その日は珍しくいつもより早起きしたので、少し早めに朝食をとっていた
おかげで名雪を起こす頃には俺の朝食は半分ほどになっており
眼前の惚け眼の名雪が完全に覚醒した頃には、ほぼ食べ終わっていた

「あれ?祐一、もう朝ご飯食べ終わっちゃったの?」

びっくりしたように名雪が言う
今日の毎朝恒例の一人フードファイト目覚ましも
残量の少なさと慣れであまり効果があらわれなかったらしい

「いや、後まだ一口残っている」

そう言うと、俺は右手に持っているバターだけを塗ったパンを名雪に見せた

「祐一、ジャムは甘いからあまり好きじゃないんだよね?」

名雪がおかしな事を聞いてくる
確かに、俺は甘い物は苦手だが、そんな事は半年も前から言っていた事だ
今さら聞くことでも無いだろうに、そんな事を思っていると
名雪が台所から何やらジャムの瓶らしきものを持ってきた

「だからね、祐一に甘くないジャムを…」

多分、自分でも秋子さんの了承よりも反応速度が速かったと思う
俺は一瞬でパンを口に放り込むと、ほとんど噛まずに飲み込んだ
喉につまりそうだとか、そんな事は考えなかった、考える暇も無かった
耳から脳に音が伝わるよりも早く身体が動いた、そんな感覚だ
肉体に刻まれた恐怖が神経を、意識を凌駕したのだ、凄いぞ、俺

確かに、甘いものは苦手だ
しかし、甘くなければいいという物でも無い
特に、甘くなくてオレンジ色の原材料不明のジャムなど論外だ

「すまん、もう食べ終わってしまった」

俺はあくまで平静を装って答えた
フードファイトで早食いに鍛えられた喉が無ければ
今ごろ俺は豪快にむせ返り、こんなに平静を保てなかっただろう
芸は身を助けるとはまさにこの事か
俺は無性に自分で自分を褒めちぎりたくなった
すると、名雪は少し残念そうな表情になってこう言った

「違うよ祐一〜これを食べて欲しかったんだよ〜」

何が『違う』のかは、鈍い名雪でも勘付いてくれたらしく
それ以上の批難はせずに名雪は何やら真っ赤なジャムをテーブルに置いた
始めはイチゴジャムかと思ったが、イチゴジャムとは違う色の赤色だった

「なんだこれ?」

俺の問いに、名雪はいつもどおりの笑顔に戻ってから答えてくれる

「あのね、祐一、いつもバターだけでパン食べてるでしょ
それだけじゃあ飽きるんじゃないかなって思ったの
だからね、お母さんに作り方教えてもらって、祐一でも食べられるような
甘くないジャムを作ってみたんだけど…」

なるほど、それは悪いことをしてしまったようだ
となると、俺の取るべき行動はただ一つ

「じゃ、また今度食べさせてもらうよ」

そう言って素早くジャムの瓶を取って鞄に入れた

「あれ?祐一、それ学校に持っていくの?」

名雪が不思議そうに尋ねてくるので
俺は名雪の目を真っ直ぐに見詰め、爽やかに笑いながら答える

「あぁ、食べたい時にいつでも食べられるようにな」

「ありがとう、祐一…」

「名雪…」

お互いの目を見詰め合い、二人だけの空間が展開され
その中で俺と名雪の二人だけの時間が流れる、そして…

「あぅ〜、お腹減った〜…秋子さ〜ん、朝ご飯まだ〜?」

突然廊下から聞こえてきた
真琴の情けない声で俺達はハッと我に帰り
顔を赤らめながら凄い勢いでお互い顔を背けた

「そ、それじゃ、学校に行こうか、名雪」

「う、うん、そうだね、祐一」

そういえば…と思って台所の方を見てみると
秋子さんがニコニコしながらこっちを見ていた
俺はもう一度顔を赤く染めると、逃げ出すように名雪と家を飛び出していた





フードファイター相沢祐一 第四膳{前編}


作:大吉マスター21


学校につくと、北川が死んでいた

「勝手に人を殺すな〜」

返事が無ければただの屍のようなのだが、返事のある屍はどんな屍なのだろうか?

「北川君、大丈夫?辛そうだよ?」

心配そうに名雪が北川に尋ねる
すると、北川は机に突っ伏したまま潤んだ目を上げ、名雪に視線を向けた

「うう…水瀬は優しいなぁ…」

北川はまるで初めて人に優しくしてもらったかのごとく感動している
まぁ、基本的に誰にでも優しいのが名雪のいい所なんだがな…
でもな名雪、サボテンは水をやらんでも勝手に元気に育つんだから
わざわざ水をやる必要は無いんだぞ?

