返答など期待していない。
恵は深い溜息をひとつつくと、外出の支度をするため寝室へと向かった。
途中の廊下で、壁にかかった一枚の写真が偶然恵の目に留まる。
歳は四十代後半ぐらいだろうか、恵とどこか雰囲気の似た、男の写真だ。
それを目にした恵の表情が、ほんの一瞬だけ曇る。
だが次の瞬間には、恵は元の表情に戻っててきぱきと支度を始めていた。
[3――代行者]
弘一が恵に電話をかけた丁度同じ頃、東京永田町にそびえる内閣府に、一台の黒塗りの公用車が滑り込んだ。
直立不動の姿勢で正面玄関に並んでいた数人の黒服姿の職員達が、車の後部座席から降り立った一人の男に低頭する。
日本人には珍しい灰色の髪をオールバックにしたその男の装いは、光沢のある濃紺のスーツに、パールグレーのネクタイ、そして知性を醸し出す銀縁の眼鏡。
まだ夏だというのに、裾の長い黒のトレンチコートを風になびかせている。
この街では一目で高級官僚だとわかる出立ちだ。
「・・・・・・それで、米国は何と言ってきました?」
ホールを横切ってエレベーターに乗り込むまで終始無言だった男は、扉が閉まりエレベーターが地下へと動き出すと、初めて口を開いた。
横に控える黒服の一人が、すかさず返答する。
「は、輸送機が消息を絶ってからこれまでに、A・423‐Nを根拠条文にした緊急協力要請が二回ありました。一回目は在日米軍司令部から防衛庁に、二回目は米国大使館経由で外務省に、です」
灰色髪の男は、部下の報告に微かに眉をひそめた。
「・・・・・・機密保持を重視する彼等らしくない、派手な動きですね。想定外の事態にあちらも混乱しているのか、それとも、あの米国も、さすがにこの件にはなりふりかまっていられないのか・・・・・・」
男が呟いている間にも、エレベーターは下降を続けている。パネルに表示のある階よりも、さらに深い地下へと。
「・・・・・・我々がこれまでに掴んだ情報がもし確かだとするなら、恐らく後者でしょうが」
淡々とした上司の言葉に、それまで無表情を崩さなかった黒服の部下は一瞬何か言いたげな顔をして、しかし結局それを口にできずに黙り込んだ。
「・・・・・・それで、こちらの対応は?」
「は、官房長官のご指示で、三分ほど前に第一種報道管制を発動。マスコミには漁船の通報は誤情報だったということで処理を。海保は引き上げさせました。通報のあった海域には、現在米国海軍が展開中です」
男に経過を詳細に記録した書類を手渡しながら、淀み無く報告する。黒服の部下の耳には管轄を荒らされ激怒した第三管区海上保安部次長の電話越しの怒鳴り声が未だにきんきん響いていたが、彼はそのことはおくびにも出さなかった。
「ご苦労。総理には伝えましたか?」
「既に報告済みです。あくまで非公開ですが、官邸連絡室もまもなく立ち上がります」
「結構。それでは我々もそろそろ行動に移るとしましょう。例の調査に関して、総務省への根回しは済んでいますね?」
「はい・・・・・・ですが・・・・・・」
黒服の声に、戸惑いの色が混じった。忠実な部下である彼が上司に対してこのような態度を示すのは、極めて稀な事だ。灰色髪の高級官僚は、訝しげな顔をした。
「どうしました?発信源の特定なら終わっているはずでしょう?」
黒服の部下は迷った末、先ほど口にできなかった疑問をとうとう口にした。
「・・・・・・これは、本当に事実なのでしょうか?い、いくらMI6からの情報とはいえ、その・・・・・・妖精などとは・・・・・・」
灰色髪男の眼鏡の奥の怜悧な双眸が、射抜くように鋭くなる。上司の怒りを買うのを怖れて、黒服は口を閉ざした。
しかし次に上司が発したのは、黒服の予想とは逆に静かな声だった。
「問題の積荷が何であるか。それは本件において、さして重要な要素ではありません」
思いがけない上司の言葉に、部下達はあっけにとられた。
「我々にとって本件で重要な要素は、その積荷が高度九千で爆発した機体から単体で脱出し、各地に電波障害を発生させながら、巡航ミサイルに匹敵する速度で我が国の本土に飛来したということ・・・・・・そして、最も重要なのは、積荷の帰属を巡って米軍と英国諜報部との間に、水面下で深刻な対立が発生しているということです」
「米英がですか?まさか・・・・・・」
「国家に真の友人はいませんよ。それは、こちらの場合も同様です」
何も無いエレベーターの壁を見つめて、灰色髪の男は薄い笑みを浮かべる。
その笑みの後ろにあるのは、いかなる天変地異を前にしても揺らぐことの無い、底知れない野心だ。
「・・・・・・特に今の総理とホワイトハウスとの関係は、前政権のように親密ではありません。来年度に迫ったイラク撤退、牛肉輸入禁止の継続、そして東アジア通商連合構想・・・・・・。これらの計画を進めるためにも、日本の対米外交戦略を有利にするカードを、総理は強く欲しておられます」
ようやく目的地に辿り着いたエレベーターの扉が、重たい音を立てて開く。
この建物に、公には存在しないはずのフロア。
壁面を埋め尽くす最先端の電子機器がめまぐるしく明滅し、洪水のように押し寄せてくる情報をリアルタイムで表示する、広大な地下司令室が広がっていた。
悠然とそこに一歩を踏み出し、男は決然と告げる。
「妖精は、我々の手で確保します。米軍やMI6よりも前に。ワイルドカードを手に入れて、ゲームに参加する、それができなければ――」
一呼吸区切って、男は天井にかかった表札を見上げた。
「――この部署が存在する、意味は無い」
〈戦略防衛局・特殊情報管理一課〉
それは内閣府にありながらその指揮権は内閣総理大臣に直属し、その存在と活動を外部から完全に秘匿された、文字通り特殊なセクションだった。
