心がどのように変化したか

   (心の階段)

1.はじめに

それでは、妻の発病から今日まで一介護者としての私自身の心の中がどのように移り変わって来たかについて説明いたします。この心の問題を考え始めて、まずわかったことは、大変皮肉なことですが、妻の症状が進行するにつれて、私の心の平穏が得られるようになって来た、ということです。一般的には、症状が進行するほど、心は乱れ、平穏からほど遠くなっていくと考えるのが普通だと思います。ところが、私の場合は、その逆であったことを、これからの説明でご理解いただけると考えます。

2.心の階段

 心の問題を考えるようになって次にわかってきたことは、心の変化には、何か階段のようなステップがあるということでした。心というものは、色んな要因によって(この点は後でもう少し詳しく説明いたします)変化するものと思います。ここでは、主として妻の病状の変化(これも一つの大きな要因)に伴って、私の心がどのように変化して来たかについて考えてみます。 

(1)憎む、恨む――の時期

 発病当初は、もの思いに沈み込んでしくしく泣いたり、思考の論理性が欠けて来たり、もの忘れがあったり――といった状況でした。まさか、妻が「アルツハイマー病」だとは思いもよりませんでした。そのため、“何故、こんな不可解なことをするんだ!”と大変に感情が高ぶったものでした。

そうこうするうちに、アルツハイマー病の典型的な症状である徘徊が始まりました。朝起きてみると、妻が見当たりません。どう考えても寝間着1枚で外に出て行ったとしか思えません。あわてて衣服や靴、靴下などをかき集めて外を捜しまわったこともありました。幸い見つけだしては家へ連れ帰り、 住込みの家政婦さんに後を託して、あたふたと会社へ出かけるといった具合でした。

 さらには、暴力的な行動も激しくなり、妻に常時ついていてくださった家政婦さんの苦労は並大抵ではありませんでした。家政婦さんをつねったり、たたいたりするものですから、いつも両腕にアザを作っておられました。よくぞ妻の世話を続けていただいたものと思います。

 また、家の中のあらゆるものを部屋中にぶちまけるという行動もかなり続きました。本棚、食器棚、タンスなど、中のものを引き出しては、所かまわず放り投げてしまいます。大きなソファーやタンスがひっくり返っていることもありました。他にもっともっとみじめな出来事が次々と起こりましたが、この辺りにしておきましょう。

 ともかく、私自身、まだ妻が病人だとはどうしても思えず、その都度逆上して、どなったり、手を出したりしたことも1度や2度ではありません。何とも非生産的で情けない日々が続きました。

 この時期の私の心情は、正に「憎む、恨む」の状態でした。病気を憎めばいいものを「どうしてオレにこんな目に逢わせるのか?」と、どうしても本人にあたってしまい、後からすぐ後悔して、打ちのめされるといった、何ともつらく苦しい時期でした。(前にも書きましたが、私はまだ、この当初は、会社に勤務していました。土、日曜は家政婦さんにお帰り願って、私一人で介護をしていましたが、多くの出来事は、大半、家政婦さんにふりかかって来ました。何人かの方は耐えられずお辞めになりましたが、二人の方にはよく頑張っていただき何とか切り抜けていただきました。)

 勿論、医療に関しましては最高レベルの先生方の診療を仰いでいました。しかし、アルツハイマー病との診断から、治療法としては、脳の血流を促進する薬と精神状態に合わせて安定剤を変える、といったいわゆる薬物療法のみで、妻が徘徊する、あばれるといったことに対しては、何の打つ手も期待できませんでした。

 このことが、私の医療への不信となり、「何か私の為にしてくれることはないのか!」と、当時、イライラをつのらせる原因ともなっていました。 

 以上が、妻の発病から、私が経験して来た心理的状態の最初の段階でした。図表のなかでは判然とし難いと思いますが、これまでの介護の中で、もっとも長く(3〜4年間あるいはもっと続いたかも知れません)、もっとも苦しい時期でした。もうこの状態には絶対に戻りたくありません。

 

(2)あきらめる――の時期

 上記のようなみじめな日々を過ごしていましたが、このままの心理状態を続ければいずれ潰れてしまうという、何とはなしの危機感、不安感を感じるようになって来ました。そして、これらの感情が推進力となって何とかこの状況を打開せねば……という弱々しいながらも、新たな力が出てきたように思います。