ちなみに北川は俺達が学校に着いた時から机に突っ伏していた
少し熱っぽくて、だるそうで、苦しそうで…
まぁ、早い話が夏風邪をひいてしまったらしい
夏風邪か…俺はある事を思い出し、そしてその事を北川に告げてみる

「なぁ、北川、知ってるか?夏風邪はマヌケがひくんだぞ?」

「…相沢〜、それが病人にかける言葉か〜?」

潤んだ目で俺を睨む北川
はっきり言って物凄く気持ちが悪い

「俺は事実を言ったまでだ
それに、お前、冬に風邪ひいてなかったじゃないか」

俺の中で、さっき言った『夏風邪はマヌケがひく』と
『馬鹿は風邪{冬の、とあえて定義する}をひかない』が
異常なまでの信憑性を帯びていた

「祐一〜、そんな事言ったら北川君が可哀想だよ〜」

名雪が北川のフォローをする
俺にとってはもうこの一言で北川は報われている気がするのだが…
なんか悔しかったので、まだ北川をからかってやろうかと思った瞬間
突然、ドアが開いて香里が教室に入ってきた

「香里、おはよう〜、って、香里、どうしたの?顔色悪いよ?」

名雪の『おはよう』とほぼ同時に挨拶をした俺と北川も
名雪の言葉にうなずく
確かに、今日の香里の顔色はいつもより悪い

「ちょっと夏風邪ひいちゃってね…」

気だるそうにそう言い、緩慢な動作で自分の席に腰掛けようとした香里に
俺と名雪がまた心配そうに声をかけようとしたところ
起き上がる気力も無かったはずの北川が何故か嬉しそうにはしゃぎだし
香里に背を向けて、俺の目の前で興奮気味にしゃべりだした

「どうだ相沢!これでもまだ『夏風邪はマヌケがひく』っていうのか?
学年主席の美坂が夏風邪ひいたんだぞ!?
それともお前は美坂もマヌケだって言うのか!?
学年主席の美坂を!どうだ相沢!ザマァミ…」

北川は言いたい事を全て言い終える事が出来なかった
突然、北川の身体はよろめき、目から光を失い、俺の方に倒れこんできた
もちろん、男に貸してやる胸など生憎持ち合わせていない
そのまま体をスッと右に交わすと、北川は地球の重力に引かれて倒れていった
北川の後頭部にちらと目をやると、そこにはうっすらと拳戟の痕が残っており
案の定、目の前に現れた香里の右拳にはメリケンサックが握りこまれていた

「北川君…」

倒れている北川に香里が声をかける
優しさや哀れみなど、一切感じられない声
それどころか、一言にこの世の闇を全て閉じ込めたかのような恐ろしい響きがあった
当然、教室内の俺と名雪以外の生徒は硬直して身動き一つとれなくなっていた

「貴方、そんなにあたしが夏風邪ひいたことが嬉しいワケ?」

そう言ってじりじりと北川に近づく香里
北川から遠い生徒は、このままこちら側に一ミリたりとも戻るなという祈りのみで心を満たされ
北川に近い位置にいる生徒達は、想像を絶する恐怖で思考を閉ざされていた
人の正常な思考を捻じ曲げ、奪い去る禍々しい殺気

誰が信じるのだろうか?

それが自分達と同じ人間から発せられ
さらにその殺気の理由が、『風邪でイライラしているから』だと

「黙って聞いてれば耳障りな馬鹿声張り上げて
人の事マヌケマヌケって…朝から風邪で苦しいってのに…」

ぶつぶつとつぶやきながら、香里は北川を左手一本で無理矢理起こすと
メリケンサックを握りこんだ右手を思いっきり北川の腹に叩き込んだ
苦しそうなうめき声の後、北川の朝飯のメニューが教室の床にぶちまけられる
それでも、北川の意識は戻らず、香里は殴るのを止めなかった
手で支えるのが面倒臭くなると、香里は北川を壁に押し付け
代わりに超速の連撃で北川が床に崩れ落ちる事を許さない
恐らくこのまま行けば香里の連撃が止むのは、香里の体力が尽きた時
それまで果たして北川の体が持ちこたえる事が出来るのであろうか?