「それで、妖精の現在位置は?」
関東地方の地図が投影されたディスプレイの前に立ち、灰色髪の男は訊ねる。黒服の部下は、今度は躊躇することなく即答した。
「はっ、総務省電波環境課の追跡調査から、神奈川県羽柴市だと判明しております」
「羽柴市・・・・・・?」
部下の報告に、灰色髪の男は一瞬何か気にかかることがあるような顔をした。
「はい――どうかされましたか?」
上司の意外な反応を気遣う部下に、灰色髪の男は何でも無いという風に首を振って見せた。何か思い出しかけたことがあったが、結局頭に浮かんでこなかったのだ。
「練馬駐屯地に待機中の例の二個中隊に出撃命令。それから屋上にヘリを用意して下さい。私が直接指揮をとります。あなた方はここで座間と厚木の米軍の監視を」
「了解しました、杉崎課長」
黒服達が一礼して散らばって行く。
他のスタッフ達に一通りの指示を与えると、男は出口に向けて再びコートの裾を翻す。
さっき感じた妙な違和感のことは、完全に頭から消えていた。
[4――有象無象の区別無く]
電話をしてからきっかり三十分で、杉崎は弘一の家までやって来た。
ベルが鳴ると、弘一は返事をするのももどかしく玄関に急いだ。
深夜に突然呼び出された杉崎は、案の定ご機嫌斜めだった。それでも急行をつかまえて言われた通りすぐにやって来るあたりが、彼女の律儀なところではあるが。
「おう、杉崎。悪いな急に呼び出したりして」
一応先に一言謝っておく。だが、それで許してくれるほどこの才女は甘くはなかった。
「謝って済むなら警察も軍隊も要らないわよ。こんな時間に何の用?私は便利屋でも無ければデリヘル嬢でも無いのよ。わかる?わかったらさっさと事情を説明しなさい、四百字以内で簡潔に、私に理解できるように」
弘一を真っ直ぐに見据え、激するのでは無くむしろ淡々とした口調で静かに問い詰めてくる杉崎には、異様な迫力があった。声もやけに低くドスがきいている。お下劣な単語がたまに混ざっているのは、彼女なりに海兵隊式の新兵教育に範を取ったものらしい。
弘一の経験からして、こういう時の杉崎は怒らせると怖い。
「・・・・・・え、えーとさ、何て説明したら良いのかわからないんだけどさ。わかりやすい具体例を挙げるとするならば宮崎駿の某大作の冒頭シーン・・・・・・みたいなものを体験してさ。ほら、あれだったら杉崎も見たことあるだろう?最初にシータがさ、あの――」
慌てていれば慌てているほど喋り方と喋る内容がオタクっぽくなるのは、弘一の昔からの癖だった。簡潔でも無ければ四百字以内に終わりそうにも無い説明をしどろもどろに続ける弘一を睨んでいた杉崎の視線が、ふと部屋のベッドの膨らみに留まる。
「だから、あそこでニューコメン式排水用蒸気ポンプの歯車を敢えて使っているところが宮崎アニメのこだわりで・・・・・・て、ちょ、ちょっと、杉崎!」
完全に脱線して謎の解説をしていた弘一が、杉崎の視線に気付いた時には遅かった。
止めようとする弘一を片手で押しのけ、つかつかとベッドまで歩み寄ると、杉崎は毛布を剥ぎ取った。
「――――!」
瞬間、空気が凍りついた。
そこに現われたのはボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』が駄作に思えるほどの光景だったが、それを目の当たりにした杉崎の肩が小刻みに震えているのは、感動のせいではなさそうだった。
「弘一、これは一体どういうことなの・・・・・・!」
振り返った杉崎の顔は、赤を通り越して真っ青になっていた。感情を制御できていた先ほどまでのような余裕すら無い。本当に怒っている。相当に危険な状態だった。
「い、いや、これには複雑な事情があって・・・・・・」
「・・・・・・ふーん、複雑な事情ねえ・・・・・・なるほど、よくわかったわ」
マッドサイエンティストのような引きつった笑みを浮かべている。
わかってない。絶対に、わかってない。
「待て、誤解だ!お願いだから俺の話を聞いてくれ!」
「問答無用よっ、この変態!」
いきなり激昂した杉崎が、どこからか取り出したフライパンを投げ付けてくる。
際どいところで慌ててかわすと、フライパンは高速で背後の壁に激突した。
「う、うわっ!」
「ちっ、よけるんじゃないわよ、大人しく成仏なさい!」
またもやどこからか取り出したやかんを、杉崎が投擲する。
普段冷静な杉崎が何故ここまで怒っているのか、鈍感な弘一には全くわからなかった。
回避しながら叫ぶ。
「だから、人の話を聞けって!話せばわかる!」
「あはは、無駄よ犬養の真似なんかしたって!死になさい――」
二人の台詞が交錯した、次の瞬間。
やかんがぶつかった壁が、轟音を上げて爆発した。
木片が飛び散り、煙が広がる。
「――え?」
やかんを投げた姿勢のままで、杉崎の目が点になる。
一方で爆風をもろにくらった弘一は、そのままきりもみして杉崎の方へ吹っ飛んだ。
「うわっ!!」
「きゃ・・・・・・ちょ、ちょっと、どこさわってんのよ、この変態!!」
「げほげほっ・・・・・・うるせえ!お前こそ一体何投げたんだよ!?」
「何って、あんたの家のやかんよ、やかん!一体どうなって・・・・・・」
倒れこんできた弘一を押しのけようともがいていた杉崎は、そこで喋るのを止めた。
壁に穿たれた大穴から、黒い人影が飛び込んできたからだ。
振り返った弘一も、それに気付いて動きを止めた。
正確には、黒い覆面を付けて、迷彩服の上から防弾チョッキを着た人間が一人。
大型の拳銃を構えている。
映画やシューティングゲームなどに出てくる、外国の特殊部隊の兵士そのものだった。
「え・・・・・・」