 その力によって「同じような境遇の人はどのように対処しているのか」「福祉として何か助けていただける制度はないのか」――など未だ勤務中で時間がとり難い中、少しずつ情報を集める努力をするようになって来ました。そして、色々な情報に接するにつれ、自分だけが悲劇の主人公ではない、同じような、いやもっともっとご苦労されている方々がおられる、ということも判ってきました。

 しかし、まだこの時期、悲しいかな妻の病気をしっかりと受け入れて対処するという状況までには至りません。本人は病気なんだから――と思わねばならないと考えつつも病人とは思いたくない、という心情もあって、「よし!本人は病気なんだから、そのつもりで介護してやらねば………」といった、一気の転心は出来ませんでした。言葉を替えれば、妻の元気だった時代の残像がどうしても消し去れなかったということになるでしょう。

 私に出来たことは、現状を「あきらめ」としてとらえるということでした。つまり、「今さらバタバタしても、どうしようもないんだから………」というのがやっと行きついた次の心の階段でした。

 しかし、この段階とて、前の「憎む、恨む」の段階より、私にとっては、何倍も、ましな心理状態だったと思います。こんな中間的なステップを一気にスキップして、病気をサッと受け入れて対処してやれれば、妻にとってはもっともっと快適な日々になったことと思います。しかし残念ながら、私にはこの「あきらめる」の心理状態が1〜2年は続きました。

 病状的には、まだまだ過激な行動がある反面、少しずつ歩行が、困難になったり、食事の介助が必要になったり、といった具合で、介護の質が徐々に変わって来た時期に当たります。

 

(3受け入れる――の時期

 アルツハイマー病と断定されて5〜6年後、徐々に病状は進行し、身体的機能、つまり歩行や言葉の発出、食事の摂取・排泄などが、不自由になって来ました。自ずと介護の質は精神的な負荷から肉体的な負荷の増大へと変化して来たように思います。

 1997年8月末に、私が60才になったのを機に、これまでの勤務と介護という二足のわらじを脱いで、仕事を断念し、介護に専念する道を選びました。「仕事を断念する」、とひと口に言ってしまえばそれまでですが、まだまだ男としてやりたい夢は一杯持っていましたので、大変苦しい選択でした。しかし、私の決め手となったのは、「このまま仕事を続けていれば、どうしても仕事に流されてしまい、妻の介護に全力投球できず、必ずや後日悔いを残す」ということでした。そして、今日では、この道を選んで本当に良かったと心底思っています。

 この退職を機に家政婦さんもお断りし、私一人で妻を介護する日々となりました。常時家に居られる状態となりましたので、

・地場で往診して下さるお医者はおられないか(それまでは、1ヵ月に1回、東京の品川の先生の所へ薬をもらいに私一人で出かけていました)

・福祉サービスとして訪問看護をどこから受けるか、またそれ以外にどのようなサービスがあり、利用できるものは何か 

など、チョットした情報を頼りに電話をかけまくると同時に社会福祉事務所や保健所のアドバイスを得て、新しい介護体制づくりに奔走しました。

そして、この努力が徐々に実り、毎週往診していただける最高の先生(現在の主治医)、週4回(現在は3回)までも熱心に訪問してくださるリハビリの先生、主治医の指示に従って訪問して下さる訪問看護の看護婦様、それ以外に週2回のホームヘルパー様、週一回の入浴サービスのスタッフ様など、まさにモザイクのように一つずつ組み立てが進み、今では私の宝ともいうべき素晴らしい組み合わせ(チーム)が出来上がりました。このように、症状が進行する中ではありますが、妻に何かが起こっても、我がチームで対処していただけるという何にも替え難い安心をいただくことが出来るようになりました。

前の段階までは、妻の行動が予測できないため、常時神経をすり減らして、側を長時間離れることはまず不可能でした。しかし、この時期の初期には、一日の大半をソファーに座ったままで、過ごすようになりましたので(部屋を動きまわることはできなくなりました)、ヘルパー様に来ていただいた時などに買い物に出るとか互助組織の方々に留守をお願いして先輩や友人と会うため、昼のみならず、夜の外出も可能となってきました。