答えは明らかに否

ソレを人では無いものに例えるならば
ソレは拳大の大きさの鉄球を高速で無限に打ち出すピッチングマシーンだ
ソレは電動式でコンセントからこの町の電力全てを頂戴するまで動き続ける
ソレはメンテの行き届いた特別製で、100年使ってもガタが来ない
ソレはもはやピッチングマシーンという名ではあっても、遊具ではない
ソレは同名の兵器として立派に実戦での使用に耐えうるものだ

そして…
兵器とは、人を確実に殺められるものを指して言うのだ

「名雪…止めなくていいのか?」

北川の死の確実性を考えると
このまま放って置いて死なれるのも寝覚めが悪くなる
そこで、最大限の仏心を持って、香里の親友である名雪に助け舟を求める

「あ、う、うん、そうだね
香里〜、それ以上やったら香里、犯罪者になっちゃうよ〜」

名雪が心配そうに香里に駆け寄る
もちろん、心配しているのは親友が前科者にならないように、という事だ
さすがにクズの命と親友の人生では後者の方が圧倒的に重いらしい
ちなみに心の底から安堵している他のクラスメート達の喜びは
香里の殺気が無くなり、自分らにとばっちりが来ない事に対してであり
香里に至っては、『そうね、こんな奴でも基本的人権はあるのよね…
なんでこんな奴に栞と同じ権利が国から与えられてるのかしら、不愉快だわ』
などと、舌打ち交じりに、本当に口惜しそうに言っていた

そんな、『小休止』のムード漂う教室の中
無残に打ち捨てられた北川があまりに無残に見えたので
俺は仕方なく半死半生の北川を保健室まで引き摺ってってやる事にした

「ま、この恩は向こう一週間
名雪のイチゴサンデー代を肩代わりしてもらって返させればいいか…」

北川の頭部から両の瞼を通って流れた血は
まるで北川が流した悔し涙のように見えた
…まぁ、気のせいだろうな
こいつもこのくらいで血の涙を流すほど楽な人生は送って無いだろうし


「久瀬さん、コレは一体どういう事なんですか?」

あくまで笑顔は崩さすに言う佐祐理
しかし、その言葉には明らかに動揺の色が表れていた

「どうって?面白いと思いませんか?
いつもチャンプが勝つだけの単調なフードファイトでは
お客さん達が楽しめないでしょ?
だから、ちょっとした演出を加えてみたんですよ」

久瀬はチャンプが勝つ、という部分に皮肉めいた強調を持って
口元にいやらしい笑みを浮かべながら答える

「しかし、コレは…」

フードファイトの試合会場に視線を移し
佐祐理はわずかに表情をゆがめた
普段と同じフードファイトの試合会場
しかし、そこはいつもとは明らかに違っていた
目に見えての変化はほとんど見られない
しかし、その場に立てばいやがおうでもその変化、異常に気付くだろう
佐祐理はその身をぶるっと振るわせた

「おや、寒かったですか、倉田さん?」

高級そうなぶ厚いコートに身を包んだ久瀬が佐祐理を気遣う

そうだ、ここは寒すぎるのだ
クーラーのききすぎだとか、そういう次元ではない
この町で生まれ育った佐祐理ですら、この寒さは辛い
薄着であるという理由もあるだろうが、それを差し引いても、この寒さは異常だ

「なんだったら、一緒にこのコートを羽織り…」

「遠慮させていただきます」

下心が見え見えの久瀬の言葉を、佐祐理はぴしゃりと強い口調で否定する
口調が強くなる理由は、ただ久瀬のスケベ心に対する嫌悪感だけではない
なんて卑劣な男なんだろう、そういった怒りも含まれている
このあからさまな演出の理由はただ一つ、祐一さんへのあてつけだ
この町の住人は、寒さに強い人間が多い、当然だ、北国の生まれなのだから
しかし、祐一さんは違う、もっと温かい町から来た人間だ
この町の冬を一度しか知らず、しかも寒いのは苦手ときている
しかも、今回の食材ときたら、まさに嫌がらせとしか思えない

今回のフードファイトの食材は『アイスクリーム』
炎天下の下で冷を求めて食するのならまだしも
この極寒の地下で食べるなど、正気を疑う行為だ

「これはフードファイトの歴史を汚す行為だと、自覚して行っているのですか?」

フードファイトの歴史を汚す行為
それは別にアイスクリームを食材に持ち出した事では無い
フードファイトの食材に駄菓子が用いられるのは珍しくは無かった
富と名声のある観客達の中には、名門と呼ばれる家系の者も大勢いる
そういった家系の者達は、ご多分に漏れず幼少の時より厳しい教育を受けている
つまり同年代の子供達のような駄菓子の買い食いなどは夢のまた夢だったのだ
現に、昔のフードファイトにおいて食材のマンネリ化が問題視された折に
駄菓子を初めて取り入れたところ、過去最大の盛り上がりを見せたという
フードファイトの歴史とは、そのような形に囚われた瑣末な事では無いのだ
食材が駄菓子だろうが高級料理だろうが、そんな事は関係無い
フードファイトとは、つきつめれば、ただの大食い競争なのだから