思わず凍り付いた二人に、兵士は銃口を向けた。
「全員そこを動くな!!」
どこか訛りが感じられる日本語で、兵士はそう言った。
[5――誰も彼も喜々として]
戦場の最前線を思わせる喧騒が、夜中の陸上自衛隊練馬駐屯地を包んでいた。
木更津第一ヘリコプター団から急派されたCH‐47Jチヌーク改三十機が、同駐屯地に待機していた普通科二個中隊四百名のヘリボーンを開始したのだ。
もっともその二個中隊は、厳密には通常の普通科中隊ではなかった。練馬駐屯地で待機している間、彼等は駐屯地の他の一般隊員達とは完全に隔離されていた。
騒々しいタービン音と風を撒き散らす輸送ヘリに一糸乱れぬ統率された動きで乗り込んでいく彼等の肉体は通常の自衛官よりはるかに鍛え上げられ、その動作にはまるで隙が無い。頬は痩せこけ、落ち窪んだ眼窩の中で、ぎょろりとした目が爛々と殺気を放っている。
中隊のコードネームは、それぞれ〈桜花〉と〈菊花〉。
首都防衛の任を担う第一師団が、政府転覆を狙った危険なテロや騒乱などの鎮圧を目的とし、数年前から極秘に訓練させてきた『虎の子』のレンジャー部隊である。
富士の樹海で日々想像を絶する過酷な訓練に耐えてきた彼等は、倫理教育面でも一般の自衛官とは異なった指導を受けてきた。
自衛官ではなく戦士として、いかにして敵を迅速かつ的確に殺し、破壊し、殲滅するか。
現行憲法や自衛隊法が停止されるような国家非常事態を想定した殺人部隊だからこそ、第一師団司令部の幹部達も、また陸自のトップに立つ陸上幕僚長も、これまでこの二個中隊の存在をマスコミや野党にひた隠しにしてきたのだ。
しかし――。
「今ここで使わないで、いつ使うのですか?あなたは安心して我々に任せておけば良い」
首都圏の夜景を睥睨し、高速で南西へ向かうヘリの機内で、灰色髪の男は市ヶ谷に電話をかけていた。電話の向こうからは、老人の不満げな唸り声が聞こえてくる。
『そんなカルトが信じられるか!妖精だと?これだから背広組の連中は・・・・・・』
「あなたが信じようが信じまいが結構。これは総理の判断です。だから私は部隊を動かしました。幕僚長にもなって今更シビリアンコントロールの講釈を受けたいのですか?」
男の声はどこまでも穏やかで、まるで明日の天気の話でもしているかのようだ。対照的に老人――陸上幕僚長は、苛立ちを隠せないでいた。
『だとしても君にそんな権限は無い!越権行為も甚だしいぞ。あの二個中隊をここまで育てるのに俺達がどれだけ苦労したと思ってるんだ!』
「無傷で返せば文句は無いでしょう?公安が介入したくてうずうずしています。神奈川県警も。連中の手柄にしたいのですか?」
『いや、し、しかし杉崎君・・・・・・』
先ほどの言葉で明らかに老人の語勢が弱まったのをみてとって、男は薄く笑った。
口調は落ち着き払ったまま、畳み掛けるようにすぐさま次の手札を切る。
「そうそう、連立与党から要求されている来年度予算での防衛費の縮小、あれを総理は先延ばしにしても構わないとおっしゃっています。財務省には私から話をしておきますよ」
電話の向こうで老人が息をのむ気配を察して、男はさらに笑う。あくまで慇懃なその声は、まるで悪魔の調べだ。
「良かったですね、陸上幕僚長閣下。予算縮小で真っ先に削られるのは間違い無く陸自ですからねえ」
それが殺し文句だった。電話を切った男が窓の外に目を向けると、編隊を組んだ対戦車ヘリAH‐1Sコブラ五機が、横を追い抜いて行くところだった。
圧倒的な火力を誇る二〇ミリバルカン砲に、七〇ミリロケット弾とTOW対戦車ミサイルを左右に装備した、世界最強の攻撃ヘリの一つである。それが五機。
二個中隊とは別に特殊情報管理一課が密かに手配した、予備の戦力だった。
無傷で返す――つい先ほど陸幕長に約束したばかりの言葉を思い出して、男の口元に浮かんだ笑みは、ひどく酷薄だった。
正直なところ、投入した戦力の半分でも生き残ることができれば幸いだということを、彼は知っていたからだ。
手元の書類を引き寄せながら、前の席で本部と連絡を取っていた部下に、男は声をかける。
「アメリカ側の動きは、どうなっています?」
「それが・・・・・・」
浮かない声で、部下は答えた。
「先ほど大統領から総理に、直接電話があったそうです。『積荷』の回収のために米軍の一部部隊が首都圏で行動するのを認めるように、と。懸案の牛肉輸入再開問題と絡めてです」
その意味を悟って、男の表情が険しくなる。
「議会から要請されている制裁措置の発動を、大統領権限で撤回する用意があると」
「・・・・・・今更、そんなエサになど。その情報、与党には?」
「いえ、総理と官房長官他、官邸の一部高官しかまだ知りません」
「農水族議員にでも漏れたらコトです。しっかりとガードしなさい」
「はっ!」
再び書類に目を戻し、男は無言で唇を噛んだ。
はっきりと軍事行動を予告してきたということは、向こうも『積荷』の位置を特定したということだ。
その上で、口封じのためだけに、これだけのカードをあっさりと切ってきた。
男は頭の中で、現政権内の勢力図を素早く計算した。
単純なエサほど、人は釣られ易い。この情報が広がれば、例え総理の側近達といえども、確実に動揺が走るだろう。所詮、彼等は政治家だ。国益よりも次の選挙を優先する判断をしても、仕方の無いことだ。
自分達に残された時間は、そう多くは無い。
しかし――男は、思わずにはいられなかった。
今回のアメリカの動き、裏があるわけではない。
それほど焦っているのだ。
あの世界最強の超大国、アメリカ合衆国の大統領が、自国の議会と畜産団体を敵に回してまで求めなければならないほどに、大きなものなのだ、これは。