この頃から、ようやく妻の病気を心の中で受け入れて対処していけるようになって来たと思います。今までは、妻の不可解な行動に出会うたびにイライラのし通しだったのが、病気なんだから、やさしくしてやらねば、と思うようになり、それまでとは違った心の安定が得られるようになってきました。

「受け入れる」ことができるようになった、この時期の後半には、妻は言葉も全く出なくなり、今までの私の大きな支えだった笑顔も失いました。食事も流動食から液体食しかはいらなくなりました。また、歩行も全く不可能となり、1日の殆どをベッドに寝たきりで過ごす状態となりました。

しかし、ベッドに寝てくれている限りは、ほぼ安心して短い時間(長時間の場合は留守をお願いして)の外出の自由がきくようになり、月に4、5回は都心まで出かけては、先輩や友人との再会も楽しめるようになりました。一般の方に比べれば制約の多い生活ですが、念願だった油絵を描くことにも挑戦できる心のゆとりをいただくことが出来ました。

勿論、主治医の先生やリハビリの先生を始め、妻をお世話いただいている皆様(私のいうチーム)のご努力のお陰で、ここ1年ほど病状が安定しているということも、心の平穏をいただける大きな要素となっています。

そして、今日、私の心は、この「受け入れる」の上のほうの階段まで上がって来たのではないかと考えています。

(4)感謝――の時期

この段階は、未だ私の体験していない世界で、本当のところは、はっきり判りません。しかし、想像するに「受け入れる」の次に来る階段は、「感謝」ということではないかと思います。

多分、この階段では、これまで妻が私に示してくれた、尽きない愛、思いやり、陰ながらの絶大なる精神的支援、倹約に努め、生活をキッチリと守ってくれたこと等など、多くの感謝の念を抱いて生きる日々となるのではないかと思います。

その時には、介護は「快護」となり、もし、名介護という言葉があるとしますと、私は「明快護」となっているかも知れません。

我々二人が共に過ごせる月日が、これからどれ程残されているかは、God only knows ですが、一刻も早く快護、明介護の心の状態で日々を送りたいと願っているところです。

(5)心の階段の上下動

 今までの話で、私があたかも順調に心の階段を上って来たかのようにお考えかも知れません。

 しかし、現実はまさに行きつ戻りつ(上がりつ、下がりつ)しながら、少しずつ、結果として階段を上がってくることが出来たということだと思います。

 何か予期せぬ出来事が起こると、落胆してしまい、「憎む、恨む」の階段まで、ころげ落ちるといったことも度々でした。

 さらに、「憎む、恨む」の階段より、もっと悪い階段へ足を踏みはずそうとしたこともあります。その悪い階段とは、自分が精神的に潰れてしまうという状態がその一つです。私は幸いこれより悪い段階に落ちるということはなかったと思っていますが、妻を施設に預け放しにし、この際とばかりに厄介ばらいするとか、離婚、自殺といった最悪のシナリオも考えられないことではありません。こんな不幸に至らなかったことを幸せに思っています。

 何故、自分だけが貧乏くじを引かねばならないのか、と日常ふっ切れない感情で、介護を続けておられる方も多いと思います。私もそんな時期が随分長くありました。しかし、人間たるもの、必ずやこの非生産的な階段から抜け出し、上昇するチャンスと能力を与えられているものと確信しています。

(6)上の階段へ向かわせる原動力

では、私が、心の階段を遅々としてではありますが、一つ一つ上がってこれた力の源泉は、何だったのでしょうか。

これまで、申して来ましたように、病状が進行する中でも、医療や福祉サービスの体制が整ったことが、私の心の平穏を得る大きな力となりました。しかし、これ以外にもまだ他に私の心をつき動かして階段を上がらせようとした力がありました。

それは、私の心の奥底にある変え難い妻への愛情、三十数年、私を支え続けてくれたことへの感謝、そして、例えばどんな事態が起こっても逃げずに、悔いのないベストなことをしてやろうと、難しい問題にも立ち向かって行った勇気、これらが私を上の階段へ押し上げてくれた本質的な要因だと思っています。

 

以上、私の心の階段を大きく「憎む、恨む」「あきらめる」「受け入れる」「感謝」の4つに分けて説明してきました。しかし、より厳密には、大きな階段の中に、もう少し小さい階段が、全部で6つあったと考えています。

こうしたことを念頭に以下の図表をご覧いただけると幸いです。

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