雑記録

 ギュスターブ・モロー展と赤瀬川原平「名画読本」

・仙台

 2005年9月に久々に絵の展覧会を覗きました。もしかしたら春頃に見たフェルメールの一点を含むフランドル絵画展以来かも。最近は休みの日にお出かけすることも減ってしまい、あってもモケー関係か子供連れイベントばかり。といってウィークデーはたいてい残業しており、なかなか会社の後、映画を観たり展覧会に行くこともままなりません。今年に限っても春の「マルセル・デュシャンと20世紀美術」と「瀧口修造コレクション:夢の漂流物」などを行きたかったのに見逃しています。2005.09.19


 

 そんな中、渋谷のBunkamuraで開催されていた「ギュスターブ・モロー展」を駆け足で見てきました。この美術館は東急グループの経営なので、毎週金・土は閉館時間が21時と遅くなっているのです。まさに民間だからこそであり、また極めて都市型の美術館と言えますね。それから、いわゆる百貨店系美術館としては、ここがほぼ最期の砦かもしれません。私が昔勤めていたセゾン・グループのセゾン美術館(旧西武美術館)も堤清二氏引退前後にとうとう閉館、エッジの立った現代美術を気軽に見ることの出来る場所が無くなりました。我が国では公立・民間とも基本的に扱うのは、泰西名画とか古典が主なので、残念な限りです。また狭いながらも、ちょっとキッチュな?企画もあった伊勢丹美術館もとうに無いし、横浜のそごう美術館はどうでしたっけ(企画にエッジが立ってなかったので注目してませんでした)。

 閑話休題、さてモローですが、私個人にとっては「けっこう好きな作家ではあるが、めちゃめちゃ入れ込むほどではない」といったランクなんです。最も好きな画家、例えばマックス・エルンスト、ダリ、フェルメール、ヒエロニムス・ボッシュなどの次ぎ、例えばムンク、ミロ、カンディンスキー、ゴーギャン、ウォーホル、ピカソ、エッシャー、横尾忠則なんかのランクでしょうか。

 モローは19世紀半ばから後半に活躍したフランスのフランス人画家で、サロン(官展)にも30歳頃から入選するという、比較的恵まれた画家人生を歩んだそうです。歴史画家を自認し、ギリシャ神話、キリスト教の歴史などをメインテーマに選んでおり、戦略的というかマーケティング的発想が勝ったタイプですね。まあ画家と言えば貴族、王族のおかかえ肖像画家しか存在できなかった中世とは違い、近世ならではの選択の幅の広がりの結果なんでしょうか。

 モローの本物を見たのは多分初めてではないでしょうが、でもきっとそれもずいぶん昔だったので、今回新たに気が付いたことがいくつか有りました。これ、後述する赤瀬川原平さんの著作の影響も有るんですけどね。

 まず、モローさん、あんまりデッサン力が無いです。有名な「出現」などは、エスキースをたくさん展示してあったのですが、それらを見ると人体のプロポーションがすこしづつどっかバランスが崩れているように見えます。ミケランジェロやレオナルド、あるいは後年のピカソやダリのような、超絶的正確さ、という感じではありません。

 さらにマチエールも意外に凡庸。中世のこってりした油絵の具の肌つやとか、さっとうすくテレピン油でなでたような現代的なタッチなども、自家薬籠中のものにしてるんですが、何となく修練の結果苦労して身につけた、という感じ。