ならば、なおのこと諦めるわけにはいかないではないか。
男の表情に、再び不敵な笑みが宿る。
盗聴防止装置付きの機内電話に再び手を伸ばすと、男は練馬区北町にある第一師団司令部の、師団長室直通の秘話回線をダイヤルした。
待つこと数秒、慌てて電話に出た師団長に、まるでファーストクラスの客がスチュワーデスに酒とキャビアを注文するように、こともなげに命令する。
「追加オーダーです。駒門駐屯地の第一戦車大隊、第一特科連隊に出動命令を。御殿場インターから東名高速を全面交通規制にして、二時間で完了させなさい。練馬の第一普通科連隊、市ヶ谷の第三十二普通科連隊も出動です。長官直轄の富士教導団、東部方面警務隊、習志野の第一空挺団も、全て動員させます」
『な・・・・・・!』
命令を聞いた師団長が、電話の向こうで驚愕のあまり凍り付いた。
当然だ。
男の命令は、第一師団、否、首都圏に駐留する全陸上自衛隊の、総力出動を意味していた。
『ぼ、防衛出動になりますぞ、それは・・・・・・!いくら内閣府の命令でも、それほどの大部隊は・・・・・・何しろ前例が・・・・・・』
「ならば今夜の出動をもって、最高の前例とするが良い」
師団長の必死の抵抗を、男は涼やかに一蹴する。
『しかし・・・・・・一体何のために、です!?その妖精だか何だかのためには、既に例の部隊をお貸ししたでしょう!これ以上の兵力を、一体どこへ・・・・・・』
「そうですね、出動目標は――」
一拍間を置いて、男は告げた。
「首都圏に点在する全在日米軍基地及びその関連施設。座間、厚木、横田、横須賀、麻布米国大使館、総て完全に包囲しなさい。兵士達には実弾を。当該目標が少しでも抵抗や不穏な行動を見せた場合、実力でもってこれを制圧するように。あらゆる犠牲を容認します。わかりますね?」
『し、しかし、それではまるで・・・・・・』
師団長の声は完全に上擦り、受話器を持つ手がカタカタと震えているのがわかる。その恐怖を楽しむように、高らかに男は謳う。
「そう、これは日本の独立戦争です。かつて十二月八日に我々の先人達がそうしたように、我々も今、侵略者を倒すために銃を取ります。しかも今回は敵に仕組まれただまし討ちではない、本当のだまし討ちを。最後の最後にリングの上で拳を上げて立っているのは、我々です。これは総理のご意志ですよ?公僕ならば覚悟を決めなさい、陸将」
それだけ告げると、男は一方的に電話を切った。
ほどなく同乗する部下が、第一師団の各部隊が移動を開始したことを確認する。
「・・・・・・最後の妖精を手に入れた者が、世界を統べる、ですか・・・・・・。最悪の場合第一師団全てを犠牲にしても、やってみる価値はありますね」
一人呟く男の手元には、極秘の印が押された書類の束があった。
その書類の表紙に銘打たれた題は、〈キプロスのニンフ〉。
この夜のゲームにおいて、それは他の全てに超越する、まさにワイルドカードだった。
[6――千年王国]
「全員そこを動くな!」
銃口を向けた覆面の人物は、恵と弘一に向かってそう言った。
意外なことに、若い女の声だった。
日本語だが、イントネーションが微妙におかしい。恐らくは英語を母国語とする外国人だろう。
突発的に発生した異常事態にあって、瞬時にそこまで推察できる理性がまだ自分に残っていることに、恵は微かに安堵した。
――よかった、私はまだ冷静だ。
日常の空間の中で過ごしていたら突然こんな目にあったのだ、普通の女の子ならここはパニックになって思考停止するのが自然なのだろうが、恵の場合脳内の混乱は不思議と一瞬で収まった。
そもそも思い出してみれば、つい先ほど自分が見たものだって、『日常』では無かった。毒をもって毒を制すというか、非日常的な現象が立て続けに起こったせいで驚きが相殺され、かえって興奮が静まったのかもしれない。
というより、この闖入者のせいで忘れ去られているが、後ろのベッドに横になっている裸の少女の方が、恵にはよほど気になる。
誰なのか。
どこから来たのか。
何故弘一のアパートで寝ているのか。
弘一とはどんな関係なのか。
そして、何故裸なのか、だ。
それと同じぐらい気になるのが、何故弘一が自分を呼んだのか、だ。
友人のプライベートに干渉するつもりは勿論毛頭無いが、自分だって女なのだ。
こんなものを見せつけられて、良い気分がするはずが無い。
確かに、先ほどのは少しやりすぎだったが、あんな破廉恥シーンを見せられればあれぐらいはお約束の範疇だ。
恵が中学生の頃学校の図書館に置いてあった『少年マ○ジン』という漫画に当時連載されていた『ラ○ひな』とかいう物語では、主人公がああやって何か破廉恥シーンがあるたびにものを投げつけられたり、さらには天井を破ってバイキンマンのように空に飛んでいったり日本刀で斬られたりラジコン戦車の一個中隊の砲火を浴びたりしていたものだ。
その頃の恵はそれを読んであまりの不条理な暴力の連続に、セルビア人だというだけの理由で何の罪も無い女性や子どもたちがクロアチア兵に虐殺されていくNHKスペシャル『映像の世紀第十一話――民族の悲劇果てしなく』のワンシーンを連想して眉をひそめたものだが、今なら彼女達の暴力が正当だったことが理解できる。
真面目な話、恐らく地元から出てきた親戚の女の子か何かが着替えが無くて困っているとかそういう状況を想定していたのだが、いくらなんでもあのサプライズは酷すぎた。
弘一はその・・・・・・そういう行為を終えた後の自分のカノジョを女友達に平然と見せるような、羞恥心の無い変態だったのか?
もしかすると、あの後・・・・・・まさか、その、三人でとか、そういうつもりだったのだろうか?
