
五本木3丁目
鷹番1〜3丁目、
碑文谷2・4〜6丁目 |
地域のボランティア活動と法人会
昭和40年代前半、都内の交通事故による死者数は、毎年7〜800人にのぼり、44年には864人が死亡、この年代の最高を記録した。
小松川署管内ではこの年(44年)死者37人を記録、交通事故多発地帯の汚名に甘んじていた。このうちの子供の死者が13人と多く、都内の子供の全死者数148人の10%に近い、飛びぬけて多い死者数であった。
こうした状況下、地元の小松川警察署は、交通安全協会、青年会議所、町会など、関係者の協力を得ながら、現状を打開するため協議をかさねた。
その結果、「子供自身の組織的な交通安全活動が効果的である。」との結論に達し、昭和45年11月、小松川安全協会の下部組織として「小松川交通少年団」が結成された。
団員は管内29の小学校の4,5,6年生から選ばれた約600人。小松川警察署、同安全協会の指導の下でさっそく活動を開始した。
交通少年団の活動はめざましく、翌46年小松川警察署管内の子供の交通事故死者数は2人、47年も2人となって、44年の13人に比べ驚異的な減少を示した。
この小松川方式ともいうべき交通少年団の構想と成果は、都内各地域の関係者の注目するところとなり、46年以降、都内各地域で交通少年団が続々と誕生。2回の統一行事の開催を経て、49年の3月の「東京交通少年団」結成につながっていった。
地元目黒区には、目黒、碑文谷両署があり、それぞれに交通安全協会があります。さて、我が碑文谷交通少年団の誕生は、小松川交通少年団より2年後の昭和48年3月31日、星美学園講堂において、団員120名で産声を上げています。
ところで、なんで交通少年団なのか?との疑問もあろうかと思いますが、そこがボランティアのボランティアたる所以!初代団長は、それこそ地域のパイオニア的存在でありました故池田英二氏。
氏は第6代目黒法人会会長として、平成7年5月〜平成9年5月の間、ご活躍されました。交通少年団を最初に立ち上げて下さったのも、池田氏です。その後団員も逐次増加し、昭和50年頃には200名を超える団員を擁していたのです。少年団の発足から10年後の昭和58年3月27日、第2代団長として、秋元久雄氏が就任。私が三代目の団長をお引き受けした平成9年3月29日までの14年間、先頭に立って指揮をとって頂いた訳です。
ご存知の通り、秋元氏の法人会での役歴は申すまでもありません。
会長職を3期6年間「よき経営者をめざすものの団体」のリーダーとして、ご活躍。中でも平成13年の創立50周年、社団化25周年の記念事業、式典そして記念誌「発展」の発行とすばらしい業績を残され、5月19日に行なわれた平成14年度の第29回通常総会で議長をされご退任、顧問となられたのです。
このように、すばらしい先輩に見守られながら、団員たちが、活動を通じて周囲に人々に交通安全を呼びかけ、マナーや決まりを守り、思いやりのある心を持った社会人にめざしています。
そして、目黒区はもちろんですが、我々の活動の良き理解者であります「東京目黒ロータリークラブ」「碑文谷ライオンズクラブ」の皆様に厚く感謝申し上げます。
終わりに、第2支部長の青木茂氏にエールを送りたいと思います。氏は目黒少年消防団を率いて活動をされています。長い間、支部長職と団の活動をされている事に、敬意を表し、氏の行動の一つ一つを学ばせて頂きながら、微力ですが、支部運営にあたらせて頂きたいと思っている次第です。
法人会活動はもちろんですが、地域のボランティア活動にも、ご理解、ご鞭撻、ご意見を頂きながら、そして、お手伝い出来る方は積極的に参加して下さる様、お願い申し上げます。
拙い文章をお読み頂いた事に、感謝申し上げます。
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