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燭陰の鬱
――始まりは一冊の本だった。
「サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいいような話だが、それでも俺がいつまでサンタなどという想像上の赤服じーさんを信じていたかと言うとこれは確信を持って言えるが最初から信じてなどいなかった。
幼稚園のクリスマスイベントに現れたサンタは偽サンタだと理解していたし、記憶をたどると周囲にいた園児たちもあれが本物だとは思っていないような目つきでサンタのコスプレをした園長先生を眺めていたように思う。
そんなこんなでオフクロがサンタにキスしているところを目撃したわけでもないのにクリスマスにしか仕事をしないジジイの存在を疑っていた賢しい俺なのだが、宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力や悪の組織やそれらと戦うアニメ的特撮的マンガ的ヒーローたちがこの世に存在しないのだということに気付いたのは相当後になってからだった。急に陽が陰った。気温は変わらない。坂の七分目あたりで俺は息を吐いた」
――あの本を読んで以来、心が沈みこんで仕方がない。出そうで出ない溜息に嫌気がさす。
「僕は普通人、というわけでは決してない。むしろその普通人というのが眩しくてまっすぐ見れぬほど、僕は劣っているのだ。そういう意味では確かに僕は特別な存在である、と言えない事もないかもしれない」
――酷く陰鬱な気分だ。誰でもいいから僕を救ってはくれまいか?
「君は宇宙人という者が本当にいると思うかい?」
「なんだい、藪から棒に。君はいつからサイエンスフィクション作家になったんだ? 流行りものに飛び付きたいだけならやめておきたまえ。たしかに君の作品を読み進めるには、世間一般の人々がハードSFを理解するのに似た難解さがあるがね。SF小説を書くにはそれなりの専門知識が無いと、まず最初に恥をかく事になるよ」
「そ、そうじゃない。君はもし、この地球以外の星に人間がいると言われたら信じるかと、そう聞いているんだ」
「そりゃ地球に人類がいるぐらいだ。生物が適合できる環境さえ整っていれば、火星に烏賊がいたって驚く事じゃない。ただ、『幼年期の終わり』を執筆したアーサー・C・クラークは、人類は西暦2000年までに月へ到達するだろうと予測している。月までいくのにあと50年近くかかるのだから、それより遠いところから行き来するとなるとこの星と比べてかなり科学技術が発展した星から来た事になるね。そこを突き詰めて考えれば、SF小説を書く構想として悪くないかもしれない。
だが、君がそうやって持って回った言い方をするって事は、またどうせ君自身にも理解できない厄介事を押し付けにきたんだろう?」
「あ、あぁ。僕にも信じがたい事なんだが、宇宙人を自称する少女に会ったんだ。そして僕にはそれがどうも本当の事としか思えない」
――ちっぽけな自分に絶望する。生きている事に申し訳なさを感じる。呼吸をしているだけで、後ろめたさに息が詰まる。
「未来に起こる事を予め知っていたと言う事は――つまり彼女は預言者なのですね。神様の託宣を聞けるといった類の特別な力があって、先の事を知る事ができるという」
「いえ、彼女は自身に特別な力など何一つ備わっていないと言っています」
「そ、それはおかしいじゃないですか。彼女には未来を知るという特別な能力があるはずだ。能力が無ければ、どうやって未来の事を知る事ができたんですか?」
「それがですよ――笑わないで聞いて下さいね? 彼女はどうも、未来からやってきた未来人なんだそうです」
――宇宙人と未来人と超能力者が笑ってる。僕を見下して笑ってる。さぞや愉快な気持ちだろう。そう思うと情けなくて死んでしまいたくなる。
「要するに、その神だって女が自称超能力者どもの親玉なんだろ? そんならてっとり早くそいつをしょっぴいて、騒動をやめさせればいいじゃねぇか」
「そういうわけにはいかないんですよ。どうやらその神様は、自分が崇められているって事を知らないみたいなんです」
「なんだそりゃ? 信者が勝手に崇めるだけで何もしないって、そんな教祖は聞いた事ねぇぞ」
「教祖じゃないんですよ。神様なんです」
――なんで彼女は気付かないんだろう。世界はこんなにも不思議で満ちているのに。煩雑で理不尽で理解できなくて、僕などはもう狂わないでいられるのが不思議なぐらいなのに。
「彼女はこの退屈な世界にうんざりしている。ならばこの世界にはまだまだ不思議が満ちているのだと、そう教えてあげるのが大人の役目だろう?」
「そうやって彼女を永遠に赤い夢の世界へと縛り付けてしまうつもりですか、大佐」
――関わらないで下さい。ほっといて下さい。お願いですから、僕を見捨てて下さい。
「彼らの監視をする事ほど無為な事はないよ。なぜなら彼らもまた監視しているだけだからだ。指をくわえて行列の後ろから見ているぐらいなら、彼らの中心に直接近づいてみたらいい」
「つまり、君は僕らに彼女たちの仲間になれと言っているのかい?」
――世界とか力とか、そんなものとは無縁でいたかったのに。振り回されるだけなら、巡り合わなければよかった。
「つまりその会社の急成長には、未来人が関係していると君は考えているわけだね」
「えぇ、その通りです。情報は経済戦争における重要な武器ですからね。もし未来の情報を知る事ができたなら、これは武器なんてものじゃありません。もう兵器と言っても過言ではないレベルですよ」