しかし――。
恵は、実は先ほど弘一相手に『五・一五ごっこ』をしながら考えていたことを思い出す。
恵とて、伊達に大勢の人間と付き合っているわけではない。
これでも、人を見る目はそこそこにはあるはずだ。
その恵の目から見て、相沢弘一とはそんな非常識なことをする馬鹿ではない。
そもそも、そんな馬鹿な奴なら、恵は弘一を友人とは呼ばないだろう。
そんなことを考えながら恵は、弘一の方に目をやった。
この平和な日本で、いきなり銃を付きつけられたのだ。
並の男なら腰を抜かしていても、おかしくはないのだが・・・・・・。
何と、弘一は怯えた様子もなく、平然と目の前の兵士を凝視していた。
(さっすが〜、男の子じゃん♪)
冷静沈着な弘一の様子に頼り甲斐を感じてしまう恵。
だが、その次の瞬間――。
「君、それ何のコスプレ?スト○ートファイターUのキャ○ィ?つーか誰だよ、俺にこんなベタなドッキリ仕掛けた奴。漫研の荒井かなあ」
弘一は、やはり馬鹿だった。
後ろで派手にずっこける恵をよそに、弘一は兵士を指差して抗議を始める。
「そもそもさ、全然なってないんだよそのコスプレ!ああもう、そんなんじゃシャドルーに勝てないよ!?これだから素人は・・・・・・」
どうやら、大学のオタク系サークルの知り合いか何かだと思っているようだ。部屋の壁を破壊されたことは、コスプレの話に夢中で気にしていない様子である。
ちなみに、この時の弘一の見解はあながち的外れではなかったのだが、スト○ートファイターUもキャ○ィも知らない恵にとっては、ただの馬鹿なオタクの寝言にしか聞こえない。
兵士にコスプレとは何たるか訓示をたれようと立ち上がりかけた弘一に、恵は蹴りを入れて床に転がした。
「いててっ!ちょ、何すんだよ杉崎!!」
「・・・・・・いーからあんたは黙ってなさい」
「動くなといったはずだ!!」
弘一がうめき声を上げ、兵士がジャキンッと銃口を恵の頭に向けて、殺気だった声で怒鳴る。
銃の扱いは、訓練されたプロの動きだ。
何が何だか謎だらけだが、本当に、殺されるかもしれない。
恵の背筋に、寒いものが走った。
一方の兵士は、恵達の背後のベッドに横になっている少女の姿を確認すると、こちらは恵のように驚いたりすることは一切無く、むしろ何故か安心したような様子で、ヘッドセットの無線機に告げた。
『〈コックロビン〉より〈ビクトリアス〉、降下予測地点周辺の民家で〈エナ〉を確保した。意識は無いが、生きている。〈エナ〉の奪取に協力したとみられる日本人二名を拘束。至急応援を要請する、オーヴァ』
英語で交信しているが、帰国子女の恵には何を言っているのか全てわかる。ついでにいうとこの女兵士が使用している英語、これはクイーンズ・イングリッシュだ。
(エナ・・・・・・?それがこの女の子の名前なの?つーかこいつらの知り合い?どうなってるのよ・・・・・・)
恵は「おー、綺麗な英会話」などと素直に感心している弘一をこづいた。
「あんた、一体どこのマフィアのお嬢様と駆け落ちしてきたのよ!?」
「いやだから、それは誤解だって・・・・・・!」
「お前達!!」
味方との交信を終えたらしい女兵士が、やかましく言い合いをしている二人の方へ近付いてくる。
恵はじりじりと後退りし、弘一は、
「なんだ、まだいたのかキャ○ィもどき」
と怪訝そうな顔をした。
「お前達の所属している組織の名前を教えてもらおうか?」
弘一の暴言を完全に無視して、女兵士は尋問を始める。
「いえ、その・・・・・・ふつーに大学生ですけど、私達?」
恵が控えめに答えると、女兵士は二人に銃を付きつけてきた。
「とぼけるな!ただの大学生が、どうして〈エナ〉をさらう!?」
「そ、それはこいつに聞いて・・・・・・」
青ざめた恵が弘一の方を向くと、弘一は鬱陶しげに手をひらひらと振った。
「はいはい、そのネタもう飽きたからさ、どうせ俺がベガで、そんでもってあんたが英国諜報部のキャ○ィさんだろ?いいか、キャ○ィは覆面なんかしないんだよ、ちゃっちゃと出直してきなライミー」
弘一がまた勘違いしたオタク知識を披露し、恵は溜息をつく。
だが、女兵士は何故か、弘一の言葉に過剰反応した。
「きっ、貴様!!何故私がMI6所属だと知っている!?何者だ!!」
覆面を脱ぎ捨てて、兵士が怒鳴った。
金髪に近い赤毛に青い目をした、本物の外人の顔が露わになる。
(ちょ・・・・・・本物の英国諜報部?)
恵は焦った。MI6といえば、007のモデルにもなって世界的にその高い能力を知られている、英国諜報部第六部(対外諜報機間)だ。
最近はHPを開設してスタッフを公に募集したりして話題になっているが、重要な活動そのものは、冷戦時代と同様、以前秘密のベールに隠されている。
が、弘一の方はそのような事は全く理解できていなかった。
「おいおい、お前俺を馬鹿にしてんのか!?それぐらい常識だっつーの。大体『私が』じゃなくて、『キャ○ィが』だ。似てないくせになりきりコスプレはシ○プリのお兄ちゃんよりきもいからやめろ」
駄目だ。この二人の会話はまるで噛み合っていない。
「ごっ、ごめんなさい、こいつ漫画かアニメの話と勘違いしてるんです!!あなたとは何の関係も・・・・・・」
『お前(杉崎)は、黙ってろ!』
睨み合うMI6エージェントと弘一の声が見事にハモり、恵の忍耐が限界に達した時――。
・・・・・・おなかが、すいた。
声が、聞こえた。
正確には、恵の頭の中で、誰かがそう囁いたような気がした。
恵は慌てて辺りを見回す。
恵だけでは無く、残りの二人も諍いを中断してそうしている。
どうやら、皆同じ体験をしたようだ。
「な、何なのよこれは・・・・・・!」
「そういえばさっきもこんなことが・・・・・・!」
恵と弘一が騒ぐ中で、エージェントだけが、驚いていなかった。
「どうやら、お目覚めのようだな」
その言葉の意味に気付いて二人が振り返った時、そこには眠っていたはずのあの少女が、ベッドから起き上がっていた。
・・・・・・それ、たべたい。
