久が原研究ノート 第3巻
2004年5月30日リリース

久が原の工場

「久が原散策」のイントロに当たる「久が原へようこそ」でも述べているように、久が原の中でも呑川や第二京浜国道に近い二丁目、五丁目の地域には京浜工業地帯の町工場の西端として中小の町工場があります。最近はその多くが中低層のマンションに建て変わり街の景観も大いに変わってきていますが、大田区が発行する「大田区の工業」に基づいて久が原の工場数(統計上の「製造業の事業所」の数)、工場の従業員数の推移について、特に土地バブルの影響を調べてみました。
グラフ3−1にこれまで公表されている1977年から2000年までの工場数の推移を丁目別に示してあります。調査はすべての工場を対象とする「全数調査」が行なわれる年と、従業員4人以上の事業所のみを対象に行なわれる年とがあるので、グラフでは全数調査のデータには黄色の星印を付してあります。星印のあるグラフと無いグラフとは別々の連続性をもつことになります。丁目別で見ると工場の数は二丁目、五丁目、四丁目、三丁目の順番に多いことがわかります。土地バブルが始まった1985年以前と以降とでは明らかに推移の様子が変わっています。合計数で見ると1985年以前は90件余りでほぼ横ばいであったものが、1988年には73件に急減しています。そしてその後1998年まで単調に減少を続けています。
土地バブルの前と、バブルがはじけて「失われた10年間」が始まった1990年代初頭の「全数調査」と「従業員4人以上の事業所対象調査」の変化を比べると興味深い事実が浮かび上がります。土地バブルが始まった1985年の「全数調査」による工場数は88。その前年(1984年)の従業員4人以上の事業所数は51。その間に工場数に大きな変化が無かったとすると従業員数が3人以下の零細事業所の数はその差の37になります。これをバブルがはじけた後の1990年(全数調査)と1991年(従業員4人以上)に当てはめてみると、全数が71。従業員4人以上が46。その差は25になります。すなわちバブル前後の1984年から1991年の間に従業員4人以上の事業所は51件から46件に9.8%減少したのに対して、従業員3人以下の零細事業所は37件から25件へと32.4%の減少となり、バブルが零細企業を直撃した実態が示されています。
グラフ3−2は「工場」で働く従業員数を丁目別で示しています。バブル前後の変化を見ると、上記のように撤退、廃業を余儀なくされて工場を畳んだのが従業員3人以下の零細事業所に多かったことから、従業員数の変化は工場数の変化ほど明確ではありません。しかし1990年代以降も漸減傾向は変わらず、久が原の「脱工業地域」化は確実に進んでいると言えるでしょう。
グラフ3−3は「全数調査」のデータに限った上で、久が原と大田区全体の工場数、従業員数の変化をそれぞれ1977年を100とする指数表示で示したものです。大田区全体の工場数は1977年に対して1983年の数値が大きな増加を示しているため全体のカーブが他のカーブよりも上位に位置しますが、これを補正すると久が原の工場数の推移とほぼ一致する動きが見られます。これに対して久が原の工場従業員数の変化は大田区全体の落ち込みに対して減少の度合が少ないように見受けられます。これは特にバブルの前後の差になって現れています。推測ですが、久が原の工場従業員人口は後述の寺岡精工など特定の大企業に依存している点が「町工場全般の傾向」と異なる状況を生み出しているのではないかと思われます。
グラフ3−4は工場当りの平均従業員数を丁目別と久が原合計で示しています。そこで示されている数字自体にはあまり意味はありませんが、全体調査時の久が原全体の線(赤の太線)がバブル前から失われた10年間にかけて漸増傾向にあるのは、零細工場が閉鎖されて平均従業員数を押し上げているせいではないかと思われます。久が原5丁目のデータが群を抜いて高いのは同所にある計量器のメーカー寺岡精工の本社工場のためと思われます。

次回以降の予告・・・
久が原は「お屋敷街」か?(世帯当りの敷地面積の推移)  久が原における少子高齢化の実態 など[順番未定]を計画しております。


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