だが、今日のコレは一体何なのだ?
極寒の部屋の中、冷凍製品を食す
これではまるで我慢大会ではないか
いや、まるで、ではない、確実に我慢大会だ
これが視聴率最低の三流バラエティ番組ならば
このような鞍替えもあるいはありであろう

だが、これは『フードファイト』なのだ
元々は確かに金持ちのための座興でしかなかっただろう
しかし、それは特殊性と純粋性が他のどの賭け事とも違う

競技者達が互いの誇りを賭けて行う、最もシンプルな胃袋の競争
食欲という人類における最も根源的な欲求を満たし尽くした向こう側の闘争
自滅はあっても相手に傷を与える事は万に一つも無い最も非暴力な戦争
考えうる最も本能的で原始的、それでいて最も平和的で人間らしい争い
対戦でありながら相手に干渉せず、目の前の食材と、自分自身と争い続ける
人は、通常争えば争うほどケダモノに近づいていく、狂気に飲み込まれるからだ

しかし、フードファイトにそれはあてはまらない
本能のみのケダモノでもシッポを巻くような食欲の過剰充実の苦痛に
フードファイターは背を見せずに立ち向かう、狂気すらも食い尽くして
苦痛に真っ向から挑んでいくその姿は正に人の気高さそのものだ
争えば争うほど人間に近づく、それがフードファイターなのだ
フードファイトの歴史とは、そんなファイター達の誇りの積み重なりなのだ

だからこそ、権力者達はフードファイトに魅せられたのだ
だからこそ、ここまでの規模に発展することが出来たのだ
だからこそ、権力者が私利私欲のために汚れた八百長を持ち込んではならないのだ

佐祐理はそれを誰よりも強く受け止めていた
そんな佐祐理の口調はそれほどには厳しい、咎めるようなものでは無かった
それでも、普段の佐祐理を知る者ならば、誰もが驚くほど強い口調
しかし、久瀬はひるまず、それどころかニタニタと表情のいやらしさを増して言い返す

「今日はまた一段と手厳しいですね…
随分と相沢君の肩を持つ…いや…」

わざわざ言葉を一度切り
佐祐理の目を真っ直ぐに見つめてから言葉を続ける

「このフードファイトの責任者の椅子に未練でもおありですか?」

「…!!」

何も答えられない
佐祐理の顔色がわずかに変わる
その姿を見、サディスティックに久瀬は微笑む
しかし、その表情は急に一変する、驚愕に

呼吸が止まり、分厚いコートでも足りぬほどの寒気が全身を支配する
久瀬の体を襲った異常の正体、それは自らに浴びせられた殺気だった
延髄のわずかばかり上から眉間に突き出るほど深くつららを差し込まれたような殺気
まるで体を凍らされたように身動きが取れない
目の前の佐祐理も驚いたようにこちらを見つめ、動かない
殺気の主は誰か?必死で考えをめぐらすが
恐ろしさに正常な思考を妨害され、答えが出ない
数瞬、まるで時間まで凍ったような静寂が訪れる

静寂を破ったのは、氷で出来た針のように冷たく鋭く、そしてか細い声だった

「佐祐理を悲しませたら絶対に許さない…
前にも忠告したはず…」

声の主は舞だった
背後から久瀬の喉元に果物ナイフを突きつけ
後頭部を憎しみを込めた視線で射抜いている

「…まぁ、冗談はこの辺にしておきますか…」

殺気の主の正体が分かった事で未知に対する恐怖が取り除かれ
何とか平静を取り戻した久瀬がナイフの握られた手を押しのけて舞の方を振り向き
そのまま舞にさして視線を向けずに、彼女の背後にある出入り口を目指して歩き出す