テーブルの上に置かれたままになっていた、弘一の食べ残しの牛丼を志向して、少女の思念が響く。
ちなみに少女は相変わらず、一糸纏わぬ姿だ。
恵とMI6のエージェントはとりあえず女としての共同戦線をはって、横でにやけている弘一の後頭部に二人で蹴りを入れて沈黙させた。
五分後。
・・・・・・むしゃむしゃ。
ぎゅうどん、おいしい。
恵が家から持ってきたパジャマを着た少女が、レンジで温めなおした牛丼を食卓で頬張っている。
「驚いたな・・・・・・、〈エナ〉がエネルギー補給のために固形物を摂取することがあるとは」
エージェントが驚いたようにそう呟き、四人分お茶を注いでいた恵は訝しげに振り返った。
「どういう意味です?」
「なんだお前、〈エナ〉の重要性を知らずにさらったのか?」
「さらったのは弘一です!私は何も知りません!!」
恵が憤慨して弘一を指差し、指差された弘一は首をぶんぶん振った。
「だから、さっきから二人とも誤解してるけど、違うって!!その子が急に空から降ってきたんだよ!!気を失ってたから俺はここまで運んで、それで杉崎を呼んだんだ」
どうやら弘一も、これが冗談ではないらしいことにようやく気付いたようだ。
「空から降ってきた、ですってえ!?そんな話、誰が信じ・・・・・・」
怒鳴りかけた恵を、横からエージェントが制した。
慎重に言葉を選んで、弘一に訊ねる。
「待て、では君は、降下してきたエナを善意で救助してくれたということか?」
「だから、何度もそう言ってるだろ!!」
言ってない。恵は内心そうつっこんだが、エージェントは真面目な表情を崩さない。
「信じてもいいんだな?」
「こいつ馬鹿だけど、嘘はつかないわよ」
横から恵がコメントし、弘一が反論しようとすると、エージェントはそれまで二人に向けていた銃口を下ろした。
「え?」
驚いている二人に、エージェントは初めて笑顔をみせた。
「どうやら私は誤解していたようだ。君達は本当にただの民間人だったのだな。脅したりして、悪いことをした」
「え、じゃあ今まで民間人だと、思ってなかったんですか?だから銃を?」
恵が問い掛けるとエージェントは、心底心外だというような顔をした。
「当然だ!我々は女王陛下の名の下に集う、誇り高き戦士だ。目的のためには手段を選ばないゴロツキ同然のカウボーイとは違う。罪の無い民間人を傷つけて、どうして陛下の忠臣と名乗れようか」
「わかればいいのさ、わかれば」
からからと陽気に笑いながら、弘一が寛大に言った。もっともそれはこの男がエージェントの銃を終始モデルガンだと思っていたからなのだが。
「・・・・・・でもどうしてMI6が、こんな女の子を?確かにちょっと変わってますけど・・・・・・」
テレパシーを発するのはちょっとどころでは無かったが、ともかくそう訊ねた恵に、エージェントは重々しく首を振った。
「残念だが、それは君達には教えられない。教えても信じてはもらえないだろうしな」
「え?それはどういう・・・・・・」
「言葉通りの意味さ」
エージェントは、少し自嘲めいた笑みを浮かべた。
「だが、これだけは言える。この少女を保護することは、この世界の平和と安定にとって極めて重要なことなのだ。君達には後日英国政府から、非公式ではあるが何らかの褒賞が用意されるだろう」
「とりあえず壁に開けた穴の修理代は払ってくれよ、俺が大家から追い出される前に」
弘一がすかさず口を挟んだ。確か以前、飼っている猫の通り道にと窓ガラスに穴を開けた住人がいて、大家の逆鱗に触れて追い出されたような記憶がある。
「勿論弁償しよう・・・・・・それにしても・・・・・・」
エージェントはどこか嬉しそうな目で、二人を見ながら言った。
「日本が礼節の国だという話は、本当だったのだな。我等の母国は紳士の国だといわれているが、それでももし夜中のスラムに裸の少女が倒れていたら、無事では済まないだろう。それを君達はこうして親切心で助けてくれた。英国政府に代わって、礼を言う。ありがとう。君達の勇気が、世界の平和と、英国の名誉を守ってくれた」
「いえ、そんな・・・・・・」
「俺の住んでいる街はスラムなのか、おい」
弘一のつっこみは完全に無視され、恵が涙ぐんでエージェントと手を取り合い、美しい友情が芽生えようとしていた時。
先ほどの爆発をはるかに上回る衝撃が、相沢弘一のアパートを襲った。
「うわっ!!」
「きゃ・・・・・・」
「伏せろ!」
エージェントが鋭く叫んで、二人と少女を、テーブルの下に引き倒す。
直後、ばりばりという機銃掃射の音と共に、それまで四人がいた空間を無数の銃弾が切り裂いた。さらに数個の手榴弾がでたらめに投擲され、あちこちで爆発する。
同時に真っ黒な戦闘服に身を包み、ガスマスクに暗視ゴーグルを装着した完全武装の兵士達が、部屋に飛び込んでくる。ためらいの無い射撃、凄まじい殺気。
「これは・・・・・・日本の自衛隊じゃない!?DIAのランドルフ隊!!」
背中に吊るしていた自動小銃を構え、家具を盾に応射しながらMI6のエージェントが舌打ちした。彼女の射撃は正確で、狙われた敵の兵士は次々に倒されていくが、いかんせん数と火力の差が圧倒的過ぎた。
容赦無い銃撃に家具はぼろぼろになり、四人は次第に追い詰められていく。
「〈ビクトリアス〉!!こちら〈コックロビン〉!!現在小隊規模の敵の襲撃を受けている!!至急救援を!!どうした、応答しろ!!・・・・・・くそっ、どうなってるんだ!」
その時、敵兵が投擲した手榴弾が、至近距離で炸裂した。
空中に爆焔の華が咲き、膨大な熱と爆風が恵達めがけて押し寄せる。
「・・・・・・いや!!」
反射的に腕を上げ、顔を背けた恵の目に、飛び込んできたエージェントの姿が映った。
直後閃光が走り、恵と弘一は目の前でエージェントが両手を床につき、衝撃を受け止める光景を目に焼き付けた。
手榴弾の破片が容赦無く、彼女の背中に突き刺さる。
「うぐぅ・・・・・・!!」
MI6のエージェントは、声にならないうめき声を上げて三人の上に倒れ込んだ。
ぬるぬるとした感触。
彼女の血だった。
「あ、ああ・・・・・・!」