 駆け足で見てまわって、気に入ったのはやはり名作「出現」(サロメの眼前に、予言者ヨハネの首が浮かんでいるやつ)と、チケットにも刷ってある「一角獣」の二点でした。でもって、この二点ともレタッチというか、背景の柱やサブの人物に、白と黒いシャドーの描線が、まるでレース網や紅型か友禅の型紙よろしく、後からタッチアップして描かれているんです。遠くから見ると(または画集などの印刷では)これがはっきりしないのですが、2メートル以内に近づくとはっきり分かります。「一角獣」は完成時にこの描線なぞり技法をやってますが、「出現」は最初に描いたのが若い頃で、晩年になってこの描線タッチアップ加工を施しています。たぶん、この効果がなければ、他の作品のようにじつは凡庸な出来に終わっていたのではないでしょうか。絵としてのバランスは確かにこの後加工で崩れることも事実ですが、それ以上に複雑系と言うと大げさですが、奥行きと変化がでて魅力が深まります。この加工をした作品は会場には二点以外、多分無く、そして個人的にはこの二点以外は、せいぜいが出来の良いイラストレーション、あるいは一定レベル以上(ただし特化したレベルではない)の技量を持って、予定調和的テーマを、見る側の喜ぶツボを押さえたアルティザンが描いた絵、としか思えませんでした。アングルの絵を赤瀬川さんが「ペンキ絵」と断じていたのに近いかも。

 つまり逆に言えば、モローって、今で言うイラストレーターに極めて近い存在だったんじゃないでしょうか。時代が下れば、ロートレックやミュシャなど、デザイン、という概念が出てきた頃の絵描きさんの、ある意味での先駆者ではないかと。「出現」、「一角獣」以外の作品でも、小品には良い感じのものも有りましたが、大作はえてして俗っぽいというかペンキ絵っぽい感も無きにしもあらず。今まで私にとってモローが、「好きなほうだけど、全面的に好きじゃなかった」訳がこれで氷解した気がします。

 もうひとつ気づいたのは、アップで見るとサロメにしても、他の女性にしても意外にお色気が無い。アングルは多分当時としては、キリスト教主題に名を借りた一種のピンアップだったのではないかと想像しているんですが、モローはキッチュな感じがするものの、性根は極めて真面目な歴史画家たらん、としていたのでしょう。


 さて、下記は少し上で触れました赤瀬川原平さんの「名画読本」。1992年の著作なんですが、2005年夏に文庫化されたので買って読んでみました。じつは私、赤瀬川さんの「ちょっとビンボ臭い」とこがいまいち好きじゃなく、かえってお仲間である「面白至上主義」の南信坊さんとか、トマソンや建築探偵団でもアカデミックな藤森照信さんのほうのファンなんです。で、尾辻克彦氏の小説も、赤瀬川さんの著作も単行本では買わないんですが、文庫になったんで(^_^;)

 で、これが面白い、というか、真面目。いや、赤瀬川さんがいつになく真面目なんで面白いんです。何のこっちゃ分かりにくいでしょうが、でもネオ・ダダのあのお方が、じつはけっこう保守本流?的な、印象派ファンだったり、やっぱブリューゲル、フェルメールは外せないよねえ、ニヤニヤ、あるいは意外にもダダやシュールレアリスムの画家は一人として選んでいないとか、ここらへんの選択から想像できますでしょう、その面白真面目さが。

 一番の肝は「早足で見ること。」、「〜展覧会など猛スピードで見る。」「そうやって早足で見ると、義理や理屈で見るような絵がどんどん通り過ぎる。これが好きだ、これが美味しいという本音の絵の前にぱっと止まる。」なんでした。で、今回のモロー展、残業後に行ったので、閉場までの時間はたかだか40分程度。猛スピードで見たら、なんだ結局誰もが認める有名作「出現」と「一角獣」が良かったぢゃん。でもまてよ、なんかこの二点だけ違うな、というところで、上記の話に繋がるのでした。

光文社 知恵の森文庫 781円+税 2005年4月初版

 なお、文庫本解説を安西水丸さんが書いておられますが、安西さん、なぜかものすごく女の子にもてる方なんだそうです。例えばパーティ会場なんかで、それはそれは風のように若い女の子をさらっていってしまうのだとか。なんか植物的な人かなあ、とあの上品な風貌とへたうまイラストの印象で勝手に想像してあんですが、ひとは見かけによらないものですね。ちなみにこの話は上記の本には書いてありません(~o~)

・仙

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