そして、ある程度出口に近づいたところで
突然、歩みを止めないまま言葉を発した

「もちろんこの演出にも意味はありますよ
最近はこちらでも珍しく猛暑と呼ばれる日々が続いています
そこで、あえて趣向を変え、このように寒い中でフードファイター達を競わせ
それを暑い部屋で観客の皆様に見せる事で、冬の辛さを思い出してもらい
この暑さを楽しんでもらおうという、心づくしの納涼接待ですよ
クーラーの効き過ぎた部屋に篭らせるよりもよっぽど健康的だと思いませんか?
もちろん、電気代を含め、かなりの費用がかかりましたが…なぁに
いつも一方的な試合でつまらない思いをさせている観客の皆様のためです
身銭を切ってでも娯楽を提供させていただくのは私の義務ですからね…」

本日の試合でチャンプが負ける事を思えば、ほんのはした金ですとしね…
最後の呟きと、口から漏れ出でそうな下卑た笑いをかみ殺し
久瀬は佐祐理と舞に背を向けたまま、重いドアを開けて去っていった

「佐祐理…大丈夫?」

呆然としていた佐祐理に舞が声をかける

「えっ?…!!
あ、あはは〜、佐祐理は何でも無いですよ〜
心配いりませんよ、舞、それよりも早くここを出ましょう
風邪をひいてちゃったら大変だからね…」

『何でも無い』とはとても思えない動揺ぶりだったが
舞はそれ以上、この件についての会話を続けるつもりは無かった
長い付き合い、いや、その年月以上に深い付き合いなのだ
完全に理解している、と言えば傲慢なのかもしれないが
親友同士、分かってやれる部分は確かに存在する
だから、これ以上ここであれこれ言っても仕方が無い事も分かる
つまり、それは佐祐理のためにはならない、ならばしない方がいい
大丈夫、この苦しみから佐祐理を解き放つ事は必ず出来る

そう考え、舞は佐祐理に促された通りに
ドアを開け、外界に戻ろうとする
とりあえず、今は祐一を連れに行く事が先決
大丈夫、祐一はこんなことで負けるような男じゃない
祐一が勝てば、佐祐理の心の痛みもいくばくかは和らぐ

そう、祐一が勝てば…

舞は一瞬目をつぶってそう呟き、そして強い決意を秘めた目で
開かれたドアから飛び込んでくる真夏の日差しを見据え
力強い一歩で極寒の地下と灼熱の地上の間の空気の壁を破った


「今日は日が悪いから帰る」

祐一は、冷気に触れた刹那にそう言い放ち
地上へのドアへ手をかけた

「祐一、逃げるな」

そう言って舞が祐一の制服の襟を掴んで引き寄せる

「…か、川澄先輩、俺も今日は…」

体調が悪くて、と言いかけて北川は何も言えなくなる
舞の視線が北川に語りかけていたからだ
『黙ってろ、さもなければ殺す』、と

北川が黙っても、祐一は黙っていない
首だけ振り向いて口を開く

「嫌だ!こんな寒い中でフードファイトなんか出来るか!
しかもなんで食材が『アイスクリーム』なんだ!?
奇人変人大集合じゃあるまいし!詐欺だ!ペテンだ!
こんな勝負は無効だ!じゃ、そう言う事で!!」

駄々っ子のようにひとしきり叫び終わると
しゅた!と左手を手刀の形で垂直に振り上げ
祐一は右手に掴んだドアノブに力を込めようとする

そのあまりの情けなさに、舞はさきほどの自分の決意が
段々と揺らぎだしているのを感じた

「ゆうい…」

舞が祐一を呼び止めようとすると
突然三人の背後の柱の影から声が届いた

「チャンプがギブアップするなら、私の不戦勝ですね」

「この声は…」

不思議そうに振り向いた舞とは違い
北川と祐一は顔を見合わせてから柱の方を見た
まさか、そんなはずがあるわけが…

しかし、祐一と北川の予想は的中した

「こんにちは、祐一さん、今日はお手柔らかに」

柱の影から現れ、くったくの無い笑顔で微笑みかけてきた少女は
まぎれもなく彼らのクラスメート、美坂香里の妹、美坂栞だった

「なんで栞がこんなところに…」

この通路はチャンプや対戦者、そしてセコンド以外は
舞や佐祐理さん、久瀬ぐらいしか立ち入りを許されていない通路だ
応援や観戦のために来たのなら、この通路を通るのは『あり得ない』
だが、考えられるたった一つの理由はもっとあり得ない事だった
祐一がまさかな、と、自分の考えを一笑に伏そうとした瞬間
栞自身の口から祐一が否定しようとした考えを肯定した

「それは…」

ちょこん、と唇に人差し指をあて
悪戯っぽく微笑みながら言葉を続ける

「私が今日の祐一さんのフードファイトのお相手だから、です」



………………続く………………