恵が悲鳴を上げそうになるのを抑え、エージェントは激痛に耐えて笑顔を作った。
「不覚だな・・・・・・どうやら私も、もう駄目なようだ・・・・・・」
「そ、そんな・・・・・・」
青ざめる二人に、彼女はかすれ声で語りかけた。
「いいか二人とも・・・・・・私の話を聞いてくれ・・・・・・その子を、エナを、渡してはならない・・・・・・米軍や、日本政府に・・・・・・その子は実は、人間ではない・・・・・・」
「ええ!?」
驚愕する二人に、エージェントは苦笑を浮かべた。
「言ってもどうせ信じないと・・・・・・言っただろう・・・・・・その子は・・・・・・エナは・・・・・・ギリシア神話において俗に『ニンフ』と呼ばれている存在の・・・・・・その最後の生き残りだ・・・・・・」
そのあまりに衝撃的な告白に、二人は言葉を失う。
「正教派とイスラム派の紛争が激化していた60年代のキプロスで・・・・・・両勢力の調停のために駐留していた我が国の軍隊が、偶然発掘したのだ・・・・・・古代遺跡の・・・・・・五千年以上前に封印された石棺からな・・・・・・五千年前・・・・・・神話によれば『アトランティス』という超文明を持った帝国が、その地域を統治していた時代だ・・・・・・そして『ニンフ』とは・・・・・・その実態は・・・・・・『アトランティス』が神を模して開発した・・・・・・最終決戦兵器だ・・・・・・」
内臓にまで致命的な損傷が及んでいるのだろう、口から血を吹き出しながら、エージェントは苦しげに言葉を紡ぐ。
「もしもこんな超兵器がどちらかの勢力の手に渡ったら・・・・・・キプロス情勢・・・・・・いや、ひいては当時の世界の冷戦構造そのものが・・・・・・想像もつかない危機に陥る・・・・・・時の英国政府はそれを怖れて・・・・・・冷凍冬眠状態にしたエナを、インド洋にある英国領の孤島、ディエゴガルシアの研究施設に隠蔽した・・・・・・」
DIA――米軍の特殊部隊のこちらへの攻撃は、いつの間にか止んでいた。その代わりに、アパートの外で断続的な銃声と、兵士達の叫び声が聞こえる。
どうも第三の勢力が、新たに介入してきたようだ。
戦況は、米軍側が押されているようだった。
上空からは、複数の大型ヘリのタービン音。
大口径の機関砲の射撃音も混じっている。
「だがその頃は・・・・・・生きたニンフはこの子だけじゃなかった・・・・・・ソ連も、東ヨーロッパでニンフの生体を手に入れ、独自に研究を行っていた・・・・・・。英国もソ連も、お互いに相手がニンフを保有していることも知っていた・・・・・・しかし両国間には、暗黙の紳士協定があってね・・・・・・互いにニンフを保有していることが、幸運にも抑止力になった・・・・・・パワーバランスが崩れるのを怖れた両国は、ニンフを実際に兵器として利用しようとはしなかった・・・・・・ソ連が崩壊するまでは、そうやってうまくいっていた」
エージェントの表情が、傷の痛み以外のもので歪んだ。
悔恨、だろうか。
「・・・・・・ところがソ連が崩壊して、その時の混乱でむこうの研究所で事故が起きて・・・・・・あちらのニンフが、死んでしまったのだ・・・・・・ニンフは長命だが、不死ではない・・・・・・ましてやあちらの技術力では、元より良好な保存状態を維持できていなかった・・・・・・そしてこの子は、世界でたった一体のニンフになってしまったのだ・・・・・・」
エージェントは、自分の血で汚れた手で、愛しむように〈エナ〉という名の少女を撫でた。少女は牛丼の容器を握り締めたまま、きょとんとした顔をしている。
「・・・・・・この子にエナという名前を付けたのは、私の所属していた研究チームだ。『エナ』とはギリシア語で単一の、唯一の、という意味だ・・・・・・そしてそうなってしまったことが、悲劇の始まりだった」
まるで自分の娘を見るような優しい眼差しをエナに向ける彼女の声はしかし、酷く疲れていて、悲しげだった。
「・・・・・・ソ連崩壊と同時に、多くの重要な国家機密が西側に流出したことは君達も知っているだろう?改めて全世界の覇者となったアメリカは、旧東側の統治に役立てようと、それらの情報を貪欲に収集した・・・・・・その中に、ニンフに関する情報もあったんだ・・・・・・エナのことも、そこから連中は嗅ぎ付けて、そして我々に本格的な軍事利用のためのエナの共同管理を、半ば強引に打診してきた・・・・・・我々がそれを断ると、連中はディエゴガルシアの基地から、エナを眠っている水槽ごと盗み出した」
最後の一言は、まるで吐き捨てるようだった。仮にも同盟国からのあまりに卑劣な行為に対する、彼女の軍人としての、いや、エナを護ってきた人間としての憤りが感じられた。
「・・・・・・アメリカはソ連崩壊後の世界で実質的な最強の国家になっただけでは飽き足らず、それを物理的に実証する手段を求めている。多くの国が核をもってしまった今、核はもはや報復を恐れてろくに使えない、二流の最終兵器でしかない。だがエナなら、世界に一体しか存在しないニンフなら、それは真の最終兵器だ。アメリカはエナを使って、実力に裏打ちされた、確実かつ永久的な世界統治を計画しているのだ・・・・・・でも!」
かすれた声を絞り出して、瀕死のエージェントは二人に訴えた。
「それは狂気だ!ヒロシマとナガサキを経験した君達日本人なら、わかるはずだ。強すぎる力は、抑止できない一方的な力は、それを持つ者の心から思いやりと誇りを奪い去り、狂気へと駆り立てる!その先に待っているものが何か、考えてくれ!我が国が半世紀もの間エナを世界から隠し続けてきたのが何故なのか・・・・・・頼む・・・・・・エナを・・・・・・」
その身体が、糸の切れた操り人形のように床に倒れる。アパートの外ではまだ、銃声が続いている。
「エナを・・・・・・守ってくれ・・・・・・」
それが名も知らないMI6エージェントの、最期の言葉となった。
[終章――黄昏の中で]
数千万の市民が何も知らずに寝静まる深夜の東京で、その戦争は静かに幕を開けた。
都内各地の、首都高出口。
