久が原研究ノート 第2巻
2004年2月11日リリース

久が原の人口推移

オーナー多忙のため8ヶ月余り休止していた「久が原研究ノート」の第2巻を刊行します。第1巻が地価の推移を取り扱ったので、今回は人口の推移を取り扱います。
過去の久が原の人口(男女別、年齢別)や世帯数は区役所2階の区政情報センターなどで閲覧できますが。戦後しばらくの資料は出張所別になっており、久が原を含む調布地区の内訳は残念ながら1948年(昭和23年)以前のものが残っていません。そこで今回は1949年からのデータをもとに推移を調べてみました。

グラフ2−1は1949年から2003年までの人口の推移です。各年のデータは転勤や転校などの移動が落ち着く6月1日の住民基本台帳のデータを使用しています。1949年から1968年までは旧住居表示により「久ヶ原町」の人口を、1969年以降は新住居表示に基づいて1丁目から6丁目に分けて表示しています。この住居表示変更の際には「久が原の歴史」に記述してある通り近隣の町との間で境界の移動も行なわれており、人口・世帯数が不連続になります。但し、1968年のデータは前後共に不連続な特異値を示しており、同年9月1日の住居表示変更を控えて何らかの調整や漏れがあったのかもしれません。
1949年から1960年代前半にかけての人口増加は、東京都区部の人口増加カーブと強い相関を示しています。戦後復興期から高度成長期に向けて東京への人口集中が続いた時期でしょう。住人の記憶としては1950年代前半にはたくさん残っていた耕作地や空き地(空襲の焼け跡?)に次々と住宅が建って遊び場が減ったことなどがあります。
1985年の「プラザ合意」に端を発する「土地バブル」は久が原研究ノート第1巻に示した通り久が原の地価にも大きな影響を及ぼしました。人口を見ると1986年からほぼ単調に12年間にわたって減少を続けています。住人の印象からすると、大きな邸宅が相続税対策で売却されて小規模な建売住宅やマンションに変わっていくのを見ているので人口が増えてもよさそうですが、人口の増加は1999年まで起きていません。土地バブルの最中には売却された土地が更地のまま放置されたり駐車場になっていて、人口が減少したのもうなづけますが、やはりバブル崩壊後の「失われた10年」は久が原の人口回復にも暗い影を落としていたのでしょうか。なお、1998年から1999年への人口急増は丁目別に見ると5丁目の人口が急増しており、「ヒルズ久が原」の完成が全体人口を引き上げていることが判ります。

「久が原の歴史」に記されている様に、現在の碁盤の目の様な久が原の街並みは昭和の初めの区画整理で整備されました。「池上町史」は昭和元年(1926年)から昭和6年(1931年)までの池上町の各字(あざ)の人口・世帯数を示しています。この時期の「大字 久ヶ原」の人口とグラフ2−1とを一つにプロットするとグラフ2−2ができます。このグラフは1932年から1948年までのデータがありませんが、昭和初期の宅地整備に伴う人口急増の延長上に戦後の人口増加が乗っているのは驚くばかりです。勿論、実際の人口は太平洋戦争を通じて空襲や疎開による減少や終戦直後の急増など複雑なカーブを描いたと思われますが。

グラフ2−3は、グラフ2−1と同じ1949年から2003年の久が原の世帯数と男女別の人口の推移です。データはグラフ2−1と同様に毎年6月1日のものを使用しています。1993年にそれまで男性の方が多かった人口が女性優位(あくまで数の上で)に転換します。東京都区部での逆転はその2年前の1991年に発生しています。東京都区部では世帯数、男性人口、女性人口が一点に収斂する様に推移していますが、これは数字上は1世帯当り男性1人、女性1人の構成に限りなく近づいている事をしめしています。久が原のグラフを見ると世帯数と男女の人口との間にはまだ開きがあり、1世帯当りの人口(統計上の家族数)が東京都区部の平均よりも多い様です。


「久が原研究ノート」に対するご意見・ご感想をゲストブックまたはメールにてお寄せ下さい。

次回以降の予告・・・
久が原は「お屋敷街」か?(世帯当りの敷地面積の推移)  久が原における少子高齢化の実態 など[順番未定]を計画しております。


「久が原散策」トップページに戻る