――毎日が憂鬱で溜息が出る。退屈な人生を消失させたい。精神が暴走して動揺するのは誰かの陰謀だろうか? 己の矮小さに憤慨し、思考が分裂する無様に驚愕する。僕はまだ、終われないのか。
「そいつは自白したんだろ? なら凶器はどこだ? 死体はどこに隠した? わけわかんねぇ事言ってんじゃねぇぞ!!」
「俺もそう思いますよ。でも彼女は、自分は宇宙人だ。敵対行動をとった相手の情報連結を解除した、の一点張りでして」
――君達には分からないだろう。僕がどれほど苦悩しているか、どれほどの地獄にいるか。
「人が一人死んで消えてるんだぞ!? それでも不思議じゃねぇって言うのかよ!!」
「仕方ないだろう。それが彼らの役割なんだ。だが、これは流石に巻き込んだ人数が多すぎるな。下手をすれば、彼女の世界が壊れてしまう」
――終わらせてほしい。自分では終わらせる勇気が持てない。終わってしまうと思うと恐ろしさに押しつぶされそうになる。
「ほら、あの人が依頼に来たんだよ。うちの馬鹿爺と一緒にコオロギ探してた人。たしか、ちゅるやさんといったか」
「ひょっとして君は鶴屋家のご令嬢の事を言っているのか? あの、未来人とつながりがあるとかいう」
「そう、その人だ。なんだ、君の方がよく知ってるんじゃないか。それで、隣にいるその憂鬱そうな奴は一体誰なんだ?」
――もう一人の神がやってくる。終わらせるためにやってくる。
「このままでは、世界が崩壊してしまうのです」
「ほぅ、それは大変だ。それで、貴方達は僕に何をしろと言うのです?」
「彼女に憑いた燭陰を落として欲しいのです」
――赤い球が舞っている。青い巨人が踊ってる。でも、黒い男だけは微動だにせず僕を見つめていた。
「異世界人だかイギリス人だか知らないが、そんなややこしい奴に来られてもいい迷惑だ! 神である僕がいて、手足となる下僕がいればそれが薔薇十字探偵社だ。下僕は僕のために働くから下僕なのであって、そんな連中の氏素性なんてめんどくさいもの一々考えていられるか!」
――やめてくれ。近づかないでくれ。君達など、神の力の前では矮小な存在に過ぎない。人が虫けらを踏み潰しても気づかないように、神様は思わず人を消してしまっても気づく事すらできない。
「僕は何をすればいいんだい?」
「君は小説家なんだろう? なら新作を書きたまえ。いつも言い訳ばかりして暇を持て余す君が自らやる気になったのはいいことだ。恐らく彼女も作品の続きを待っているはずだからね」
――大き過ぎる力を持てば、うかうかと溜息をつく事もできない。そのくせ、僕には自分で自分を止める勇気すらなくて。
「世界を変える事など容易い事だ。己が在り方を変えれば世界は驚くほど柔軟にその形を変える。いやいや、君が思うほどそれは難しい事じゃない。私は、その手伝いが得意なんだよ」
「き、君は。君達は、誰だ?」
「――ジョン・スミス」
――終わらせる事も止める事もそれ以上考える事もできない。ならばもう委ねるしか。流されるしか選べない。
「もう少しでこの世界は変えられる。邪魔をしないでもらおうか!!」
「ああ、そうさ。貴方を含めて、僕達は邪魔者なんだ。この世界にとっては必要のない存在なんだ。僕らこそ、三文小説の登場人物達なんですよ」
――振り回されるのはこりごりだ。怠惰な生き方に憧れる。それにすらなれない自分に絶望する。
「ただの人間に神の何が分かる! お前に神をコントロールする事などできない! お、お前は神の力を理解した気になっているだけだ! 奢るな拝み屋!!」
「貴方こそ勘違いはもうよした方がいい。貴方達にとって神とはあの力であり、その力を持たされた彼女はただの人間だ。人間なら風邪だって引く。しかも、それが心の風邪なら下手な処置は命に関わる」
「う、煩い! 神にそんな事が起こるはずがない! 神は唯一絶対だ! 神は――」
「それが勘違いだと言っているんだ。おい、神が彼女一人だけなのだと、誰が貴方に教えたんだ?」
――力の存在など知らなければ良かった。
「宇宙人の事件、未来人の事件、超能力者の事件はこれで終わりだ。最後に――神の事件について話をしよう」
――大き過ぎる力に心が押しつぶされる。世界を変える力があるからどうだって言うんだ。蝋燭の灯に近づきたい者にとって、一息で蝋燭の火を吹き消せる力があっても意味がない。火を消してしまえば、僕はまた暗い憂鬱の中に沈んで二度と浮かびあがってこれない。そして弱い僕は蝋燭の明かりから離れても生きられない。どうしようもない現実に死にたくなるのに死ぬ事ができない。狂いたいのに狂う事もできない。考えれば考えるほど気分が沈みこむ。どこまでも鬱屈するこの気持ちこそ――燭陰の鬱だ。
「あなたは、誰なの?」
「そうですね、貴方達の流儀に合わせるのならジョン・スミスとでも名乗るべきでしょうが――残念ながら僕はどこにでもいる、ただの憑き物落としの拝み屋ですよ」
――救えない。自分の力では自分自身を救えない。なら、せめて同じ苦悩を背負う君だけでも。
「君には、本当の憂鬱は分からない。君はこの世界から消えてしまいたいと思う事があっても、どこの世界からも消えてしまいたいという願いは理解できない。――でも、君はそれでいいんだ」
――ああ、酷く陰鬱な気分だ。
「世の中には不思議でないものなどないのだよ涼宮さん」
「この世に不思議なことなど何もないのだよ涼宮君」
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