キャタピラを軋ませアスファルトを砕き削りながら、総重量50トンを超える鋼鉄の怪物が、トレーラーを下りて都心の街路に次々と進入する。
街灯の明かりを浴びて鈍色の装甲から禍々しい光を放つのは、120ミリ滑空砲を備えた日本陸上自衛隊の最強主力戦車、90式戦車だ。
東京麻布、米国大使館正門前。擦過していく哨戒ヘリの爆音に和して、街路を埋め尽くす戦車隊のディーゼルエンジンの咆哮が響き渡る。
戦車隊の前には完全武装した普通科隊員が列を成し、沈黙の内に戦闘準備を整えた。
目の前には夜風を受けて、翻る星条旗。
それは戦後60年に渡り、この国を実質的に支配下においてきた超大国の象徴だった。
先頭を行く90式戦車が、ゆっくりと砲塔を旋回させ、主砲の照準をその旗にぴたりと合わせる。
それが、『独立戦争』が始まる合図だった。
「都内の在日米軍基地を包囲・攻撃だと!?バカなッ!!」
東京永田町、総理官邸。
政界の名家に生まれ、時局に恵まれ二世議員と批判されることもなく幹事長、官房長官職を経て現在のポストまで順調に上り詰めた歳若い総理大臣は、革張りの高価なアームチェアを蹴倒して執務机から立ちあがった。
総理の前に直立し報告する官房長官は、最高指揮官の怒りにふれてもなお平然として動じない。
「はい、杉崎課長が指示し、私が許可しました。これからの時代、大国の狭間にあるこの極東の小さな島国が世界に覇を唱えるためには、我々は外圧に対しもっと強硬にならねばなりません。日本国政府は武力を振るうものには微塵の容赦もなく、さらに強大な武力でもってこれを完全に殲滅できる、絶対的なモノであるべきです」
「ばッ馬鹿なッ!それでは戦後日本憲政の平和主義は・・・・・・日米安保は・・・・・・」
拳を握り締める総理を嘲るかのように、官房長官は言葉を継いだ。
「これはその平和を勝ち取るための戦いですよ?平和は、与えられるものではありません。実力で掴み取って初めて価値があります。そのための、戦力ではない必要最小限度の実力は認められている・・・・・・それが我々の憲法解釈だったはずです。お忘れですか?戦略防衛局・特殊情報管理一課、そして我が自由民政党でさえも、そのためにつくられた」
長官は朗々と吼え、総理は言葉を失う。
「憲法理念のためなら憲法をも殺す、それこそが、その狂信的な愛国心こそが、道義を超えた戦略の視点に立った国家安全保障の原理。『神風』の地上代行者、杉崎一弥の特殊情報管理一課は、そのためにつくられたのですから!!」
『横田基地へ向かっていた普通科中隊からの交信が途絶!ランドルフ隊の所在は以前として不明です!!』
「今私の真下で交戦中ですよ・・・・・・」
神奈川県羽柴市上空。
戦場を見下ろすヘリの機内で、特殊情報管理一課課長の杉崎一弥は部下の間抜けな報告に思わずため息を漏らした。
何て役立たずだ。あれだけの兵力がありながら、よりによって最精鋭の部隊を取り逃がし、現場に一番乗りさせてしまうとは。
これでは自分の思い描いていたシナリオと違うではないか。
苛立ちを募らせながら、杉崎は前の席にいる部下に檄を飛ばした。
「一個小隊潰すのにいつまで手間取っているのです!!総力を上げて妖精を確保しなさい!!コブラ隊はどうしました!?」
「兵員の降下を支援中です!!総攻撃はいまだできません!!」
部下が叫び返している間にも、米軍部隊の発射したスティンガーが、横を飛んでいたチヌークを撃墜する。
もはや航空管制などあったものではない。
「やかましい、愛国心があるならさっさとやりたまえ!!妖精さえ手に入れば、全てはこちらのものなのですよ!?」
「杉崎課長!!本部の米軍監視チームより連絡です!!」
今度は別の部下が慌てふためいて報告してくる。
「どうしました?」
「房総半島沖を航行中の米タイコンデロガ級巡洋艦が、こちらに向けて巡航ミサイル3発を発射!後10分ほどで着弾します!!」
その報告に、さすがの杉崎も顔色を変えた。
「まだ味方が残っているというのに・・・・・・気でも狂ったか」
「危険です!弾頭が通常のものでない可能性もあります!ここは一時撤退を・・・・・・」
部下の具申を、杉崎は手で遮った。
「いいえ、ここで退いたらまた我々は、60年前からやり直すことになる。入間の第一高射群に迎撃命令!妖精の確保、急がせなさい!」
杉崎の執念が通じたのか、やがて地上部隊の指揮官から得意げな無線連絡が入った。
『〈桜花〉コマンダーよりHQ、米軍部隊の掃討が完了した。現在目標は非武装の民間人二名と共に包囲中、これより確保する、送れ』
「やったぁ!!」
部下達が吉報を喜ぶ中、杉崎は一人怪訝そうな顔になる。
「非武装の民間人?何ですか、それは。米軍ではないのですか?」
「今映像をこちらにまわします」
気を利かした部下の一人がビジュアルディスプレイを用意し、杉崎は覗き込んだ。
暗視装置による緑がかった映像の中で、兵士達に取り囲まれうずくまる3人の人影が見える。
中央にいる金髪の少女が、恐らく妖精だろう。ロシアから入手した資料に載っていた写真と、同じ顔立ちをしている。
その両脇には、若い日本人が二人。
見たことの無い男と、もう一人は・・・・・・。
もう一人は、何だっただろう、あれは、何故だかどこかで見覚えのある、でも、こんなところにいるはずのない・・・・・・。
杉崎はその事実に気付くまでに、5秒ほどの時間を要した。
馬鹿な、何故だ、だって、あれは、そんな馬鹿な――。
「・・・・・・めッ、恵ッ!!?」
冷静沈着な上司の、ありえないはずの絶叫に、機内の部下全員が振り返った。
そして。
『〈桜花〉コマンダーより第一狙撃班、目標周辺の障害を排除しろ、送れ』
部隊指揮官が何のためらいもなく、無造作にそう命じた。
「・・・・・・や、やめッ」
『撃て』
次の瞬間。
予想された銃声は、聞こえなかった。
代わりに、その空間にいた誰もが、ソレを聞いた。
――物言わぬ世界に目覚めを。愚かなる者達に、永久の眠りを。
そして世界は、白一色に染まる。
『・・・・・・お休みなさい』
the end